ヴァージン・スーサイズ

  • 2017.05.25 Thursday
  • 21:52
評価:
シャーリイ・ジャクスン
文遊社
¥ 1,944
(2016-08-23)

 冒頭、主人公のナタリーは、ホーム・パーティを控えて口論にふける両親をよそに、

空想を遊ばせる。刑事からの執拗な取り調べ、どうやら恋人を殺した廉で詰問されて

いるらしい。いつものことだった。彼女は「17歳だったが、もう15になったころから、

ほんとうの自覚が生じたと思っていて、日々聞こえる両親の声と、二人の理解しがたい

行動が及ばない別の音と視界の世界の片隅で生きてきた」。

「わたしが神さまかな」、そんなジョークもジョークにはなり切らない抑圧的な父と、

振り回されて疲弊した母。彼女は娘に言い聞かせる。「自分の時間の大半を何に

費やしているかといったら、昔はよかったと懐かしんだり、またよくなるのかしらと

疑ったりすることばかり。……結婚する相手には気をつけなさい。お父さんみたいな

人には絶対に近づいちゃ駄目よ」。

 やがて家族を離れて、大学進学を機に入寮するも、やはり居場所は見出せず……。

 と、そんなある日、彼女はトニーと出会い、そこから運命は急展開する。

 

「おそらく――そしてこれは彼女がもっともこだわる考え、彼女に取りつき、折々に

いきなり彼女を悩ませたり慰めたりする考えだったが――もし、実は自分が女子大生で

アーノルド・ウエイトの娘のナタリー・ウエイト、奥深くも美しい運命の子でなかったら

どうだろう? 自分がほかの誰かだったらどうだろう?」

 そして例の世界から不意に引き戻されて、否応なしに気づかされる。

「しかし、一瞬で過ぎ去ってしまうこういう感覚以上に悪いのは、おそらく現実には

自分は女子大生でアーノルドの娘のナタリー・ウエイトにほかならず、この世界の

堅固さを無視するわけにもいかないまま、厳然と存在する陰鬱なそれへの対処に

迫られるという恐ろしい確信だった」。

 この世界に存在することそれ自体すらも、否定せずにはいられない。

 寄る辺なき過剰な自意識を描く、たぶん、典型的な愛着障害の手記。

 

 この訳者、『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹The Virgin Suicides』の翻訳を

手がけた方でもあるらしい。文体的なものもあるのだろうが、どこか読後感も似る。

 パターナリズムの失敗ゆえか、うまく世界になじめない少女の記録。

 悪い小説とは思わない。少なくとも『ヘビトンボ―』よりはよくできている。さりとて、

この手の類書の中で傑出した何かがあるとも見立て難い。空想か、現実か、迷える

ナタリーのそんな境に没入できなかった私にはどうにも間延びした感が振り払えない。

 C.マッカラーズの名作『結婚式のメンバー』とは、残念ながら、比ぶべくもない。

Yours Truly

  • 2017.05.25 Thursday
  • 21:44

「ここ十数年の音楽業界が直面してきた『ヒットの崩壊』は、単なる不況などではなく、

構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。

『モノ』から『体験』へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが

普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化に

よって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての『ヒットの

方程式』が成立しなくなってきたのである。

 本書は様々な角度から取材を重ね、そんな現在の音楽シーンの実情を解き明かす

ルポルタージュだ」。

 

「史上最もCDが売れた年である1998年に比べ、2015年の音楽ソフトの生産金額は

40%に過ぎない。6074億円から2544億円へ。この17年でおよそ3500億円の市場が

失われた計算になる」。

 とはいえ、こうした数字を論拠に、音楽業界が時代の動向を掴み損ね、取り残された

証左だ、などという安直な結論を本書は引き出すものではない。それどころか、こうした

数字こそが、音楽シーンと社会の連動性を示唆するものに他ならないことを主張する。

 

 上記の通り、CDは売れなくなった。しかし、それだけの金が音楽コンテンツの消費から

まるまる消え去ったわけではない。「CDよりライブで稼ぐ時代になっているのだ。……

2015年の音楽ライブ・エンターテインメントの市場規模は3405億円。2010年からの5年間で

2倍以上に市場が拡大した」。

 この背後にあるのは、いわゆる「モノ」から「コト」への体験消費マーケティングの隆盛、

いみじくもライブ市場は恰好の仕方でそれを体現する。

 そしてその風景はしばしば、「参加型」の体験として実践される。会場内の聴衆に配布

された無線型ペンライトやLEDリストバンドを「主催者側が無線通信を用いて光の点灯や

点滅、色の変化を制御」することで、客席が視覚的にも「曲や照明や映像と連動」して、

その結果「強い一体感が生まれる」。

 

