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  • 2020.05.10 Sunday

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    濃厚接触

    • 2020.03.31 Tuesday
    • 20:14

    「“売春島”――。三重県志摩市東部の入り組んだ的矢湾に浮かぶ、人口わずか

    200人ほどの離島、周囲約7キロの小さな渡鹿野島を、人はそう呼ぶ。島内の

    あちこちにパブやスナックを隠れ蓑にした“置屋”と呼ばれる売春斡旋所が立ち並び、

    島民全ての生活が売春で成り立っているとされる、現代ニッポンの桃源郷だ。……

    島内には、実際に女と対面して選んで遊べる置屋が立ち並ぶ。そして、それ以外の

    民宿、ホテル、喫茶店、居酒屋などでも女を紹介してくれるのである。

     だが、それらは客目線の域を出ず、あくまでこの島の表層部分を見聞きしたに

    過ぎない。『“売春島”というヤバい島がある』と。

     そして、その“ヤバさ”は、こんな噂から来ているのである。

     

     ・警察や取材者を遠ざけるため、客はみな監視されている

     ・写真や動画を撮ることは許されない

     ・島から泳いで逃げた売春婦がいる

     ・内偵調査に訪れた警察官が、懐柔されて置屋のマスターになった

     ・売春の実態を調べていた女性ライターが失踪した

     

     これらの話は、インターネットや口コミでまことしやかに囁かれているものだ。

    いずれもが完全な検証はされていない。

     だが、誰かが創作した小説の中の話でもない。事実、このうちいくつかは実際に

    起きた事件が元ネタだ。“売春島”は実在する。しかも、古くからこの島では公然と

    売春が行われ、それは今も続いている……本書では、“売春島”が凋落した全貌と、

    いまだ知られざる噂の真相を検証していく。それは、この島に魅せられた僕が、

    歴史の生き証人たちを訪ね歩きそして、本音で語り合う旅でもあった」

     

     聖のモチーフはすべからく、穢の極致たる性へと収斂する。

     江戸の昔、あるいは以前から、この船着場には「菜売り」という風習があった。

    「菜売りはね、小さな天馬船(甲板がない木製の船)に乗って、畑で採れた菜っ葉や

    大根などの野菜を船に売りに行くんだよ」。女は水夫を相手に、洗濯などの雑務も

    引き受け、そして当然、春をもひさいだ。

     そうして、民俗学にかこつけた大叙事詩を展開することもできたかもしれない。

     あるいは、山師たちの大言壮語を真に受けて、面白おかしく脚色の限りを重ねて、

    新たなる都市伝説の舞台に仕立てることもできたかもしれない。

     どうとでも転がせたはずなのに、それにしても跳ねない。本書全体をひたすらに

    重苦しさが覆う。束の間の栄華が通り過ぎた後の構造不況に蝕まれた街の空気を

    何にも増してこの文体が物語る。

     はっきり言えば、つまらない。何がここまでテキストをつまらなくしているのか、

    その一端を元女衒の証言に垣間見る。

    「でもな、ほんとに良い島やったよ。良いというのはな、『男のために』と

    みんなが同じ目的で来ているやんか。せやから荒んだ気持ちが無いんよ。

    私にしても『何で私だけが売春して稼がなアカンの』なんて気持ちは無かった。

    みんな和気藹々で、『どんだけ男に貢ごか!』てなもんや」。

     男に夢を見た女たちに男たちが夢を見た、そんな「良い」時代があった。

    本書の中心をなす、やがて経営破綻をもって島を追われる元女将は、

    いみじくもコンサルを騙る男に吸い尽くされて、そしてすべてを失った。

    そんな夢をなくした島を歩いて回れば、むき出しの現実を拾う羽目になる。

    斜陽ですらない。買うべきものも、売るべきものも、もはやない。

     そうして島に残るものといえば例えば、競売落札額500万円の物件に

    不動産評価額1億数千万円に基づく固定資産課税を催促しても涼しい顔の、

    現実を直視する能力すら持たない行政、既得権益の壁。

     筆者が真摯に向き合えばこそ、どうあがいても、つまらない。

     

