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  • 2018.05.29 Tuesday

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    襟裳岬

    • 2018.05.29 Tuesday
    • 22:43
    評価:
    八木澤 高明
    スコラマガジン
    ¥ 1,944
    (2015-10-23)

    「青線とは非合法な売春地帯のことを言う。……私は日本各地に点在する青線を

    2001年から歩きはじめた。経済活動である売春は、景気低迷のあおりを受け、

    年を追うごとに青線は寂れていき、青線があると聞き訪ねてみたが、すでに駐車場や

    更地となってしまっていて、痕跡のない場所も少なくなかった。この旅は、曖昧模糊と

    して、記録に残っていない青線を巡るということもあり、人の情報だけが頼りで

    闇の中を行灯なしで歩くようなものだった」。

     

    「売春は人類にとって最古の職業」。現代の青線巡礼はその真実味を知らしめる。

     セックス産業の需要が消えるわけでもない、女がいれば営めるのだから参入障壁も

    低いといえば低い。にもかかわらず、青線は朽ち落ちた。

     つまり、その街から人が消えたから、その街から金が消えたから。

     この経済原理を露わにした青線地帯が山形は東根にある。神町という。過疎化した

    田園地帯には場違いの、堂々たる駅舎を構える。海軍予科練の航空基地の一部を

    接収した米軍が、1947年に物流拠点として設けた建物だった。進駐を間近に地域の

    警察署長は講演で説いたという。曰く、「何を話しかけられても決して口をきいては

    いけない。向こうの人は、愛人以外に笑顔を見せない。下手に笑ったりすると、これは

    OKの意思表示だと間違えられてひどいめに遭う」。いざ彼らが村に舞い降りた当日、

    「町の中は静まり返り、人々は押し入れの中に隠れ、米兵たちが通り過ぎるのを息を

    殺して待った」。そして程なく、パンパンが神町に押し寄せた。

     

    「遠洋漁業華やかなりし頃、東京以北最大の歓楽街と言われていた」函館の若松町、

    一発屋通りを訪ねる。小料理の看板こそ掲げてはあるが、いわゆるやり手ババアが

    売春を斡旋する拠点でしかない。カレンダーに丸印が記されていた。警察の摘発が

    入った日を記録したのだと言う。「お客より警察のが多いね」。

     店主の話に耳を傾けつつ、出された缶コーヒーをすする。店内をBGMが包み、

    会話が止むと女性歌手の声だけが響く。「華やいだ空気の中でこの歌を聞くと、心が

    落ち着いてくる歌だと思うのだが、寒々とした場末の売春街でこの歌を聞いていると、

    いたたまれないような気持ちになってくる」。

    「襟裳岬」だった。

     これがフィクションの挿入歌なら、あまりの捻りのなさに苦言のひとつも出るだろう。

    駄作を極めたようなこの演出が、ところが一周して二周して、もはや時代から置き去りに

    された末、比類なき説得力をもって迫る。

     夏草や兵どもが夢の跡。経済成長の蜃気楼としての青線なる磁場がそうさせる。

    あいまいな日本の私

    • 2018.05.29 Tuesday
    • 22:38

    「波瀾万丈というにふさわしい人生だが、毀誉褒貶が相半ばする評価のなかで、

    生前から国民画家としての揺るぎない地位を築いていた。大観を巨匠にしたのは

    どうやら国民、ということになるようだ。もう少し正確を期すならば、近代日本における

    国民国家形成を背景に醸成された国民的一体性(ナショナル・アイデンティティ)で

    ある。……では、それほどまでに人を惹き寄せる、大観の絵の魅力とはどこにあるの

    だろうか。代表作を多数カラー掲載し、つぶさにその生涯を振り返る本書は、その

    答えを見つけるまたとない好機である。……大観の生涯と作品を、同時代思想の

    なかに位置づけながら、『時代』『思想』『表現』から読み解いていこうというのが

    本書の狙いである」。

     

