山の岩とにかく掘る

  • 2017.12.12 Tuesday
  • 22:54

「ワニの化石じゃないか」

 岩塊からのぞく断面を見て、発見者のアマチュア収集家はそう思った。ラグビー・ボール

ほどのサイズのそのノジュールは、ひとまず地元の博物館に収蔵された。

 とはいっても、他に研究すべきサンプルは数知れず、いつしか8年の時が流れていた。

 その尾骨が未知の恐竜のそれで、ましてや全体標本の存在を示唆するものとなろうとは、

まさか知る由もない。

 

「この本は、北海道むかわ町の山の中で進められた恐竜化石の発掘記です。/ただし、

既刊の類書とはスタイルを少し異とするものをめざしました。/『恐竜化石の発掘』と聞くと、

『みつけた』『掘った』『こんな恐竜だった』という三つに集約される『物語』のようですが、

本書ではこの三つに『どのような人が』というキーワードを加えました。……この本では、

むかわ町の恐竜化石に携わった9人に取材しています。そして、それぞれの視点で

物語を綴りました。9人がどのような経緯で、この恐竜化石に関わるようになったのか。

結果として、人によっては中学生時代にまで遡って、その半生を追いかけています」。

 

「採集」と「発掘」は似て非なるもの、と筆者は言う。

 一般に想像される化石の集め方といえば、地表にハンマーやタガネを当てて、研究者と

いう名のオタクが刷毛などでこつこつと取り出す。インディ・ジョーンズよろしく、風変わりな

英雄伝にでも収斂しそうな類の「採集」だろう。

 しかし、本書における「発掘」は性質を異にする。「一人では決してできない。それなりの

組織と計画をつくり、チームとしての作業を進めることになる」。硬い地層をえぐるべく、

重機や削岩機が投入される。そのためのルート作りに木々の伐採もする。地元自治体への

根回しや協力要請だって欠かせない。

 つまり本書は、恐竜好きの子どもがそのまま大人になったような学者のテリトリーをはるか

抜け出して、『池の水ぜんぶ抜く』系の土建バラエティに至らざるを得ない。

 

 掘り出した岩石に「クリーニング」をかけて化石を取り出す、そんな重責を担う「縁の下の

力持ち」が、その仕事に出会ったのはほんの偶然からだった。高卒のしがない郵便局員が

五十路を迎えあてもなく退職、地元の博物館に普及員の枠を求めてエントリーするも通らず、

ただしクリーニングに空きが出たため飛び込んだ。大学や院で地学や化学の専門教育を

受けたでもない、何もかもが未知の領域。「学芸員……からは、ごく簡単な説明があった。

また、館内にあった資料も読んだ。万全とはいえないまでも、それなりの知識を蓄えたつもり

だった。しかし、やってみると、同じノジュール、同じ化石は一つもない。マニュアルなんて

ない世界であることを知った」。

 それから数年、磨いた経験の集大成として、例の塊が差し出される。

「この時点でノジュールから顔を出していた骨の部分は、風化がひどく、触るだけでも

壊れそうなくらいもろかった。/最優先はその保護だ。/保護剤をスポイトで骨にしみ

こませる。少し時間が経過すると、保護剤は骨の内部まで浸透して、骨が強固になる。

浸透したら、またスポイトで保護剤を垂らす、という作業を半年間繰り返した。/そうして

骨が硬くなったら、エアスクライバーやタガネで掘り出していく。ときにはルーペの下で

作業にのぞみ、かかった時間は約1年間。7個の骨があらわれた。変形もほとんどなく、

綺麗に並び、たがいに関節でつながった。/希に見る美しい標本である」。

 

