遺書。

  • 2019.05.24 Friday
  • 22:56
評価:
ギャヴィン・フランシス
みすず書房
¥ 3,456
(2018-07-18)

「『エッセイ』ということばは、『試行』や『企図』を意味する語源から来ていて、

本書中の章それぞれに、人体のたったひとつの部分を、あまたあるうちの

たったひとつの視座から探検する企図があります。……医療を仕事にして

きましたが、医師として働くのは、人間が経験することの総覧を見るようです

――毎日のように思い知らされるのです、わたしたち一人ひとりの脆弱さと

強靭さを、祝賀とともにわたしたちが内にたたえる落胆を。クリニックを開業

するのは、患者さんの身体といっしょに人生の風景を眺める、冒険旅行に

出かけるのになぞらえられるかもしれません。よく知っている地形に見えても、

往々にして分け入った小道が開けて、日々、新たなパノラマをのぞくことに

なるのです。臨床医学とは、たんに患部と患者の話にまつわる旅である

だけではなく、人生の可能性の探検行でもあるのです。人間を冒険する

ことなのです」。

 

 本書の叙述は、医学的な知見や古典からの引用と筆者が実際に立ち会った

エピソードを組み合わせる仕方で進められる。言ってしまえば、他人の身体で

起きた他人事の極み。なのにこの医療版『風景と記憶』、不思議とわがことへと

引き寄せられる。もっとも冷静に考えれば当然のことか、生殖器はともかくも、

基本的に各人が備えるパーツをめぐる話なのだから。凍りつく。例えば「顔」。

「顔の筋肉の発達ぶりが、それぞれの生前のありようをどこかしら示している。

いちばん違いが現れるのは大頬骨筋と小頬骨筋、つまり口角を引っぱって

笑顔をつくる筋肉。頬骨筋が分厚くて輪郭もはっきりしていると、笑いの絶えない

人生だったのが伝わってくる。しぼんでいて紐状になっていると、つらい年月を

送ったのだろう。……著しく発達した皺眉筋は、絶え間のない怒りでしかめた眉

……前頭筋は、恐怖や動揺で眉を上げるのに使う筋肉で、よく額にできるしわ、

いわゆる五線譜の原因でもある。……口角下制筋は、口角から下に伸びていて、

口をとがらせて不満顔をするのに使う。顔をしかめるのに使う筋肉は発達しすぎて、

顔つき全体が暗くなってしまった献体も、一度ならず見たことがある」。

 

 熱を帯びた遺灰が一目で判る仕方で祖母であると証するものがあるとすれば

それは骨折に際して埋め込まれた人工股関節だった。

「火葬場でご遺族は、故人のからだの金属部分を返してもらいたいか、再生利用を

望むかを訊かれる」。

 数年前にそんなことを問われたことがあった、もっとも選択肢は骨壺に収めるか、

斎場で引き取るか、だったけれど。なぜかスタッフが私を見る。土に還らぬものを

入れても仕方ないからと処分を依頼した。

 その後のことなど、本書を読むまで想像だにしなかった。

「人工の腰や膝や肩には、合金のなかでも最高性能のものが使われていることが

ある。チタンとクロムとコバルトの合金は、高齢者を晩年まで動きやすいからだにして

自立させてくれたあとは、火葬場で集められ、溶かされ、精密部品に変えられて、

人工衛星や風力タービンや飛行機のエンジンの機構になる」。

 

  骨埋める場所なんて いらないわ

なんとなく、クリスタル

  • 2019.05.24 Friday
  • 22:55

「この応接間には一度、二十年ほど前に訪れたことがあるわけだと思つて、

変りやう、荒れ方に驚き、同じ部屋かどうか疑ふほどだつたけれど、たしかに

別の部屋ではない。……古風で地味できちんと整つてゐたたたずまひが、

何か妙に今風に変り、ずいぶん乱雑に散らかつてゐる」。

 インタビュアーが待ちわびるのは、「旧財閥系の大企業の名誉会長であり、

業界の代表的な団体の前々会長」、もっとも企画趣旨は「財界総理」としての

回顧録聴取ではない。テーマは、かつて氏が在米時に出会ったジュリアードの

日本人学生によるクヮルテット、国際的な名声を得た後、やがて空中分解を

余儀なくされた彼らの、パトロンのみが知る内実について。

 

