猫の皿

  • 2017.08.18 Friday
  • 21:21

「ネコは原始的な過去の遺産をひきずっていて、その行動の多くはいまだに野生の

本能を反映している。ネコの行動の理由を理解するためには、それがどこから

生じたかと、それを現在の形に変えた影響について理解しなくてはならない。

そのため、この本の最初の3章では、野生の孤独なハンターから、高級マンションに

住む動物へネコが進化したことについて記している。……ネコは人間のかたわらで

暮らすようになった。しかし、ネコと分かち合っている世界について情報を集める

方法も、理解のしかたも、人間とネコではまったく異なっている。第4章から第6章は

ヒトとネコのちがいを検討する。……飼いならされるために求められることによって、

ネコの社会的な領域を野生の祖先と比べて劇的に広げた。第7章から第9章は

こうした社会的な関わりを詳細に検討する。……最後に、本書では世界における

現在のネコの立場を検討し、今後それがどうなっていくかについて考察する」。

 

 本書の射程は、ネコの行動学や心理学の範疇をも時に超えてみせる。

 それは例えば歴史学、世界中のイエネコのDNAを調べてみると、彼らを運び入れた

人間の移住や海洋進出の過程もまた見えてくる。文献を渉猟すれば、迫害と迫害と、

あと迫害、ハンターからコンパニオンへ、というネコの発達史とはまた違う、血まみれの

暗部を目の当たりにさせられる。

 

 とはいえ、本書を手に取るような類の人々が気になるのは、やはりペットとしての

ネコと上手に暮らすための生理学に違いない。ヤマネコからイエネコへ、「住み込みの

害獣駆除係から相棒である同居者へ」、家畜化の歴史の中で、いつしか彼らも飼い主に

愛着を示すようになる。コミュニケーションのためのコミュニケーションを求めるのは

ネコとてまた同じらしい。ただしあいにくながら、ネコがいかに社会化を重ねようとも、

「大半のネコにとって、存在理由は人間との愛情あふれる関係ではない」。

 彼らにはより大切とするあるものがある。

 

 そして、こうした一連のプロセスはその先に皮肉な未来を予言する。

 ある調査によれば、イギリスのとある地域における飼いネコの98パーセント以上が

去勢されている、という。言い換えれば、子孫を残せる「ネコが産んだ子ネコの特性は、

残念ながら、わたしたちが排除したいと思っているものなのだ。すなわち、人間を警戒し、

自分の食べ物をまかなうための狩りが上手であるという特性だ。……責任感のある

飼い主によって早期の去勢が広まると、イエネコの遺伝子はじょじょに野生に戻っていき、

現在の家畜化された状態から遠ざかっていく」。

 人間の管理社会の未来とて、おそらくはまた同じ。

 なるほど、ネコがコンパニオンたる所以が見える。

文化的資本格差

  • 2017.08.17 Thursday
  • 21:57

 公園がないと閉塞するのか、閉塞すると公園がなくなるのか。

 近代の終わりについて散歩しながら考える。

 

「いつも何かに追いかけられているような都会の生活に疲れたら、たまにはいつもの

生活を脇において、気持ちのいい時間を楽しんでみよう。

 東京にはよく整備された公園や庭園がたくさんある。木々に覆われた新しい公園から、

由緒ある日本庭園に西洋庭園、古くからの植物体系を守る植物園などなど。

 そして公園や庭園の魅力はもちろんだが、目的地に着くまでの道すがらの、

たたずまいや、音や、匂いを感じながら、まわりの風景を見ることもまた楽しさのひとつだ。

 いつもの日常からのちょっとした“小さな旅”である」。

 

 人口比で見れば、ロンドンの約4分の1、ニューヨークの3分の1ほど。

 もちろん、これには人口密度に基づく土建促進用の統計マジックが関与してはいるが、

世界の主要都市と比較したとき、東京というのは著しく公園に乏しい街だという。

 そうは言っても、23区内で漠然と電車を降りても、それなりの公園に辿り着く。

東京駅なら日比谷公園や皇居、新宿なら御苑、渋谷ならば明治神宮、ビルに囲まれた

ターミナル駅でもこの調子。

 都市のただ中で四季を知る、それが本書の趣旨。

 本書を彩る花の写真が、否応なしに春夏秋冬の存在を知らせる。

 

 資本の格差、本書を読みながら、そんなことをはたと思う。

 空洞化した地方の街をしばし想像する。駅周辺はシャッター通り商店街、いかにも

デヴェロッパーの手による区画のきちんと分割された建売の均質な住宅地、相対的に

栄える郊外のロードサイドといえば、ファストフードとパチンコ、リサイクルショップ……。

観光用に力を入れている市町村を別にすれば、ふらりと住民が散歩できるように

アクセスが容易で、なおかつ植物環境の整備された公園などそうお目にかかれない。

 かけられる金が限られている、優先順位もそう高くない、なるほど仕方ない。

 これならば、なるほど東京の方がよほど季節に溢れた「小さな旅」を楽しめる。

 

