老舗の品格

  • 2017.10.29 Sunday
  • 21:24

「菓子は食生活のなかで考えると、あくまでも嗜好品であり、日常の生活において

別段食べなくとも困らないものです。しかし、嗜好品であるからこそ、菓子は私たちの

生活に潤いを与えてくれます。なおかつその存在は、日本の歴史・文化・伝統の上に

成り立っています。……少し大げさな言い方になりますが、小さな和菓子のなかには

日本文化が凝縮されているのです。/小さな日本文化たる和菓子の成り立ちを考える

とき……私は五つの段階から考えてみたいと思います。それは、/1. 果実や木の実/

2. 餅や団子/3. 唐菓子(からがし、からくだもの)/4. 点心(てんじん)/5. 南蛮菓子/

5つでこの段階を経て17世紀後半の京都で和菓子は一応の大成を見たのです」。

 

 本書において圧巻なのは何と言っても老舗なるもの歴史である。

 京都は今宮神社の参道であぶり餅を提供する一文字屋和輔、日本最古の飲食店、

創業は1000年だという。

 例えば貞享五年(1688年)のこと、京都の虎屋に公家の誕生祝の発注があったとの

記録が残されているというのだが、その主は水戸光圀。さしもの『大日本史』の起草者も

300年以上の時を隔ててそんな記録が留まろうなどとはまさか想像だにしないだろう。

 時代はかなり下るが、菓子がどれだけ好まれたのかを把握するに格好の統計がある。

明治19年の東京府のデータ、「都市部に相当する区部における菓子屋は4963軒と

2位の米屋1954軒を圧する数字でした。また、菓子屋はパン屋や料理屋のように

都市部だけに特徴的な業種だけではなく、農村部(郡部)でも他の業種を抜いて、

両者をあわせた数は6000を優に超えています」。

 そんな過当競争を生き抜いて、後世に史料までも残してしまうのだから、恐ろしい。

 

 とはいえやはりどこか隔靴掻痒の感は否めない。

 そもそも「図説」と銘打つ割に口絵の数は物足りず、看板倒れは否めない。

 鎌倉時代の「中国では、定時の食事以外にとる軽食を点心と言っていました。中国に

学んだ禅僧や中国人僧侶は、禅宗とともに点心の習慣を日本へ持ってきたのです」。

この「点心」ともに持ち込まれた茶の風習が、日本の「菓子」の確立の画期となったことは

たぶん疑いようはないのだろう。では、それ以前の史料においても既に登場する「菓子」は

どのように位置づけられていたのだろうか。例えば骨格標本から探るに、当時の栄養が

現代的な水準から判断したときに十分なものであったとも見えず、だとすれば「嗜好品」と

いう位置づけにはそもそもふさわしくないとしか思えない。

 上生菓子って技巧の限りを尽くした上で、基本的には餡。羊羹も饅頭もつまり餡。

なぜここまで「菓子」が餡に執着するのか、という謎が解かれない点も腑に落ちない。

 

 享保二年、時の将軍吉宗は隅田川の両岸にサクラの植樹を命じる。やがて江戸の

庶民を引きつける名所となるのだが、管理には当然先立つものを要する。その調達に

寄与したのが桜餅。目で、口で、サクラを楽しみ、そのお礼に維持費用を置いていく。

なんと見事な循環だろう。

 それに引き換え、現代の醜態の嘆かわしきや、あな麗しき江戸の花見か。

食の考古学

  • 2017.08.09 Wednesday
  • 21:51

「食文化は、新しい素材や料理を取り込んでどんどん拡張していく一方で、

取り込んだものをその土地に合った味覚へとチューニングする作用が働く。

新しくやってきた食べ物を、これまで自分たちが慣れ親しんできた慣習でもって

咀嚼し、我がものとしてしまう。

 日本では、近代の幕開けとなった明治時代に、それが顕著に起きた。……

本書は、そのようにして日本の定番となったメニューの歴史をたどり、それがいつ、

どのように生まれて根づいていったのかを探る本である」。

 コピペが次なるコピペを生んで、瞬く間に既成事実として周知化する。

 食を題材にそんなネット環境型常識にあえて文献アーカイヴをかけて検証する、

それが本書の趣旨。

 