     岡倉天心というメンターとの出会いをはじめとした、大観の履歴についてはもはや

    ほとんど語り尽くされていることだろう。別に本書は未知の史料発掘に基づいて、

    旧来の議論を一変させるようなテキストではない。

     むしろ本書において注目せねばならない点があるとすれば、筆者の意図とは裏腹に、

    「国民的一体性」の醸成の不首尾としての横山大観に違いない。

    「大観は戦後も富士、旭日を描き続けた。しかもそれは膨大な数に及んでいる」。

    この事態に筆者は「自己模倣の虜という暗黒面」ではなく「歴史の必然」を読み解く。

    「つまり、アメリカ民主主義的な新秩序が現れた一方で、新たなる日本を支えるための

    国民精神も依然として必要とされたのであり、国は破れながらも国を守る砦は元のまま

    そこに在るという状況にあって、大観は積極的に富士や旭日を描いた」。

     奇しくも明治元年の水戸に生を享けた大観が富士に仮託した「国民精神」とは何か。

    「美的・倫理的権威」としての天皇に他ならない。

     あるいは大観の記号体系解釈として、この議論は的を射たものなのかもしれない。

    しかし、受け手である広く国民一般にそのリテラシーが横たわっていることを、戦前から

    「今日にいたるまで国民的支持を受け続けている」ことを論拠としてその証明に変えて

    しまうような危うい論理展開に同調するわけには到底いかない。

     その脆さは、天心と大観が構築せんと希求した「日本画」概念の対立軸としての

    西洋画の伝統を参照すれば即座に理解できよう。つまり、聖書や神話のアトリビュートを

    教養としてシェアできる共犯関係が、パトロナージュの文化の下、生産者と消費者の

    ごく狭いサークル内で成り立っていたのがヨーロッパ絵画史であるのに対し、一足飛びに

    国民を射程に教養からの「日本」構築を目指した大観は、漢詩等に広くモチーフを

    求めつつも、その仕事に残念ながら頓挫する。

     そのことは筆者が先行書に従いながら、「気魄」「情熱」「愛国」「日本精神」などと

    いう曖昧極まる仕方でしか語れないことによって無二の証明を得る。これらの語の使用を

    規定するコンテクストを一体誰が共有できているというのだろうか、それはあたかも

    「天皇」なる概念がそうあるように。

     いきおい筆者の図像解釈も、自身のテリトリーへと呼び込むことで、「国民的一体性」の

    欠如を逆説的に表すことしかできない。その極北が「離見の見」なる議論に露呈する。

    大観が直接に言及したわけでもない能楽論――これも例によって何の具体性もない――

    を引きつつ、「能という演劇との共通性を指摘した論考は見当たらない」と嘆きを漏らす。

     筆者が自らの破綻に気づく素振りはひとつとして見えない。

    AIは青いバラの夢を見るか

    • 2018.05.23 Wednesday
    • 00:00

     

     この花の名を「ミスター・ローズ」という。

     2013年春、鈴木省三の生誕100年を祝して捧げられた。

    「日本にもバラがあるのですか」、そんな侮辱を乗り越えて、世界の園芸界に

    極東の存在を知らしめ、かのニックネームを獲得するに至る。

     

     この花の名を「ピース」という。

     1945年、大戦の終結にあたって、願いを託すべく改めて命名を受けた。

     博覧会の展示依頼を受けて輸入した実物をはじめて見た鈴木は驚愕する。

    「大きな花びら、柿の葉のような頑丈な葉、親指ほどある太い茎、まさにバラを

    超えたバラ」だった。

     そのバラはサンフランシスコ講和に際して、会場を彩ったバラでもあった。

    条約を手がけた吉田茂の宿敵、鳩山一郎と鈴木を結びつけたバラでもあった。

     本来ならば、黄味を強めた「ミスター・ローズ」のような花を咲かせる。

     

     作出者はフランシス・メイヤン、同世代の鈴木が「羨望と尊敬と嫉妬が

    ないまぜになった感情」とともに仰ぎ見た育種家だった。

     そしてその息子アランがやはり育種家の祖父アントワーヌに捧げたバラがある。

     この花の名を「パパ・メイアン」という。

     

     シェイクスピアに言わせれば、バラと呼ばれるその花は、たとえその名を

    失おうとも、変わらずかぐわしき香りを放つ。

     

    「バラの花弁には、シアニジンとペラルゴニジンしかない。青い花にはある

    デルフィニジンがない」。

     ブリーディングを重ねようとも、そもそも遺伝子が青の色素を含まない以上、

    願いは届くべくもない。それでもなお、交配を通じて叶わぬはずの夢の具現に

    励む人々はいる。

     ただし他方で、バイオ・テクノロジーを通じて、その遺伝子を組み込む試みを

    目指すものもいる。他にもpHコントロールなど、青の発現のネックになる点は

    あるのだが、そうしたことも含めて、ゲノム・サイエンスからの達成を図る。

     最相が原著を上梓したのは2001年のこと、クローン羊のドリーが物議を醸し、

    狂牛病が恐怖を喚起した時代。その時点における筆者の関心は、いわばGCAT

    4進法による生命科学が人間を包囲する未来、青いバラはその象徴となる。

     そして今『青いバラ』を再読する私は、少し異なる問題軸の時間を生きる。

    つまり、01かの二進法によって人間の知能が凌駕される未来がSFを出でて

    現実感を帯びる時代。

     

