「社史という日本の文化を支えます。」

  • 2017.07.14 Friday
  • 22:09

 社史、ビジネス書でも、叩き上げ社長の一代記でもなく、社史。

 

「社史という本をご存知でしょうか。会社の歴史をまとめた『○○株式会社50年史』の

ような本です。書店では売っていません。普通の公共図書館でもそれほど所蔵して

いません。みなさんが社史を目にするとしたら、自分が働いている会社の社史や、

得意先の社史くらいではないでしょうか。……この社史をコレクションしているのが、

神奈川県立川崎図書館です。4階の社史室に行くと、多くの社史が並んでいます。

2016年の時点で約18000冊を所蔵し、全国屈指のコレクションとして知られています」。

 

「情報は発信するところに集まってくる」。

 筆者はかつて社史をテーマに東洋経済オンラインや神奈川新聞に連載を持っていたという

(そしてその記事の一部は本書でもそのまま引用されている)。タモリ倶楽部でも

取り上げられたことがあるという。

 そして本拠の図書館でも講演やフェアを展開してみたり、と外部への働きかけを

積極的に実行しているのだが、その姿を覗いてみると少なからぬ違和感に苛まれる。

「社史ができるまで講演会」を当初は土曜日に開いてみるも、客足は芳しくない。

ところが平日にずらしてみると応募は定員を越える。つまり聴衆は仕事の一環として

その場に集まっているらしい。

「初期の頃は、社史の編纂に関わっている方が半分くらい、その企業や業界、経営史

などに関心がある方が4分の1くらい、なんとなく面白そうだから参加してみようという

方が4分の1くらい」、そして回を重ね、認知度も上がるほどに、むしろ一般参加者よりも

編纂に携わる者の比率が伸びていく。

 平時のコーナー来訪者についても似たようなものだという。

 他社の社史に用事があるのはもっぱら社史を書こうとしている人間、大胆に言い換えれば、

社史を書くのは社史を書くため、なんだろう、この面倒くさい自己参照構造。

 

 一般書籍に比べればコストを度外視して作られている点などもあって、本書を読めば

社史というジャンルに興味が芽生えてはくるだろう。

 そして間もなく気づかされる、入手が困難なのだ。

 これでは読書の分野としては定着しづらい。

 なるほど、社史のための社史になるわけだ。

 

 とはいえ、それでもなお「蒔かぬ種は生えぬ」。

 日本の風土に根差した麗しき様式美の世界を覗き見させてくれる一冊。

いじめ、カッコ悪い。

  • 2017.07.14 Friday
  • 22:02
評価:
奥田英朗
朝日新聞出版
¥ 907
(2016-01-07)

  赤信号 みんなで渡れば 怖くない

 

 予防法は二つだけ。一つ、「信号」をなくすこと。一つ、「みんな」をなくすこと。

 

「農協と寺、そして保守政治」、そんな山間の地方都市の中学校で生徒が亡くなる。

銀杏の木の下で、転落死だった。そして、死体の背中には21もの内出血の痕が

残っていた。つねられてできたものだった。

 事件はまもなく急展開を迎える。

 死亡した生徒の同級生4人が警察に身柄を確保される。中学2年生、14歳という

少年法の壁、2人は逮捕、2人は児童相談所へ送られる。容疑は傷害だった。

 

 取材にあたる新聞記者が言う。

「ああこれはいじめられる顔だと誰もが思っただろう。……金持ちの家の子で、痩せて

チビで、おとなしそうで」。

 生徒の人物造形がこんな簡潔な表現で難なく読者へと伝達できてしまう。

 それはつまり、いじめの発生構造が世間に広くシェアされている無二の証。

 共犯性とはそもそもがこの事態こそを指す。

 

 1件の重大事故の背後には29の小事故があり、さらにその背後に300のヒヤリハットが

横たわる、ハインリッヒの法則を想起させる。

 種々の出来事の積み重ねや共同体論理、同調圧力がやがて少年の死として結実する、

そんなスパイラルに翻弄される人々の姿を描き出す点においてはよくできている、と

評するべきなのだろう。

 

