AIは青いバラの夢を見るか

  • 2018.05.23 Wednesday
  • 00:00

 

 この花の名を「ミスター・ローズ」という。

 2013年春、鈴木省三の生誕100年を祝して捧げられた。

「日本にもバラがあるのですか」、そんな侮辱を乗り越えて、世界のバラ界に

極東の存在を知らしめ、かのニックネームを獲得するに至る。

 

 この花の名を「ピース」という。

 1945年、大戦の終結にあたって、願いを託すべく改めて命名を受けた。

 博覧会の展示依頼を受けて輸入した実物をはじめて見た鈴木は驚愕する。

「大きな花びら、柿の葉のような頑丈な葉、親指ほどある太い茎、まさにバラを

超えたバラ」だった。

 そのバラはサンフランシスコ講和に際して、会場を彩ったバラでもあった。

条約を手がけた吉田茂の宿敵、鳩山一郎と鈴木を結びつけたバラでもあった。

 本来ならば、黄味を強めた「ミスター・ローズ」のような花を咲かせる。

 

 作出者はフランシス・メイヤン、同世代の鈴木が「羨望と尊敬と嫉妬が

ないまぜになった感情」とともに仰ぎ見た育種家だった。

 そしてその息子アランがやはり育種家の祖父アントワーヌに捧げたバラがある。

 この花の名を「パパ・メイアン」という。

 

「バラの花弁には、シアニジンとペラルゴニジンしかない。青い花にはある

デルフィニジンがない」。

 ブリーディングを重ねようとも、そもそも遺伝子が青の色素を含まない以上、

願いは届くべくもない。それでもなお、交配を通じて叶わぬはずの夢の具現に

励む人々はいる。

 ただし他方で、バイオ・テクノロジーを通じて、その遺伝子を組み入れる試みを

目指すものもいる。他にもpHコントロールなど、青の発現のネックになる点は

あるのだけれども、そうしたことも含めて、DNA生化学からの達成を目指す。

 最相が原著を上梓したのは2001年のこと、クローン羊のドリーが物議を醸し、

狂牛病が恐怖を喚起した時代。その時点における筆者の関心は、いわばGCAT

4進法による生命科学が人間を包囲する未来。青いバラはその象徴となる。

 そして2018年に『青いバラ』を再読する私は、少し異なる問題軸の時間を生きる。

つまり、01かの二進法によって人間の知能が凌駕される未来がSFを出でて

現実感を帯びる時代。

 

 ワトソンとクリックの発見など知る由もない時代ですら、経験主義によってか、

青いバラには「不可能」のイメージが仮託されていた。

 ドイツのロマン派詩人ノヴァーリス『青いHeinrich von Ofterdingen』。主人公は

夢の中で見た青い花を求めて旅に出る。そして奇しくもその行路は母の郷里へ向かう

道筋でもあった。届いたかに見えた花はその都度彼を遠ざかり、着地点を知らぬまま、

物語はついに未完のまま閉じる。

「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」。

 

