企業は社会の公器である

  • 2018.11.23 Friday
  • 21:31

 周知の通り、職業を示す英単語professionは、その従事にあたって行う宣誓行為を

由来に持つ。狭義には聖職者、医師、法律家。誓いのことばはすべて同業者へと

向けられる、視点を変えれば、その参入障壁の高さを示唆するものと言えよう。

 そもそもにおいて、ジャーナリストの世界はこの性質になじまない。それはひとつには、

言論の自由を妨げることになりかねないから。そしてより大きい要因は英国の文化背景、

つまり、理屈をこね回す前に、目で盗め、手で覚えろ、という例の徒弟制の存在にある。

 

「一義的に定めることのできない『ジャーナリスト』は、サラリーマンとしての側面を

もち、専門職としてその地位が確立されているわけでもなく、権力の監視からタレントの

待ち伏せまで社会においてさまざまなイメージを抱かれ、研究対象としてきわめて

扱いにくい。しかし、本書でイギリスのジャーナリストを取り上げる目的は、第一にその

扱いにくさ、つまり、ジャーナリストの多様性を強調することにある。……本書は個々の

重要人物ではなく、ジャーナリストという集団に焦点を合わせていく。なぜなら、世に

広まるニュースのほとんどが名もなきレポーター、整理担当者、編集者の協働作業に

よるものだからである。とりわけ、その就職の時点、メディア業界に参入するための教育、

訓練の歴史を詳細に描く。いかなる教育、訓練がふさわしいのかを議論することが、

すなわち、何をもってジャーナリストとするのかを決める闘争の場となるからである」。

 

 ジャーナリストは生まれるもので、作られるものではない。この命題が真だとしても、

天賦の才を花開かせる基本の伝授までをも否定する者はおそらくあるまい。さりとて、

そうしたスキルの習得が、徹底的な現場主義の叩き上げによってのみ果たされるのか、

はたまた、教育カリキュラムを通じて一定程度は実現できるのか、は見解の割れる点。

 どこかで耳にしたことのあるような話ではなかろうか。いっそ職人気質の業界にでも

置き換えてしまった方が議論の理解は容易なのかもしれない。それをたとえprofession

呼ぼうが、tradeと呼ぼうが、craftと呼ぼうが、実のところ、本書が延々と繰り出す葛藤は、

何もジャーナリズムに固有のものではない。 

 大学に求めるべきは、即戦力を育成することなのか、OJTを仕込む土台作りなのか。

学問の世界における理論はしばしば現場の暗黙知をインストールする妨げになりや

しないか。そんな疑問は他のジャンルもみな同じ。

 雑務をこなす体力さえあればいい、と若い世代を低賃金で抱え込んでは、スキルの

会得と程遠いまま経年劣化で使い捨て、そんな企業論理は報道機関に限らない。

 教育の高等化、否、高騰化は就労格差の呼び水となる。「人の将来を左右するのが

能力ではなく社会的出自」、そのバイアスもやはり業界に特有のものとは言い難い。

 ジャーナリズムは「社会の公器」、その表現が別意をもって響いてくる、そこにこそ

本書の面白みはある。なぜに特定領域についての研究がかくも広範な社会的問題を

反映してしまうのか、それはいみじくもジャーナリズムが階級や学歴を横断する多様な

人材を取り込んだ社会の縮図として作用している(いた?)からに他ならない。

換言すれば、彼らが社会についての問題提起を行うとき、必ずや自己言及構造を

孕まずにはいない。私の問題だからこそ私たちの問題を語り得る、そんな「開かれた」

公共圏の可能性を高等教育プログラムは剥ぎ取る助けにしかならないのかもしれない。

 

 そして現代は、産業モデルと逆行するように、誰しもがジャーナリストになれる

時代でもある。例えば火事の発生において、新聞やテレビがtwitterに先行する可能性は

皆無と言って差し支えない。スマホで撮られた衝撃の現場写真がinstagram経由で

全世界へと拡散される。とはいえ、市民に必要なのはそうした速報性だけなのか。

各人が情報の取得に割けるリソースが限られる以上、ジャーナリズムにキュレーションの

機能を委ねざるを得ないのは今日とてそう変わらない。そしてその選別過程において、

時代遅れとされようが、尺度としての「教養」を少なくとも私は求めずにはいられない。

社会の共通了解の礎としての常識commonsenseを涵養するに、どうして「教養」を

欠くことができようか。

 