 貴族のプライヴェートな道楽の庭を市民に向けて開放する、近代革命を象徴するように

公園の歴史ははじまった。

 そして現代、もはや開放すべき場すら持たない地域が存在する。

 公園を散策できるって実はとても贅沢なこと、そんなことを知らされる。

世界の中心で、愛をさけぶ

  • 2017.08.17 Thursday
  • 21:45

「とにかくその夜、向坂伸之は初ボーナスで買って三年目のノートパソコンで、

そのライトノベルのタイトルを検索したのである」。

 そして彼はとあるブログに辿り着く。

 モデルケースはさながら信者どもを発狂させた『エヴァンゲリオン』最終回といった

ところだろうか、中学時代に熱中したそのSFアクションラノベ『フェアリーゲーム』の

最終シリーズは、「何の救いもない終わりでした」。「今までのハチャメチャが通用しない。

隙のない大人たちの包囲網でどんどん主人公たちが追い詰められていく展開に、

息苦しいような閉塞感を覚えました。……最後に主人公カップルは決定的に

引き裂かれたのです。しかも、ヒロインの決断によって。追手から逃げ回る生活を

ヒロイン自身が拒否したのです。

 どこまでの二人で逃げよう、と訴える彼に、どこまで逃げたって変わらないよ、と

彼女は首を振ります。一生逃げ続けるの? と」。

「ブログのタイトルは『レインツリーの国』。プロフィールの名前は『ひとみ』で、公開してある

プロフィールは『都内在住、2X歳、女性』だけだ」。

 メールで幾度かやり取りを交わし、「そして初秋の土曜日に、初めて『ひとみ』と

会うことになった」。

 

 10字以内で要約すれば、リアルってクソ、私の最愛の小説、『パルムの僧院』に勝手に

なぞらえて、期待値を上げすぎただけなのかもしれない、1ページめくる度に失望が

加速度的に肥大していく。

 よく言えば親切丁寧、ストレートに言えば読者をバカにしているとしか思えない――

というか、バカ向けに書かれているのだろう――ほどの説明過剰、全編三人称を用いて

書かれているにも関わらず、その内面の揺れ動きがすべてことばで語られる。しぐさや顔色、

何気ないフレーズの二重性、そうした気の利いた、そしてごくごく基本的な要素が本書から

一切感じ取れない。

 二人の初デート、「伸ばしっぱなしをぱつんと裾だけ揃えた黒い髪」、ランチの要望は

「静かなところ」、映画館では洋画字幕に固執する。間もなく伸之はひとみの行動選択の

理由に気づくのだが、こうした答え合わせをくどくどしい内面の独白で処理してしまう、

まるで書き手の自作解説でも読まされているかのように。なぜ読者にその確認を託して、

後悔と失敗の奇声を上げさせようとしないのだろう。

 逆に周辺の人物は、内面というものを持たないのでは、と疑わせるほどに記号的、

こんなゾンビワールドに幽閉されたひとみの葛藤に身勝手さを読み解け、という方が無理。

 二人の行動が、彼らをつなぐ共通項としての、例のラノベの物語設定やセリフをなぞって

しまうわけでもない。

 クライマックスの脂ぎった大演説とか、何とかならないのだろうか。

 よくお勉強されたのは分かります、触れづらいところに踏み込んだその勇気も讃えます、

でもそうした倫理的まともさと作品としてのまともさとはまるで別の評価軸の話。

 

 ひたすらに分かりやすくて、分かりやすくて、分かりやすい純愛もの、難病もの。

 思いやりに満ちた社会って、つまりこういう過剰接待を指すのだろうか。

 日本のエンタメを凝縮したような一冊。

ネオクラシック

  • 2017.08.11 Friday
  • 20:04

 ヒロイン、貫地谷マイ――《患者》《病》。「病気といっても命にかかわるような深刻な

ものであることは稀で、大半は一週間もすれば治る。が、まるでリレーのバトンを渡す

ようにすぐさま別の病気にかかってしまうのでキリがない」。そんな病床で暇に飽かせて

ミステリーを読み込んだ末、「物語の中の名探偵よろしく自分の頭脳をはたらかせて

何らかの謎を解くのが生きがいとなってしまった」。

 そんな「安楽椅子探偵――というか寝台探偵」の元に高校で起きたささいな事件を

届ける幼なじみの「ぼく」こと山名井ゲンキ――《病まない》《元気》。

 彼らが暮らす物語の舞台は辺留市、hellというよりはhealthyらしい。

「熱中症。ねっちゅうしょう。ね、チューしよう……」。

 駄洒落と駄洒落と、あと駄洒落、百人一首にある通り、言葉遊びは日本の立派な

伝統文化のひとつです。

 