  「棚卸資産とか、余剰キャッシュ・フローとか、株主総会とか、ランチを

  食べながらの商談とか、秋が深む前に年賀状の送り先のリストを用意する

  とか、そんなことをうまくやる雑事の連続に、藝術といふ、あの秩序と陶酔と

  力とをいつしよにもたらす不思議なものと似たやるな喜びを求めるなんて、

  できるはずがない。もし同じやうなことになつたら、今度は藝術の方が迷惑

  するでせう」

  「存在理由がなくなります?」

  「はい」

 

 はい。われわれは今まさに「存在理由」をなくした世界のただ中にいる。

そのことは引用した冒頭の書き出し、荒れ果てた応接間に凝縮される。

 本書が表現するものは、雑に言ってしまえば黄昏時の「藝術」挽歌。

かつて上流階級の誇示的消費として、あるいはクラスをクラスたらしめる

文化資本のハブを託された「藝術」が、やがて消費のパイの拡大に伴い

「大衆化」を迎える。いみじくもその最たる象徴が老紳士とクヮルテット、

「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の台頭に他ならない。

 

「大衆化」は例えばこんな局面に示される。メンバーのひとりの夫人、M&A

専門にするバンカーの仕事ぶり。

「いつたん狙ひをつけたとなるとすごいらしいですよ。何しろ執念深いから。

まづその社長の好みを調べあげて、DVDでオペラをいくつも見たり、オペラ

ハウスに行つたり、メジャー・リーグの球場へ何度も行つたり」。

 嗜みとはすなわち、階級の差を隠蔽するためのトリガーでしかもはやない。

現代においてクラシックを愛聴するとは、商談の切り口として活用したという

履歴以上の意味をなさない。その模倣の連鎖をもって人は「藝術」と呼ぶ。

 ゆえに本書の主人公は商社マンであらねばならない、慧眼に感服する。

 

 古典とは別の仕方で、ついぞモダンに至れぬ日本人の悲哀を彼らは示す。

「当人にまづ迫つて来たのは、自分の属してゐる共同体への古風な忠誠心

なのかもしれない。村への義理とか、家への義理とかに似た何か。変に

日本的なもの」。

 語り手に言わせれば、こうした「藝術」の対義語とも見える人間関係の綾が

「哀れを心のどこかで敏感に感じ取つて、その分だけ、ああきれいだな、

すばらしいなと喜びが殖えてゆく」効果をもたらす。

 語りはすべからく騙りと変換される。現代の人間は、こうした物語的夢想が

ストーリー・マーケティングの素材へと解消されたことを既に知っている。

 

 何もかもが「存在理由」を失った。

 そんな現実に目を伏せたい輩をマスとして動員するには、例えばセグメントを

薄く広く掬う単位としての抽象的な「愛国」がひとまずはリーズナブル。

 こうして日本も消費者向けに書き換えられた。

 

 すべてコンテンツは経済の語彙をもって記述される。

 本書の片手落ち性は、「藝術」のいわば自己手段化としての日本論にのみ

終始した点に由来する。本来は崩壊メカニズムのもうひとつの回路として、

自己目的化の極北としてのオタクの台頭――購買力を要する以上、理の必然、

その登場はバブル景気を待たざるを得ない――に触れねばならなかった。

ベタはメタとなりネタとなり、そしてオタに殺された。

 ただし、その視座を筆者はそもそも持たない。

 