 ただし、全体を見れば、現実を乖離した作り物との印象は拭えない。

 まずは報道のあり方、いじめられていた少年が自殺もしくは他殺を疑わせる仕方で

死亡し、まもなく逮捕者が出たとなれば、この祭りをテレビが放っておくはずもない。

当事者宅や学校周辺に記者が張りついて生活に支障を来すだろうに、そんな模様が

描き出されることはない。群像劇の当事者からテレビやフリーランスは排除される。

 当然ネットの世界も祭りで沸き返るだろうに、「匿名の誹謗中傷など知りたくない」の

一言で等閑視される。別にネット批判を主題化して定型文を連ねよ、とも思わないが、

筆者の箱庭世界では、通販や出前の嫌がらせを被ることもなければ、いたずら電話に

悩まされることもないようだ。これだって、いじめのひとつのかたちなのに。

 街の大事件で息子が逮捕されているのに、父は会社に向かい、妹は小学校に通う。

懐疑の目で村八分に遭うでもなく、彼らは平常通りの暮らしを営む。推定有罪、連帯責任を

国是とする日本でこの描写にリアリティを感じられる方がどうかしている。

 さらに驚くべきことに、別件逮捕の後、釈放された4人はごく通常の生活に戻る。

学校はもちろん、家庭においてすら腫れ物に触るような扱いを受けるでもなければ、

わが子への猜疑に身内が葛藤することもない。

 テニス部所属の死亡生徒が身につけていた練習着は「高級ブランド」、固有名詞を

与えないことに何の理由があるのだろうか。いじめの主犯格と目される少年が貧しい

母子家庭という設定から来るコントラストを強調できる絶好の道具立てだというのに。

 コンビニやショッピングモール、マイルドヤンキーといった現代のロードサイドの風景を

アイテムとして上手に織り込めていない点にも強く疑問が残る。

 

 そして最大の非現実は、筆者が提示する一連の人間観察にこそある。

「中学2年生は未完成な人間なのだ」。

 思春期特有の面倒くささは否定しない、ただし、おとなに「完成」があるかのような

反実仮想の果てしなさにはただただ目を覆う他ない。

 忖度と前例踏襲に明け暮れるその姿、おとなと子どもを隔てるものがどこにある?

「理屈で感情を律するというのが苦手なの」。主語はあえて伏せてみる。

 なぜ犯罪が世界からなくならないか――人間というコンテンツの行動類型一覧表に

例えば「殺人」や「窃盗」がエントリーされている以上、その不経済コードの発動は

決して排除できない。そしてもちろん「いじめ」も同じく。

 そしてあいにく、「自覚」や「自律」といったコマンドはプログラミングのバグなのか、

そもそもインストールされていないのか、有史以来上手に起動したためしを持たない。

「中学生は残酷だ。……自立への過程で噴き出る膿のようなものだ」。

 現代の苦痛とはつまり、「自立」というフィクションがフィクションでしかないことが、

つまりは人間というコンテンツの底の浅さが明るみに晒されてしまったことにある。

 そして皮肉にも、本書はそんな幻の理念を具現する場としての学校を舞台とする。

 成長という神話の終わり、ひいては人間という神話の終わりを直視すること、それこそが

未来の人間に許された唯一の成長なのではなかろうか。

道理の感覚

  • 2017.07.07 Friday
  • 23:21

「負けたからわるいのではなく、わるいから負けたのである」。

 天野貞祐は敗戦をそう総括してみせた。

 そして、この悔悟を天野は「教育者」としての自身へと向ける。

「支配階級の道徳的堕落が真の敗因であると私は信ずる者ですが、それとともに

堕落者の横暴をゆるした社会の一般教養水準の低さが反省されねばならぬと

思います。この関係においてはわが社会における教養水準の低さが敗因だとも

言えるでありましょう。あらゆる虚偽、偽善、愚劣を許容したものは教養水準の

低さだからであります」。

 

「本書では天野の何が知りたいのか。そう自問した時、私の頭には二つのことが浮かんだ。

一つは、天野という一人の人間の歩みを人間形成史、思想形成史として捉えて見たいと

いうことである。そしてもう一つは、天野を時代の『格闘者』として捉えることで、天野から

見えてくる『時代』を照射してみたいということであった。つまり、天野を初めから一個の

完成された人格と捉えるのではなく、天野自身が時代と格闘し、思い悩み、挫折を

繰り返しながら、如何にして自身の思想と教育観、そして人生観を形成していったのか、

また、天野から見えてくる『時代』の意味を考えて見たいということであった。本書が念頭に

おいたのは、いわば、『天野を考え、天野から考える』ということである」。

 

