超変革

  • 2018.02.21 Wednesday
  • 23:21
評価:
ジョエル・G・ブレナー
みすず書房
¥ 4,104
(2012-05-23)

「きっかけは1989年夏、いつものように『ワシントン・ポスト』紙から受けた一本の仕事だった。

マーズインコーポレイテッドの特集記事を書いてほしい、特にライバルのハーシー社に全米

トップの座を奪われた同社の反応を詳しく、という依頼だった。首都ワシントンDCにほど近い

巨大チョコレートメーカー、マーズ社について、当時の私は何も知らなかった。マーズ家が

所有するファミリービジネスであることも。極端な秘密主義も。……しかしこれは、アメリカの

菓子会社探訪の旅の始まりに過ぎなかった。マーズの取材中、私は不可解で興味深い

話をひとつ知った。マーズのベストセラーM&Mチョコレートは、なんとマーズと宿敵

ハーシーとの共同事業で開発されたものらしい。マーズが教えてくれたのは、M&M

ふたつの『M』のうちのひとつは、長年ハーシー社長を務めたウィリアム・ムリーの息子、

R.ブルース・ムリーの『M』ということだけだった。マーズとハーシー、両者の絡まりあった

関係のどこかに真の物語が存在するはずだ。アメリカの並び立つ巨大チョコレート帝国に

まつわる逸話は、一冊の本に値するに違いない。……取材中の私を惹きつけたのは、

ビジネス戦略でも革新的な商品開発でも隠された秘密でもない。おなじみのチョコレートの

裏に隠れていたとてつもない人々の話である。ミルトン・ハーシーはフォレスト・マーズ・

シニアに劣らず魅力的な人物だった。ふたりを駆り立てたのは狂想ともいえる夢であり、

フォレストは帝国を、ミルトンはユートピアを夢みたのだ。ミルトン・ハーシーが目指したのは

単なる一企業ではなく、チョコレート工場を核としたパラダイスだった。そして巨万の富を

手にすると、彼は直ちに手放したのだ。マーズ一族が世界有数の富豪であることを知る人は

少ない。しかしハーシー社の利益で世界一豊かな孤児院が運営されていることを知る人は、

さらにいっそう少ない」。

 

『チョコレートの帝国』と聞けば、たぶん少なからぬ人の頭を過ぎるのは、カカオをめぐる

例のプランテーションと搾取の話に違いない。ああ、またフェア・トレードなどを絡めた

道徳めいたお説教がはじまるのか、そんな誤解を招きかねない邦題こそが、この傑出した

テキストにまつわる第一の不幸に違いない。

 第二にして最大の不幸は、みすず書房という良心的な出版社から邦訳が刊行されて

しまったことにある。教条主義か、せいぜいがチョコレートをめぐるお堅い文化史か、と

いう先入観で、残念ながら大多数にはその存在すらも認知されることがない。

 はっきり言えば、本書は物語として胸ときめく、ビジネス書の類として読まれるべきような

テキストである。マーズとハーシーという巨人に範を取ったイノヴェーションの教科書として、

この本が書店のメインスペースに平積みされていないことにどこかもの寂しさすら覚える。

 キャラクターの立った男たちの立身出世伝、それだけでも面白くならないはずがない。

何もかも好対照なライバルが市場で鎬を削り合う、少年マンガのセオリーを凝縮したような

展開に熱くならないはずがない。生き馬の目を抜くヒール・プロットを地で演じてみせて

くれるのだから、カタルシスも全開。度が過ぎたストイシズムは時に笑いにすら変わる。

ものを作る前にまず人を作る、そんな起業家の盛衰記が涙腺を刺激せずにいられようか。

成功体験が時流に適応する足かせになり、一度は堕ちた名門が覚醒する、斜陽の世界を

生きる者の活力剤としてこれ以上にアドレナリンしたたるアプローチが他にあるだろうか。

おまけに、ストーリー・マーケティングにお誂え向きのはずの逸話の数々が秘密主義の

企業方針ゆえ、ほぼ世に広まらぬまま今日に至った、と来ている。

 つまり、あざといほどに売れる要件を完備している、それも俗情に媚びた結果ではなく、

未知の金脈を掘り当てたそのご褒美として。

 足りないものはただひとつ、セールス実績だけだ。

 

