ロスト・シティ・レディオ

  • 2017.09.20 Wednesday
  • 21:57

 イギリスのシンクタンクの調査によれば、「2016年にメキシコで起きた殺人事件件数は

23000件に達し、内戦中のシリア(約6万件)に次いで世界で二番目に多かった」。

 他方でメキシコ政府機関に言わせれば、「2009年にファレスで孤児になった子どもの

数は、たったの8人……その年、町では2600人以上が殺されているにもかかわらず、だ。

……自分たちが養子縁組を担当するなど、直接関わった子ども以外のことを、一切調査も

しなければ、記録もしないからだった。……その事実を知った私は、政府と麻薬犯罪組織が

引き起こしている、マスコミが『麻薬戦争』と呼ぶ事態について、『子ども・若者』そして

『被害者』という切り口から取材しようと決意した」。

 

 D.アセモグル、J.ロビンソン共著『国家はなぜ衰退するのか』が指摘するに、地理条件を

ほぼ同じくしているはずの街が米墨の国境線を隔てて、3倍以上の所得差を有する

最大の要因はルール・メイキングの公平性、そんなくだりの真実味を見る。

「麻薬戦争が始まって以来、この町では、人がまともな仕事で稼いで平穏に暮らすこと

自体が、二つの意味で困難になっている。一つは、そう望んで努力して築いたものを、

犯罪者によって容易く奪われてしまうという現実を前に、努力すること自体がむなしく

なってしまっていること。もう一つは、犯罪に関わって稼ぐ方が、圧倒的に高い収入が

得られるようになってしまっていること。そうした社会風潮を助長しているのは、敵同士で

あるはずの麻薬カルテルと連邦警察が、実はつながっているという現実だった」。

 遺体さえ見つからなければ、そもそも事件化すらしない。かくして「失踪者」が急増する。

そんな事態を象徴する「アヨツィナパ・ケース」が発生したのは2014年のことだった。

とあるデモに出向いた学生たちのバスが地元警察に阻まれ、その際の発砲により3人が

死亡、そして43人が姿を消す。後に検察が「真相」として犯罪組織の犯行としたものの

その供述は矛盾点に満ちていた。「国民を騙し、検察は犯罪被害者のためには働かず、

検事総長の言葉は嘘ばかりで、信用できない――。もしそれが現実ならば、真実を知る

唯一の方法は、市民自身の手による捜索だけだ。そう考えた失踪者の家族たちは、

独自の捜索活動を始めた」。

 統治機構にまともなルール設定と遵守が期待できないのだから、自主的に寄り集まって

コミュニティを形成するしかない。どこか安部公房が目撃した満州の原体験を髣髴とさせる。

 例えば筆者が取材した子ども向けのワークショップ。内乱の一因を国民に蔓延する

暴力依存の精神性に見出す彼らは、対話の重要性を説き、そして教育の必要を訴える。

もちろん改心して活動に励む若者もいる。ただし他方で皮肉にも、14歳未満への処罰を

否定する現地の少年法ゆえに、「未成年は使い捨てできる働き手として、カルテルが

リクルートする格好のターゲットになっている」。

 水は低きに流れる。

 

 いみじくも18世紀のJ.J.ルソーが『社会契約論』で説いたのもこの事態に他ならない。

 自らや身内のみを優遇すべく他から搾り取ることも厭わない「全体意志」を否定して、

構成員全体を受益者とする「一般意志」の共和国を志向する。

 言い換えれば、卑劣の同義語としてのsocialを焼き尽くし、commonの軛に従える。

 

 本書が迫るのはそんなマイノリティの姿、本来ならばまず追及されるべき連中の全容は

残念ながら、あまり明らかにされることはない。そして取材対象者に偏りがあるといえば、

確かにその通りなのだろう。しかし、その片手落ちもやむなきこと。というのも、「その問題を

暴こうとすると、命を落としかねない。……『国境なき記者団』は、20168月、『メキシコでは

26日ごとに1人、ジャーナリストが殺害されている』と発表した」。

 このようなリスクをまさか強いることなどできるはずもない。

 

 排他原理と暴力性はいずれ自壊へと向かう。そんな世界のオルタナティヴを探る。

 本書は一方で国家の死を、そして一方で国家の胎動を伝える。

 デュー・プロセスを放棄した国家の成れの果てを、「麻薬戦争」は教える。

安心か、安全か

  • 2017.09.08 Friday
  • 23:10

 ヒューマン・エラーを排除する最適の方法とは、ヒューマンを排除すること。

 