 その典型が肉じゃが。

 かつて留学先の英国で食べたシチューの味が忘れられない東郷平八郎が再現を

命じたところから誕生し、今やそのエピソードに因んで、「肉じゃが発祥の地」として

舞鶴と呉が自治体ぐるみで町おこしのPRに躍起になる。

 ところがこの海軍起源説、実際に文献にあたってみると、どうも怪しい。

 さらに驚くべきことに、この呼び名が定着するのは昭和40年代に入ってから、という。

 

 こんなフランクなテキストが教えてくれるのは、例えば歴史研究の難しさ。

 筆者が参照するのは昔のレシピ本ばかりではない。小説の描写や新聞広告にまで

目配せした大層な労作なのに、その上で結論はしばしば曖昧。往々にして推理に

頼らさるを得ず、ただの食レポで締めて読者が首を傾げてしまう瞬間も時に訪れる。

 一般ニーズを対象とした資料の海に溺れる傍ら、その欠落に途方に暮れる。

 たかだか100年前の話を跡づけるにも手を焼かされるのだから、歴史学研究の

けもの道を想像して束の間、気が遠くなる。

化物使い

  • 2017.07.21 Friday
  • 21:41
評価:
パラダイス山元
新潮社
¥ 529
(2014-12-22)

「申し訳餃子いませんが、本書は『餃』の字が多過ぎます。

 日本で一番『餃』の字が多い本です。

 活版印刷の時代だったら、文庫化はムリだったと思います。

 

 溢れんばかりの愛情を皮で包み込んだカリッとよく焼きの餃子は、

 少子高齢化の日本に歯止めをかける切り札です。

『食べて』『交わる』と『子ども』ができます。

 読了後、すぐに餃子をつくって、交わってみて下さい」。

 

「私がこれまで日本国内で、餃子を食べた店は400店余り。……これまでの成績は、

13勝、427敗、28引き分け」(太字はすべて原文ママ)という。

「愛情」が足りない? 当たり前だよ。

 外食なんてそんなもの、というかいかなる業種においても、プロというのはあくまで

コスト管理のプロなのであって、品質について何らかの期待を寄せる方がお門違い。

 その上での飲食店へのあえての期待といえば、モンスターたちの謝肉祭、

見世物小屋機能の他に何もない。

 そして本書においても、そんなゾクゾクするようなカーニバルが展開される。

 さるコラムに惹かれて入った横浜中華街の店。

「てんてこ舞いの厨房では、息子が、父親に向かって罵声を浴びせています。何か

えらい店に入ってしまったな、というのがファーストインプレッション。

 デカイ中華包丁を振り回しながら怒鳴り合うライブは迫力満点。そのうちホール

担当の母親が間に入ったので仲裁かと思いきや、両者に向かって参戦表明。……

何なんだろう、この寺内貫太郎一家の中華版みたいなのは。……遅れて参戦した

母親が烈火の如く二人を怒鳴りつけていた最中にもかかわらず、会計時には

ほんの一瞬とてもかわいらしい笑顔に戻って『ありがとう』と。そして店を出て数歩

歩いた時には、店内から再び怒鳴り声が聞こえていました。

 あとで冷静に考えたら、その罵り合いも、くたびれ気味の店構えも、すべてが演出

なのではないかとさえ思いました」。

 