 そんな様式美に従って組み上げられた世界観。ストーリー展開においても、見事に

完成されきったフォーマットを提示する。

 絵に描いたようなツンデレ、ヤンデレキャラ、口が悪いのに、短編中どこかで必ず

ゲンキのことばにうるっとした表情を見せる、さながら由美かおるの入浴シーンのように。

 事件のカギを握る――とマイがこじつける――のは、そのとき彼女が罹った病気。

 真相には決まっていかにもティピカルな高校生像をなぞる屈折した感情が絡み、

それに対してゲンキが決まって背伸びしたようなちょっとかっこいいセリフを吐き、

印籠よろしく締めには決まってサービスシーンが用意される。

 連ドラ化でも目論んでいるかのような、量産可能なテンプレートの集積体。

 何がいいって、読んでいる側が疲れない。

 

 本書の隅々に息づいた、超高完成度の様式美。

 水戸黄門、男はつらいよ、半沢直樹――みんな大好きお約束。

「想像の読者共同体」

  • 2017.08.09 Wednesday
  • 21:59

「かつて、『生き方』『読書』『社会批判』を主題とした人生雑誌は、なぜ読まれていたのか。

学歴や知識層とは縁がなかった読者たちは、なぜ、教養主義の香りを帯びたこれらの

雑誌を手にしたのか。彼らの営みは、大学エリートたちの教養主義に対し、いかなる

親和性や差異を有していたのか。そして人生雑誌はいつ、どのような過程を経て衰退し、

『実利』を扱うものへと取って代わられることになったのか。……人生雑誌の主たる

読者層は、集団就職をしたような勤労青年たちであった。彼らについては、主に戦後の

格差や労働の問題として論じられることが多い。だが、少なからぬ彼らが手にした

人生雑誌の歴史を眺めてみると、それにとどまらない勤労青年像が浮かび上がる」。

 

 NHKの名物プログラム『青年の主張』の終焉は、「青年」がもはやいなくなったから。

『葦』や『人生手帖』の行路はまるで、佐藤卓己『青年の主張 まなざしのメディア史』の

議論をはるか先取りするように。

 

 かつて、社会に出るの対義語は学校に入る、という時代があった。

 義務教育を終えれば、即座に就職や家業へと動員される。雇用環境は当然に劣悪、

そんな彼らには「勉学の空間が職場の労苦を忘れさせ、『憩いの場』と」映った。

そして同時に、各種不条理の共有は「人生雑誌」の結束、「想像の読者共同体」を

生み出す種ともなった。

 なるほど、知識への憧れはある、さりとて知識人は気に食わない。それはひとつには

職場と同じヒエラルキーを想起させずにはいないから。かくして、彼らの「反知性主義的

知性主義」の姿勢が立ち上がる。

 

 ところが、経済が上向くにつれて、労働環境や所得、あるいは高等教育進学率は

改善を見せ、そうなれば「マルクスみかん水」はどうにも求心力を失わざるを得ない。

 そしてその果て、「人生雑誌」はついに「健康」へと舵を切る。

 

 そんな過去の先に立つ現代日本について思う。

 もはや経済成長は見込めない、所得は伸びない、社会保障は膨張する、どころか

人口減とグローバル化に基づく縮小局面に間もなく突入するだろう。

 失われたx年を果てなく更新する中で、社会に出るの対義語は引きこもる、と化した。

 このシチュエーションで「想像の読者共同体」を構成するのは例えばコミケ、同人誌、

萌えに包まれた幸福なコミュニティはしかし、傍からは今なお、時に凶悪犯罪予備軍で

あるかのような無理解の視線を浴びる。

 社会の閉塞の中で、理想像も何もなく、敵の敵は味方、という回路でしかもはや

「想像の共同体」を調達できない以上、現代型「反知性主義的知性主義」はネットで

真実を知りました系の排他性、攻撃性に終始する他ない。この暴力思考のインフレを

食い止めるロジックを持たないのは、つまり事実上「共同体」を編成しようがないのは、

世界中いずこも同じ。

 こんなものならばセカイ系、「想像」はそもそも「想像」を越えず、従って「共同体」など

成り立ち得ない、この図式の方がどれほどまでに幸福か。

 

 人間はか弱き葦に過ぎない、ただしその葦は考える葦である。

 貧すれば鈍するのか、鈍すれば貧するのか。

 考えることをやめてしまった、そしてわびしき世界の中で。