     浄化を志向した末に、経済が死滅し、何もかもを失う。

    「売春島」のその姿、現在進行形の世界に限りなく似る。

    表現の不自由

    • 2019.08.15 Thursday
    • 21:54

    「今回はこれまでとは違うのです」。

     2007110日、そう男は受けがった。

     イラク戦争の失敗はその時点で既に明白だった。大量破壊兵器をめぐる大義は

    でっち上げだった。テロリストの猛威を前に、米軍のできたことといえばむしろ

    火に油を注ぐようなものだった。中東に民主主義を広めるとの理念も頓挫した。

     にもかかわらず、その男、G.W.ブッシュ・ジュニアは驚愕の一手に打って出る。

    段階的撤収どころか、イラクへの派兵増員に踏み切った。

     本書は、その決定に基づいて新たに送り込まれた大隊の一つ、第一歩兵師団

    第四歩兵旅団第十六歩兵連隊第二大隊をめぐる物語。

    「彼[陸軍中佐ラルフ・カウズラリッチ]の兵士たちは、増派が始まったときにはまだ、

    彼のことを『敗将カウズ』と呼んではいなかった。やがて負傷することになる

    兵士たちは、そのときにはまだ五体満足だったし、やがて死ぬことになる兵士たちも、

    そのときにはまだ生を謳歌していた。彼お気に入りの兵士、彼の若い頃そっくりだと

    言われていた兵士は、『こんな糞みてえなところ、もううんざりだ』という手紙を

    友人にまだ書き送ってはいなかった。やはり彼が目をかけていたもうひとりの兵士も、

    『希望をすっかり失くした。もうじき終わりが来る気がする。もうすぐ、いまにも』と、

    隠していた日記にまだ記してはいなかった。別の兵士は、血だまりをぺろぺろ舐めて

    渇きを癒している犬を撃ち殺すほどの怒りをまだ抱えてはいなかった。すべてが

    終わった後で大隊一の勲章受章者となる兵士は、自分が殺した人々のことを

    まだ夢に見てはいなかったし、梯子を登っていたふたりの民間人について神に

    問いただされたらどうしようという不安をまだ抱いてはいなかった。別の兵士は、

    眼を閉じるたびに、男の頭を撃ち抜いている自分の姿が浮かび上がったり、

    その男の頭を撃った自分をじっと見つめていた幼い女の子の姿が見えたりする

    ことはまだなかった。彼自身の夢について言えば、やがてたびたび見るようになる

    夢はまだ現れてはいなかった。少なくとも、妻や友人たちが取り囲んでいる墓地の

    穴に自分が突然落ちていく夢や、自分の周りの何もかもが吹き飛ばされ、なんとか

    応戦しようとしても武器も爆弾もなく、空の薬莢の入ったバケツしかないという

    夢はまだ現れていなかった」。

     

     ある者は四肢を失っていた。ある者は重度の熱傷に冒されていた。

     前線で重傷を負った兵士のための医療施設、通称「勇者のセンター」の落成に

    あたって、軍の幹部はスピーチを寄せた。

    「みなさんについて、こう言う人がいるでしょう。『彼は腕をなくした、彼は脚を

    なくした、彼女は失明した』と。でもそれは違うのです。あなたがたはその腕を

    捧げたのです。その脚を捧げたのです。目を捧げたのです。国への贈り物として」。

    捧げた」その現場、ラスタミアには誰も来なかった。「連邦議会のメンバーは

    ひとりとしてやって来なかった。ジャーナリストはふたりだけ来た。しかしこれは、

    イラクの別の地域を素早く『車中の遠足』をした後で増派は成功していると

    宣言していたワシントンのシンクタンクの学者の数より多かった」。

     そして彼らは高らかに宣言するだろう、20079月における戦死兵の数は

    イラク全土で最少を記録した、ミッション成功の証左だと。彼らは決して直視しない、

    統計は嘘をつく、「戦争に無関係な」死者は省かれた上での数字であることを。

    彼らは決して直視しない、統計が語るだろう死傷者のその実情を、「銃弾。火傷。

    爆弾の破片。手を、腕を、脚を、目を失った。鼓膜が破れ、大腿が押しつぶされ、

    筋肉が剥ぎ取られ、神経が切断された。ある兵士は、作戦基地で公衆電話を

    使おうと待っているときにロケット弾が近くに着弾し、腹部に重傷を負った。

    ロケット弾、追撃弾、携行ロケット弾、スナイパーによる銃弾、EFP」によって広がる

    戦場の惨劇を。彼らは決して直視しない、平和と自由をもたらすためにやってきた、

    そう信じていた兵士が市民から向けられる、恐怖と懐疑に震えるその眼差しを。

     そしてそれから10年の時が流れて、情報化社会は刺激への中毒を加速させた。

    フード・ポルノ、動物ポルノ、感動ポルノ、そして「捧げ」る愛国ポルノ。

     