 そして筆者もまた、時にあまりに見事なカーニバルの担い手となる。

「だいぶ前の話になりますが、……元力士の敷島関(現在は年寄・浦風)と、ナンシー関

それにパラダイス山元関という三関の巨体と、その土俵入りを迎える行事のような、

ナンシーさんの書籍のご担当だった華奢な編集者の4名で、高級中華のオーダー

バイキングを食べに行ったことがありました。……お会計はたしか5万いくらだったの

ですが、それとなく聞いたら15万円分は食べていたそうです」。

 過食嘔吐のフードファイターからは決してしたたることのない幸福感、不摂生の巨体、

めまいがする。

 ヤバい、見たい、見たすぎる。そんな土俵入りが拝めたら、メシのうまい、まずいなんて

下らないこと、どうでもいいに決まってる。

 ナンシー関亡き今、もはや叶わぬ幻のライブ、これぞ人間の生きる道。

モダン・タイムス

  • 2017.06.14 Wednesday
  • 21:41
評価:
ポール・ロバーツ
ダイヤモンド社
¥ 3,024
(2012-03-09)

 日本国内での統計。1年につき死亡者数50万人強、被害金額10兆円。

 未曾有のテロリズム、手段は生活習慣病。本書のテーマはその主犯格たる食。

 

「本書では、読者の皆さんに、肥満や食料を介して広がる伝染病の蔓延、いつまでも

根絶できない飢え、さらには、第三世界における荒地から巨大な輸出専用農場への

転換といった、現在私たちが直面している一見異なる問題の多くが、実はそもそも

現在の食システムを生み出したものと同じ経済的メカニズムと関連していて、また

そのことがこれらの問題をより深刻なものにしていることを伝えたいと考えた。そして、

そのために、昨今食糧について語られている様々な問題を吟味し、食経済全体を

幅広く掘り下げてみた」。

 

 世界最古の製造業、食品産業。それはまるで成長の限界論を先取りするかのような

破綻の図式を告げ知らせてみせる。

「低コストでの大量生産には様々なメリットがあるが、コストを安く抑えながら大量の

食品を市場に送り返そうとすると、結果的に生産者は悪循環に陥ることが避けられない。

生産量を増やせば増やすほど、価格が下がるため、さらに多くの食品を生産しなければ

ならなくなるからだ」。

「食品」を適宜差し替えれば、どの業界にもあてはまるだろうデフレ・スパイラルの構図。

 もちろんサプライチェーンの下流、小売店でも従業員の給与切り下げでコストカットに

励むため、「ウォルマートの人件費削減によって、1985年以降のアメリカの平均賃金は

2.2パーセントも下がっている」。

 そして問題は単に経済システムに留まらない外部コストの存在を告発する。

 例えばエネルギー問題、「メーカーは多くの場合、食品そのものを作るよりも多くの

エネルギーをその容器や包装に費やしている。ある試算によれば、たかだか200キロ

カロリーの炭酸飲料を1缶生産するために、2200キロカロリーの炭化水素エネルギー

……が必要となる」。結果驚くべきことに、「食料生産がアメリカにおけるエネルギー

消費量の5分の1近くを占め」るに至る。

 資源の逼迫の最たるものはあるいは水なのかもしれない。ある研究者は指摘する。

「世界の人口は現在の65億人から2050年には90億人に達するなどと予測していますが、

彼ら[人口統計学者]は根本的な問題を忘れています。地球に90億人を支えるだけの

水はあるのか、という問題です」。

 効率の最大化は生命そのものを志向する。それは鶏肉に顕著に表れる。「1970年代の

ブロイラーが屠畜重量に達するまでに10週間かかっていたのに対し、今日それは40日で

達成できるようになっている」。ただしその代償として「あまりにも肉付きが良過ぎて、

生後5週間で歩くことはおろか、立つこともできなくなる。……産業用ブロイラーの4羽に

1羽は足が不自由な上、大きな胸筋が心臓に負担となって心臓麻痺や虚血性心不全で

若死にしている」。さて、これを品種改良と呼ぶべきか。

 