 泥まみれ、汗まみれの「ダイヤの原石」が、哀愁の土木国家の零細自治体に舞い降りた。

Much Ado about Nothing

  • 2017.12.12 Tuesday
  • 22:36

「『美しきもののみが機能的である』。挑発的な響きさえ持つこの言葉は、建築家・丹下健三が

残した名言の中でも突出して有名で、さまざまな場面で繰り返し引用されてきた。

 この言葉がインパクトを持つ要因として二つ挙げられる。一つは、いかに実態が醜悪でも

それを華麗な表層で覆ってしまえば美しくなる、という美容整形的な発想と丹下の言葉が

一線を画するためである。もう一つは、求められた機能を真面目に充たそうと心がければ、

余分な要素が削ぎ落され、自ずと美しくなる、という機能主義的な発想と丹下の言葉が対極に

位置するためでもある。丹下の発言は、美容整形とも、機能主義とも大きく異なり、選ばれし

者のみが美を創出しうる、という神話的でロマン主義的な発想に基づいていた」。

 

 以下、本書の論旨を遠く離れて、あくまで私個人の読後の雑感として。

 

「選ばれし者」としての自負、そんなエスタブリッシュメントの終焉を丹下は告げる。

 そのことを予示したのがいわゆる「丹下モデュロール」だった。「このモデュロールの発想は

コルビュジェに端を発し、ヒューマンスケールや身体の比例に呼応した建築を作るための

尺度であった。……丹下モデュロールはチームで設計する際の共通言語となり、各作品の

質を維持するのに大きく貢献した。……身体スケールに調和するためにモデュロールは

用いられるが、丹下モデュロールは都市と建築をつなぐ手法で調整されたため、小さい数値は

洗練された家具やこなれた手すりをデザインするには不向きであった。例えば、香川県庁舎の

立面図を描いた際、低層棟下ピロティに階段の手すりが現れるが、これは丹下モデュロールに

従ってデザインされた。遠方から庁舎を捉えた際、丹下モデュロールに沿った手すりは建物

全体と調和しているが、実際に目の前で手すりを握ると非常にごついものになった」。

「選ばれし者」の目線は、彼らが思い描いた動線によって導かれるはずの選ばれざる者の

目線とは見事なまでにすれ違う。この失敗は、丹下の指揮による新都庁、新宿副都心の

廃墟にも似た寒々しい街並みに限りなく重なる。

「選ばれし者」などもとからなくて、そこにはただ人間工学的、統計学的に計算可能な

選ばれざるモルモットしかいない。社会を表現するに、未来を構想するに、今や建築など

いらない。株価、為替、金利、バランスシート……それらの数字を示すモニターさえあれば、

他には何もいらない。

 そんな中であえて建築に励むことの意味は、東京五輪狂想曲を見ればすべて分かる。

お友達向けのパーティー、自称エスタブリッシュメントのマスターベーションという以外に、

何の機能を見出し得るというのか。もはや現代の我々は歴史修正主義的に過去へと

遡らずにはいられない。そして結論するだろう、はじめから、他の意味などなかった、と。

 後世へと引き継がれるのは、食い散らかした負債だけ。

 

 丹下の人間は、ひたすらに都市を目指す。その集大成が大阪万博だった。いみじくも

美浜原発の試送電はこの会場へと向けられた。

 しかしその頃、既に工業化に基づく公害問題、環境問題は浮上していた。そして間もなく

訪れるだろうオイルショックは、「成長の限界」を突きつけた。選ばれざる者は、これら現実に

呼応するように、少子化という手法で見事に丹下の人間像を打ち砕いた。

「戦後日本の構想者」は、直視を拒んだ現実の前に、無残に敗れ去った。

Rain man is a main man.

  • 2017.12.09 Saturday
  • 20:04

「心の中に、素朴な疑問が湧いた。研究が70年も行われているというのに、自閉症に

ついて、どうして私たちはほとんどなにも知らないのだろうか?