 原著の出版は1999年、しかし本書に色褪せたところは微塵もない。

 ケース・スタディとして面白い、産業史として面白い、伝記として面白い。

 このノン・フィクション、不遇だ。

木綿のハンカチーフ

  • 2018.02.21 Wednesday
  • 23:16
評価:
ゴールズワージー
新潮社
¥ 432
(2017-12-25)

 ここに銀婚式を迎えた夫婦がいる。

 二人が出会った街へと向かう道すがら、麗しい光景に車を止める。その傍らに墓がある。

「アシャーストは、とつぜん立ちあがった。この景色に見おぼえがある。公有地のこの場所を、

細長い小径を、背後の古い塀を、たしかに知っている。車で走っていたときは、物思いに

ふけってぼうっとしていたせいか、まったく気づかなかった。しかし今は、はっきりとわかる!

26年前のちょうど今ごろ、アシャーストはこの場所から800メートルほどのところにあった

農場を出てトーキーに向かい、それきりここには戻らなかった。彼はとつぜん胸の痛みを

おぼえた。過去のあの一場面が心によみがえってきたのだ。彼の手を逃れ、翼を

はためかせてどこかに飛び去ってしまった美しい歓喜の日々と、またたく間に色を変えて

終わりを迎えた、たとえようもなく甘かなあのひととき。深く埋もれてていたあの頃の記憶が、

今、鮮やかによみがえってきた」。

 

 卒業旅行中のエリート青年が、ウェールズの田舎娘と恋に落ち、一度は契りを交わすも、

あっさりと心変わりして裏切る。

 早い話がイギリス版『舞姫』、ただし主人公に何の葛藤もない。

 何せこのアシャースト、「ぼくは、正しい人間であること自体が正しいから、正しく生きる

ことを信条としているんだ」なんてことを臆面もなく口走れる自己肯定の塊。はじめから

苦悩や屈託なんて代物を抱きようがない。多少はためらう素振りを見せたりもするが、

健忘症を疑わせるほどのポジティヴなマインドですぐに前を向いて歩き出す。

 アメリカン・ヒーロー映画でさえ、主人公が正義の行使をめぐって延々と内省を繰り返す

この現代とは隔世の感はなはだしく、もはや何の感情論理をも共有しようがない。

 後に残るものといえば、たぶん書いていて楽しくてたまらなかったんでしょうね、くらいの

感想しか湧き上がりようのない、ただひたすらにくどくどしい形容表現の数々。

 

 何もかもがグロテスク。

 今日日、こんな物語、もはや書けない、つまり読めない。

 そんな作品が100年前にはそれなりに社会に受容されていた、という史料的な価値を

除いて、現代に本作が蘇るべき何の理由があるのか、まるで理解できない。

羅生門

  • 2018.02.19 Monday
  • 22:07

「宇宙のどこかで、二つのブラックホールが衝突する。どちらも恒星並みの質量を

もちながら、サイズは一つの都市ほどしかない。まさに黒い(光がまったく存在しない)