     ワトソンとクリックの発見など知る由もない時代ですら、経験主義によってか、

    青いバラには「不可能」のイメージが仮託されていた。

     ドイツのロマン派詩人ノヴァーリス『青いHeinrich von Ofterdingen』。主人公は

    夢の中で見た青い花を求めて旅に出る。そして奇しくもその行路は母の郷里へ向かう

    道筋でもあった。届いたかに見えた花はその都度彼を遠ざかり、着地点を知らぬまま、

    物語はついに未完のまま閉じる。

    「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」。

     

     青いバラがある。バラの青という様なものはない。

     この花とて、最相に言わせれば、「青くはない。青を求めてつくったのだといわれれば、

    そう感じられる程度の藤色、ラヴェンダー色」でしかないのかもしれない。

     けれども、赤バラの螺旋に吸い寄せられた後、ふとその花に視線を逃がす。

     青いバラがある。果てしなく青い。それがたとえ残像のもたらす錯覚に過ぎずとも。

     背筋がそばだつ。

     この花の名を「ノヴァーリス」という。

    他山の石

    • 2018.05.20 Sunday
    • 23:47

    「考古学は、学歴のない在野の研究者でも参加できる唯一といって良い学問」。

     このことばを体現する人物がいた。名を相澤忠洋という。「戦前の青年学校

    (現在の中学校相当)を出ただけの一行商人だった相澤は、仕事を続けながらも

    考古学に没頭。1949年(昭和24)、23歳にして、日本に旧石器時代があったことを

    発見した『岩宿の発見』を成した考古学上、伝説的人物である」。

     そしてその後見人を担ったのが芹沢長介だった。彼は「相澤のように学歴のない

    アマチュアを積極的に登用して称賛し、『芹沢考古学』ともいえる数々の革新的な

    発掘調査を手掛けたため、ついには『旧石器の神様』と呼ばれるに至る」。

     世紀末、その名声が地に堕ちる。「神の手」によるスキャンダルの発覚をもって

    芹沢は一転、「捏造事件の黒幕」として世間や学界の糾弾を浴びる羽目に遭う。

    「私は当初、相澤忠洋の追う中で芹沢長介という考古学者を知り、……アマチュア

    考古学者研究者を登用し、尊重しつづけた芹沢の学者としての魅力に、強く

    惹きつけられた。そんな学者が、学問の世界にいたのかと。私にとって芹沢は、

    まさに理想の学者像であった。

     しかし前期旧石器の前衛を走り続け、『旧石器の神様』と呼ばれた芹沢ほどの

    学者がなぜ、20年間にわたって道化を演じてきた藤村を権威づけ、そして騙され

    つづけたのか。専門家なら一目でわかる藤村の偽石器をなぜ見抜けなかったのか。

    その答えの一つは、芹沢と長く交流のあった藤村新一に訊ねるほかはない」。

     

     例えばネアンデルタール人の発見は、石灰岩の採掘中に出土した化石が高校教師の

    もとへと持ち込まれたところからはじまった。アルタミラの洞窟壁画とて、考古学を

    嗜む弁護士によって見出された。

     性格からしてそもそも「開かれた存在」である考古学界がやがて「石の虚塔」へと

    変質していく、そんな様子を関係者証言をたどりつつ明らかにしていく。数万年前の

    名もなきヒトの痕跡を掘り起こす仕事を汚したのは皮肉にも名を持つことの愚かしさ。

    その説がいかなる論拠に従って何を述べているのか、を吟味する批判精神を失えば、

    真偽を決するのは発言者のネームヴァリュー次第という政治力学だけがそこに残る。

    権威の寵愛を受けた「神の手」の奇跡に一度立ち会った者はそれ以後、妄信的に

    研究史のパラダイム・シフトを追認する他なく、その「詐欺」が暴露されれば一転、

    「関わった遺跡全てが捏造」と掌を返す。過去の「発見」についての検証能力を

    持たなかった学界にまさか「捏造」の検証能力があるはずもなかった。

     極論に踊る多数派を尻目に、追及の急先鋒は意外な証言を残している。

    「藤村の石器には、実は本物も混じっているんだ」。

     

