想像の共同体

  • 2017.10.22 Sunday
  • 19:30

「国家や社会や状況の判断によって導き出す理解ではなく、自分の身を賭して

共感する人間性こそは、最強の理解となる。……文学という虚構のシステムこそは

この受け皿と成り得るのだ。文学と戦争は抜き差しならないほどの共犯関係を

結んでいる。しかし、それを打ち破っていく可能性も文学にはあるのだ。……〔本書が

取り上げる〕文学的文章に共通するのは、直線的な戦争批判だけではない点だ。

戦争を否定することによって欲望する平和は、時にはその戦争を生み出す原因へと

変貌を遂げてしまうかもしれない。自らが立つ場所への根本的な疑義、あるいは自ら

自身に内在化された『国民化』への疑惑なくして、恒常的に戦争を再生産するこの

システムには対抗できない。その作品一つ一つに描かれた人間という存在への懐疑を

手がかりに、戦争と文学の関係を想像力をよりどころとして再構築したいというのが、

本書を出す最大の理由である。その文学的想像力こそが、今ある思索の困難を照らし

出していくことになるであろう」。

 

 なるほど、「小説案内」としてはあまりに主観性が強すぎる。そうした批判があったとして、

一定の理があることは認められよう。

 しかし、まさにその事態こそが、「戦争をよむ」意義を何よりも雄弁に証する。

 そもそもライティングの機能とは、「想像」のはたらきに従って、描かれているできごとを

わがこととして引き受けさせることにこそある。いみじくもベネディクト・アンダーソンは、

近代型ナショナリズムを指して「想像の共同体」と名指した。そもそも学校で歴史を学ぶ

理由とて、国家を基礎づける「想像」の共有を涵養することに他ならない。ゆえにこそ、

過去の再生産を促す土台として、「想像」は時に戦争装置にもなれるし、あるいは時に

過去の再生産を拒む土台として、「想像」は異なる未来を選び取る装置にもなれる。

 主観的であることは、他者との共感を排除するものではない。

「戦争をよむ」とはすなわち、自らの「想像」を、自らの身体を動員する行為に他ならない。

 だから筆者は己をむき出す。

 

 ボリス・シリュルニクのテキスト『憎むのでもなく、許すのでもなく』に寄せて語る。

 シリュルニクは1937年のフランスに生まれ、そして母国はまもなくナチスに陥落する。

かくしてポーランド系ユダヤ人の両親の間に生を享けた彼は5歳にして孤児となる。

やがて精神科医となった彼にとって、セラピーの過程は「自らのトラウマを癒していく

選択でもあった。……『ユダヤ人』であることを言ってはならないという体験は、他者との

親密な関係を持つことを阻んでいく。……シリュルニクは、自らが凍らせてしまった言葉を

柔らかに溶かしていくことの必要を主張する。そして憎むのでも、許すのでもなく、

理解することの重要性を。ホロコーストという人間の究極の憎しみの表現に出合った

シリュルニクは、憎しみの本質に対峙する勇気と、その人間が持つ善なるものへの探求が

同時に行われることは、決して不可能ではないことを明らかにしたのだ。人間は過去を

消去できない。だからこそ、その悲しみに満ちた過去と折り合い、解決への道を求めて、

理知の力をもって、前に進んでいかなければならないのだ」。

生き字引

  • 2017.10.22 Sunday
  • 19:26

「『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』をPHP新書で刊行してから、光栄なことに、

仲代さんからご懇意に接していただけることになった。その結果、あることに気づく。

それは、著書には決定的に欠けているものがあった――ということだ。……本書は

『映画史の証言者』という視点で仲代さんを捉えてインタビューしている。その結果、

当時の映画人たちとの刺激的なエピソードや経験されてきた偉大な足跡を存分に

うかがうことができた。だが一方で、それだけで手いっぱいになってしまい、後に他の

役者たちには粘っこく聞くことになる、『役者としての原点』『演じる上でのこだわり』

などの演技論・芸談を、掘り下げきれていないのである。……そこで今回の文庫化では、

仲代さんの役者としての原点である俳優座養成所での日々や師・千田是也の教えなどに

ついて追加取材をし、序盤に書き加えた。……そして、『欠けていた』ことはもう一つある。

それは『役者・仲代達矢の現在地』である」。

 