 一連の古風な仮名づかいが示唆するだろうハイ・カルチャー信仰の残滓として、

自己言及的に本書は小説の、「藝術」の終わりを告げる。

 昭和末期に束の間咲いた花として、テキストはひとことで要約できよう。

 丸谷才一版『なんとなく、クリスタル』。

 あるいはそのせいかもしれない。あるときはニュー・ヨークですき焼きを囲み、

あるときは東京のベッドサイドでルームサービスのサンドイッチをつまむ。

そして例の応接間ではヴィンテージのアモンティリャードをあおる。

密林の語り部

  • 2019.05.10 Friday
  • 23:12

「歴史のなかの語ること、聞くこと、書くことに関心をもち、戦前から戦後の日本の

歴史を訪ねてみた。すると、そこには、文字を中心にした今までの歴史では見えて

いなかった大変に興味深い世界がひろがっていた。語り手や聞き手の声が聞こえる

世界であり、沈黙や表情を含め、生身の人間同士が向き合った歴史の場面であって、

人びとの生きられた歴史を垣間見ることができる。聞き手は自らの登場の有無を含め、

さまざまな工夫をして書きとめていた」。

 

 能の世界にシテ−ワキなる概念がある、という。異界から降臨せし神や霊に

扮するいわば主役がシテ、そのかたりを受ける現世の聞き手がワキ。

 本書の議論にふとそんなことを想起する。あるいは夢幻にすぎぬかもしれない

過ぎ去りしもの(過−去)を表出させる仲立ちを「聞く」という装置が担うことで、

時に束の間、今ここにある何か(現−在)よりも生々しい場が現に与えられる。

そんな〈現場〉を成り立たしめる要件は、語り手(シテ)の記憶のみでは足りない、

聞き手(ワキ)とのコミュニケーションをもって瞬間うごめき、そして消える。

 オーラル・ヒストリーにおいて、史料研究の垂直性はひとまず括弧に入れられる。

ここにおける稼働原理は、〈現場〉の共有という水平性。主か従か、記録か記憶か、

正か誤か、という二択ではなく、そもそも違う。

 語り手にとってはしばしば「時間にそって経験があるのではなく、経験のなかで

時間がつながり合」う。過去という記憶のフォルダーは必ずしも時間的な近接性に

従って配列されない。たとえ主観による経験の因果律が時間軸を裏切ろうとも、

不可逆の時間の堆積を辿るばかりが歴史ではない。

 もちろん、このアプローチにポスト・トゥルースにも通じる危うさがある点は

議論の余地はない。とはいえ、自らの体験を聞いてくれる、聞かせてくれる誰かの

いる社会と、壁や液晶に向かって妄想をこじらせるより他にない不安型社会の

どちらによりまともさを見出すことができるだろうか。真偽の前にまず生き方に

ついて、それこそが逆説的にパラノイアを遠ざける。

 鶴見俊輔は指摘する。「きくということは、書いている本人が、自分以外の

人びととのかかわりにおいて生きるという姿勢を自覚してるからこそ、なりたつ。

人との関係において生きるということが、考えをのべる前提になっている」。

 主題は過去ではなく現在、ここにおいて歴史学は換骨奪胎された。

ドゥームスデイ

  • 2019.05.10 Friday
  • 23:05
評価:
デイヴィッド ピリング,David Pilling
早川書房
¥ 2,268
(2019-03-20)

 自動車の外部性がその必然として殺人を犯す。何を驚くべきことがあろう。

すべてモータリゼーション礼賛者の傾ける同情のいかに安いことか。

 かくなる知的退廃の精算は唯一、死を通じて達成される。

 

「経済成長は今や人々が大切に思うあらゆる物事を代替する指標として崇拝の

対象と化し、私たちはそのためにどんな犠牲もいとわなくなってしまった。

成長の追求のためには、長時間労働に耐え、公共サービスを削減し、格差拡大を

受け入れ、プライバシー権を放棄し、何事もすべて『富を創造する』銀行家たちの

意のままにさせる覚悟が必要だとされている。……無限に増殖することが美徳と

見なされるのは、経済学においてのみだ。生物学では、それは癌と呼ばれている。

……本書が目指しているのは、経済成長に宣戦布告することではない。

そう誤解した人々からは、批判が寄せられるだろう。だが、狙いはむしろ、

経済成長の測定方法のどこが間違っているかを示すことで、それを崇拝の

対象から引きずり下ろすことにある」。

 