     作戦を支えるべく、基地には数十人の現地人が通訳として雇用されていた。

    「彼らの月収は1050ドルから1200ドルだった。その金と引き替えに、兵士とともに

    EFPに吹き飛ばされたり、スナイパーに狙われたり、ロケット弾や追撃弾を

    撃ち込まれたりする危険を、さらに同胞のイラク人から『よそ者』と見なされる

    危険を、一身に引き受けていた」。

     この後新たに君臨する大統領は、アメリカのために献身し、ただし祖国では

    「売国奴」と謗られた彼らをも十把一絡げに入国禁止令を発動するだろう。

     しかし、ポルノ消費者はあまねく刺激の応酬にそんな過去をとうに忘れ去った。

     既に歴史実験の結論は出た。デジタルに長文は向かない、熟慮は向かない、

    見たいものしか見ない、脊髄反射のめくるめく劇場の他に提供物は何もない。

     クソすぎる世界をクソすぎるものとして表現する、それこそが真実なのだ、

    なぜなら世界はクソだから。

     見たくないものを見る、見せられる、そのために表現はある。

    「少しでもまし」な生活が最高の復讐である

    • 2019.07.19 Friday
    • 21:37

    「ハンセン病者が隔離政策の『被害者』として位置づけられたことは、きわめて重要な

    社会的意義をもっていた。だからこそ、聞き取り調査を始めた頃の私自身もまた、

    ハンセン病者の経験を『加害/被害』あるいは『差別/被差別』の構図のなかに

    位置づけて理解しようとしていた。かれらの受難と孤独に寄り添いたいと思うがゆえに、

    そして支援者という当時のみずからの立場ゆえに、この構図はよりいっそう動かしがたい

    ものとして私のなかにあった。しかし、この構図へのとらわれはときに、多様な情動と

    記憶が想起されるはずの会話の場を、かなり不自由なものにしてしまう。それだけでなく、

    被差別や受苦の経験とは位相を異にする出来事の連なりを、みえなくしてしまう」。

     

     映画『この世界の片隅に』の一コマ。絵の好きなヒロインが風景をスケッチしていると、

    憲兵に呼び止められてスパイの嫌疑をかけられる。強権的な全体主義像の素描として

    旧来の戦争物語ならばまとめられていただろうシーンの換骨奪胎がここに図られる。

    彼女を少しでも知っていれば、これほど滑稽な話はない。たちまち笑いが生まれる。

     服従でもなく、抵抗でもなく。人々が束の間見出した「自由」がそこにあった。

     

     本書にそんな記憶がオーバーラップする。

     彼らハンセン病者が見出した自由の軌跡をいくつか拾う。

     

    「療養所のなかには働くことが可能な者と不可能な者がおり、双方のあいだには

    『貧富の差』と表現されるような生活水準の格差が生じていた。……取り残された

    若者たちは、現金収入が得ることができないこと、『外の社会』への回路をもたない

    こと、この二つの要因によって『みじめ』な社会的位置に留め置かれていた」。

     ここで持たざる者が知恵を絞り、療養所に無免許の酒屋を開くことをひらめく。

    見た目に病の症状の軽微な者が外部への仕入れの交渉にあたる。体調のよい者が

    所内の配達や空き瓶の回収を担った。体調がすぐれなければ、店番と計算に回る。

    「かれらは低体力のため、一般社会で要請されるような労働規律に従うこと、つまり

    雇用主によって定められた労働量を毎日こなすということは困難だった。しかし、日々の

    体調に応じて自分の仕事内容を選ぶことができれば、働くことも可能になる。……

    こうして、療養所外での労働が不可能な人に対しても、現金収入を得ることが可能に

    なる道が開かれた。だがかれらにとって同時に、あるいはそれ以上に重要だったのは、

    療養所内でみずからの身体上の制約と折り合いをつけつつ仕事をする場所を、

    自律的に生み出し維持してきたことそれ自体であった」。

     