「以上、三つのケース[自動運転車、医療、軍事]から見てとれるように、AIは今後、

私たちの暮らしや社会、さらには国家システムの中枢に入り込み、それらを(良きに

つけ、悪しきにつけ)劇的に変える可能性が高い。

 であるだけに、もしもAIが誤作動や暴走をした場合の被害もまた、計り知れない

程に大きい。最悪の場合、それは私達人間の死につながる。

 ここで問題になるのは、私達がこの強力なAIを果たして制御できるのか、という

ことだ。結論を先に言うと、どうも、そうではなくなりそうな恐れがあるのだ」。

 

 例えば、運転の認証システムや、内科的診断のAI化手法についての新書レベルの

解説書というのならば、よくできた一冊と評するべきなのかもしれない。

 しかし、本書の表題は仮にも『AIが人間を殺す日』である。だとすれば、その刺激的な

テーマからはかなり遠いところを徘徊しているようにしか、私には見えない。

 自動運転車テスラの死亡事例にしても、読めば読むほどに単なるヒューマン・エラーと

しか思いようがない。すなわち、一義的には、公道テストすらしないまま、ベータ版を

クライアントに売りつけた上でデータ採取を図るメーカー・サイドの、そして二義的には、

具体的なスペックも把握しないままに、オートパイロット機能を過信した所有者個人の。

いわゆる「ファット・テール」現象、すなわちベルカーブの「『正規分布(理論)上は

起こり得ない』とされることが、現実世界では意外に高い確率で起きる」ことに筆者は

事故原因を求めるのだが、ハイウェイを左折してくる対向車をまともに認識できないのは

単なる欠陥としか見えず、想定外とみなすのはかなりの無理筋と言うべきだろう。

 筆者が危惧する医療診断の決定過程のブラックボックスにしても、一件の旅客機事故を

声高に取り上げて自動車の安全性をアピールする類の荒唐無稽としか私には読めない。

現状の医学研究、臨床における疾病、症候群認定や処方箋の揺らぎ、曖昧さを見ても、

筆者が寄せるほどの信頼を少なくとも私は人間に何ら見出すことができない。

 軍事のテーマにしても、紙幅の少なからぬ部分はさしてAIと直結するとも見えない

アメリカの核戦略や研究費調達の問題に割かれ、対してロボットの現状と言えば、

「ターミネーターが怖ければ、部屋に隠れてドアを閉めておけば大丈夫」という段階に

過ぎない。

 

 話の運びは明快で議論の整理はある程度つけられてはいるが、記述の内容自体は、

先行する文献や新聞記事の切り貼りが主で、研究の最前線からの目新しい警告が

発せられるでもない。理論的にも既知の域を出るものではないだろう。

 表題を例えば、人工知能の現在地、とでもしておけばまだ害はなかった。しかし、

ここまで仰々しいタイトルを掲げてしまった以上、看板倒れ、とジャッジするしかない。

 全体的なスタンスとしてやはり終始疑問に思えてならなかったのは、AIの暴走リスクを

恐れるあまり、人間の暴走が引き起こしている弊害が過少視されている点である。

昨今の言い回しにならえば、安心を求めた末、安全を放棄する、というところだろうか。

 なるほど、遠からぬ未来にAIはブラックボックス化するだろう、それはつまり、2歳児に

量子力学の講義を聞かせるような意味においても。さて壇上の教授が受講者のレベルに

合わせたとして、そこからいかなる利益が期待されるというのか。むしろその水準低下の

弊害こそをわれわれは危惧すべきではなかろうか。

Blowin' in the Wind

  • 2017.07.24 Monday
  • 22:25

「筆者は過去10年ほどの間、アフリカ、アジア、中南米など世界各地で霊長類の姿を追い、

絶滅が心配されている霊長類の研究や保護に取り組む研究者の姿を取材してきた。……

多様な彼らの姿は見る者を飽きさせないし、森の中で霊長類の姿を見ることは理屈抜きで

面白い。だが、その多くが今、絶滅の危機に立っている。国際自然保護連合(IUCN)

よると地球上には亜種まで含めると約700種の霊長類がいるが、このうちほぼ60%が

絶滅の危機にあるという。そして、彼らを絶滅の瀬戸際に追いつめているのは、人間という

たった1種の霊長類の行動だ。

 各国で見てきた霊長類保護の現場からの報告を元に、どうしたらこの地球上で人間と、

われわれに最も近い親類が末永く暮らし続けてゆくことができるのか、ひいては人間が

地球の生態系を守りながら、末永く暮らしてゆくにはどうしたらいいのかを考えようというのが

本書の狙いである」。

 森がなくなることでそこに住まう霊長類が追いつめられるのか、霊長類がなくなることで

彼らの住まう森が失われてしまうのか。

 生態系をめぐる、そんな悲惨なスパイラルの相を映し出すのが本書。

 