 今さら新資料が発掘されるでもない。波乱万丈の経緯を関係者に改めて尋ねて回るには、

もはや時間が切れている。

 ゆえに本書は当人の著作をはじめとした先行文献に負うわけだが、それでも読み応え十分、

吉田茂の三顧の礼を受けて座に就いた文部大臣としての2年半の政治劇ドキュメントだけでも

圧倒的な密度を誇る。

 

 ただし、「教育者」として自己定義した天野に、教育学を専門とする筆者が肉薄する

一方で、本書がどこか片手落ちと思えてならないのは、哲学の「研究者」としての

天野像への言及があまりに軽い点に存する。

 大臣としての天野の「修身」論とはつまり、統治機構としての国家とナショナリズムの

不一致をめぐる極めて古典的なテーマの焼き直しでしかない。いみじくもそれが典型的に

現れるのは御用学者としてのヘーゲル論。

 ドイツ観念論の近代の伝統に置けば、天野のことばはことごとくがその祖述でしかなく、

ただし行政の担当者として主張を発する限りにおいて、ステイトとネイションの再帰性の

自己矛盾として崩壊することを余儀なくされる。

 そしてそもそも「教養水準の低さ」ゆえに、そんなことを理解できる者もいなかった。

 議会など、パンとサーカス以上のいかなる意味も持たない。

 

 知者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。

 この格言の真実味こそが、そもそも「教育」の意義を下支えする。

 そして皮肉にも歴史が告げるに、「教育」という仕方による愚者殺しの夢は常に裏切られる

運命にある。

 天野の時代から寸分違わぬ仕方で今日の「教育」もまた、「教養水準の低さ」を踏襲する。

仕方がない、ヒトもどきのサルって、上がりようもなく、そもそも「低」いのだから。

 世界は愚者のためにある。

QOL

  • 2017.07.07 Friday
  • 23:16

 思いやりと管理社会って、限りなく同義語。

 

「ここで私は8つの医療者の物語を紹介した。その理由は、ある専門職の一般的な

あり方や考え方を紹介するためでも、ある専門職の模範的なあり方を示すためでも

ない。/そうではなく私は、ここに出てくる8つの物語が、読者のこれまでの人生と

何らかの形で共鳴することを願ってこの本を書いた。……あなたがこの物語を読んだ

時に抱いた感情は、無数の問いの答えの集合体であるあなたの自身のどこかを――

心地よい形であれ、不快な形であれ――指し示しているはずである。そして、その

指し示されたあなたのどこかをよく見る作業は、あなたという集合体がどういう存在

なのかを知るきっかけになるだろう」。

 

 本書が映し出すのは、「医療者」の立場から見た種々のミスマッチの風景。

 供給と需要のミスマッチ、市場に限らず「医療者」と患者においても例外ではない。

療養型病院に勤務していた看護師のケース、患者に急かすほどの元気もないのに、

なぜこれほど忙しいのか、自問自答して気づく、「お年寄りに追われていたのではない。

スケジュールに追われていたのである」。

 あるいは医療パラダイムのミスマッチ。漢方医の場合。そもそも漢方医学は患者の

状況に合わせたカスタマイズを主とする性質上、西洋医学的なエビデンスの概念とは

根本的になじみづらい。そこに集うのは大概が西洋医学では効果を実感できなかった

患者たち、そして彼らは実効性を訴えるにもかかわらず、「患者に益をもたらさなかった

科学の言葉で自らの正しさを証明する必要性が皮肉にも漢方医学には課せられて

いるのである」。

 

 そんな中でもひときわ印象的なミスマッチの光景がある。

 それはそもそも病気を「治す」場としての医療の前提を揺るがすような問い立て、

とある理学療法士が勤めるのは入院患者の半分が寝たきりの高齢者という病院、

彼が言うに「手技療法だけがリハビリではない」。現実に劇的な運動機能の改善が

望める環境ではない。ただし、「同じ空間に人々が集まり、そこで他愛のない会話が

生まれること、それによって楽しさを感じられること、それらを全部ひっくるめて

リハビリなのでは」と言う。この見解は同業者の反発を招く。「何かをやってあげ」て

「治る」に近づけてこそリハビリであって、これに従えば、「治せていない」以上は

「理学療法ではないという結論になるのだろう」。

 そして筆者は問う。「リハビリの時間を通じて、高齢の入院患者が笑顔になったり、

生き生きしたりする事実を私たちはどのようにとらえるべきなのだろう? それは、

その辺の通行人もできる簡単なことと言えるのだろうか?」

 

