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評価:
桃井 治郎 中央公論新社 ¥ 929 (2017-07-19) |
「本書では、古代から現代まで、海賊の変遷をたどっていく。……そして本書では、
こうした海賊の姿を描くと同時に、それぞれの時代に海賊がどのような存在として
みられていたのかという点もあわせて検討していく。そこからは、現代のソマリア
海賊のような犯罪者としての海賊とは異なる別の姿が見えてくるはずである。
さらに、海賊が時代に規定された面だけでなく、逆に、各時代において海賊が
いかに歴史に影響を及ぼしたのか、海賊という存在をとおして、裏面から世界史を
再読していきたいと考えている。
すなわち、それぞれの時代において、どのような海賊が存在したのか、人びとは
海賊をどのように見なしていたのか、そして、海賊の存在が世界史をどのように
動かしたのかを探ることが本書のねらいである」。
本書のアウトラインは、古代ギリシャにはじまる海洋戦記のダイジェスト、どう転んでも
面白くならないはずがない。逆に言えば、新書一冊の紙幅をはるかに超えて然るべき
射程を持つに至る、本書の「海賊」の定義それ自体に疑問を呈さずにはいられない。
なにせその尺度に照らせば、「海を越えてやってきて住民を殺し、王国を滅ぼし、
富を掠奪するスペイン人は、現地民[インディオ]から見れば、まぎれもなく海賊に
ほかならない。そしてそれは、人類史上最大の海賊行為であったといえよう」。
大航海時代における国策さえも本書においては「海賊」を構成する。この見立てに
根拠を与えるのは例えばN. チョムスキー、「大王と海賊の関係と同様に、アメリカの
覇権的な外交と国際テロリズムには、暴力性という共通項が存在しており、その意味で
両者は同等である」。結果、『海賊の世界史』と海洋史が、少なくともある時代までは、
事実上ほぼ同義語として処理される。
一方ではかような定義を与えつつも、ただし他方で現行の国際法に敷衍して
「海賊行為」を「私有の船舶又は航空機の乗組員又は旅客が私的目的のために行う
すべての不法な暴力行為、抑留又は略奪行為」という別の仕方でくくり込む。
もちろん狙いは分かる、つまり、近代国家の樹立や国際法、条約といった概念の
発達史そのものが「海賊」との絡みの中で把握されるべきテーマなのだ、と。ただし、
正史の相対化の具として一方で持ち出されている「暴力性」の権化としての「海賊」が
循環論法的に正史へ包摂されていく組み立てに根本的な混乱を見ずにはいられない。
オスマン帝国とスペイン帝国の衝突やアルマダの海戦をもって互いを「海賊」として
紹介することを許すのならば、全く同じ資格によって、例えばミッドウェイ海戦を
双方にとっての「海賊」として取り上げずして、「海賊の終焉」を宣告するというのは
理に合わない、少なくとも私にはそう思えてならない。
「一茶は、良くも悪くも、柏原村に生をうけ、この地で死ぬことを選択した百姓弥太郎で
あった。であるなら、何故に柏原村百姓の職分を36年もの間放棄した一茶なる業俳が
百姓弥太郎として舞い戻って来れたのか。俳人一茶の究明には、百姓弥太郎への
アプローチが不可欠になってくる。そこから一茶の拠点となった足元の柏原村の存在の
重大さが問題になってくる。柏原は北国街道柏原宿で成り立つ村である。当然、柏原の
歴史から北信濃の歴史へ拡大、展望することになる。また逆の方向の視点を持つ
必要性に迫られることにもなるであろう。
本書では一枚の証文から湧き起こった素朴な疑問を追いかけていく。狭義の俳人
小林一茶の研究ではない。百姓弥太郎を俳人小林一茶にした北信濃柏原村を基点に
した江戸時代史を目途とする」。
どこで父の危篤を聞きつけたのか、いまわの際にふらりと郷里へ舞い戻り、その場で
せしめた遺言状を楯に異母弟から資産をせしめる業突く張りの肖像としての小林一茶、
というのは世に広く知られた話らしい、寡聞にして私はまるで知らなかったけれども。
ところで本書が専ら主題化するのは、その決定を可能たらしめた背景にこそある。
そして本書では、柏原村を舞台とした、とある興味深い訴訟が紹介される。
敵に塩を送るのひそみの通り、そもそもこの宿場町は、塩の流通の経由地として栄えた。
「公道北国街道は宿継ぎを通行の原則とする。塩荷の宿継ぎの運搬はその度に馬に
