かんこれ

  • 2020.02.21 Friday
  • 22:25

「和歌とは、人の心を起源として、さまざまな言葉になったもの――貫之は歌の

成り立ちを『こころ』と『ことば』という二つのタームによって説明しようと

しました。本書でも、貫之の言う『こころ』と『ことば』を、『古今集』の歌に

ついて考えるための一対のキーワードとして、この二つを関連させながら、

『古今集』の魅力を解き明かしていきたいと思います。

〈型〉は、私が選んだキーワードです。『古今集』を読むときに、現代の私たちが

当惑を感じることの一つに、同じような表現、発想に基づいた歌が延々とつづいて

いることが挙げられるでしょう。たとえば、『梅』の枝に止まっているのは

必ず『鶯』ですし、暦の上で夏が訪れると人々はこぞって『時鳥』を待つ気持ちに

なってしまう。そうしたことが、実に似通った言いまわしによって歌われています。

つまり『古今集』の歌には――これは古典和歌と言い換えてもよいのですが――

『こころ』においても『ことば』においても、個人の創作の前提となる共通の

〈型〉が厳然として存在しているのです」。

 

 桜といえばとりあえずはかない。晩春が訪れれば、藤の花の散りゆくさまと

松の常盤の対照を見立てる。七夕が来れば逢瀬について一通り嘆く。

宮廷の歌会ともなれば、やんごとなき人には無条件にやんごとなき人として

長寿と繁栄の祈りを捧げる。「あしひきの」や「むば玉の」をはじめとした

枕詞の形容表現としての妥当性など片時たりとも疑われようはずがない。

 嫌がらせをサービスと言い換えるがごとき婉曲表現の技法に従って、

人は一連の定型文を指して普遍性などと軽々しくも呼称してはばからない。

そして真相はおそらく違う。「こころ」は〈型〉に先行しない、否それどころか、

「こころ」を措定すべき論拠すらない。クリシェを想起することでしか、

およそ感受性などというものは作動しようがない。桜がはかないわけではない、

はかないものとしてインストールされたテンプレ処理でしか桜を知覚できない。

散る花は決して雪に似ない。ただ〈型〉に踏襲すべきコードがあるだけ。

 誰も桜など見ていない。

 

『万葉集』に詠まれた百首強の梅の歌のうち、香りについて言及したのは

わずか一首。対して『古今集』においては十七のうちの実に十三首もが

香りを主題として取り上げる。

 まさかこの間に、動物的な進化が嗅覚を研ぎ澄ましたはずはない。

筆者は「薫香の文化が貴族社会に広がったこと」をその要因に挙げる。

 誰かが〈型〉を作ったわけではない。コンテクストが〈型〉を作る。

 あとはその発見を待つだけだ。

 

 サンチョ・パンサを従えたドン・キホーテは決して遍歴の騎士ではあれない。

農夫の手による注釈は、英雄を瞬時に道化へと上書きする。

 本書の成功は、キュレーターとしての紀貫之を強調することで、図らずも

『古今和歌集』の〈型〉を浮上させた点にある。よみ人の三十一文字が

いかなる美を湛えようともそれが何を指し示し得ようか。受け手を持つことで

唯一、〈型〉は〈型〉として実在を得ることができる。さもなくば、知られざる

傑作は知られざる傑作のまま、後世に継がれる資格を喪失する。

 そして〈型〉によって見出されるだろう、「ことば」をめぐる相互作用の

現実はまこと残酷、すなわち、人間が交わし得る情報交換に、哀れなほどに

陳腐で退屈なクリシェを超えるものなど決して含まれることがない。

 そのファクトを知ることにこそ、現代にあえて古典と交わるべき理由がある。

 仮に国民文学なるものが可能だとすれば、凡庸をもってその唯一の要件とする。

生成文法

  • 2020.02.16 Sunday
  • 20:23
評価:
インゲボルク・バッハマン
岩波書店
¥ 946
(2016-01-16)