 文章はしばしばポエティック、「人類学」という枠組みもよく分からない。

 けれども、これらの「物語」は現代医学の風景をめぐるクオリティ・オブ・ライフの

問題へと読者を引き寄せる。

 胃ろうされてまで生きたいか、末期がんに侵された身で好きなものを口にするのは

わがままなのか、そんなことを老境の我がこととして束の間、想像してみる。

 定量性から定性性へ。筆者のことばでいえば、「医学を医療に変換すること」。

 ただしそこには絶えず、各種のコストという定量性の極みが障壁として横たわる。

 物語をなくした世界であえて「物語」を記す。

フォーカス

  • 2017.07.02 Sunday
  • 21:29
評価:
藤野 可織
新潮社
¥ 464
(2015-12-23)

  私は無力で

  言葉を選べずに

 

「私」が「私」であることの不可能性の換言としての、「無力で言葉を選べ」ないこと、

そんな初歩的な形容矛盾をあざ笑うように。

 

  それは とても晴れた日で

  泣くことさえできなくて、あまりにも、

  大地は果てしなく

  全ては美しく

  白い服で遠くから

  行列に並べずに少し歌ってた

 

「泣くことさえできな」かったのは誰か、「歌ってた」のは誰か、「私」という主語が省かれて

いるわけではない、だって名指す理由がないのだから。「太陽」にひざまずく「大地」の上、

並置される他ない入れ替え可能、入れ替え不要な存在はいかなる呼称をも持たない、

それはちょうど、「教室で」「笑ってた」「誰か」が「誰か」でしかあれないことと等しく。

「太陽」の光と同じ「白」に文字通り「服」すること、つまり「無力で言葉を選べ」ないこと、

CoccoRaining』、もしくはS.フロイトよりの引用。

 

「わたし」、「あなた」という人称が持つ、ノイジーかつクレイジーな特権性について、

それはあたかもE.レヴィナスの一連の錯誤にも似て。

 見る−見られる。藤野可織「爪と目」の話。

 終始、神の視点から物語り続ける「わたし」(3歳)。

「あなた」の視力は「裸眼では0.1もない」。だから向き合う相手の「顔自体は見える」

けれども、「中身はよくわかんない。目も鼻も口もあるといえばあるけど、かたちが

はっきりしない」。

 そんな「あなた」と「わたし」の「父」が眼科で出会う。エレベーターの中、「父」は思う、

「あなた」は「あのときたしかに自分を見て微笑んだんだ」、と。でも真相は違った。

「あなたは、顔の中身も見えない目で父を見て、そして微笑んだ」。

「あなた」にとって物事というのは、そういうものだった。「あなたに手に入らないものを

強く求めることはせず、手に入るものを淡々と、ただ、手に入るままに得ては手放した」。

「あなた」と「父」が出会って程なく、「母」が亡くなる。「事故死」だった。そうして残された

「父」と「わたし」は「あなた」と暮らしはじめる。「あなた」の目は「わたし」の顔を捉える

ことを知らず、かつて「母」の亡骸の横たわったベランダは遮光カーテンに閉ざされて、

「外の世界なんて存在しないみたいな部屋で、あなたとわたしは、お互いのことを気に

掛けずに、ごくしぜんな沈黙を共有してそこにいることができた。なんの緊張感も

なかった。まるでずっと一緒に生きてきた家族か、公共の場に居合わせただけの

まったくの他人のようだった」。

 インテリアについてネットで調べているうちに、「あなた」は「母」のブログを見つける。

タイトルは「透きとおる日々」。「あなた」は「母」の顔を知らない。「あなた」の視線から

「母」は「透きとお」っていた。

 視線の政治学をめぐる、ひどく古典的な筋立て。

「わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。

わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」。

「あなた」も「わたし」も何もない、「だいたい」という語の必要すらなく、誰しも「おなじ」。

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