     飲むと来たら、次は打つ。彼らは自ら相撲賭博を開いた。勝敗予想の的中者に

    払い戻し、差し引いた手数料を賃金に回す。「賭博という遊戯は、誰もが日常的に

    参加できるという意味において、多くの人に開かれたものとして存在していた。

    もちろん、飲酒や賭博によって得られる快楽は一時的なものでしかないし、一般的な

    感覚からみれば、これらは決して健全な娯楽と呼べる類のものではないかもしれない。

    しかし、すべてを奪われた経験の痛みを少しでも癒すため、そして、単調な日々に

    少しでも彩りを添えるため、かれらは賭けの場を必要とし続けた。……刹那の希望と

    心の躍動、それがたとえ一時的なものであれ、その瞬間をつなぎあわせていくことに

    よって、重苦しく単調な日々をどうにかやりすごしてきたのである」。

     

    「支配/被支配」の軛をひとまず括弧に入れて、「いま‐ここ」の「刹那」を享受する。

    そして再びその括弧を戻す。ほとんどの場合、「刹那」は黙認とみなされる。

     ここに歴史の皮肉と痛々しさがある。

    岬の兄妹

    • 2019.04.20 Saturday
    • 21:21

    「日本にはかつて『障害者』であることを理由に、体にメスを入れて生殖能力を

    奪う法律があった。『不良な子孫の出生を防ぐ』ためと法文で謳い、騙して

    不妊手術を行っても良いと国は通知した。

    『強制』と『同意』で24991人。

     半世紀近く続いた優生保護法下の被害者総数だ。国は法改定の後も被害を

    放置し20年余がすぎた。1人の知的障害の女性が姉に支えられ決断した。

    国に対して『NO』と訴える声が上がり始めた」。

     

     1941年生まれの男性Kの場合。

     北海道の農家に養子として引き取られ、当初は大切に育てられたものの、

    養父母が実子を授かると一転、Kは疎外感に苛まれる。周囲から「もらい子」と

    指差されたことも事態を悪化させた。中学卒業後に就職こそしたが、生活は荒れ、

    街で喧嘩に発展することもしばしば。そんなある日、待ち受けていた警察官に

    連行された先は精神病院、医師の面談は一度もないまま「精神分裂病」との

    診断が下り、強制収容から約一年後、不妊手術が執行された。

     

     女性Sが負った障害は、乳児期の手術で用いられた麻酔の副作用だった。

    ところが情報公開請求によって提出された「優生保護台帳」の手術理由には

    「遺伝性の疾患」と記載されていた。「優生保護法では、遺伝性でない障害・

    疾患による不妊手術は親の同意が必要だが、『遺伝性』の場合、親の同意すら

    必要なく医師が申請し都道府県優生保護審査会が認めれば強制的に不妊手術を

    行うことができ」た。

     

    「取材に応じた人たち[医師や審査委員]は異口同音に『そういう時代だった』

    『法に従って進めただけ』と語った。……国家が優生思想に法律というお墨付きを

    与えた時、あってはならない人権侵害が『正義』とされ、正当化されていた。

     ユダヤ人のホロコースト(大量虐殺)を行なったナチス幹部アドルフ・アイヒマンの

    裁判を傍聴したユダヤ人の哲学者ハンナ・アーレントが、『命令に従っただけだ』と

    法廷で繰り返す被告を、『悪の凡庸』と表現したことが思い出される。……不妊手術に

    かかわった人たちも、誰もがどこか他人事のように語った。それは、彼らが『人でなし』

    だからではなく、いくらその行為が人権侵害だったという説明を受けても、実感を

    持てずにいるのだ。実感を持てなくさせたことこそが『国家の罪』だった」。

     おそらくこの批評は半分正しく半分間違っている。つまり、「悪の凡庸」の機能性を

    説明するにおいて正しく、この「罪」の主体を「国家」に限定することにおいて誤る。

     いみじくも「実感を持てなくさせ」る。前近代社会における神の最大の機能は、

    「悪の凡庸」へと人々を誘うことによる殺人や排除の正当化。そう看破したのは

    社会学者E.デュルケームだった。時は流れようとも人間のありようは同じ、神から

    例えば「国家」や「法」や「公共の福祉」へとその名をかけ換えたに過ぎない、

    近代が未だ世界に来たらぬことを優生保護法とその顛末は証明する。

     支配−被支配。健常者−障害者。決して破れることのない非対称性の中で、

    スタンフォード監獄実験よろしく、人はどこまでも残酷になれる。それが歴史。

    同一構造に代入されるに過ぎない人名や年号に知るべきものなど何一つない。

     人間に肯定すべき何かを模索する狂気のある限り、愚劣の円環は果てしなく続く。

     