「人生で三十番目の年を迎えても、人々は彼を若者と見なし続けるだろう。

しかし彼自身は、何か自分に変化を見いだすわけではないにせよ、確信が

持てなくなってくる。自分には、もう若いと主張する資格はないような気が

するのだ。(中略)それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら

違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、

たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。(中略)いまのように、

三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも

恐れなかった。『アクション』の声がかかり、自分がほんとうに何を考え、

何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに

大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、

ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、

自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるを

得なかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

 彼は考えもしなかった……」。

 

 果たしてこの作品群を詩と呼ぶべきか、小説と呼ぶべきか、当惑を抱かずには

いられない散文体。あえて挑発的な物言いをすれば、書き散らかされた何か、

とりわけ表題作「三十歳」については。時間経過らしきものは刻まれてはいる、

放浪の地も転々と移りはする、けれども実のところ、何が変わっているでもない。

 たとえば、「彼」の若き日々を振り返ってのパートタイマーが羅列される。

「食事と引き替えに生徒たちに補習授業をし、新聞を売り、一時間五シリングで

雪かきをし、合間にソクラテス以前の哲学を勉強した。(中略)新聞社では

歯科用のドリルについて、双子の研究について、シュテファン大聖堂の

修復作業についてルポを書かされた」。

 あるいは原著でならば、韻律なりの文法的な必然があるのかもしれない、

だがあったとしてその程度、「彼」の人生にそれ以上の何があるでもない。

全編を通じて展開されるものといえば「可能性」のサンプルに過ぎない。

果たしてランダムピックのどこに物語を認めることができるだろう。

 ただし、奇しくもその点が、「三十歳」にただひとつの物語を宿す。

「新しい言葉がなければ、新しい世界もない」。

 本作はただこの宣言を引き出すべく綴られる。既存の「言葉」の規定する

「千と一つあった可能性」、つまりは既存の「世界」、彼があてどなくさまよう

「世界」ではなく、「新しい言葉」、「新しい世界」を欲する。

 

 そしてその期待は裏切られる。

「自分は何にでもなれる」、つまり、「何か」にしかなれないのだから。

 ある意味で、本作は「彼」と「ぼく」を、そしてあるいは友人モルの存在さえ、

不規則な仕方で入れ替えることで、その点を鮮やかに証明してみせる。

「ぼく」だろうか、「彼」だろうが、つまり「何か」でしかないのだから。

何をどこに代入しようとも、それは文法のはしためを決して超えない。

 人間の性質が否応なく「言葉」を規定する、今改めてN.チョムスキーの

「生成文法」論を引き出いに出してみる。E.カントのカテゴリー論とも

プラトンのイデア論とも異なって、彼の学術的な急進性の一つは、

「言葉」を通じて規定される人間の側ではなくむしろ、「言葉」の側にこそ

自律性を認めたことにある。

 三十歳の「彼」の呻吟は、「可能性」をいかなる仕方においても変えない。

ただひとつ、「言葉」が変われば「世界」も変わる。

Make America Great Again

  • 2020.02.08 Saturday
  • 22:39
評価:
スティーヴ エリクソン
筑摩書房
¥ 1,540
(2015-10-07)

 主人公ザン(アレギザンダー)は小説家、とはいっても最後の発表からは

既に10年以上が経過している。リビングのテレビが映し出すのは、合衆国

史上初の有色大統領の誕生。膝の上に座るのは人類のルーツ、エチオピアから

引き受けた養女シバ、ご贔屓の白人対立候補が敗北したことにどこか不機嫌。

 ザンは記憶を呼び起こす。それは彼がまだ学生だったころのこと、

democracydemocrazyに変わった刹那、候補者に熱狂する人ごみに

押しつぶされかけた彼の手を黒い腕がさっと掴み、そして救い出す。

褐色の若い女の眼差し、瞳のグレーを彼は瞬間焼きつける。

 

 政権交代を引き起こす契機となった金融崩壊は、ザンの家計にも重篤な

影響を及ぼす。月額2800ドルの住宅ローン返済は6500ドルにまで膨らみ、

どころか糊口をしのぐ大学非常勤講師の職すらも失うことになりそうだ。

 そんな危機を知ってか知らずか、妻ヴィヴの元恋人からイギリスの大学での

集中講義の依頼が届く。主題は「衰退に直面する文学形式としての小説」。

報酬3500ポンド、焼け石に水、でも彼は息子と娘を連れて英国へと向かう。

 妻はといえば、エチオピアへと旅立った。目的はシバの母の足跡を追うこと。

合流の約束も虚しく、彼女は間もなく消息を絶つ。

 彼のもとにシッターとしてモリー、『ユリシーズ』のヒロインと同じ名前、

シバと同じルーツ、が現れ、そして間もなくシバを連れて姿をくらます。

 