 ある英国メディア・グループの長は言う。

「たしかに、無学なジャーナリストを雇うことに価値があるとはいえない。しかし、高学歴の

ジャーナリストは、庶民と交わることを忘れてしまう危険がある」。

終わり良ければ全てよし

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:37

「シェイクスピアのファースト・フォリオ〔第1二つ折り本〕は、現在知られているかぎり、

全世界で232冊ある。わたしは何人かのファースト・フォリオ・ハンターとチームを

組み、10年以上かけて、現存するファースト・フォリオ本をつきとめ、精査してきた。

調査のために、わたしたちは地球上をかけめぐった。その過程で、過去400年間で

盗難や紛失の憂き目にあったフォリオ本についての心奪われる情報の山を発掘

したのである。……わたしたちは世界中でもっとも高額な印刷本の表表紙と裏表紙の

あいだに横たわる、シェイクスピア劇そっくりの、魅力にみちた世界をあきらかにしたい。

その世界には泥棒、黒幕、愚者、変人が住み、このひとびとはみな、憧れのファースト・

フォリオを手に入れるためには、財産も名誉も危険にさらしたのである」。

 

 2008年のこと、米国はフォルジャー・シェイクスピア・ライブラリーに鑑定を求めて

一冊の本が持ち込まれる。「装丁が失われ」おり、かつ「確信犯の何者かによって

個別の本を見分けるしるしをすべてはぎとられてい」た。キューバから持ち込まれた

新発見かと色めき立つも、サイズや書き込み等の特徴から間もなくイギリス北東部の

ダラム大学からの盗難品であることが発覚する。かくして男は御用となる。

 実はこの本、「すべてのファースト・フォリオ中でもっとも長く継続的に同一の

持ち主のもとにあった」テキストでもあった。購入した聖職者の名前から、その彼が

内戦により亡命を余儀なくされ図書館に預けられた経緯まで明らかになっていた。

 そして、この盗人をめぐる法廷劇は英国のタブロイド紙を引きつけた。男は言った。

「この世は舞台」。公聴会の出席に際してあるときは「銀色のストレッチ・リムジンで

乗りつけた。全身、白い衣装で固め、片手にシガー、片手にカップヌードルを持ち、

シェイクスピアの『リチャード三世』の台詞……を朗読しながら」、またあるときは、

「バグパイプ奏者に先導され、馬車に乗ってやってきた」。そんなゴージャス・ライフを

満喫するこの男、「見かけだけの億万長者で、53歳にして一度も仕事に就いたことも

大学に行ったこともなく、労働者階級の住む地域の小さなレンガづくりの家に住んで

いた。同居していたのは、82歳の障害をもった母親だった」。

 

 その盗難劇は公衆の面前で堂々決行された。しかも犯人は時の教皇パウロ六世。

それは「記録されているかぎり教皇が史上初めて演劇を鑑賞した機会だった。……

俳優たちはロイヤル・シェイクスピア劇団の宝物であるファースト・フォリオ本を携え、

終演後、本に教皇の祝福をいただくつもりだった」。そして事件は起きる。「祝福を

与える代わりに、教皇は贈りものとして受けとってしまった。……いったい、どのように

して教皇のあやまりを正せばいいのだろう?」。

 

 とはいえまさか、これほどまでに波瀾万丈な物語ばかりが展開されるわけでもない。

総じて言うと、それぞれの来歴を一冊のテキストにまとめたごく簡潔なダイジェストとの

読後感がどうしても拭えない。この印象がシェイクスピア作品本体より面白い事件を

期待させずにはいないところから来てしまうのだとすればいかにも罪深い。

黒船来襲

  • 2018.03.13 Tuesday
  • 22:24

「先日売場で『いつもここで見て、家に帰ってからアマゾンに注文するの』という大きな女性の

声が聞こえた。きっと他のお客さんに『クレバー・ユーザー宣言』をしたかったのだろう」。

 恥も外聞もないこんな戯言わめかれたらメンタル壊す、少なくとも私なら。

 