     法の支配なるものは本来において想像力が媒介する両者の入替可能性をベースに

    成り立つ。自分たちのルールは自分たちで決める、その精神が民主主義を規定する。

     そもそもの成立要件としての知性、理性を欠いた輩にどうしてこれらを営むことが

    できようか。定義すら見出しようもない「健常者」が「健常者」であることさえ

    疑わない、疑えない思考停止のサルの群れは決して近代へと辿り着くことができない。

     

     だとすれば何が残るか。

     法律は金で買える。その金を稼げない者は「障害者」として排除する。約束された

    低成長とルール・メイクの結果、いくらマイナスをかぶらされてもすべては自己責任。

     拝金主義者のゼロサムゲーム、語るに落ちる新元号、零和の時代の幕が開く、

    これまでと何ら変わるところはない。

    くれないの豚

    • 2019.02.13 Wednesday
    • 22:49

    「話は数カ月ほど遡る。

     俺は『国境なき医師団』の広報から取材を受けた。ツイッター上で知り合った

    傘屋さん(実際にはまだ会ったことがない)と一緒に『男日傘』というのを作って

    売り出し、そのパテントをもらうつもりはないので『国境なき医師団』に寄付

    していた俺に、団が興味を持ってくれたのだ。

     で、向こうから取材を受け始めて10分も経っていなかったような印象が

    あるのだが、俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことが

    あまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、“現場を見せてもらって、

    原稿を書いて広めたい”と逆取材の申し込みをしていたのだった」。

     

    「私たちは好んで危険な場所に行くわけではないんです。きちんと安全を

    確保できると判断しなければ人員を送りません」。

     とは語るが、実際に「国境なき医師団」(以下MSF)の出向く現場といえば

    しばしば、日本の外務省に「渡航禁止勧告」を受ける地域だったりもする。

     そこまでのリスクを負わねばならないのはなぜ、具体的な活動内容への関心も

    さることながら、それが私の本書を手に取るにあたっての最大の疑問だった。

     そして、幾度となくパラフレーズを続けるその答えは「尊厳」だった。

    「それは憐れみから来る態度ではなかった。むしろ上から見下ろすときには

    生じない、あたかも何かを崇めるような感じさえあった。

     スタッフたちは難民となった人々の苦難の中に、何か自分たちを動かすもの、

    あるいは自分たちを超えたものを見いだしているのではないかと思った」。

     翻して言えばそれは、MSFの前線でもなければ彼らが他者への「敬意」を

    もはや容易には抱きようがない、という証なのかもしれない。

     例えばウガンダのキャンプで給水を担うフランス人スタッフは言う。

    「『水は金儲けのためにあるんじゃなく、人の生活の質を上げるためにこそある。

    僕はそう思うんです』

     それこそがまっとうな考えというものだった。もはや日本では、これが

    『ナイーブ』だと言われてしまう。『絵空事』だと言われてしまう」。

     そして「絵空事」と嗤うその同じ口が、平然と「公共事業」を謳い上げる。

     MSFを見る経験、本書を見る経験はすなわち、祖国を見る経験に他ならない。

     

     南スーダンを追われた難民女性に尋ねる。

    「体が治ったら何をしようとお思いですか?」

    「畑を耕したい。食べ物を作ります」

     即答だった。

     経世済民の金属疲労した国と、経世済民を志す成立途上の共同体。

     どちらに「生き甲斐」があるだろう。

     

     ここ数日、世間を騒がせるニュースのひとつに「バイトテロ」なる事象がある。

     当たり前だ、もっとやれ、と私は思う、思ってしまう。ファストフードや

    コンビニの利用客に対して払うべき「敬意」なんてはじめからないのだから。

     自分がされたら嫌でしょ? という「共感」戦略の何と滑稽極まることか。

    消費者に「尊厳」などない、ゆえに我が身を置き換えるべき余地もない。

    それはサラリーの問題にすらならない。醜い、卑しい、浅ましい、消費者が

    消費者であるがゆえに受けるべき当然の報いを受けているに過ぎないのだから。

     

     果てなき欲望で豚と化した両親を離れ、女児が身を投じた先は、世界最古の

    労働としての売春、遊廓。国民的ヒット作、『千と千尋の神隠し』のお話。

     消費社会の果てに原点への回帰を志向する、優れた舞台設定を構想しながら、

    豚が豚として無残に殺されゆく当然の有様を描くことのできなかった、もしくは

    描かせてもらえなかった宮崎駿が破綻を迎えるのは必定だった。

     豚は人には戻れない。