 青いバラがある。バラの青という様なものはない。

 この花とて、最相に言わせれば、「青くはない。青を求めてつくったのだといわれれば、

そう感じられる程度の藤色、ラヴェンダー色」でしかないのかもしれない。

 けれども、赤バラの螺旋に吸い寄せられた後、ふとその花に視線を逃がす。

 青いバラがある。果てしなく青い。それがたとえ残像のもたらす錯覚に過ぎずとも。

 背筋がそばだつ。

 この花の名を「ノヴァーリス」という。

他山の石

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:47

「考古学は、学歴のない在野の研究者でも参加できる唯一といって良い学問」。

 このことばを体現する人物がいた。名を相澤忠洋という。「戦前の青年学校

(現在の中学校相当)を出ただけの一行商人だった相澤は、仕事を続けながらも

考古学に没頭。1949年(昭和24)、23歳にして、日本に旧石器時代があったことを

発見した『岩宿の発見』を成した考古学上、伝説的人物である」。

 そしてその後見人を担ったのが芹沢長介だった。彼は「相澤のように学歴のない

アマチュアを積極的に登用して称賛し、『芹沢考古学』ともいえる数々の革新的な

発掘調査を手掛けたため、ついには『旧石器の神様』と呼ばれるに至る」。

 世紀末、その名声が地に堕ちる。「神の手」によるスキャンダルの発覚をもって

芹沢は一転、「捏造事件の黒幕」として世間や学界の糾弾を浴びる羽目に遭う。

「私は当初、相澤忠洋の追う中で芹沢長介という考古学者を知り、……アマチュア

考古学者研究者を登用し、尊重しつづけた芹沢の学者としての魅力に、強く

惹きつけられた。そんな学者が、学問の世界にいたのかと。私にとって芹沢は、

まさに理想の学者像であった。

 しかし前期旧石器の前衛を走り続け、『旧石器の神様』と呼ばれた芹沢ほどの

学者がなぜ、20年間にわたって道化を演じてきた藤村を権威づけ、そして騙され

つづけたのか。専門家なら一目でわかる藤村の偽石器をなぜ見抜けなかったのか。

その答えの一つは、芹沢と長く交流のあった藤村新一に訊ねるほかはない」。

 

 例えばネアンデルタール人の発見は、石灰岩の採掘中に出土した化石が高校教師の

もとへと持ち込まれたところからはじまった。アルタミラの洞窟壁画とて、考古学を

嗜む弁護士によって見出された。

 性格からしてそもそも「開かれた存在」である考古学界がやがて「石の虚塔」へと

変質していく、そんな様子を関係者証言をたどりつつ明らかにしていく。数万年前の

名もなきヒトの痕跡を掘り起こす仕事を汚したのは皮肉にも名を持つことの愚かしさ。

その説がいかなる論拠に従って何を述べているのか、を吟味する批判精神を失えば、

真偽を決するのは発言者のネームヴァリュー次第という政治力学だけがそこに残る。

権威の寵愛を受けた「神の手」の奇跡に一度立ち会った者はそれ以後、妄信的に

研究史のパラダイム・シフトを追認する他なく、その「詐欺」が暴露されれば一転、

「関わった遺跡全てが捏造」と掌を返す。過去の「発見」についての検証能力を

持たなかった学界にまさか「捏造」の検証能力があるはずもなかった。

 極論に踊る多数派を尻目に、追及の急先鋒は意外な証言を残している。

「藤村の石器には、実は本物も混じっているんだ」。

 

 あまりにしばしば「研究者というのは、自分の仮定や研究にあった結果が出ると、

疑問なく受け入れてしまう」。信じたいものを信じる、見たくないものは見ない、

この心性を「石の虚塔」固有のものとすることは到底できない。

 本書は単に「道化師」をめぐるレポートではない。男の出現を必然たらしめた

土壌をはるか遡って発掘してみせる、そこにこそ一読すべき意義がある。

 騙すヤツはもちろん悪い、ただしこと学問の世界においては騙されるヤツも悪い。

有力者の確執などという政治性に翻弄されて「目が曇」った輩に対して注ぐべき

同情の余地などひとつとして存在しない。

 裸の王様に裸だと告げる、そのために理性はある。

 誰がやったのか、ではなく、何をやったのか、どうやったのか。固有名詞や属性を

ひとまず剥ぎ取り、冷静に所与の状況を観察してみる、そんなことの重要さを知る。

終わり良ければ全てよし

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:37

「シェイクスピアのファースト・フォリオ〔第1二つ折り本〕は、現在知られているかぎり、

全世界で232冊ある。わたしは何人かのファースト・フォリオ・ハンターとチームを

組み、10年以上かけて、現存するファースト・フォリオ本をつきとめ、精査してきた。

調査のために、わたしたちは地球上をかけめぐった。その過程で、過去400年間で

盗難や紛失の憂き目にあったフォリオ本についての心奪われる情報の山を発掘

したのである。……わたしたちは世界中でもっとも高額な印刷本の表表紙と裏表紙の

あいだに横たわる、シェイクスピア劇そっくりの、魅力にみちた世界をあきらかにしたい。

その世界には泥棒、黒幕、愚者、変人が住み、このひとびとはみな、憧れのファースト・

フォリオを手に入れるためには、財産も名誉も危険にさらしたのである」。

 