 この問いへの回答を見つけるために、本書を執筆した次第である。近年、脳多様性

(ニューロダイバーシティ:neurodiversity)という概念が流布しつつある。自閉症、読み書き

障害、注意欠陥/多動性障害(ADHD)のような状態は、技術と文化の発展に貢献する

それぞれ固有の強みを持つ、自然に起こる認知的多様性とみなされるべきだという理解で

ある。自閉症スペクトラムという概念は私たちのポストモダン世界の産物であると広く

信じられているけれども、実は1938年にハンス・アスペルガーが最初の自閉症について

講演で主張した、とても古い見解に、そのルーツを求めることができることも、執筆のために

取材の過程で分かった。

 脳多様性は、自閉的行動の最も的確な理解者は彼らの両親でも医者でもなく、自閉症の

人々自身であるという発想に基づいている。自閉症は薬では治癒しない。しかし、協力的な

コミュニティで生活すると良くなるという知見は、自閉症の家族が過去から継承してきた

知恵のようなものといえよう。これからの障害者のために居場所を作り、社会で生活することが

可能となり、障害者が自分の生まれたコミュニティに貢献することさえ可能になるような未来の

創成に本書がいささかなりとも貢献できれば幸いである」。

 

 本書が取り上げるのは、自閉症をめぐる研究史、社会史。

 マイノリティというものが概してそうあるように、その歩みは必ずしも幸福なものではない。

 件の症候群の提唱者、H.アスペルガーが研究に取り組んだ地、オーストリアは間もなく

ナチスの渦に呑み込まれる。彼の「小さな教授」たちは、優生政策によって排除されるべき

対象でしかなかった。

 自閉症は「毒親」によるしつけの問題、そんな論が学術の世界さえ支配した時代もある。

溺れる者は藁をもつかむ、愛する我が子の治癒を託して民間療法に次から次へと手を

伸ばしては裏切られていく。

 環境汚染や予防接種ワクチンが自閉症を招く、そんな説が世間を震撼させた時代もある。

ただし、検証を進める過程で論文を執筆した医師によるでっち上げの事実が露呈する。

スキャンダルの渦中で、当事者はいつしか置いてけぼりを食った。「公共サービスや支援を

求めるという当初の目的が、悪意のあるワクチン論争へと流れをへし曲げられてしまった。

不毛な争いの陰で、自閉症のティーンエイジャーの就労支援プログラムの発足など、重要な

問題のほぼすべてが葬り去られてしまった」。

 

 とはいえ、本書を重苦しさから逃がし、どころか時に微笑ましいものとさえしてみせるのは

やはり「脳多様性」の持つ豊かさに他ならない。

『レインマン』の脚本を手がけたバリー・モローの作家性の原点には、自閉症の「相棒」との

出会いがあった。ヘアスプレーで固めたかつら、ボロボロの歯並び、妻に言わせればどうも

「知能が遅れて」いるらしい、ただし「これまでで出会った中で、一番友好的で優しい人物」と

付け加えることを忘れなかった。とある経緯から一度は施設へ預けられた「相棒」をモローは

連れ出し、誘拐罪の廉で起訴される。後見人を引き受けたい、との審議の席でその空気を

一変させたのは「相棒」当人だった。「神よ、相棒のバリー氏を授けてくれたことを感謝します、

彼はわたしの面倒をよくみてくれます。……いまは幸せな人生を送っています。そしてあの

地獄のようなところには絶対に戻りたくありません」。

 アカデミー賞の主演男優部門を射止めたダスティン・ホフマンに当初持ち込まれたのは、

弟の役だった。しかし脚本を一読して惚れ込んだ彼は、サヴァンの兄を逆オファーする。

ホフマンにもやはり原体験があった。役者では食べていけない時代に就いた看護助手の

職での、「博士」との出会いだった。かつて優秀な病理学者だった彼は脳卒中を患って

ほぼ寝たきりの状態になり、「チンプンカンプンな言葉しか話せなくなってしまっていた」。

そんな「博士」が妻を前にホフマンとお気に入りを歌っている最中、不意に立ち上がり

嗚咽した。「一瞬、完全な正気が顔をよぎった。『話せない、話せないんだ!』と彼は

うめき声を上げた」。ホフマンも、泣いていた。

 

