文化的資本格差

  • 2017.08.17 Thursday
  • 21:57

 公園がないと閉塞するのか、閉塞すると公園がなくなるのか。

 近代の終わりについて散歩しながら考える。

 

「いつも何かに追いかけられているような都会の生活に疲れたら、たまにはいつもの

生活を脇において、気持ちのいい時間を楽しんでみよう。

 東京にはよく整備された公園や庭園がたくさんある。木々に覆われた新しい公園から、

由緒ある日本庭園に西洋庭園、古くからの植物体系を守る植物園などなど。

 そして公園や庭園の魅力はもちろんだが、目的地に着くまでの道すがらの、

たたずまいや、音や、匂いを感じながら、まわりの風景を見ることもまた楽しさのひとつだ。

 いつもの日常からのちょっとした“小さな旅”である」。

 

 人口比で見れば、ロンドンの約4分の1、ニューヨークの3分の1ほど。

 もちろん、これには人口密度に基づく土建促進用の統計マジックが関与してはいるが、

世界の主要都市と比較したとき、東京というのは著しく公園に乏しい街だという。

 そうは言っても、23区内で漠然と電車を降りても、それなりの公園に辿り着く。

東京駅なら日比谷公園や皇居、新宿なら御苑、渋谷ならば明治神宮、ビルに囲まれた

ターミナル駅でもこの調子。

 都市のただ中で四季を知る、それが本書の趣旨。

 本書を彩る花の写真が、否応なしに春夏秋冬の存在を知らせる。

 

 資本の格差、本書を読みながら、そんなことをはたと思う。

 空洞化した地方の街をしばし想像する。駅周辺はシャッター通り商店街、いかにも

デヴェロッパーの手による区画のきちんと分割された建売の均質な住宅地、相対的に

栄える郊外のロードサイドといえば、ファストフードとパチンコ、リサイクルショップ……。

観光用に力を入れている市町村を別にすれば、ふらりと住民が散歩できるように

アクセスが容易で、なおかつ植物環境の整備された公園などそうお目にかかれない。

 かけられる金が限られている、優先順位もそう高くない、なるほど仕方ない。

 これならば、確かに東京の方がよほど季節に溢れた「小さな旅」を楽しめる。

 

 貴族のプライヴェートな道楽の庭を市民に向けて開放する、近代革命を象徴するように

公園の歴史ははじまった。

 そして現代、もはや開放すべき場すら持たない地域が存在する。

 公園を散策できるって実はとても贅沢なこと、そんなことを知らされる。

「落語はフィクションです」

  • 2017.06.30 Friday
  • 22:47

『明烏』に誘われて現代の吉原を訪ねてもどうなるものでもない。

 不機嫌に甘納豆を貪る語り口からふと、今はなき遊郭の姿が忽然と立ち上がる。

 そんなオーラル・ヒストリーとしての落語をつてに、あえて街を歩いてみる。

 

「落語散歩をはじめてみるのは簡単です。毎日暮らしている町から、ちょっと歩いて

みるだけで、浅草、新宿や道頓堀、天王寺といった身近なところに、こんなにも落語に

出てくる場所があったのかと、びっくりするかと思います。

 寄席で笑ったあの噺、テレビで見たあの落語を頭の中でリフレインしながら、それとも

携帯型の音楽プレーヤーから流れてくる旅の噺を聴きながら、落語と一緒に歩いてみれば、

時間は過去へと巻き戻され、ビルの向こうに澄んだ青空が見えてくるでしょう」。

 

 一介の聖地巡礼の形式をはるかに超えて、本書の味わい深さは、どこかリズミカルで

小粋なその文体にある。

 漠然と散歩の風景から抜き出す。

「王子神社の鳥居を抜けると、坂道が複雑にクロスした交差点にでます。田舎道を

そのままにして、田畑に作物の代わりに家やビルを建てたような地割りです。細道に

入ってみます。ひとしきり迷って歩いているうちに、遠くに朱塗りの玉垣が見えて

きました。先ほどの王子神社から直線距離で400メートルほどでしょうか。王子稲荷に

着きました。境内が幼稚園の園庭となっており、園児たちの遊ぶ声が響いています。

平日は園庭が通れないので、脇の急坂を登り、横の方の鳥居をくぐって境内に入る

ことになります。正面の楼門をくぐって参詣したい方は、休みの日の訪問をおすすめ

します。楼門の向こうに、ほとんど傾斜のかわらない男坂、女坂の石段がならんでおり、

その上に社殿が見えます」。

 そこらの噺家では到底再現できないだろう、この小気味よくもたおやかな語り口、

図らずも言文一致体のひとつの終着点に出くわす。

 