穴(空洞)である。重力で互いにつなぎ留められた二つのブラックホールは、最期を

迎えるまでの数秒間、両者が接近することになる点のまわりを何千回も周回して

時空をかき回し、やがて衝突して合体し、一つのブラックホールとなる。……合体により

生じる膨大なエネルギーは。純然たる重力現象という形で、時空の形状の波動として、

すなわち重力波として発散される。……十分そばにいれば、聴覚機構が反応して

振動するかもしれない。その場合、重力波を聞くことができる。暗黒の虚空の中で、

時空が鳴り響くのが聞こえるのだ(ブラックホールに命を奪われない限り)。重力波とは、

物質媒介なしで伝わる音のようなものである。ブラックホールどうしの衝突によって、

音が発生するのだ」。

 とはいえ、「太陽10億個分の1兆倍を上回るエネルギー」によって発せられるこの「音」、

別にジェット機のごとき轟音を伴って彼方へと到達するわけではない。この重力波が

もたらすのは「地球3個分ほどの幅が原子核1個分だけ伸縮するに等しい」、他のスケールで

言い換えれば「地球1000億周分の距離を髪の毛1本の太さにも満たない幅だけ伸縮させる

変化」をもたらすに過ぎない。このプレイヤーに投じられた総額は10億ドルを超える。

 本書では、そんなプロジェクトの裏側の人間活劇をあぶり出す。

 

「アイデアを出すことと実際に手を付けることは大違いですから。……称えられるべきは、

そして発表すべきは、そのアイデアを実現させた人たちですよ」。

 宇宙物理学の最前線として部外者が往々にして想像しがちなのは、選りすぐりの俊英が

複雑怪奇な数学や理論を操って、途方もない「アイデア」を表していくその風景。

 ただし、本書の中心をなすのはもっぱら「実際に手を付け」た人々、そのさまは、

典型的なものづくりのパイオニアたちのそれに限りなく似る。

 

 ざっと2億ドルの予算獲得を目指して連邦議会に申請し、公聴会が開かれる。

「この極微の事象が起きるのは来月か、それとも来年か、あるいは30年後なのか、

私たちには分からないのです」。

 見解を求められた権威によるこの証言は、計画の先行きに暗雲をもたらした。

 起死回生を図るべく、民主党の有力議員を味方につける。彼にとって、巨額プロジェクトの

地元への誘致はいかにも魅力的だった。ところが用地選定が進むにつれ、別の州に白羽の

矢が立つ。時の政権を握る共和党の差し金だった。まさか議員が憤怒に震えぬはずがない。

こうして彼らは後ろ盾を失う。

 

 当事者間の軋轢を孕まないビッグ・プランなどこの世にはない。

 彼を前にしては他の学者はサリエリの座に甘んじる、そんな稀代のアマデウスはただし、

調整能力を欠いていた。彼は「自分の直感に頼り、客観的な分析には頼らないのです。

理路整然としたやり方をしようとしませんでしたし、できませんでした。……これらの短所は、

多数のメンバーが関与する組織的な研究プロジェクトを率いるのは著しい障害となります」。

 そして事態はこじれにこじれて、彼は「プロジェクトの中核から追放された」。

 

 本書を彩るのは、オタクの園を舞台とした、むしろ古典的な政治劇。ドン・キホーテの

哀愁さえも時に滲む。

 とはいえもちろん、天文学、物理学の面白みを外すことはない。

 何もかもがミステリー、胸高鳴らぬはずがない。

Dies irae

  • 2018.02.19 Monday
  • 22:00

「およそ70年にわたる内村の生涯には、いくつかの分水嶺がある。その折々に内村は、

回心を経験し、変貌した。内村の一生とは回心の生涯だといえるほど、最晩年まで彼は

回心を続けた。/本書では彼の生涯を緩やかに追いながら、彼の『回心』と、そこから

ほとばしるように発せられた思想と霊性の態度を追っていく。……回心の出来事を経て

発せられた生涯の軌跡と言葉を追いながら、内村鑑三の思想における今日性と、可能で

あるならその永遠性をかいま見たいと願っている」。

 