『レインマン』の名シーンのひとつに、カジノのブラックジャック・コーナーでいわゆるカウントを

用いて兄弟がボロ儲けする場面がある。現実味があるのか、とモデルのイディオ・サヴァンを

脚本家が賭博場へと連れ出して検証しようとしたが、彼はきっぱりと拒絶して言った。

「これはフェアではない、バリー・モロー」

「脳多様性」の愚直は決してルールからの逸脱を許さない、たとえその代償にトム・クルーズの

表象する「定型脳neurotypical」の歓心が買えなくなったとしても。

 現実はしばしばフィクションを超える。

「独自の戦い」

  • 2017.12.05 Tuesday
  • 00:31

「無頼系独立候補は『変わった人』『目立ちたがり屋』『怖い人』などと捉えられがちだ。

しかし、実際に会ってみると、人間的にもユニークでパワフル、チャーミングで真面目な

人が多い。キラリと光るアイデアや、のちに社会に採用される政策を訴えていた人もいる。

自分が一票を投じるかどうかは別として、こうした提言を社会が広くシェアして未来の

政治に生かしていくことは有益ではないだろうか。

 生身の候補者一人一人にはドラマがある。誰もが命をかけて自分の主張を訴えている。

選挙に敗れても、何度でも立ち上がり、『次こそは』とまた新たな戦いに挑戦する。底抜けに

明るい彼・彼女らは、間違いなく私たちの『分身』だった。

 

 本書は、そんな候補者たちの人生を追いかけた記録である」。

 

 ある夏の渋谷の風景。

「茶色いクセ毛にヘアバンド。そしてヘッドセットタイプのマイク。黒いTシャツにピンクの

テカテカしたボクサータイプのパンツ。ハイソックスもピンク。そんな姿の還暦近い年齢の

男性が、街宣車の屋根の上で踊っているのだ」。

 参院選に立候補した戸並誠が政策として訴えるのは、「スマイルビクス」。曰く、笑顔を

作ることで自らの「脳が反応してβエンドルフィン、つまり脳内モルヒネが分泌される。……

とにかく今の日本にはスマイルが足りないんだよ!」

 彼の街頭キャンペーンはひたすら踊り、そして笑うことだった。真剣な政策論だって打つ、

ただし、すぐに踊りに戻る。本人曰く、「前は真面目な話をしたら、サーッとみんな消えて

いった。だから曲をかけて踊った。そうすると人がまた集まるんだ」。

 パフォーマンスをしなければ誰も立ち止まりすらしてくれない、だから踊る。

 悪名は無名に勝る、あえてピエロにならなければ、メッセージを届けることさえできない、

そんな現実が彼にはあった。この「無頼系独立候補」、またの名をマック赤坂という。

 

 赤坂には忘れられない経験がある。

 とある街頭演説でのできごと、ひとりの男性が歩み寄って握手を求めた。

「あなたを見て、久しぶりに笑顔になれました」。

 彼は末期のガン患者だった。

 政党名、候補者名、ワンフレーズの具体性なき政策もどきをひたすら連呼するだけの

ウグイス嬢にどうしてこの笑顔を作り出すことができようか。

 