     あまりにしばしば「研究者というのは、自分の仮定や研究にあった結果が出ると、

    疑問なく受け入れてしまう」。信じたいものを信じる、見たくないものは見ない、

    この心性を「石の虚塔」固有のものとすることは到底できない。

     本書は単に「道化師」をめぐるレポートではない。男の出現を必然たらしめた

    土壌をはるか遡って発掘してみせる、そこにこそ一読すべき意義がある。

     騙すヤツはもちろん悪い、ただしこと学問の世界においては騙されるヤツも悪い。

    有力者の確執などという政治性に翻弄されて「目が曇」った輩に対して注ぐべき

    同情の余地などひとつとして存在しない。

     裸の王様に裸だと告げる、そのために理性はある。

     誰がやったのか、ではなく、何をやったのか、どうやったのか。固有名詞や属性を

    ひとまず剥ぎ取り、冷静に所与の状況を観察してみる、そんなことの重要さを知る。

    終わり良ければ全てよし

    • 2018.05.20 Sunday
    • 23:37

    「シェイクスピアのファースト・フォリオ〔第1二つ折り本〕は、現在知られているかぎり、

    全世界で232冊ある。わたしは何人かのファースト・フォリオ・ハンターとチームを

    組み、10年以上かけて、現存するファースト・フォリオ本をつきとめ、精査してきた。

    調査のために、わたしたちは地球上をかけめぐった。その過程で、過去400年間で

    盗難や紛失の憂き目にあったフォリオ本についての心奪われる情報の山を発掘

    したのである。……わたしたちは世界中でもっとも高額な印刷本の表表紙と裏表紙の

    あいだに横たわる、シェイクスピア劇そっくりの、魅力にみちた世界をあきらかにしたい。

    その世界には泥棒、黒幕、愚者、変人が住み、このひとびとはみな、憧れのファースト・

    フォリオを手に入れるためには、財産も名誉も危険にさらしたのである」。

     

     2008年のこと、米国はフォルジャー・シェイクスピア・ライブラリーに鑑定を求めて

    一冊の本が持ち込まれる。「装丁が失われ」おり、かつ「確信犯の何者かによって

    個別の本を見分けるしるしをすべてはぎとられてい」た。キューバから持ち込まれた

    新発見かと色めき立つも、サイズや書き込み等の特徴から間もなくイギリス北東部の

    ダラム大学からの盗難品であることが発覚する。かくして男は御用となる。

     実はこの本、「すべてのファースト・フォリオ中でもっとも長く継続的に同一の

    持ち主のもとにあった」テキストでもあった。購入した聖職者の名前から、その彼が

    内戦により亡命を余儀なくされ図書館に預けられた経緯まで明らかになっていた。

     そして、この盗人をめぐる法廷劇は英国のタブロイド紙を引きつけた。男は言った。

    「この世は舞台」。公聴会の出席に際してあるときは「銀色のストレッチ・リムジンで

    乗りつけた。全身、白い衣装で固め、片手にシガー、片手にカップヌードルを持ち、

    シェイクスピアの『リチャード三世』の台詞……を朗読しながら」、またあるときは、

    「バグパイプ奏者に先導され、馬車に乗ってやってきた」。そんなゴージャス・ライフを

    満喫するこの男、「見かけだけの億万長者で、53歳にして一度も仕事に就いたことも

    大学に行ったこともなく、労働者階級の住む地域の小さなレンガづくりの家に住んで

    いた。同居していたのは、82歳の障害をもった母親だった」。

     

     その盗難劇は公衆の面前で堂々決行された。しかも犯人は時の教皇パウロ六世。

    それは「記録されているかぎり教皇が史上初めて演劇を鑑賞した機会だった。……

    俳優たちはロイヤル・シェイクスピア劇団の宝物であるファースト・フォリオ本を携え、

    終演後、本に教皇の祝福をいただくつもりだった」。そして事件は起きる。「祝福を

    与える代わりに、教皇は贈りものとして受けとってしまった。……いったい、どのように

    して教皇のあやまりを正せばいいのだろう?」。

     

     とはいえまさか、これほどまでに波瀾万丈な物語ばかりが展開されるわけでもない。

    総じて言うと、それぞれの来歴を一冊のテキストにまとめたごく簡潔なダイジェストとの

    読後感がどうしても拭えない。この印象がシェイクスピア作品本体より面白い事件を

    期待させずにはいないところから来てしまうのだとすればいかにも罪深い。