 2008年のこと、米国はフォルジャー・シェイクスピア・ライブラリーに鑑定を求めて

一冊の本が持ち込まれる。「装丁が失われ」おり、かつ「確信犯の何者かによって

個別の本を見分けるしるしをすべてはぎとられてい」た。キューバから持ち込まれた

新発見かと色めき立つも、サイズや書き込み等の特徴から間もなくイギリス北東部の

ダラム大学からの盗難品であることが発覚する。かくして男は御用となる。

 実はこの本、「すべてのファースト・フォリオ中でもっとも長く継続的に同一の

持ち主のもとにあった」テキストでもあった。購入した聖職者の名前から、その彼が

内戦により亡命を余儀なくされ図書館に預けられた経緯まで明らかになっていた。

 そして、この盗人をめぐる法廷劇は英国のタブロイド紙を引きつけた。男は言った。

「この世は舞台」。公聴会の出席に際してあるときは「銀色のストレッチ・リムジンで

乗りつけた。全身、白い衣装で固め、片手にシガー、片手にカップヌードルを持ち、

シェイクスピアの『リチャード三世』の台詞……を朗読しながら」、またあるときは、

「バグパイプ奏者に先導され、馬車に乗ってやってきた」。そんなゴージャス・ライフを

満喫するこの男、「見かけだけの億万長者で、53歳にして一度も仕事に就いたことも

大学に行ったこともなく、労働者階級の住む地域の小さなレンガづくりの家に住んで

いた。同居していたのは、82歳の障害をもった母親だった」。

 

 その盗難劇は公衆の面前で堂々決行された。しかも犯人は時の教皇パウロ六世。

それは「記録されているかぎり教皇が史上初めて演劇を鑑賞した機会だった。……

俳優たちはロイヤル・シェイクスピア劇団の宝物であるファースト・フォリオ本を携え、

終演後、本に教皇の祝福をいただくつもりだった」。そして事件は起きる。「祝福を

与える代わりに、教皇は贈りものとして受けとってしまった。……いったい、どのように

して教皇のあやまりを正せばいいのだろう?」。

 

 とはいえまさか、これほどまでに波瀾万丈な物語ばかりが展開されるわけでもない。

総じて言うと、それぞれの来歴を一冊のテキストにまとめたごく簡潔なダイジェストとの

読後感がどうしても拭えない。この印象がシェイクスピア作品本体より面白い事件を

期待させずにはいないところから来てしまうのだとすればいかにも罪深い。

近くの扉

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:33

「私は要するに、科学に自分を捧げてきた人間なのである。現代医学という手段に

よって人々への治療にあたり、脳と人体の仕組みを探究することを自分の天命と

考えてきた。……ところが2008年の1110日、54歳という年齢で、その運が尽きたと

思われた。稀有な病気にかかり、7日間にわたる昏睡状態に陥ってしまったのだ。

その間は新皮質――人間としての活動を担う機能が備わる、大脳の表面を占める

部分――の全体が活動を停止している。大脳皮質が機能を停止するということは、

それが存在しないということだった。……脳が機能を停止すれば、意識を持つことが

できない。……自分の脳が故障するまでの私であれば、そんなふうに話していたこと

だろう。……この体験に示唆されるものは、言葉ではとうてい表現しきれないほど、

とてつもない内容である。脳や肉体が死んでしまっても意識は消滅せず、人間は

死を超えて経験を継続していくことを、私の臨死体験は教えてくれた。またそのような

意識には、個々人とこの宇宙にあるもの全体に目を配り、行方を見守り続ける神の

眼差しが注がれているという、さらに大切なことを教えられた」。

 

 とても巧みな構成にまずは感心せざるを得ない。

 医師としての知識に基づいた症例記録の臨場感、緊張感にひたすら息を飲まされる。

己の出自、家族を語る率直さにも胸を打たれる。

 しかしこれらの真実味をもって、筆者の主張を無批判的に受け入れるわけにはいかない。

ましてや本書の論述が「医学的観点による分析と、脳科学と意識分野の最新の研究に

かかわる知識にもとづ」くなどという自負を首肯するわけにはいかない。

「意識が肉体を超越している」のが事実だとして、書くということ、読むということが

すぐれて脳と肉体の営為である以上、本書を綴るという作業もまた、脳と肉体の限界を

徹底的に突き詰めたものであらねばならない。だが筆者の叙述を見るに、臨死体験が

論理を「超越している」以上、それを物語る仕方もまた同様に論理を「超越して」も

構わないとでも思っているらしい。

 率直にも、と認めるべきか、臨死体験をまとめた文献を渉猟したことを明かす。

ただし、人間の記憶というのが可塑的だという数多の生理学的意識研究の成果を

知らぬはずもないのにそうした点には触れもせずに、安直に自身の記憶と重ねて、

訴えの信憑性に動員してしまう。

「そうした文献を読んで私が繰り返し感じさせられたのは、時代の別を問わず、語り手が

言葉の制限を受けて表現に苦労していることだった」。

 表現の困難は不存在の証明とはならない、ただしそれをもって表現の正当化として

受け入れることはもっとできない。ましてや量子力学をでたらめな仕方で引いた上での

「もうひとつの世界は物理的に遠い場所ではなく、周波数が異なるところに存在」する

なんて言い草を受け入れることはできないし、「新皮質の電気活動を環境の全体に同調

させることができたおかげで、……脳の物理的な働きが抑制され、肉体を超えた意識を

束縛から解き放つ」ことができるなんていうオカルトに乗ることもできない。

 

