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  • 2018.05.29 Tuesday

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    勝ちたいんや

    • 2018.03.25 Sunday
    • 21:40

    「数学はサッカーのさまざまな疑問に答えられる。チャンピオンズリーグ決勝の終了間際に

    2ゴールが決まる確率は? マンチェスター・ユナイテッドのファンがどう言おうと、これは

    純粋なランダム性の問題だ。なぜバルセロナの『ティキ・タカ』のパスはあれほど効果的

    なのか? それは幾何学や動力学の問題だ。なぜリーグ戦の勝ち点は3なのか? 

    それはゲーム理論やインセンティブの問題だ。メッシとロナウド、どちらの方が名選手か?

    それは巨大な統計的偏差の問題だ。ヒートマップやパス・データは試合の何を物語るのか?

    それはビッグデータやネットワーク化されたシステムの問題だ。なぜブックメーカー(賭け屋)

    はあれほど魅力的なオッズを提示できるのか? それは確率と心理学の組み合わせの

    問題だ。そしてなぜギャンブルで勝つのは難しいのか? それは集合知と平均の問題だ。

     こうした疑問については。本篇で追い追い詳しく説明していくつもりだが、私の夢は

    もっと先にある。『サッカーマティクス』(サッカー数学)の問題は、単に飲み屋の会話の

    ネタになるような、数学にちなんだサッカー雑学をいくつか提供することではない。あなたの

    数学観とサッカー観の両方を一変させることなのだ。私は数学とサッカーが互いに手を

    取り合えると信じている。数学はどうあがいてもサッカーに勝てないが、互いに学び合える

    ことはたくさんある。数学はサッカーの理解に役立つし、サッカーは数学の説明に役立つ」。

     

     粘菌(変形菌)なる奇妙な生物がいる。摂食で栄養を補給しつつも胞子で増殖する。

    「粘菌は脳を持たず、単一の細胞からなる。粘菌の“体”は、養分を輸送する網目状の

    管のネットワークである」。効率性とリスクヘッジを兼備したまことに見事なネットワーク

    作りで知られるこの粘菌だが、実はこのシステムがバルサのパスワークに酷似する。

    他方で、そのチームを計7-0で粉砕したハインケス・バイエルンのフルコート・プレスは

    ライオンが協力関係のもとで獲物を仕留める連携の仕方にひどく重なる。

     とはいえ、まだジャンル開拓の端緒に過ぎないというべきか、それとも単にファンの

    知的水準に合わせたせいなのか、本書における考察は全般に粗雑としか見えない。

     件の粘菌についても、ソーンとネットワークの実例として筆者が提示するのは、とある

    試合におけるたった一点のゴール・シーンに過ぎない。数多の試合サンプルの分析から、

    この「構造」と得点の相関性を説明するでもなければ、チャンス・クリエイトをめぐる他の

    説明関数を深く検討するでもない。ディフェンス側が数的優位を作って絞り込む、という

    アプローチにしても、狩りならばなるほど追いつめてしまえばほぼゲームセット、ただし

    サッカーの場合、味方にボールを預けるとか、ファールをもらうとか、相手の身体に当てて

    ラインを割る、という逃げ道がある。この手の戦術分析やパスワークの構築メソッドなんて、

    手が使える、つまりはるかに高いプレイ精度の期待できるバスケットボール界隈にいくらでも

    数理的データが転がっていそうなものだけれど。

    「カリスマ性のあるリーダー」とやらが「チームの努力レベル」を引き上げると宣う精神論に

    至ってはただ閉口させられるばかり。サッカーにおいてそのパフォーマンス曲線を規定する

    ために必要な関数はいったい何なのかを割り出したり、「カリスマ性」を数学的見地から

    定義するのが仕事というものだろう、そんなものがあればの話だけれども。

     勝ち点の設定とゲームプランの関連にしても、得失点差が場合によっては命取りになる

    レギュレーション下において、実戦のスコアラインに応じて目指すべき戦略がその都度

    変わってくることについての考慮はなんら図られない。

     ブックメーカーを出し抜いて儲けを得るには、というギャンブル論にしてもはるか昔に

    語られ尽くした統計学の焼き直しで、目新しい話は何もない。次に高騰する銘柄はこれ、

    なんて記事を真に受ける輩が後を絶たないのを鑑みるに、これでも世間的には十分に

    フレッシュな知見なのかもしれないが。

     