 広大な森林を国土に抱えることは、つまり未開発の証。

 他の例に漏れず、霊長類の問題はすぐれて経済の問題と結びつかずにはいない。

 絶滅の危機をもたらす大いなる要因は食用に供されること、さりとてその行為を野蛮と

批判するのは傲慢にすぎる話。「農村部を中心に人口が増え、伐採作業や鉱山採掘などで

働く貧しい労働者が地方で増えた結果、タンパク質を取るにはブッシュミートに頼らざるを

得ない人々の数が増えているという現実がある。……絶滅の恐れが高いキツネザルなどの

狩猟を禁じる法律の執行体制を強化することは重要だが、場合によってはそれが、人々の

栄養状態の低下や病気の拡大につながりかねないと懸念する研究者もいる」。

 木炭に供するための伐採や焼き畑を非効率と糾弾したところで、彼ら最貧国の経済が

救われることはないし、散々食い散らかしてきた先進国に大口を叩かれるいわれもない。

 国外輸出向けの1匹の幼いペットを捕獲するために時として数匹の命が犠牲になる、

なるほど残虐には違いない。ただし、これに代わる稼ぎのモデルを見出せない状況で、

やめろ、と単に叫んだところで、誰もそんな声に耳を傾けやしない。希少種ウォッチングの

観光需要で雇用を得る人間も、生態系との折り合い上、限られてしまう。

 もし仮に今、ヒトが滅びたところで、他の霊長類の危機が遠のくわけでは必ずしもない。

絶滅危惧種の多くが近親交配に終始するしかない関係上、インブリードが煮詰まってしまう

リスクを抱え込んでいるためだ。その回避は辛うじて遠隔地の種を結びつけることで

果たされるがしかし、その媒介は現状、ヒト以外の担い手を持たない。

 

 霊長類の危機、森林の危機は、当然「万物の霊長」に危機を及ぼさないはずはない。

 ある研究者は訴える。「今後の数十年が類人猿の将来を決める。貧困、政府の破綻

そして政治的不安定が支配する世界では、類人猿に将来はない。彼らの将来は我々の

将来そのものでもあるのだ」。

 本書を見事に要約する。ただし答えは風に吹かれて。

QOL

  • 2017.07.07 Friday
  • 23:16

 思いやりと管理社会って、限りなく同義語。

 

「ここで私は8つの医療者の物語を紹介した。その理由は、ある専門職の一般的な

あり方や考え方を紹介するためでも、ある専門職の模範的なあり方を示すためでも

ない。/そうではなく私は、ここに出てくる8つの物語が、読者のこれまでの人生と

何らかの形で共鳴することを願ってこの本を書いた。……あなたがこの物語を読んだ

時に抱いた感情は、無数の問いの答えの集合体であるあなたの自身のどこかを――

心地よい形であれ、不快な形であれ――指し示しているはずである。そして、その

指し示されたあなたのどこかをよく見る作業は、あなたという集合体がどういう存在

なのかを知るきっかけになるだろう」。

 

 本書が映し出すのは、「医療者」の立場から見た種々のミスマッチの風景。

 供給と需要のミスマッチ、市場に限らず「医療者」と患者においても例外ではない。

療養型病院に勤務していた看護師のケース、患者に急かすほどの元気もないのに、

なぜこれほど忙しいのか、自問自答して気づく、「お年寄りに追われていたのではない。

スケジュールに追われていたのである」。

 あるいは医療パラダイムのミスマッチ。漢方医の場合。そもそも漢方医学は患者の

状況に合わせたカスタマイズを主とする性質上、西洋医学的なエビデンスの概念とは

根本的になじみづらい。そこに集うのは大概が西洋医学では効果を実感できなかった

患者たち、そして彼らは実効性を訴えるにもかかわらず、「患者に益をもたらさなかった

科学の言葉で自らの正しさを証明する必要性が皮肉にも漢方医学には課せられて

いるのである」。

 

 そんな中でもひときわ印象的なミスマッチの光景がある。

 それはそもそも病気を「治す」場としての医療の前提を揺るがすような問い立て、

とある理学療法士が勤めるのは入院患者の半分が寝たきりの高齢者という病院、

彼が言うに「手技療法だけがリハビリではない」。現実に劇的な運動機能の改善が

望める環境ではない。ただし、「同じ空間に人々が集まり、そこで他愛のない会話が

生まれること、それによって楽しさを感じられること、それらを全部ひっくるめて

リハビリなのでは」と言う。この見解は同業者の反発を招く。「何かをやってあげ」て

「治る」に近づけてこそリハビリであって、これに従えば、「治せていない」以上は

「理学療法ではないという結論になるのだろう」。

 そして筆者は問う。「リハビリの時間を通じて、高齢の入院患者が笑顔になったり、

生き生きしたりする事実を私たちはどのようにとらえるべきなのだろう? それは、

その辺の通行人もできる簡単なことと言えるのだろうか?」

 