「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

ロバート・パーカー化する世界

  • 2017.05.29 Monday
  • 22:58

「テロワールを守ることは、頑なに反動的なまでに伝統に執着することと同じではない。

その反対である。共通の過去にしっかりと根を下ろしながらも、未来に向かって進んで

いく意志を持つことである。いま現在、その根から地上において自由に枝を伸ばし、

大きくなっていって、自分にふさわしい明確なアイデンティティを創造することである。

それが、グローバル化という波に屈して均質化されてしまうことと闘う道である。それが

倫理的な意味で積極的に行動する唯一の方法である。過去を尊重し、過去を基準点と

しつつ、しかし猿真似に終わらせないことである。……歴史的な記憶は、市場と文化、

そして国際政治の破廉恥な開拓とマーケティングという何もかも蹂躙していく嘘に対して、

たった一つ残されている歯止めである」。

 

 確かそれはイアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』の冒頭、ワインの当たり年を

知りたければ――つまりは投機価値の高低を知りたければ――、実物を飲むまでもない、

気温と降水量を調べさえすればいい。

 この判断の根底にあるのはロバート・パーカー、筆者に言わせれば「子どもっぽい味」、

「ケチャップ」、彼のハイスコアを得るには、言い換えれば市場で大金をせしめるには、

果汁は甘く濃密なほどいい。かくして世界の味覚はどうしようもなく画一化されていく。

 しかし、そこに筆者は問いを投げかける。果たしてワインはそれがすべてなのか、と。

そして、懐疑は単にワインの域を超える。「嗜好を表現することは、人間の自主独立を

表わすことであり、精神的な自由の象徴である」。然らば、「嗜好」のグローバル化、

つまり単一化は「人間の自主独立」をも脅かすことになりやしないだろうか。

 

 なるほど、筆者のことばはしばしばあまりに直截で、ただし一方でその真意を語る。

「本当の批評というのは、映画でもワインでも、みんなが自分の言うことにしたがうことなど

望んでいない。ただ、挑発して、読者に自制を促すと同時に、批評自体についてよく

考えてほしいだけなんだよ。みんなによく考えてほしいと薦めているんだ。自分が指導者に

なりたいだなんて、まったく思っていない」。

 本書にはしばしば政治批判が飛び出す。確かに享楽の酒をまずくするかもしれない。

しかし、その言動を我田引水の飛躍とみなすのは本書全体の誤読としかならない。

 言論の自由の原点とはつまり、著しい他害性を有しない限りにおいて、お前の言い分に

共感はしないが、ただし言いたいことを言う自由だけは認めてやる、この精神にこそある。

筆者にとってテロワールとはまさにこの「他者」性の探求にほかならない。

「彼には、『味方』か『敵』しかいない。だから、本当の『他者』は、存在できない」。

 この文脈の「彼」は、直接的にはパーカーを指す、ただし誰とて代入可能。

 自らが愛する大地、愛する人々、パトリを本拠に持たぬナショナリズムなど、友敵原理の

インフレーションで辛うじて体を保つしかない。割れ鍋に蓋の爆ぜる時はいずれ来る。

 そんなパトリをワインの向こうに見ることを牽強付会とはもはや言えない。

「テロワールを尊ぶには、過去に対して道徳的責任の感覚を持つ必要がある(また過去に

意味を持たせるためには、常に時間的な推移の中で再評価していかなくてはならない)。

文化、社会全体の保護、市民としての責任、公正な雇用、報道の透明性、そうしたもの

すべては、私たちが歴史の感覚を失った時、つまり私たちはみんなで共同体を構成して

いるのだという感覚を失った時、崩れ去ってしまう」。

 

 そして、筆者の試みは残念ながら徒労に終わる。

「『世界市民』は、糖質と脂質を求める安易な『グローバル消費者』になってしまった」。

 その生存戦略としてダイレクトにおいしさを感じ取れるのが「糖質と脂質」である以上、

どうあがいてもヒトはそこに引き寄せられる。ゆえに、食品産業がいかに売り文句の

ごたくを並べようが、実効性がありかつ安上がりな隠し味といえば、砂糖とマーガリンの

他には特にない。それで顧客は満足を得られる。金も流れる。何が悪い?

 別に味覚に限らない。ヒトの攻略法はとうにネタバレして、オワコンを告げた。

 人間というコンテンツの初期設定の貧困に「テロワール」は何らの解決をも与えない。