 2016年の都知事選、ある「無頼系独立候補」は「選挙は戦いではない」ことを訴えた。

その活動は異例のものだった。街宣車どころかマイクもスピーカーも持たない彼の第一声は

他の候補者の選挙カーから発せられた。その恩返しなのか、彼は時に自らの機会を放棄

してでも、他の候補者たちの応援に駆けつけた。その最終日、彼はすべての候補者が

一堂に会した合同演説会を企画し、うち数名がそれに応じた。「選挙は戦いではない」ことを

彼は見事に貫徹してみせた。

 そもそも法律や政治なんてものは、利害の対立を調整するために要請される強制力の

機能に他ならない。衝突を内包した者同士がテーブルにつき、議論を交わし、知恵を出し、

その中で解決策を見出していく、そのために議会や行政はある。

 立場を異にする者が存在するのが当たり前。政治において排除を志向する者は自ら

存在意義を否定しているのだから、直ちにそれを実践し退場せねばならない。

 弱い個人が結束することで強大な「リヴァイアサン」を生み出し、理不尽に抗う力とする。

ネガティヴ・キャンペーンに明け暮れる主要候補たちを尻目に、「無頼系独立候補」の

寄せ集め、否、寄り集まりはそんな「近代」の原点に返り着く。

 黄昏のエスタブリッシュメントのその後で、反知性主義でもファシズムでもない選択肢、

ネオ・クラシカルな未来として秘して咲く花がここにある。

I Need to Be in Love

  • 2017.12.05 Tuesday
  • 00:23

「読者は、サイレントマザーと呼ばれる母たちがいることを知っているだろうか。その多くは

シングルマザーで、貧困にあえぎながら子育てをしている。なかには過重な労働によって

健康を害し、職場も住居も転々とし、地域のなかで孤立し、そのため母子の存在を知る人も

ほとんどいないようなケースもある。母の多くは近くに頼れる親がおらず、社会支援制度も

利用せずに孤軍奮闘している。サイレントマザーは『助けて』が言えない母のことだ。……

サイレントマザーは、自身について多くを語らず、助けを求めることもしない」。

 

 ふと思い出す、是枝裕和『誰も知らない』。

 社会の最小単位は家族、本書はそんな前提が壊れてしまった人々の物語。

「サイレントマザー」の「ほとんどは自身がサイレントベビーでもあった。親や保護者による

庇護が薄い環境のなかに育ち、生き続けてもなお寂しさの連続で、それが当たり前になって

いて、だから大人になっても苦しさを訴えるすべを知らない」。

 そもそも呼びかける相手を持たないのだから、声を発する機会すら持たない、だから

彼女たちは沈黙する。選んだわけでもなく、他の選択肢をそもそも「知らない」。

 そんな彼女たちが、そして母になる。

「息子ちょー可愛いです」。

 その我が子は、あるサイレントマザーにとっては、人生の中でようやく見出した、声をかける

べき誰かなのかもしれなかった。言い換えれば、他に逃げ場のない濃密すぎる関係性。

 路上で出くわすクズを見て、死ねばいいのに、と思う、ただしまず手をかけたりはしない、

なぜならそんな行為にすら値しない存在でしかないことを知っているから。殺してはならない、

その命令を発することができるのはつまり、時に殺したいほどに愛おしい近しい存在のみ。

 そして彼女はある日、同棲相手の男とともに、息子をポリ袋に詰めて、粘着テープを

巻きつけた。袋の中の彼はやがて呼吸を失った。

「この子自身を捨てる意味のしつけだった」。

 そんな供述はネット上で手ひどいバッシングを浴びた。虚しい事件だ。でも私は思う、

「息子ちょー可愛いです」と「しつけ」は別段矛盾しない、たとえそれが死へと至ろうとも、

人間はそういう風にできている。

 

 もちろん、行政やNGOにも改善点はあるのだろう。

 でも、この本が告発するある種の救いのなさは、「サイレント」ゆえにこそ、その情報を

把捉もできなければ、リアクションへの期待も限定的にならざるを得ない、という点にある。

重大事に至ってはじめて「サイレント」であったことが知られる。

 そもそも他人を信頼することを知らない人に、社会政策に身を委ねよ、と訴えたところで

まさか実行を期待できるはずもない。「男性の貧困はホームレスとして路上に表れるが、

女性の貧困は待機部屋に表れる」、むき出しの性欲の慰みものにされた経験があればなおさらだ。

 さらに現代社会の病理もこうした不信を後押しする。声をかけてくる他人は誘拐犯と思え、

例えばそう子どもに叩き込むことで瞬く間に地域社会は瓦解した。家庭や居住区域といった

セーフティネットの根幹が崩壊しているのに、今さら国家や地方自治体に何ができるというのか。

 信頼というインフラを持たない社会のひずみが「サイレントマザー」に結実する。

 愛し方を「知らない」、愛され方を「知らない」。別にこれは抽象的な感情の問題ではない。

いみじくもこれを'Art of Loving'と看破したのはエーリッヒ・フロムだった。愛はまず何よりも

技術の問題、知識の問題だ。もし「サイレント」に突破口があるのだとすれば、それは唯一

教育の他にない。

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