「本書は私の勤務するジュンク堂書店池袋本店で働く社員たちのほかに、ジュンク堂と

2009年に経営統合を発表した丸善丸の内本店の社員、1976年からほぼ20年勤務した

リブロ池袋本店の社員、そして書店員とはちょっと毛色は違うが日本出版インフラセンター

JPO)の専務理事(現在・顧問)、おのおの一名ずつにインタビューしたものを中心に

まとめた。……私たちにとっての『約束の地』が、読者にとっては『そうではない』と少しずつ

明らかになってくる。去年まで来てくれていたお客さんがいつのまにか来なくなっている。

その去年も、一昨年に比べて減少している、そんな現象が何年も続き、いまだにとまらない。

……私たち書店員が続けてきた仕事はとうに曲がり角を過ぎているのかもしれない。でも

曲がり角を過ぎたかどうかは読者がする判断であろう。いや、もうその判断は下されている

のだろう。だがあきらめの悪い私は、私たちが毎日どういう仕事を、どういう思いで続けている

のかを読者に知ってほしい、と願う。そう願いながらこの本を書いた」。

 

 社の大御所による現場訪問at書店。

 そう聞くとひどく気疲れするが、読み進むとそんな憂鬱が物の数でないことを知らされる。

 最盛期、1989年には27000億円を叩き出していた出版業界の売上総計が今や半分。

大学生の半数が既に買わないどころか読みすらしない。新聞も雑誌も置かない家庭で育つ

スマホ世代の子どもは、そもそも活字に親しむ機会すら持たない。アマゾン上陸やテキスト

電子化以前にこの下落傾向には出口が見えない。底を打つ気配すらない。

 2016年、長年続いてきた雑誌の書籍に対しての優位がついに逆転した。そうはいっても、

書籍が伸びたわけではなく、雑誌がすさまじいペースで没落しただけのこと。

 この話がまるで喜べないのは、物流をめぐる産業構造にとって致命傷になりかねない

点にもある。つまり、書籍が曲がりなりにも日本各地へと届けられていたのは、雑誌を運ぶ

そのついでに載せてもらえる、といういわば寄生ベースの流通が常態化していたから。

紙媒体の歴史は新たな宿主を見出すこともなく途絶えITプラットフォームへと移行する、

そんな着地を目の当たりにするだろうことは想像に難くない。

 

「アマゾンユーザーは出版関係者が結構多い。私たちには『書店さんが消えていくのは

悲しい』などと言いながら、『書店では必要な本がすぐには手に入らない』といってアマゾンに

注文するアマゾンヘビーユーザーが『本周り』にはごちゃっといる」。

 経済人は功利性に勝てない。たとえ出版業界が万が一多少の上昇気流に乗ろうとも、

スケール・メリットや利益率を考えれば早晩書店はネットに屈する。

 それでもなお、一目惚れのセンセーションに勝る興奮はウェル・メイドからは生まれない。

人間がノマドでいられない最大の理由は、街角の偶然を運命だと強弁する快感に代わる

オルタナティヴを見出せないことにある。

 身体を持つこと、かたちを持つこと、それゆえにこそ与えられるセレンディピティの瞬間が

本書においてもあとがきにふと訪れる。

 

 過去の購入、クリックデータに基づくリコメンドなんて、そんな本、もう読んだ、の宝庫。

特定のジャンルや著者の本を探している、という目途もなくたまたま出会う、出会ってしまう、

そんな好機を仲立ちしてくれることは今のところない。

 経験の焼き直しではなく、あえて未知の横たわる場所として。本を開くのは知らないことに

めぐり会うため、書店を訪ねる理由と同じ。「約束の地」を否定することは情報の存在意義を

否定するに等しい。

 餅は餅屋で、本は本屋で。

バベルの図書館

  • 2018.01.20 Saturday
  • 23:31
評価:
ジョン・アガード
フィルムアート社
¥ 1,728
(2017-11-25)