「科学的世界観は、“万物の理論”に到達する最短距離であるという考え方に、

われわれは慣らされてきた。そこには霊や魂、天国、神といった領域を受け入れる

余地は、ほとんど残されていない。だが低次の物質世界を離れ、創造主が宿る広大な

世界に旅をした昏睡中の体験は、人間の知識と荘厳な神の世界との間には深遠な

溝があることを、私にはっきりと気づかせてくれたのだ」。

 神の話をする前にその神を名指す紙の話をする、その限界点にようやく神が見える。

アンナチュラル

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 23:34
評価:
ヴィンセント・ディ・マイオ,ロン・フランセル
東京創元社
¥ 2,700
(2018-01-31)

「法医学的証拠は司法の根幹をなすものだ。それは証言の内容を変えることも

なければ、見たものを記憶違いすることもない。裁判所の外に怒れる群衆が

集まっていても怖気づいたりもしない。恐怖のあまり逃げたり口をつぐんだりも

しない。どこまでも正直に率直に、知らなければならないことを我々に告げる。

たとえ、それとは違うことを言ってほしいと我々が望んだとしても。我々はただ、

それを見て誠実に解釈する知恵を持たなければならない」。

 

「完璧な犯罪などというものはない。未熟で不注意な捜査員と、いいかげんな

検死医がいるだけだ」とは、さる往年の名医のことばだという。

 本書が教える検死の実際は、アメドラの世界とはかなり隔たる。『CSI』よろしく

最先端の技術で秘められた真相を探知することもなければ、モーラ・アイルズの

ごとく意識高い系リッチ・ライフを送ることもない。何せ捜査当局にそんな予算が

割り振られてなどいないのだから。それでもなお筆者は力説する。

「私は、1940年代の検死医を現代のモルグに連れてきて、半日ほど最新科学に

ついての研修を受けさせれば、それだけで充分に仕事ができるだろうと心から

信じている。なぜなら、優れた法医学者の一番のツールは今も自分の目と頭脳と

メスだからだ。それらがなければ、どんな最先端科学も役には立たない」。

 そのことを証明するのが本書で紹介される実例の数々だ。ある事件は、白人の

自警団員による黒人銃殺が正当防衛であるか、否か、をめぐって争われた。裁判は

いつしか人種問題へとすり替えられ国論が分断される中でも、筆者に言わせれば、

「法医学的にはまったく複雑ではなかった。悲劇的なまでに単純だった」。

 その論証に「最先端科学」はいらない、「自分の目と頭脳」さえあれば十分だ。

 

 そして筆者は法廷に立つ自らが直面する、あまりに皮肉な現実を告発する。しばしば

「科学的な証拠は、多くの人が聞きたくなかった、そして今にいたるもなお信じようと

しない事実を物語」る。このテキストが取り上げる事例は往々にして挑発的。

人種あり、児童虐待の疑惑あり、音楽業界の超大物が被告人となった裁判にも関われば、

JFK暗殺犯とされる男への陰謀論をめぐり、墓から遺体を掘り返しての解剖にも立ち会う。

 それらのいずれにも共通する点がある。「人は法医学的事実よりも、自分の信じたい

ことを信じる」その態度である。

 ストーリー・マーケティングの他に見るべきもののないV.ゴッホの死をめぐって

想像を巡らせるのはいいだろう、荒唐無稽な空論で世間がどれほどどよめこうとも

ただオークショニアが喜ぶだけ、もはや誰が傷つくこともない。

 しかし、「論理的思考」ではなく感情で人が裁かれるとなれば、話は変わる。

そしてそのことが、推理の快刀乱麻を超えて、読者の手を不意にフリーズさせる。

フィクションならばまず間違いなく、主人公の明らかにする真実を前に登場人物が

ひれ伏して、物語は決着を迎えるだろう。しかし現実は時としてそうはいかない。

 そんな狂気の法廷を前にして、それでもなお法医学者の矜持が語らせる。

「私の患者はもう苦しんではいないが、その多くが裁きを求めている。彼らを生き

返らせることはできないし、最後の別れを言う時間すら与えられない。だが、私には

正しい裁きを与えることができるのだ」。