付け替えするため、日時を費やし、また塩荷が損傷しやすい」。ということで、これに代わる
輸送手段として別ルートの「付通し」が登場する。「目的地まで同じ牛馬で運送するため、
迅速かつ荷物の痛みが少ない利点があった。しかも北国街道を回避して口銭を免れると
ならば利益は益々大きくなる」。
こんなやり方がまかり通れば商売あがったり、参勤交代の扶助とてままならない。
さりとて訴えられた側にしてみれば、「零細な商いで口銭を取られたらやっていけない」。
双方の主張は真っ向から対立し、果たして裁定は幕府へと委ねられる。
その訴訟の帰趨が一茶の相続財産に大きく関わる点は言うまでもない。
ニッチなテーマに照準を合わせたパーソナル・ヒストリーかと思いきや、江戸の世の
訴訟社会のありようを鮮やかに描き出す。
その背景にはもちろん、文字の読み書きをはじめとした高い知的水準が横たわり、
かくして俳句も可能になる。
一茶を離れ、一茶に戻る。時代の子でしかあれない人間なるものを見事に映す。
思いのほか、広い奥行きをもったテキスト。
「文学作品は読者のものであり、作者の意図は必ずしも重要ではなく、まして生涯・境遇
などは顧慮しなくてよいとする立場もある。しかし時代を超える普遍的価値があっても、
作品は一義的にはやはりその時代の所産である。一次史料や時代状況に照らせば
容易に確定する疑問をそのままにして、読者の手に委ねてよいとは思えない。しかも
伝記はもちろん、各章段の解釈の前提となる知識もしばしば根拠を欠くもので、訂正
されないまま作品論や伝記研究にはねかえり、さらに作者像を歪めるという悪循環に
陥っている。どう考えても不合理である。まずは作者がどのように考えて執筆し、当時の
人々はどのように解釈していたかを定めるべきで、そのためにも作品の外部に眼をやり
伝記を探求する努力を放棄すべきではない。
本書では、同時代史料からできるかぎり多くの情報を抽き出すことで、生涯の軌跡を
明らかにし、とくに公・武・僧の庇護者との関係や活動の場を正確に再現した。大きく
6章に分け、最後に徒然草の成立について言及した。徒然草の引用は確実な事績として
利用できるところに限定した。中世文学の珠玉の作品に対していかにも冷淡であるかも
知れないが、まずは長年の偏りから来た歪みを少しでも修正したいと願うからである」。
「同時代史料からできるかぎり多くの情報を抽き出す」。
このテキストは、当時の文献のささいな記述を手がかりに、とにかくひたすら掘りまくる。
渉猟の途中、筆者は金沢文庫へと話を向ける。「紙が貴重品であった時代、書状が
使用目的を達して廃棄されると、典籍の書写に使われた」。現代ならばさながら、文書の
試し刷りのために、読み終えたペーパーの印字されていない裏面を再利用するようなものか、
聖教の書写にさえリサイクル品は用いられ、このことが望外のご利益を後世にもたらす。
時は流れて表に記された御大層な仏典よりもむしろ、「紙背文書」こそが今に「中世人の
肉声をよく伝え」るお宝へと変わる。
そんな数奇な文書の一枚に、「うらへのかねよし」なる名前が立ち現れる。亡き父の七回忌を
めぐる、家族間でのやり取りと思しき手紙。かくなる私文書を糸口に、数百年の時をまたぎ、
彼の素性が露になる。
このアーカイヴ作業は例えば「吉田兼好」なる名前の出所にまで及ぶ。
有名人の宿命として、有象無象の親族を騙るものが次から次へと顔を出す。
嘘から出た実。帳尻の合わないハッタリがいつしか新たな歴史を開き、既成事実として
定着し、フェイクはやがて『徒然草』をも侵食する。
私は兼好法師の研究に何ら通じてはおらず、ゆえに、クリティックを繰り出す素養を何ら
持ち合わせるものではない。
それでも、本書において提示される推理の妙は楽しめる。文書を残す重要性、翻って、
残ってしまう恐ろしさ、そんな史学研究の醍醐味に満ちた一冊。
「ヒョウタンは世界最古の栽培植物の一つで、その歴史は1万年以上をさかのぼる。
日本では、縄文時代の早期に伝わった最古の栽培植物である。近年のDNA研究から、
アメリカ大陸の1万年前のヒョウタンの出土品がアジア系であることが明らかにされた。
原産地はアフリカ。人類の世界での移動を解く鍵を、ヒョウタンが握っているといっても
過言ではなかろう。
ヒョウタンは軽い上、中が空洞で、水入れとしてはこの上なく重宝である。そのため、