 とはいえ、本書の骨子というべき社会構造の転換をめぐる議論に別段新しい話が

観察されるでもない。率直に言えば、既知のフォーマットを音楽業界に落とし込んで、

それをおさらいしただけのテキストという以上のものではない。

歌を忘れたカナリヤは

  • 2017.05.19 Friday
  • 21:50

 何にどこで線を引くのか、それはあたかも共謀罪を予告するように。

 

「警察官が捜査対象であるヤクザを知らない。そんなことがあるのか……。

暴力団対策法(1992)、続く各自治体による暴力団排除条例(暴排条例)の

施行以降、警察官は暴力団の内部に協力者を作りにくくなった。つまり、

濃密交際を疑われるのを避けようとしている内に、暴力団組織の内情に

疎くなったというのだ。しかし、捜査第四課の警察官の対象は暴力団だ。

実態がよく分からないのに取り締まる。……どういう対象を、どう取り締まろうと

しているのか。それは、私たちがどういう社会を作ろうとしているのかに

関連している」。

 

 笑いとは緊張の緩和、と定義したのは確か桂枝雀だった。

 ヤクザという極大の緊張を強いられる取材対象ゆえか、思わぬ笑いが時に襲う。

「小指もなく刺青もバッチリ入れている」ヤクザに好きな本を尋ねると「刑事モノ」、

「悪が懲らしめられるストーリーがスカッとするのだそうだ」。本棚に差し入れの

ストックが並ぶ。『世界の猫カタログ』、『犬と私の10の約束』。「刑務所の中では

癒しが欲しくなるでっしゃろ」。目覚まし時計はサンリオのマイメロディ。

 取材に応じた暴力団の系列の親族が亡くなる。葬儀の模様をカメラに収めようと

すると、「参列者たちはいっせいにこっちをギロッ、一気に物々しい雰囲気になる」。

そして思う。「この場から消えてなくなりたい」。

 山口組の(元)顧問弁護士の事務所を訪問する。悪徳を想像し、身構えていた。

なのに、「気がついたら本人が出演しているヤクザ映画のDVD観賞会になって

しまっていた。しかも驚くべきことに、弁護士役ではなくヤクザ役で出ている」。

 そんな中、なんとも「不思議なやりとり」が紹介される。

 ヤクザが買ってきた200円のたこ焼きの相伴にあずかるのは利益供与なのか。

押し問答の末、コンプライアンスを恐れて実費を支払う。

「同じ人間として僕は、ヤクザとしておごってんとちゃいますよ。……人間やないやん

俺ら。人間の扱いちゃうで。なあ、そんなひどいこと言わんでよ。差別や」。

 

 本書が閉じ込めてしまったものは、単に笑いを越えた、名状しがたい何か。

 ドキュメンタリーの最高の愉楽とは、取材する側、される側、観賞する側、される側、

そんな境界がふと消失する瞬間にある。気づいてみれば本書においても訪れていた、

ヤクザをめぐるあちらとこちらが揺らぐ瞬間。

「取材に入る前は、ヤクザというのは悪の道を極めたワルがもっと悪いことをするために

なるのだと思っていたが、それは違っていた。私たちから見れば信じがたいのだが、

ほとんどのヤクザは成り行きでこの世界に入ってくるのだ」。

 先の弁護士も言う、「もう引退したいが、付き合いで仕方なく続けている」。

 誰しもがどこかしら「成り行き」で「付き合いで仕方なく」、気づけば何かになっている。

人間って、そんなもの。ヤクザとてその例外ではない。

 けれども彼らは銀行口座を開けない。脅迫罪のリスクのため、名刺交換さえできない。

子どもを学校に通わせることすら難儀する。

「人と人とが会ったらなにかの矛盾生まれてくるやん」。

 需要は供給に先立つ。たとえ暴力団を制圧できたとしても、そんな社会的要請が

消えてくれるわけではない。

 そして辞めたところで、「どこで受け入れてくれる?」

 

 つい先日、ラジオで聴いた短歌から。詠み人、鈴木美紀子。

 