「エチオピアが独自の時間帯を発明したというのではなく、エチオピアの

時間帯がオリジナルな時間、つまり、他の時間帯がそれを参照して時間を

決めるような時間なのだ。シバは、ロサンジェルスにやってきて数週間の

うちに英語をマスターしたが、一年以上たっても、時間の概念は彼女の

頭に入らなかった。時間に関する用語を理解しないのだ。『明日、みんなで

公園に行くよ』と、ザンが言う。

『オーケー』と、シバが言い、数分後には、『パピー、行こう』と言うのだ」。

 本作はすべてこのルールに従って書き進められる。

 あるいはそれは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を想起させる。

 時の流れや因果さえもがしばしば脱臼を来したまま、例の未来学とやらが

言うように、無数の選択肢の枝分かれが編み込まれ、綾をなし、あまりに

ご都合主義的な結びつけを経つつも、やがてとある「名前」へと収束する。

一見、無時間的な仕方で撚られる糸は、それでもなお歴史に縛られることを、

あるいは歴史を縛ることを片時もやめない。

 

「一人じゃ、何も変えられない。少なくとも、私には無理だ。私は偶然に

生まれた子にすぎない。だが、偉大でない人間でも、偉大なことをしようと

試みなければならないときもある。……私は自分が怖いと思うことをします。

なぜなら誰かが何かの一部を変えることはできるし、そうした何かの一部が

別の一部を変え、やがて湖のさざなみが水辺まで届くのだと思うからです」。

「変える」ことを放棄して、このうんざりするような世界を「変え」てくれる

誰かを求めれば、その「さざなみ」からファシストは生まれる。

 ファシストが世界を壊すわけではない。

 壊れた世界だからこそ、ファシストが現れる。

 

 この小説が幕を下ろし、それに代わり読みはじめたテキストの冒頭から

安部公房『第四間氷期』を重引する。

「残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だという

ことで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にある

のではなく、むしろ断絶を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」。

『きみを夢みて』の要約として、たぶんそう遠からぬところにある。

 この符合、果たして偶然か。

It's gone

  • 2020.02.08 Saturday
  • 22:32
評価:
堀田 典裕
名古屋大学出版会
¥ 5,280
(2018-05-30)

「本書のタイトルにある〈モータウン〉は、一般的には、20世紀に自動車を

製造する都市を表す言葉であるが、ここでは、自動車の存在とその交通

システムによって創り出された環境もまた、このように呼ぶことにしたい。

すなわち本書は、20世紀後半の環境を『クルマの、クルマによる、クルマの

ためのマチ』、言い換えれば『クルマとともにあるマチ』として捉え直し、

そのデザインを通覧することによって、家具・建築・都市・造園・土木からなる

諸分野を横断し、現代社会における持続可能な発展を目指すための

環境デザインの可能性を問い直そうとするものである」。

 

 その賛否はどうあれ、巨人ジェイン・ジェイコブズをめぐるサブテキストと

決め込んで手に取ったものの、早々に様子が違う。

 群馬は富士重工のお膝元、太田の自動車工場群はそもそもが戦時下の

軍需産業からの転用、日産の座間や村山は「防空空地」のコンバート、

追浜の場合は海軍からの払い下げ、とことごとくが戦後社会の構造転換、

「平和的再利用」を示唆してやまない。この掴みで気づかされる、

本書は一介のモータリゼーションではない、戦後日本の風土史なのだ、と。

 建築、といっても本書は定番の郊外化を主題とはしない。車体づくりの

各種ノウハウがスピンオフしてプレハブ工法へと持ち込まれた、そんな建築。

そもそもが「個」なる空間概念の導入を促したのが、巷間語られるソニーの

ウォークマン以前にマイカーだったとしたならば――いかにもざわめく。

 