世界各地において土器に先だって使用された。『人類の原器』に値しよう。……実用品
以外にも、神話、象徴など精神的な世界において、各地の民族とヒョウタンは結びついて
いる。本書では、物質、精神の両面からヒョウタン文化の実像を明らかにしていきたい」。
まずはペットボトルとして、そしてその後調理器具として。
筆者は大胆な仮説を提唱する。「ヒョウタンで湯を沸かしたり、煮炊きをした際、ぬれた
泥の上に置き、それがついた状態で火にかければ、ヒョウタンの表面が泥で保護され、
直接火に当てるよりも痛みが少なく長持ちしよう。……こうしてヒョウタンに厚く粘土を
塗るようになり、後には粘土を焼いただけの土器に展開していったのではなかろうか」。
実に世界最古の工業製品のひとつ、土器さえもヒョウタンが媒介していたというのだ。
そうしてヒョウタンは食ばかりではなく、衣すらも時に担う。すなわちペニスケースとして。
しかも、男性を象徴するばかりか、「丸くふくらんだヒョウタンは女性の子宮に見立てられ、
そこに含まれる数百粒以上の種子は、子宝として子孫繁栄のシンボルとされる」。
どこまでも貪欲に人類史に食い入るヒョウタン、恐るべし。
そして単にコモディティの枠すらもヒョウタンは凌駕する。
例えば弦楽器のボディとして、打楽器として、管楽器として。
あるいは工芸品として、多彩な装飾が施されることもある。
かのJ.ホイジンガは、「作る」より先にまず「遊ぶ」ことに人間の性を見出した。
ホモ・ルーデンスたる所以さえも、ヒョウタンは証する。
ニーズが回す経済なんてたかが知れているのだから、消費の未来はなくてもよいものを
「遊ぶ」ことで伸ばすしかない。
ヒョウタンはそんな行く末さえも指し示しているのかもしれない。
本書の原題は、The Paper Trail: An Expected History of Revolutionary Invention。
「本書で描くのは、世界のあらゆる場所で歴史を動かし、時代を変える大事件や民衆
運動の“パイプ役”を果たしてきた、なめらかでしなやかな物質の物語だ。2000年にわたり、
紙はほかに代わるもののない媒体として、政策や思想、宗教、プロパガンダ、哲学を
伝播してきた。その時代のもっとも重要な文明のなかで生まれたアイデアを、国内は
もとより他の文化圏にも伝える役割を果たしたのだ。そして、この役割が紙の未来を
決定した。通貨(数千年のあいだは土や金属でできていた)が物品やサービスのやりとりを
可能にしたように、紙が、思想や宗教の活発な往来を促したのである」。
中国の官僚制は紙なくしては成り立ち得なかった? 紙が宗教のあり方を一変させて
しまった? 宗教革命や近代市民革命に火をつけたのは紙だった?
それはそうでしょうね、と結局のところ、本書が展開するのは、紙がふと立ち現れる場面の
断章としての、果てしなく薄味の世界史。既にごまんとあるだろう「歴史」の記述が優先され、
当の「物質の物語」はどこかに置き去りにされていく。
主題として掲げる以上は本来ならばもっとフォーカスされて然るべき、例えば製紙法の
歩みなどの説明は腰が抜けるほどに簡潔。「木が紙の原料になるのは、その数世紀後の
ことである。木のパルプで作られた紙は1802年まで現れない」なんてとんでもなく重要と
思われるトピックが紹介されるのは、布きれをリサイクルすることで紙をまかなっていた
14世紀の話題のカッコ内。印刷技術とか、図書館とか、もっと微に入り細に入り展開して
欲しくなるような紙をめぐる話がいちいちぞんざいに通り過ぎていく。
原著なのか、翻訳なのか、門外漢の私が見ても首を傾げてしまうようなことばの粗も
しばしば目につく。
例えば1世紀の中国での出来事、「植物繊維の紙をつくろうと試みた」その素材の
ラインナップの中に、中南米原産のはずの「トウモロコシのさや」や「じゃがいも」といった
名が平然と並ぶ(p.83f.)。チャトランガからの派生形、と伝えたいところは分かるけれども、
8世紀頃の中国で既に「チェス」が嗜まれていたりもする(p.176)。
つまらない本ではない、だって世界史を切り抜いているんだから。
とはいえ、そこに何か新たな視座や情報が加わっているでもなく、ことごとくがさらさらと
駆け抜けていく。「メディアの物語」それ自体が展開されていないのだから、評価となれば、
はなはだ首を傾げざるを得ない。