 

  わたしの

  名前は

  本。

 

  これから

  わたしの

  物語をしよう。

 

   そのうち、粘土板や、アルファベットの発明や、美しい写本や、図書館などの

  話もすることになる。

   しかし、わたしの物語はそのはるか昔から始まる。

 

  本の前に、

  息が

  あった。

 

 本書の原題はBook: My Autobiography、本の本による本のための「私の履歴書」。

 文字の発明、紙や文具の来歴、印刷術の開発、図書館、焚書、デジタル・テキスト――

そんな歴史をシンプルなことばとイラストで綴る。途中しばしば、紹介されるエピソードに

関連した名言も引用される。

 たとえ背景に膨大な研究史が横たわっていようとも、本書自体の情報量は少ない。

 ただし、この素朴さ、簡素さこそが時に本書の長所ともなる。

 象形文字から表音文字へ、そんな機能的な移行に寄り添うように、逆に、その中で

あるいは失われてしまったかもしれない何かを追憶するように、この本が文字と絵で

構成されていることがふと意味を帯びる。

 単に記された情報だけで判定するならば、この価格はいかにも割に合わない。

しかしこのテキストは紙の物語でもある。

「そしてわたしは電子書籍に語った。古代ローマ時代、ヴェラムでできていたときの

わたしはサフランの香りがしていたし、ヴィクトリア朝の時代には、わたしの紙は

ラベンダーやバラの花びらが貼りつけてあったので、その香りがした。

 それから、すぐに、こういった。もちろん、すべての本が同じにおいがするわけでは

ない。しかし、本に慣れ親しんだ人の鼻は、ワインのソムリエの鼻のように、熟成した

木のパルプの香りにヴァニラの香りがかすかにまじったようなにおいをかぎとることが

できる。それはまるで、森そのものが、わたしに古代の知恵の香りを押印してくれた

かのようだ」。

 ハードカバーで綴じられた、ほのかに赤みのさしたクリーム色の紙に指を走らせる。

本が媒介するものは視覚情報に限られない。たとえものを語らずとも、物体としての

本には伝達できる快感がある。

 そして紙の束が火にくべられようとも、「記憶は、真実と同様、常に証人を見つける」。

 

  紙は燃えても、言葉は飛んでゆく。

 

 古代パレスチナのラビ、アキバ・ベン・ヨーセフなる人の言だという。

ないない尽くし

  • 2017.09.24 Sunday
  • 21:12
評価:
マドレーヌ・ピノー
白水社
¥ 1,296
(2017-08-30)

  人類の獲得した知識を分類しようとする関心は古典古代にまでさかのぼり、中世で

  弱体化した。このように、ダランベールは中世を一種の「停滞期」とし、知的営為と

  しての編集の歴史を『百科全書序論』で規定している。しかし中世をつうじて残された、

  工芸に関する内容をふくむ写本は数知れない。その内容の大半は、アラブ人学者らに

  よって複製された古典古代の知識であった。

 

 と書き出しを引用しては見たが、全編がこのような調子で進む。

 何を明らかにしたいのか、どういった方向に話を持っていきたいのか、ごく基礎的な

目的意識も示さないまま、ただいたずらに描写が進む。編集過程をめぐる群像劇が

活写されるわけでもない。知の系統樹という書物の特性が詳らかに語られるでもない。

無断引用がなされているという事実に触れこそするが、具体的に踏み込むでもない。

 そのわりに、なぜかご丁寧に、もはや素性を知るための手がかりすらも往々にしてほぼ

尽きている執筆者の略号表なんてものは紹介されたりもする。ところが、肝心の本文や

図版への分析に絡めるでもないし、彼らの履歴などに肉薄するでもない。

 筆者の略歴を見ればルーヴル美術館の元学芸員とあり、図版研究を専門としている

らしいのだが、そうした特性も何ら生かされることはない。

 

 裏表紙には「入門書」となってはいるが、これを読んで誰が『百科全書』本体に興味を

持つというのだろうか。

 これほどまでに長所の見えないテキストも珍しい。