 なるほど、筆者がいたく内村に魅せられていることは分かった。

 言い換えれば、他には何も伝えるところをもたないテキスト。

「宗教者内村鑑三の本性は伝道者である。また、無教会の霊性とは伝道のそれだといって

よい。彼は膨大な文章を残したが、それらのほとんどは伝道のために試みられたので

あって、論及のためではない」。だから一向に「論及」を施す気配を見せない本書の態度が

正当化されるとでも思っているのだろうか。

「霊性」や「武士道」を筆頭とした曖昧模糊たる用語群に理解を深める補助線を引くでもない。

そもそもの彼の思想の源泉をひもとくつもりもない。同時代の神学や訳語といった系統的な

研究を試みるでもない。

 本書がやることといえば、内村自身のテキストからの抜き書きと、エピソード語りだけ。

 何の必然性をもって引用されているのかも分からないプラトンが、筆者に言わせれば、

「もっとも重要なものは、言葉にならず、言語化することもできない」と説いているのだから、

内村の一連の言い草にしても、「霊性」とやらに従って、それに応答できる人間にさえ

通じればいい、とでも考えているのだろうか。

 

 分かるやつには分かる、なんて殺すより他に使い途のないサルを見分けるための

脳障害の典型症例という以上にいかなる意味も持ち得ない。

執念

  • 2018.02.15 Thursday
  • 22:02

「なぜ、この事件は強く否定され続け、闇へ封じ込まれようとするのか。真相を求める

人々が多いにもかかわらず、大手メディアのほとんどがなぜこの事件から目を逸らすのか。

そして、現代に生きる人たちは、本当に戦争と無関係なのか、そもそも私自身はどうなのか

……。そんなことについて書き残したくなったのだ。

 これが本書を世に放つ理由だ。よってテレビで放送した『南京事件』の枠組みとは大きく

異なっている。結果、追加取材の範囲は大きく広がり、調査はその前後に繰り広げられた

いくつかの戦争にまでも及んだ。一度は『戦勝国』とされた日本が『被害国』へと転がり

落ちていく流れにも触れることになった。

 本書はいわゆる『南京大虐殺』の研究書ではない。ましてや事件の有無や被害者の

人数について論争する気もない。この本は、戦争の専門家ではない一事件記者が、

ただ事実にこそ拘り、ひたすら調べ続けて書いたものだ」。

 

 本格的な取材に先立って、南京大虐殺記念館を単身訪れる。

 その中に一際目を引く油絵があった。日本兵の背後に屍が山と重なっている。

「うんざりだった。

 これでは日本人は立派な鬼と映るだろう。完全に悪魔の所業ではないか。

 そもそもだ、なぜわざわざ死体を高く積み上げる必要があるのか? 日本兵の背より

遥かに高いのである。全く無駄な労力ではないか」。

 これが筆者の第一感だった。

 ところが、「調査」を進めるにつれ、筆者はこの「山」にある真実味を見出す。

 

「調査報道」なる語の重みを本書に学ぶ。

 そもそも「南京大虐殺」が今日に至るまで、かくも見解の衝突を誘う理由の一つは、

「一次資料」が欠けている点にある。「責任回避のための史料処分」が図られたためだ。

オンタイムの米英の新聞報道だけでもまだ足りない。

 そんなとき、一冊のテキストに出会う。『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』。

「ほとんどが、南京戦に参加した日本軍兵士の日記で構成され」たものだった。

 とはいえ、これだけでは「一次資料」とするには足りない。

「これは活字化された本である。……現物の日記を見なければ真偽の判断は不可能で

ある。/資料取材の基本は『原典に当たれ』だ」。

 そして清水氏は、編者のもとを訪れ、「原典」を検め、内容の精査も重ねる。

各々の日記間や時間軸などの整合性を入念に確かめることで裏を取る。

 やがて彼はある結論に至る。

 

 隠蔽の歴史を日清、日露戦争にまで遡る。

 それは国家、国民の歴史であり、同時に、筆者に流れる血の歴史でもあった。

 

「日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の

人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを素直に認識し、痛切な反省と心からの

お詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を

歩んでいく決意です」。

 戦後70年に際して、この「決意」が外務省のホームページから削除された、という。

 

「国にとって、自分にとって、都合の悪い過去に触れたら『自虐史観』だとか『顔向け

できない』からと、事実を押しやってしまえばそれでいいのか?

 過去を封印してしまうことが国益で愛国心なのか?

 冗談ではない」。

 冗談ではない。

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