     数値化されない幸福、それは例えば鳥谷、西岡、糸原に発狂せずにいられること。

     北條君、かわいいやん。

    超変革

    • 2017.11.14 Tuesday
    • 23:26

    「強いパイレーツを見られなくなって以降、多くが変わった。選手、コーチ、球団幹部が、

    新しくやってきては去っていった。観客動員数が減少した。何年たっても変わらないのは、

    試合に負けることと、チームのために費やすお金が少ないこと」。

     本書の舞台は、過去20年にわたり負け越し続けたピッツバーグ・パイレーツ。

     ロサンゼルスやデトロイトよろしく、戦力を激変させるパトロンが舞い降りたわけでもない。

    ビリー・ビーンの衝撃も遠い昔、セイバー・メトリクスを把握しないフロントなどMLBにはなく、

    ストーブ・リーグでお値打ち品を発掘する難易度も格段に増した。

     ところがそんなチームが、2013年、プレー・オフ進出を果たす。

     すべてマジックには種も仕掛けもある。彼らにとっての魔法の杖もやはりビッグデータだった。

     

     例えば彼らが目をつけたのは、守備時のシフトだった。

     ある研究者が指摘するに、「メジャーリーグの打者のゴロの73パーセントが引っ張る方向に

    飛んでい」た。「2011年に最も多く変則シフトを敷かれた打者8人を見ると、相手が守備

    シフトを採用した場合には打率が51厘も下がっている」と推定された。そして彼は言う。

    「メジャーリーグの100人の打者――全体の25パーセントの打者に対して守備シフトを

    敷くべきだ」と。確かに「グラウンド内に偏って野手を配置するのは直感に反する作戦」に

    違いなかった。異議を唱える選手もいた。それでも、ピッツバーグは実践した。

     結果、「守備防御点は2012年にマイナス25点だったのが2013年にはプラス68点と

    93点も向上したため、9.3勝分が増えた計算になる」。

     

     PITCHf/xなる解析システムが明らかにしたのは投手のスキルだけではなかった。

    「捕手によるボールの捕り方は視覚のトリックで、その巧みなごまかしの技術によって

    主審にきわどいコースの投球をストライクと判定させることができる」。このフレーミングが

    晴れて数値化される運びとなった。優秀な捕手は、この技術でシーズンで最大30ほどの

    失点を防ぐ、と推定される。幸運にも、FA市場には条件を満たす逸材が眠っていた。

    その名をラッセル・マーティンという。

     ピッツバーグはこのデータに、この男に賭けた。

     

     そして現実の「ビッグデータ・ベースボール」は、さらなる高みを目指す。

     この年、ナ・リーグ中地区の最下位に沈んだシカゴ・カブスは、シフトの先駆者J.マドンや

    データ活用でボストンを世界一に導いたT.エプスタインの指揮の下、2016年、世紀をまたぐ

    ヤギの呪縛から解き放たれた。

     3年連続100敗を気にも留めずタンキングに励んだヒューストンは、データの示唆に導かれ

    フライボール・ヒッターを磨き上げ、見事2017年のワールド・シリーズを射止めた。

     本書はビッグデータ万能論を振りかざすわけではない。むしろ、この成功が教えるものは、

    野球に限らず、人間がビッグデータとどうつき合っていくのか、という点にこそある。

     古典的な経験論者は、打者への内角攻めの有効を信じ、そして統計に問いかけた。

    「このような質問をぶつけた時、コーチたちは2人が快く受け入れてくれたことに驚いた。

    分析官たちは質問を鼻で笑ったり、あきれて目をむいたりしなかった。コーチたちの考えに

    興味を示したのだ。……アルゴリズムが、すべての答えを知っているとは考えていなかった。

    むしろ、質問されることを望んでいたのだ」。そして「内角を攻められた後、打者は同じ打席で

    外角のボールを引っ張ってゴロを打つ傾向が強いことを、数字は示していたのだ」。

     件の分析官は言う。「数学的でもあるけど、同時に今でもなお芸術対科学の議論がある

    ……そういったものにも芸術的な側面があるというのが僕の考えだ。そこがいちばん大きな

    ところだと思うな」。

    意志の勝利

    • 2017.03.04 Saturday
    • 20:11

     ボートとはそもそもが「上流階級のスポーツ」、東部のエスタブリッシュメントの卵たち、

    「議員や政治家の息子や産業界の大物の息子、あるいは大統領の息子がやるスポーツ」、

    そんな彼らに西部大学、「農家や漁師や木こりの息子」が殴り込みをかける。

     やがて舞台は国内の階級図式を超えて、1936年のベルリン、国威発揚の場としての

    オリンピック、閣下の御前で最後の決戦に「ならず者」どもが挑む。

     

     さながら、花形満に対峙する星飛雄馬のようなマッチ・メイク、果たしてリアルは時に

    フィクションの極貧を凌駕する。

    「痛みはジョーにとって、目新しいことではない」。

     本書の中心人物はジョー・ランツ、その背に負わされた運命はあまりに苛烈、継母との

    不和などを理由に、わずか15歳にして単身、夢破れた父の農場に置き去りにされる。

    ただでさえ、大恐慌に天災が相次いで降りかかる時世にあって、「幸せになりたければ、

    幸せになる道を自分で探さなきゃいけない」との教えを胸に少年は現実に立ち向かう。

     