 ある研究者に言わせれば、「クズネッツはGDPの創始者からは程遠く、逆に

その最大の論敵であった」。彼にとって、例えば「戦争の準備にかかる費用は、

個人の消費能力の削減につながり、本質的に予防的支出であるために、国民の

幸福度を減少させる役にしか立たない。つまり、もしその種の支出が必要悪で

あるなら、それはプラスではなくマイナスとして計上させるべきなのだ」。

 

「由緒ある大英図書館は、交付された公的資金1ポンドにつき、イギリス経済に

4.40ポンドの付加価値を生みだしていると主張することで、その活動を正当化

していたが、本来はそんな必要を感じるべきではない。……安全な市街地、

良い就職口、清浄な大気、緑地、地域社会の連帯感、安心感、幸福感などは、

それ自体が良いものであり、正当化の必要はない」。

 ここに本書の抱える構造矛盾が凝縮される。「必要はない」ならば、そもそも

この本が書かれる「必要はない」のだから。会話の通じない怪物を相手にする、

それ自体がいかに現代が不毛な時代であるかを証する。サンプリングに基づく

GDPの算出がいかに杜撰なものであるかはもはや承前の通り、それでもなお、

社会は今日もその神話への惑溺をやめようとはしない。「常に懐疑的であれ」と

いくら筆者が訴えようとも、その声を解する能力をそもそも持たない。

 知性の足りないサルのカーニバルに巻き込まれる、この事態をもって人間は

不幸と名指す。

 

 今一度、サイモン・クズネッツ御大にご登場願おう。

「貪欲に支配された社会ではなく、啓蒙された社会哲学の観点から見て、益よりも

害をもたらす要素を総計から除外した国民所得の推定を得ることには大きな価値が

ある。そうした推定は、現在の国民所得の総計から軍備費、広告関連費用の大半、

金融や投機にかかわる出費の大部分を差し引くことになるはずだ」。

 一世紀にわたり黙殺され続けたこの箴言に加えるべきものを本書は持たない。

危険なメソッド

  • 2019.05.10 Friday
  • 22:59

「本書では、五人の男たちを取り上げる。矢部八重吉、丸井清泰、大槻憲二、

中村古峡、古澤平作である。いずれも草創期の日本の精神分析に関わった

人物である。彼らによって日本の精神分析は今こうして、実践され、研究されている。

……歴史はトラウマに満ちている。しかし、それを振り返り、吟味することの意義を

歴史研究は教えてきた。逆に言えば、起きた事実を隠蔽し、歴史を塗り替えて

しまうことの恐怖や愚かさを歴史は伝えてきた。それは精神分析も明らかに

してきたことである。精神分析は、個人の歴史の再構成が、心的変化に重要な

役割を持つを考えてきた。精神分析が示し続けてきたのは、歴史を知ることから、

私たちは現在の問題を理解する枠組みを学べるということであり、これから歩むべき

道をもまた知ることができるということである。日本の精神分析の歴史を知ることに

よって、私たちは今の日本の精神分析や、これからの日本の精神分析を考える

ための理解を得ることができるのではないだろうか」。

 

 との言とは裏腹に、残念ながら、本書がこの目標を到達することは叶わなかった。

というのも、全体のフレームがまるで見えてこないのだ。それが証拠に、日本の

精神医学史の素描が著されるのがようやく第四章になってからのこと、それにしても

「よく知られているように」という仕方での、行きがかり上の簡潔なメモに過ぎない。

精神医学や社会政策といった枠組みの中で、いかにして精神分析が立ち位置を

獲得していったのかも見えなければ、全体のつながりを欠いているがために、なぜに

五人が取り上げられなければならないのか、というそもそも論からして分からない。

代わって本書の展開する「歴史」といえば、「初めにフロイトがあった」史観とでも

呼ぶべき何か。各人が時代やテーマの文脈からぶつ切りに分断されている以上、

パーソナル・ヒストリーに終始せざるを得ない。そこで紹介される臨床例にしても、

私にはそのほとんどが創作物としか読めず興醒めを誘う。

 その中で長所といえば、「父殺し」を見事に引き出した第五章の結びだろうか。

終わり良ければすべて良し、物語として上手に落としたと讃えることもできようが、

その構造に耽溺しているだけと突き放してみても的外れとは言えまい。