 頻出する名前を挙げれば、丹下健三、黒川紀章、坂倉準三といった、

近現代都市史ではごくごくおなじみの面々が並ぶ。たぶん従前の議論と

比べても、そこまで手薄なニッチばかりを掘っているわけでもないだろう。

 でも、本書のバイアスがその見え方を少しだけ変える。

 

 そして何より本書を特徴づけるのは、フェティシズムにも似て、

どこか無機質ですらあるカタログ性。ガソリンスタンドやディーラー、

「消費環境」といった〈モータウン〉のサンプルが、とにかくひたすら

書き連ねられていく。カラーグラフもなく、解像度に秀でるでもない、

回顧でもなく、懐古でもなく、あからさまな意図が見えてこないことが、

かえって対象をあからさまに現前化させる。

 ポスト・モダニズム、ポスト・フォーディズムの一回答を垣間見る。

ヤングアダルト

  • 2020.02.05 Wednesday
  • 21:59

 ファウストよろしく知に倦み果てたヴィクター・フランケンシュタインは、「時間の

流れを遡り、知識の足跡を逆にたどり、……忘れられた錬金術師の夢を求めた」。

解剖学に魅せられたダ・ヴィンチをなぞるがごとく、「堂々たる体格の男が朽ち果て、

無に帰していくさまを眺め、生命の徴候を宿した頬が死の腐乱に乗っ取られる

ところを見守り、驚異の結晶とも呼ぶべき人間の眼球や脳を蛆虫が食いあさる

様子を凝視しました。……こうした観察から得られた、生から死へ、死から生へと

転じる原因と結果と思われるものを、どんな些細なものも余さず詳細に分析し、

検討し続けたのです。そうするうちに、この先も見えぬ漆黒の闇の彼方から突然、

ひと筋の光明が射してきました」。

 そうして彼は怪物を生み出した。

 

 原子力やAIを典型に、人智にして人智を超えた制御不能なモンスターを

科学に重ねる、そんな読み方もできるだろう。ある時代においては、肌の色に

根拠を置いた人種差別の悲哀が投影されることもあっただろう。現代ならば、

リチャード・ジュエルがやがてジョーカーへと変じる、そんなローン・ウルフの

原型を見て取ることもできるかもしれない。

 だが、本書においてまず観察されるべきは、アダマ(土)に息を吹き込む

ことで己が似姿に生命を注いだ物語を重ねることで神に比肩し、神を失い、

ただし全知全能の属性を欠いた近代自我の帰結に他ならない。

「ああ、神よ! あの怪物の悪魔のごとき企みにどれほどいまわしい意図が

隠されていたことか、ほんの一瞬でもそこに考えが至っていれば、……自ら祖国を

永遠に去り、友もいない孤独な世捨て人となってこの地上をさまよい続ける道を

選んでいます。けれども、これもまたあの怪物の魔力のせいでしょうか、わたしは

眼をふさがれたように、あやつの真意を読み取れなかったのです」。

 神託を辿る他ないわが身を嘆くオイディプスならば、物語をそこで閉じることが

できただろう。しかしフランケンシュタインの眼前にもはや神は残されていない。

「慰めを得る手段」は唯一、「孤独と錯乱から生まれ」る、ノスタルジアなるものが

すべからくそうあるように。恋しきエデンの記憶すら有無すら知れぬ辿り着き得ぬ

彼岸でしかなく、やがてヴィクターが看破する通り、イヴはアダムを癒さない、

今、ここを共有可能な主体であることがもはやできないのだから。

 再帰型近代の磔にされた彼が向き合うことを許されるのはもうひとりの「わたし」、

怪物の他に何もない。この独白体で構成される小説の巧みは、ヴィクターと怪物が

ともに「わたし」を主語にとることで図らずもその同一性を明かすことにある。

「わたしが為さねばならぬのは、この手で創り出した怪物を追いつめ、滅ぼす

ことです。それが終われば、この地上でわたしに与えられた運命は完結した

ことになる。そのとき、わたしも死ぬことができるでしょう」。

 すべてエロスはタナトスを通じてのみ規定される。

 ここでもまた、フロイトは偶発的に真を衝く。