 生き字引とはまさにこのことを言う。

 黒澤明、市川崑、岡本喜八、市川雷蔵、原節子……。

 本書の語りで『徹子の部屋』が何本撮れるのだろう。もはや私には半ば古文書の世界に

属するような感のあるホール・オブ・フェイムが次から次へと登場する。

 黒澤との出会いを語る。実は『用心棒』に先立って、仲代は作品に出演している。

「俳優座養成所の2年生の時、まだ20歳くらいでしたが、『七人の侍』のオーディションを

受けまして。ほんの数秒のカットでしたが、エキストラで出演しているんです。物語の序盤で、

百姓たちが野盗から村を守る傭兵を雇うため、街中をスカウトして回るんですが、その目に

留まる浪人の役でした。……黒澤監督が『君が先頭になって歩け』と。……ところが、撮影が

始まると『何だ、その歩き方は!』と黒澤監督に怒鳴られまして。何度やってもNG

なるんです。そりゃそうですよね。新劇じゃそんなもの教えてくれませんし、そもそも着物を

着たのも初めてですから。撮影が朝9時開始でそのシーンの撮影が終わったのが午後の

3時頃でした。その間、何百人もの役者やスタッフを待たせて、ひたすら私の歩くシーンを

何度も取り直すんです。……ただ、当時としては屈辱的でした。エキストラだから替えも

いるのに、ずっと私だけに何度もダメ出しして撮り続けるわけですから。……『あ、俺は

映画に向いてない。まして時代劇なんてダメだ』と思うほど屈辱的でした」。

 そして時は流れ、この「屈辱」を理由に『用心棒』の出演を渋る仲代に黒澤が言う。

「いや、そのことは覚えている。だから君を使うんだ」。

 

 そんな「黄金時代」を肌で知る仲代が、2015年にテレビ時代劇『果し合い』の主演を務め、

筆者が撮影に同行する。

 傘寿を超えた仲代が、昼は暑く、夜は冷える6月の京都の山間で撮影に挑む。

「ただ振るだけでなく、同時に草木を斬っていくため、使われるのは撮影用の模造刀では

なく真剣だ。これは、かなりの重さになる。炎天下で仲代はこれをひたすら振ることに

なるのだが、カメラが回っている間は疲れを全く見せなかった。実はその裏では、持病の

喘息の発作を起こしていて、撮影の合間には息も絶え絶えに酸素吸入器を口にしていた

のだが、一度カメラの前に立てば、すぐさま『役者』の顔に戻る」。

「この日の撮影は、これだけでは終わらなかった。夕方、撮影所に戻ると数時間だけ休憩を

挟み、今度は夜間のロケになる。……20時頃に始まり、終わったのは夜中の3時頃だった」。

 なるほど、「真のプロフェッショナル」の背中には違いない。ただし、仲代の芝居を免罪符に、

これを美談としてはならない、と私は思う。

 悲しいかな、リソースを食い潰す撮影体制に持続可能性などあろうはずがない。

 貧しさが貧しさを呼ぶ負のスパイラル。時代劇の斜陽を否応なしに知らされる。

 

 対して小林正樹『人間の條件』。

「『あれは満州の雲じゃない』と。それで『満州の雲を待つんだ』って一週間待ちました。

そしたら、出たんですよ。もっこりした、日本にはやっぱり珍しいなあっていう雲が。

それが出た時にようやく撮影開始になりました」。

 

 人材も現場も、すべてが促成で賄われる。映画に限らず、現代のありふれた風景。

 仕方ない、と言うべきか、たとえ殺陣をろくに決められなかろうと、発声すらも満足に

できなかろうと、消費者の求めに応じているに過ぎないのだから。これとてひとつの

「真のプロフェッショナル」と称されるべきなのかもしれない。

 仲代の来た道が、時の流れを無残なまでに告発する。

この国を、守り抜く。

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:26

「デュアルユース技術という名の下で、武器輸出が政府によって推進され、これまで

武器とは関係なかった日本企業の高度な技術や商品が、世界の武器市場に拡散する

可能性が高まっている。/私の心の中に徐々にいいようのない不安感が広がるように

なった。/『防衛技術の維持のため』『日本の安全保障の強化のため』、武器輸出は

推進していくべきなのか。この問題の答えを探すため、防衛省や防衛装備庁、企業や

大学、研究機関の研究者たちに取材してきた。……政府が官民をあげて、武器輸出に

踏み込もうとする中、その流れに企業や研究者たちはのみ込まれていくのだろうか。

武器市場から新たに生まれる利益は、なににつながるのか、国民の生活はより豊かに

なるのか――」。

 

「できれば、軍需とはつながりのない仕事で稼ぎたいとは思っても、現実問題として

生活費を稼ぐには、軍事、民事と選別できるような状況ではないんですよ」。

 本書を要約したような独白だ。さる中小企業男性の声だという。

 