      苦しくたって 悲しくったって

      ボートの中では 平気なの

     

     アメリカ発のドロドロスポ根立志伝。

    「彼らはみなすばらしいテクニックをもち、根性があり、断固たる意志をもち、それでいて

    心根もよかった。そして彼らはみな、貧しく生まれたり、生まれ育つ過程で時代の憂き目に

    あい、苦労を味わったりした青年たちだった。彼らはみなそれぞれのやり方で、労せずに

    得られるものなど人生には何ひとつないことを学んできた。肉体的な強さや美しさや若さが

    あっても、それよりずっと大きな力が世界には働いているのだと、彼らはみな知っていた。

    そして彼らはともに困難に立ち向かう中で、謙遜するということを、いいかえれば個人のエゴを

    クルー全体の利益の下に置くことを学んだ。この謙遜という門をみながくぐったからこそ、

    メンバーはこうして一体となり、これまでできなかったことができるようになったのだ」。

     尊敬する人、宗方仁の私にすら刺さる説得力、そして説教臭さ、現代ではそう書けない。

     

     そして素材の良さを筆者の技術がきっちり活かす。とりわけ秀逸なのはコントラストの加減。

    現代にも相通じる米国内の東西図式然り。糧を得るべくジョーが肉体を差し出すはニュー・

    ディールのシンボル、グランド・クーリー・ダム。対して最終到達地としての決戦の舞台は

    ヒトラー肝入りの公共事業。その場において、後の連合国と枢軸国が相まみえる。

     

     世界を驚愕させるピッチで先制ダッシュを決めながらも、間もなく失速する日本代表の姿、

    まるで未来を予知するように。

     

     問答無用に面白い、面白すぎる。

     本書といい、『リアル・スティール』といい、もはやアメリカこそがスポ根の殿堂、そんな

    屈辱に首を垂れつつ、日本でもベストセラー化して欲しい、そう願わずにはいられない。

    You cannot be serious!

    • 2016.12.22 Thursday
    • 22:16
    評価:
    エリザベス・ウィルソン
    白水社
    ¥ 4,104
    (2016-10-29)

    「ローンテニスは……そもそもはガーデンパーティーの娯楽として始まった。その洗練された

    社交性のせいで、一般的なスポーツのイメージとは少しずれがあった。……試合は決闘や

    喧嘩になぞらえられることもあるが、その半面、堅苦しいマナーやリズム感、エチケットや

    約束事などからダンスに似ているともいわれる。……ところが、とくに第二次世界大戦後、

    テニスに関わる人びとはテニスをほかのスポーツのあり方に近づけようと努力しはじめた。

    ……肉体面での過酷さを前面に押し出し、優雅さや美しさよりもボクシングに通じる苛烈さを

    強調するようになった。……今日の伝統的なスポーツ観は、それ自体が一種の視野狭窄に

    陥っている。より広い文化的視野に立って初めて、この『愛のゲーム』をより深く理解できる」。

     

     本書が伝える歴史とは、同時代の世相をどうにも反映せずにはいないプレイヤーの肖像。

     例えば女性解放の風、1919年のウィンブルドン決勝、コートに現れたS.ランランが

    「一大センセーションを巻き起こしたのも当然である。……観客をぎょっとさせるほど裾の

    短いウェアを着ていたのだ。……飾り気のないゆったりした半袖のシャツにスカートだったが、

    その裾はふくらはぎあたりまでしかなく、白いストッキングをはいた脚が見えていた。頭には

    幅広の縁のある帽子をかぶっていた」。

     時は60‐70年代、世界的に社会の破綻が惨めに露呈する中、例えば「パンクスタイルが

    語ったのは疎外と若者の反乱だった」。そんな時流を体現するように、J.マッケンローは

    既存のテニスマナーを挑発し、レスラー顔負けのヒールを担う。

     産業社会の風潮はことごとくテニスへと持ち込まれる。「近代スポーツの特徴は、ほとんど

    避けがたい傾向として、あらゆる運動競技における偉業を定量化し、計量可能なものに

    変えようとする点にある」。かくして「テニスもまたマクドナルド化されることとなった」。

    そんな工業的アスリート像の頂にあるのがR.ナダル、彼は「体力を削ぐクレーコートの

    テニスを新たな持久戦の場に変えた。……ナダルは同じことを何度でもくりかえす。

    ……単調さのあまり、見ていると睡眠状態に陥りそうだ」。

     かくして筆者はこき下ろす。「ナダルの偉業は、まさにテニスを醜くしたことだった」。

     