 巻末には都道府県別の登場地名の一覧が並び、文中においてもその頻度などの

データが並ぶ。こうした定量化が可能となるのも充実したアーカイヴがあってこそ、と

いうのは非常によく分かるのだが、その我田引水の力説が時として主題そのものの

密度を下げてしまっている感は否めない。

 

 散歩道は各自で音源やテキストにあたってみれば、数限りなく見つけられる。

 しかし、この文体はそうそう得られるものではない。

 ただそれだけのために続編を願ってやまない。

ジュード・ジ・オブスキュア

  • 2017.06.20 Tuesday
  • 21:59

「東京には、江戸時代に命名された坂が約500、明治以降に命名された坂が

140もある。……丘と谷が複雑に入り組んでいるので、そもそも坂が多いのは

当然といえる。しかし、多くの坂に名前がつけられた理由は、江戸という街の

特異性にあった。

 町人の住む地域には『江戸八百八町』(実際にはそれ以上あった)というように、

多くの町名が幕府によってつけられていたが、江戸の面積の8割を占めていた

武家地と寺社地には、理由は定かではないが、町名がつけられていなかったのだ。

 従って、人々が目的地に向かうには、どうしても俚俗地名が求められた。その

ランドマークとして選ばれたのが坂であって、その坂に町名を代替する名前が

冠せられるようになったというわけである」。

 

 筆者によれば、江戸の切絵図と照合すると、まだざっと7割ほどが当時の道筋を

留めているという。そして、坂の呼び名も今なお使われているらしい。

 ペラペラとめくる。「桂坂。鬘をつけた僧がこの坂で急死したとか、蔦葛が繁茂して

いたからとか、諸説ある」。「伊皿子坂、昔近くに明国(中国)人の王三官という人物が

住んでいた。世人は彼をエビス(夷)と呼んだ。これがインベイスと訛って、これに

『伊皿子』の字をあてた。後年、これが訓読みの『いさらご』に変わった」。

 ふむ、読んでいてもほとんど頭に入ってこない。グーグル・マップも味気ない。

 ということで過日、あてもなく漠然と坂の多そうな都下某所に降りる。

 地図の読めない私、本書のガイドも空しく、早々にルートを外れる。

 メイン・ストリートは車の往来でなかなか写真にならない。寺社仏閣が街の要所を

占めていることを再認識させられるが、江戸の名残とやらにもあまり関心が向かない。

 そんな中、曲がり角に差しかかる。影の覆った細い道。まっすぐに下っている。

 不意にときめく。

 たぶん名はない。

 裏路地の閑散とした坂の直線に私のフェティシズムがあることを理解する。

 

 終着点はその昔、幾度となく上り下りしただろう坂、本書ではじめて名前を知った。

 その日いちばんの傾斜、心理的な何かがそう感じさせているわけではない、はずだ。

 下り切ったその麓を見渡して慄然とする。

 何が変わったのかがもはや分かりようもないほどに、変わってしまっていた。

 10年でこれなのだから江戸の世となれば、もはや遠すぎて。

 

 帰宅してさらりと読み返す。

 ひときわ印象に残った緑潤う緩やかな坂が「名坂中の名坂」と讃えられていることに

気づき手が止まる。テキスト単体を目に通していた時には何のひっかかりもなかった。

 百聞は一見に如かず。

おもてなし(笑)

  • 2017.05.19 Friday
  • 21:35

「本書のテーマは、80年もの歴史を持ちながらも、過疎化や自動車社会へのシフトと

いう逆風の中で、地元では廃止の噂まで囁かれていた五能線がどのようにして

奇跡の再生を果たしたかである。

 逆風にさらされていたローカル線が、地域の自治体やコミュニティを巻き込み、

自助努力で『日本で一番乗りたい』と言われる存在になった。その再生の道筋を

たどり、復活の鍵を解き明かしていくのが本書の狙いである」。

 