 ほぼゼロ成長にあえぐ日本にあって、世界に向けて技術的な優位を誇れる産業の

ひとつが例えば武器だった。その典型が潜水艦、ある海上自衛隊OBは証言する。

「潜水艦はハンドルも弁も全部機密の世界です。たとえば艦内のパイプのつなぎ手が

あるね。その鋳物は普通の鋳物技術ではできない。どんなに硬い潜水艦をつくっても

この鋳物技術が、すべての潜航深度、爆雷への衝撃耐力を決めてしまうんです。/

潜水艦用のリチウム電池も秘密の塊だね。あれを出してしまってもいいものなんだろうか」。

 ところが、この機密の技術移転に政府は乗り出した。単に潜水艦の完成品を売り込もうと

いう話ではない。相手国のオーストラリアの雇用を作るべく、現地で共同開発するというのだ。

そして取材の過程で、筆者はとある防衛装備庁幹部の言葉に絶句する。

「ブラックボックス化は、潜水艦事業の受注が決まってから検討する」。

 もっとも、プラン自体は豪州首相の交代により覆され破談の憂き目に遭う、幸か不幸か。

 他国を見て目先の金になりそうだからと飛びついて、副作用には素知らぬ顔。後発組が

競合をしのぐためのヴィジョンを持つでもない。

 この安直さ、カジノ計画と限りなく似ている。

 

 金がない。この問題は研究機関の現場を襲わずにはいない。

「国立大学の研究者の年間研究費がいくらか知っていますか? 平均で42万円ですよ。

……競争的資金の応募先を選り好みできるような状況ではないのです」。

 貧弱な教育資源の上で無償化を掲げたところで、いかなる成果が得られるというのか。

 沈みゆく国の沈みゆくその所以が垣間見える。

 欲しがりません、勝つまでは。

 

「武器輸出三原則ができて以降、殺傷能力のある兵器が初めて輸出された国はどこか

ご存じだろうか。/答えは韓国だ。/201312月、国家安全保障会議(日本版NSC)が、

南スーダンのPKO部隊で15000人の避難民保護にあたっている韓国軍に対し、

1万発の弾薬の無償提供を許可した。『緊急の必要性と人道性が極めて高い』というのが

その理由だ」。

 このわずか数行に凝縮された日本の現在を噛み締めなければならない。

 これだけでも、本書は一読に値する。

タイガー&ドラゴン

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:21
評価:
金子 薫
河出書房新社
¥ 1,728
(2017-09-22)

「目が醒めてから再び眠りに就くまでのあいだ、今日も『君子危うきに近寄らず』は辛抱

強く待ち続けていた。相も変わらず少年と少女、それから驢馬の到着を待っている。

いつかやって来るという確信も時には揺らぎ、所詮は自分の思いこみに過ぎないのでは

ないかと悩むこともあった。しかし、みつるもことみも少しずつではあるが間違いなく

近づいてきており、この部屋に光が射し込むのもそう遠くないはずだった」。

「君子危うきに近寄らず」が暗い部屋に幽閉されるようになってもう何年が経っただろう、

朝食には白米と冷水が、夕食には鶏肉入りの南瓜スープ、差し出されるときに辛うじて

射し込む外の光とともに、一応時の流れていることを知る。

 記憶喪失に陥った「君子危うきに近寄らず」には同居人がいた。名を「君子」という。

「今では紛れもなく自分の息子だと信じているが、以前はそうではなかった」。

「君子」もまた同様に記憶をなくしていた。

「君子危うきに近寄らず」が持っていた唯一の私物が「体操服を着ている子供たちの

写真だった。校舎と思われる建物の前に13人の子供が並んでいる」。その中に例の双子、

みつるとことみがいた。「双子は驢馬に跨って私を助けに来るであろう。移動手段としては、

子供に馬は御しかねるだろうし、……双子はやはり驢馬に、それも一頭の驢馬に跨って

来るはずだ」。そして写真にはもうひとり、「君子」も写っていた。

 親子はいつしか壁に地図を描くようになった。故郷と部屋をつなぐ双子の旅路だった。

地図が細密を増すほどに両者の距離も縮んでいく、そんな望みが親子を繋ぐ絆となった。

 

「アタリ、コウ、ツケ、ハネ、ノビ、ツギ、キリ、シチョウ」……といきなり並べられても、

現代人の多くは何のことやら、訳が分からず当惑することだろう。これらはすべて囲碁用語。

 地図を黒く塗り消された親子は、いつしか会話の糸口を失ってしまう。そんな二人を

再び向き合わせる契機が囲碁だった。棋は対話なり。看守の目の届かないトイレの中で

「君子危うきに近寄らず」は「君子」にいろはを施すところからはじめる。

 19路盤においてルール上実現可能な局面数はこの宇宙の総原子数をも超えるという。

そうして彼らは対局という共同作業の中に、地図に代わる世界の表現方法を見出した。

 

『ドン・キホーテ』、『青い鳥』、『ロビンソン・クルーソー』、『オイディプス』……

貴種流離譚のそんな系譜を混ぜ合わせたような作品。表紙の男性はたぶんホルヘ・ボルヘス、

マジック・リアリズムの匂いも濃密に漂う。

 なぜ彼らは幽閉されているのか。親子の過去に何が起きたのか。謎はみな、ただ彼岸の

ままに横たわり、そして彼らは部屋にいる。否、誰が本当にいるのかさえも分からない。

 何がリアルか、何が虚構か、そんな境を冷たくも怪しい筆致で描く。

 