     一般に表題から想定されるだろう、テニス誕生の経緯やレギュレーションの変遷といった

    「歴史」についてはさして筆者の関心の対象ではないようだ。執筆にあたって、関係者への

    取材やヒアリングを敢行した様子もない。

     そして代わって差し挟まれることといえば、テニスにかこつけた社会批評、隙あらば

    オールド・スクールなフェミニストの顔を臆することなく覗かせる。

     

     愛せないテニス、愛せない世界。

     ほとんど現実逃避といっていい、ノスタルジーのテニス論。

     身体を駆使するというそもそもの前提を改めない限り、他の球技と同じく、テニスにおいても

    ハイ・エンドの均質化としてのマッチョ化は決してとどまることはないし――そしてそのことは、

    筆者の願いに反して、男女の個体差をどうにも拡大、強調する方向へと向かうだろう――、

    選手の個性とやらも広告代理店の売り文句の中にしか横たわり得ない。

    「試合の美しさは、次第にパワーや忍耐や激しさにとってかわられる」。

    「遊び」からショービズへ、この変質を進化とみるか、退化とみるか。「美しさ」という抽象的な

    尺度など、スコアの示す勝敗や興行上の成功を前に吹き飛ばされる。

     No time for losers.

     数こそ正義、何もテニスに限らないこの問題、この「歴史」を本書はなるほど捉えてはいる。

    「ハッピートレーニング!」

    • 2016.11.13 Sunday
    • 21:53

    「生物的資質とハードトレーニングが、相互にどのようにして運動能力に影響を

    与えるかというテーマが、生物学者、生理学者、スポーツ科学者の協力をもとに

    研究されることとなった。そして、ようやく私たちは、スポーツ界における大きな

    争点である『遺伝か環境か』(nature-versus-nurture)という議論の入口にたどり着いた。

    この議論をさらに推し進めると、性別、人種というようなデリケートな領域に踏み込む

    ことになるが、科学と同様、本書においてもその点を避けては通れない」。

     

     ポリティカリー・コレクトネスの過剰は時にスポーツにも影を差す。

     このテキストの問題提起は、本書発表後に受けた批判への反論としての「あとがき」に

    ある面では凝縮される。「遺伝的資質という概念を含む社会的メッセージは、人々の

    努力を制限し、潜在的能力を発揮することを妨げ」てしまう、との懸念に対して、

    筆者はこう答える。「とても気になるのは、彼らにとって望ましい社会的メッセージに

    そぐわない科学的事実は拒否すべきだと主張しているように見えるところだ。……

    私たちは、個々人の特異性についてもっと多くのデータを集めようと努力すべきであり、

    そこから無理に目をそらさせようとするメンタリティを受け入れてはならない」。

     そうは言っても当然、筆者の結論は遺伝がすべて、と訴えるものではない。むしろ逆、と

    述べてしまうことさえ飛躍ではない。何せ、スポーツ遺伝子について分かっていることすら

    ほんのわずかなのだから。

    100%の『遺伝』(nature)100パーセントの『環境』(nurture)」。

     何はともあれ、やらないことにははじまらない。

     さらに言えば、あたかも「一万時間の法則」に抗うかのように、事実がしばしば告げるには、

    特定競技への選択と集中よりも、とりあえずいろいろやった方がいい、らしい。

     

     ウィトルウィウス的アスリート。

     20世紀初頭のスポーツ科学を支えたパラダイムが言うには、「最も優れたアスリートは

    均整のとれた平均的な体格の持ち主である。……1925年には、世界的レベルの走り

    高跳び選手と砲丸投げ選手とがそうであったように、平均的なバレーボールのエリート

    選手と円盤投げ選手の身体の大きさは同じくらいだった」。

     翻って現代、「ある種目で成功するために必要な身体は他の種目に適した体型からは

    離れて、それぞれの種目に高度に特化した独自の場所へと突進していく」。

     

     スポーツ観戦にも、実践にも、今日の遺伝研究にも、あるいは教育にも。

     本書が引きつける関心の射程はことのほか広い。

     そしてその社会的メッセージは、ほとんどすべての人間に該当するものと言っていい。

    「始めてみることは、最先端の科学でさえなしえない自己発見の旅へ出かけること」。

     遺伝の障壁を論じることと、広く門戸を開くことは何ら矛盾しない。

     あるいは、今日のスポーツ科学がある競技において短所と判定する遺伝的資質を

    長所へと変換するような運動理論の余地が存在したとして、特に驚くべき点はない。

     いずれにせよ、各人の試行錯誤なくして、いかなる道も開かれ得ない。

     こうしたことは何もスポーツに限らない。そして、こうした議論にきちんと向き合うことが

    ポリティカリー・コレクトネスに反するものとは、少なくとも私には見えない。

    「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を

    遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」。