  容疑者にかぶされているブルゾンの色違いならたぶん、持ってる

バタフライ・エフェクト

  • 2017.05.19 Friday
  • 21:47

 主人公ジャズはインド出身のクオンツ、両親は敬虔なシク教徒、対する妻のリサは

ユダヤ系白人。そんな「文明の衝突」の末に生まれた息子のラージは自閉症。

 閉塞した夫婦仲を改善するため、NYを離れ西部へと旅に出るも、口論は絶えず

リサは一夜を外泊で過ごす。翌日、仲直りのため砂漠の国立公園内、巨大な岩山、

通称ピナクル・ロックを訪れ、そしてそこでラージが消える。

 

「問題の核心は、希望対測定の闘いになった」。

 リーマン・ショック前夜、ジャズがウォール街で挑むのは、ビッグデータを紐づけて

世界を計算するコンピュータ・プログラムの開発。「バクー・トビリシ・ジェイハンと

ドゥルージバのパイプラインを流れる石油の量、オーストラリアにおいて人種がらみで

起きた傷害事件の件数、コンゴ民主共和国における紛争に関与しないコロンバイト・

タンタライト鉱石の産出量、同地域におけるマールブルグ出血熱の発症数、日経で

毎時間取引されるハイテク株の数……」そんなデータを叩きこまれたコンピュータを

前に、「全てが全てに結び付いているように思えた」。

 対するリサは藁にもすがる思いで、わが子の矯正を望む。原因を突き止めるため、

症状を改善するため、ひどく怪しい療法に加担するも、効力などあるはずもない。

しかし「非難の矛先はジャズに向かった。治療がうまくいかないのは彼のせいだ。

もしも彼が信じていれば、本当に信じていれば、うまくいったかもしれないのに」。

 

 そんな家族劇にピナクル・ロックをめぐる記憶が交差する。

 それは例えばUFOがこの地に飛来したことを信じる集団、「光る男の子。宇宙から

来た子」をめぐる伝説。あるいはより古く1920年、先住民の男が白人少年を連れて

砂漠の奥深くへと入っていく。「とりわけ不思議なのは、その子供自身が光の源に

見えたことだ」。

 そして上空を轟音とともに飛行機が往来する。中東派兵に備えて、米軍基地が

その地に拠点を構えていた。

「全てが全てに結び付いている」。

 

 不合理ゆえに吾信ず。

 世界の根源的な不可知性について。

 やりたいことは分からなくはない。私の把握できていないオマージュや暗喩が多々

含まれているに違いない。

 しかし、本書の試みは総じてみれば、荒唐無稽なオカルトに堕してしまっている。

 世界の底が抜けている。人間には限界が横たわる。なるほど、そうなのだろう。

 ただしそのことは、例えば「自分より上にあるものを知ろうとしてはならない。自分より

下にあるものを知ろうとしてはならない。自分の前にあるものを知ろうとしてはならない」、

そんな命題にひとつの肯定の余地をも与えるものではない。

おもてなし(笑)

  • 2017.05.19 Friday
  • 21:35

「本書のテーマは、80年もの歴史を持ちながらも、過疎化や自動車社会へのシフトと

いう逆風の中で、地元では廃止の噂まで囁かれていた五能線がどのようにして

奇跡の再生を果たしたかである。

 逆風にさらされていたローカル線が、地域の自治体やコミュニティを巻き込み、

自助努力で『日本で一番乗りたい』と言われる存在になった。その再生の道筋を

たどり、復活の鍵を解き明かしていくのが本書の狙いである」。

 

 表題こそ『五能線物語』、ただし筆者は華麗なる経歴を誇るコンサルタント、

結果的に出来上がったのは、矮小化された抽象的なコピーの実践集。

 例えば「田園の秘境駅」、しかし本書にその魅力を伝える意欲があるようには

とても見えない。「『何もない』も価値となり得る」、そんなお題目を唱えるための

サンプルとしか、少なくとも私には映らない。

 全編がことごとくこの調子。「『ハード』と『ソフト』を組み合わせる」、「リワイヤリング」、

「ピンチこそチャンス」、「規律と自由の両立」……。

 いったいどこの意識高い系セミナーだろう。

 

 ホスピタリティを論じるサルが自ら実践した例が世界史に一度でもあるのだろうか。

 本書がなんとも耐えがたいのは、こういうクズのどうしようもない口車の材料として

現場の誠実までもが蹂躙されてしまう点にある。

 

 集大成としての道の駅がいみじくも示す、ステレオタイプをコンプリートしたいという

カスタマー・サティスファクションのアチーヴメントを目指して、過剰にデフォルメされた

ローカリティの押し売りとしての現代型地域再生、観光産業。

 こういうゴミみたいな話を束の間忘れるために旅ってするものなんじゃないの?