 文章はしばしばポエティック、「人類学」という枠組みもよく分からない。

 けれども、これらの「物語」は現代医学の風景をめぐるクオリティ・オブ・ライフの

問題へと読者を引き寄せる。

 胃ろうされてまで生きたいか、末期がんに侵された身で好きなものを口にするのは

わがままなのか、そんなことを老境の我がこととして束の間、想像してみる。

 定量性から定性性へ。筆者のことばでいえば、「医学を医療に変換すること」。

 ただしそこには絶えず、各種のコストという定量性の極みが障壁として横たわる。

 物語をなくした世界であえて「物語」を記す。

「ボストンの次は、いよいよ天国だ」

  • 2017.06.30 Friday
  • 22:45
評価:
ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム
竹書房
¥ 1,728
(2016-04-07)

『レ・ミゼラブル』の出来事、粗暴なこそ泥ジャン・ヴァルジャンは捜査の手を逃れるべく

教会へと逃げ込み、そこで「悔い改め」て赦しを受けると、名前を変えて裏口から再度

社会へと出て、有徳の起業家、自治体長として、ひとまずの成功を収める。

 とはいえ所詮は物語、現実の教会はかくも麗しき「浄化」作用を持たない。

 

20016月、ローマ・カトリック教会ボストン大司教を長年つとめるバーナード・F

ロウ枢機卿は、型通りの裁判所提出書類を使って、大それた承認をした。ひとりの

司祭を『派遣端境期』とする承認だ。話は、17年前にさかのぼる。ロウ枢機卿は

ジョン・J・ゲーガン神父に、裕福な郊外の教区司教代理という割のいい仕事を与えた。

そのつい2か月前、ゲーガンには7人の少年を虐待した疑いがあるとの報告を受けて

いたにもかかわらず――」。

 

「少年に性的いたずらをした疑いのあるひとりの司祭のニュースが、司祭をかばった

ひとりの司教のニュースに様変わりする」。

 もちろん一義的に糾弾されるべきは個人のモラル、しかしそれが教会組織そのものの

構造問題とすることを飛躍と捉えることはできない。

 まさかこの報道を契機に、性職者による虐待問題をカトリックが把握するところと

なったわけではない。この枢機卿が作成に携わった1985年のレポートには既に

こう記されていた。

「小児性愛は生涯にわたる病質であり、今のところ、時が癒してくれるという望みはない」。

 しかし、にもかかわらず、性職者はほんの形式的な短期の入院の後、テリトリーを変えて、

過去の事実は伏せられたまま、野に放たれた。当然、刑事司法に引き渡されることもなく。

 そして彼らは行く先々で再犯を重ね続けた。

 

 そしてこの事件が何よりも痛々しいのは、教会の素顔を露呈させてしまったことにある。

 この枢機卿は「司祭のための司祭だった。/同様の同情心を、ロウ枢機卿は司祭に

虐待された被害者たちに示せなかった」。

 ロウをもしヨハネ・パウロに置き換えてみれば――やはり見事なまでに成立する。

ベネディクトゥスでも、フランシスコでも、結局、何も変わらない。

 教会の外側に、共感の対象などなかった。

 肥え太った肉体がすべてを証言する。

 性職者のユートピア、選民思想の場としての教会史に聖職者などひとりもいない。

 

 映画『スポットライト』の原案という点に印象が引きずられているのかもしれないが、

本書はいささか奇怪な文体を持つ。

 というのも、取材の主体や経緯が見えてこない。

 模糊たるブラックボックスからことばが投げ出される、あたかも教会を真似るように。

 

「少数の悪者が、残りをすべて悪者に見せてしまう」結果、「そんな輩ばかりだと憶測する

人が過度に増える危険があり、それもまた、公正ではない」。

 なるほど、一般論としては非の打ちどころなく正しい。

 しかし、「悪者」を温存し続ける組織に身を置くことを選んだ人間に「悪者」との視線を

注ぐこともまた、同様に否めない。

 成功はすべて合理性に由来し、失敗はすべて人間性に由来する。

 社会性と社交性は常に反比例する。

 人間が集えば、そこに腐敗が生まれる。