「厚みを活かして中央を目指すような足の速い碁が可能になる」。

 いったいどこのアルファ先生だよ、そんな碁打てたら、井山裕太倒せるわ。

 とか思ってみたりもするが、ファンとしては、囲碁について書かれている、しかもちゃんと

胸躍る、というだけでとりあえず無条件に甘やかしてみたくもなる。

 それはさておき、やっていることそれ自体はひどく古典的。理由づけの捨象というのも、

シャルル・ペローを筆頭に昔話の類型だし、アンチ・クライマックス、アンチ・カタルシスの

手法とて、そう珍しい話でもない。

 底の抜けた論理、底の抜けた世界、そんな不可知性をめぐる試論。

忠誠と反逆

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:17

「この本で考えたいのは、ひとことで言うと、戦後日本のことである。

 戦後や民主主義というのは、いまの私たちにとって、まるで空気のようなものだ。私たちが

生きる世の中の前提である一方、普段はまったくその存在を感じないもの。したがって、

節目の際にはジャーナリズムや出版界が『戦後何十年』と騒ぎたて、ことあるごとにデモや

キャンペーンで、“民主主義”が声高に叫ばれるものの、世間の多くの人々は無関心で

興味がない。

 だからといって、私はここで、われわれは戦後日本が抱える問題にもっと関心を持つ

べきだとか、もっと真剣に考えようなどと言いたいのではない。

 むしろ逆で、私たちは『戦後』という問題について真剣になればなるほど、的をはずして

しまうということを、この本の最後では述べるつもりである」。

 と、こんな出だしで本書は幕を開ける。『丸山眞男の敗北』と銘打ちつつも、その名が

なかなか現れない。今にして思えば、このことが後のすべてを予告していたのだろう。

 

 丸山のラフスケッチとして、本書ではいわば二度の「転向」が言及される。

 一度目は戦中における「転向」、西洋型合理主義型「近代」に抗って、徂徠学に依拠しつつ

「近代の超克」を謳った丸山が、いつしか日本における「近代」の不徹底を指摘する。

「超克」どころか、入口にすら立っていなかった、というわけだ。

 そして二度目のそれは――本書がその動きを指して「転向」と呼ぶことはないが――

「政治学者」から「日本思想史家」への「転向」。今なお果たされぬ「近代」という問題の根本を

探れば、「政治」ではなく、日本の精神史を取り上げなければならない。

「八月革命」から「逆コース」への「転向」、「鬼畜米英」から「ギブミーチョコレート」への

「転向」、しかし彼らは誰ひとり自らの「転向」を知らない。

 彼らを変えることなどできない、ただし彼らは勝手に変わる。

 そんな群像を比類なく正確に描いてみせたのが大江健三郎『万延元年のフットボール』、

すなわち日本の大衆をめぐる「空虚な中心」性の試論としての。

 あるいは遠藤周作『沈黙』にも通じるようなこの現象を指して、「敗北」と呼ぶのだろう、と

勝手に先読みしていたのだが、話ははるか明後日の方向を目指す。

「風のない時代には、どう対峙すればいいのか。『相対の哲学』では、無風の状態において

どのような行動を取れば、時代と正面から向き合うことになるのだろうか。

 丸山には想像がつかなかっただろうが、その答えは決して難しくない。それはひとことで

言えば、無風にどっぷりとつかって、力を抜くことである。逆風の状態では、政治や社会の

動向に対して緊張して身構え、対決姿勢を取ることが時代に向き合うことだったが、無風の

状態では、命を懸けて戦う状況ではないことを受け入れ、豊かさと安心でふやけた体で、

興奮せず内省的に考えることが必要となる。それこそが、無風から顔をそむけず、

逃げ出さない、唯一の方法だろう」。

 誰もが呆れを誘われずにはいないだろう、こんな自論を引き出すために、いったいどこに

丸山を経由する必然があったというのだろうか。

 なにせ丸山の論理に一向に沈潜しようとしないまま書き進めていくのだから、予兆は

もちろんそこかしこにあった。とはいえ、ここまでひどい結末を見ることになろうとは。

 我田引水の醜悪さは例えばE.レヴィナスの扱いについても然り。応答主体として

「あなた」に向けて現象する「わたし」というそもそもの実存論を知らないものだから、

内田樹なんぞに依拠しつつ語る「死者」論がまるでちぐはぐ。参考文献や引用に

一切登場しないところを見ても、原テキストをめくってすらいないのだろう。

 

 Facebookにでも書いてれば、という以上に何の感想もない。