 表題こそ『五能線物語』、ただし筆者は華麗なる経歴を誇るコンサルタント、

結果的に出来上がったのは、矮小化された抽象的なコピーの実践集。

 例えば「田園の秘境駅」、しかし本書にその魅力を伝える意欲があるようには

とても見えない。「『何もない』も価値となり得る」、そんなお題目を唱えるための

サンプルとしか、少なくとも私には映らない。

 全編がことごとくこの調子。「『ハード』と『ソフト』を組み合わせる」、「リワイヤリング」、

「ピンチこそチャンス」、「規律と自由の両立」……。

 いったいどこの意識高い系セミナーだろう。

 

 ホスピタリティを論じるサルが自ら実践した例が世界史に一度でもあるのだろうか。

 本書がなんとも耐えがたいのは、こういうクズのどうしようもない口車の材料として

現場の誠実までもが蹂躙されてしまう点にある。

 

 集大成としての道の駅がいみじくも示す、ステレオタイプをコンプリートしたいという

カスタマー・サティスファクションのアチーヴメントを目指して、過剰にデフォルメされた

ローカリティの押し売りとしての現代型地域再生、観光産業。

 こういうゴミみたいな話を束の間忘れるために旅ってするものなんじゃないの?

ゲオグラフィアの城

  • 2017.04.30 Sunday
  • 21:27

 高名な古地図のディーラーが、図書館の稀覯本から盗みを働き売り捌いていた。

 ――そんなスキャンダルの渦中の人、フォーブス・スマイリーが本書の主役。

「非常に能力のある者が、同時に大きな欠陥を持っている。私はようやく物語の皮肉を

理解するようになった。ここにいるのは地図を盗んだ男だ。そしてこの男は明らかに、

自分が歩んできた道を踏みはずしていた。地図の何が彼をそれほどまでに魅了したのか。

おそらくそれは私が引きつけられたものと同じだったのだろう――コントロールの感覚。

生活にそれがどれほど大きな力を及ぼすかはともかく、それは地図が付与してくれる

環境への支配感だった。スマイリーの話を調べている内に私は、彼が盗んだ地図を

作成した人々の物語――彼らが抱いた情熱や競争心――にも同様に好奇心をそそられた。

スマイリーや彼を取り巻く連中と話をしていて、私は自分自身が今、一人の男、一つの

専門的職業、そして一つのオブセッション(強迫観念)を盛り込んだ、一枚の地図を現に

描きつつあることに気づいた」。

 

 知れば納得、これほどまでに窃盗に適した素材も他にそうない。

 世の蒐集の大半と一線を画すのは、何せ地図のほとんどが印刷物であるという点にある。

「図書館の所蔵印のように明らかに出所の分かるものを別にすれば、特定の地図の複製が

どこから来たものなのか、その出所を言い当てることは非常に難しい」。たとえただ一点しか

現存が確認されていなくとも、他の品が発掘されないとも限らない、ゆえに白を切る余地は

いかようにもある。そして重要なことに「図書館には最上の地図があり、しかもそれを守る

ためのお金がない」。

 

 今日高額取引の対象となる地図は、往々にして図法や測量技術の満足に発達していない

時代のもの。例えば1世紀のギリシャ、プトレマイオス『ゲオグラフィア』によれば、地球の

全長は18000マイルで、アジアとヨーロッパの距離はわずか2500マイルでしかない。

 しかし、いかに誤謬をあげつらおうとも、コロンブスがこの地図を頼りに大西洋を渡った

事実を消し去ることはできない。世界の地理を紙の上で表示する、「この書物が大胆にも

提示していたのは――人間の心は数学的正確さで可視の世界を理解しうるということだ」。

 時にミリオン越えを記録する紙切れ、ただし今日の地理の授業にすら使えるはずもない、

しかし「スマイリーによって盗まれた地図は探検家、商人、権力者たちの夢を育んだ。

……地図は国家の拡張と帝国建設の進路を示している。そして英国支配の台頭、新国家の

建設、先住民の消滅を記していた。また地図は知識が終わり、想像力がはじまる境界線を

描いている。未知の世界を探検し、空白の土地を定義づけようとする人間の永遠の衝動を

表していた」。

 

 数百年の時の流れに変色した紙の向こうに、意味を透かし読み解いてみせる。

 それは単に古をたどるのみならず、現在を歴史の座標の中に位置づける作業でもある。

研究者や学芸員の手による重要な仕事、あるいは今日「ガン」と罵られるだろう彼らの。

 市場原理に物語を紡ぐ機能は組み込まれていない。

 

 皮肉にも、スマイリーにはその責務を担えるだけの知識があった。

「奴はとんでもないものを盗んでいきました。――あなたの心です」。