「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」

  • 2017.05.15 Monday
  • 21:13
評価:
モリー・グプティル・マニング
東京創元社
¥ 2,700
(2016-05-30)

「アメリカ軍兵士は、ポケットに入れた兵隊文庫とともに、ノルマンディーの浜に突進し、

ライン川までの長い道のりを歩き、ヨーロッパを解放した。オーストラリアの海岸から

日本を目指し、戦闘が繰り広げられている太平洋の島から島へ渡った。ある兵士は、

兵隊文庫を読み、遠く離れた故郷に思いを馳せた。ある兵士は、地獄のような現実を

忘れるためにそれを開いた。兵隊文庫は、疲弊した魂を力づけ、心を高揚させた。……

兵隊文庫は、兵士の心の痛みを癒す力を持ち、新たな未来への希望と、ひと時の

安らぎを兵士に与えた。……これは、剣と同じように強い力を持った本の記録である」。

 

 片や本を燃やした国があった。そこはかつて活版印刷術を生み出した国でもあった。

「ドイツがより強くなるためには、侮辱的な書籍を抹殺し、ドイツの発展を妨げる思想を

取り除かねばならない」からだった。燃え盛る薪を前に高らかに宣言した。「この炎は、

古き時代の終焉を告げ、新しき時代を照らし出している」。そして彼らは一冊の本を配る。

『我が闘争』。その本はさらなる焚書を促した。

 片や本を集め、前線に送る国があった。その活動を受け、大統領が声明を出した。

「私たちは皆、本が燃えることを知っている――しかし、燃えても本の命は絶えないと

いうことも良く知っている。人間の命は絶えるが、本は永久に生き続ける。……いかなる

人間もいかなる力も、あらゆる圧制に対する人間の果てしなき戦いとともにある本を、

この世から抹殺できない。私たちは、この戦いにおける武器は本であることを知っている」。

とはいえ、本の調達を寄付に頼るにも限界があった。かくして出版社と陸海軍が手を結び、

兵隊文庫を立ち上げる。将軍は「戦場において、わけても重要なのは士気である」ことを

繰り返し強調した。本はその源となった。

 第二次世界大戦とは、そういう戦争だった。

 

 兵隊文庫のベストセラー、B.スミス『ブルックリン横丁 A Tree Grows in Brooklyn』。

前線から著者へと手紙が寄せられる。「この戦場に来てから8か月間、心から笑った

ことなど」なかった兵士曰く、「そんな時、あなたの本を手に取り、読みました。すると、

だんだん気持ちが明るくなり、気づいたら笑っていました」。別の兵士は、「人生で

初めて、ホームシックに罹りました」。それはまるで「故郷からの嬉しい手紙」のようで、

束の間、眼前の危機を忘れさせてくれた。

 

 遺産は戦後に引き継がれる。戦地で活字を知った復員兵たちは、母国へ戻ると

恩給としての奨学金を活用して大学へ進む道を選び、そこで優秀な成績を収め、

社会へと巣立って行った。彼らはいつしか「世界最高の読書軍団」となっていた。

 

 知を軽んじ、精神を説くよりほかに能のない輩にはいかなる未来も存在しない。

あひびき

  • 2017.05.05 Friday
  • 20:52

「私たちのおおく(いまのところはですが)は20世紀に本を読みはじめた。読むだけで

なく、本をえらび、入手し、保存する習慣のすべてを、19世紀でも21世紀でもなく、

20世紀という特殊な時代に身につけたのです。

 では、そんな20世紀をなぜ『特殊な時代』というのか――」。

 この「読書の黄金時代」の背景には、経済があり、教育があり。しかし、本書の文化史的

考察の射程は当の20世紀における開花をはるか遡り、『源氏物語』の世に向かう。

 

 この本の何がすばらしいというに、独特の文体である。

 ですます調で統一されてはいるが、堅苦しいところはいささかもなく、まるで筆者自身の

柔らかな語りが聞こえてくるような(私は氏の声色も顔立ちも存じ上げるところではないが)

絶妙な表現の仕方。語り下ろしの文字起こしではまずこうはいかない。

 そして、その文体が内容と見事に噛み合ってるから魅力が倍増する。音読か黙読か、

話し言葉か書き言葉か、そんな読書の系譜を融合させるような、若々しくて新鮮な日本語

表現にはひたすらの感銘を覚えずにはいない。

 

 確かに売上データを参照すれば、出版市場の縮小は明らか。大学生の45パーセントが

全く本を読まない、そう聞けば未来は暗い。「読書の黄金時代」は終焉の時を迎えた、と

断言してもいいのかもしれない。

 しかし、デジタルの時代とて、そんな歴史の延長線上にある。少し古い調査によれば、

世界で書かれるブログの3分の1は日本語によるという、利用者が世界人口のわずか

2パーセント弱を占めるに過ぎないにもかかわらず。当然、その普及には読み書きの

文化史的素養が大いに関与せずにはいない。

 故きを温ね新しきを知る、そんな興奮を秘めた一冊。

「8号が止まる時は、この国の出版が倒れる時です」

  • 2017.04.03 Monday
  • 21:07

「誰も『この本の紙がどこから来たのか』と問おうとはしない。ライターも編集者も

何事もなかったかのようにして仕事をしている。

 人は簡単に環境に順応する。ひとたび緩んでしまえば、震災前と同じだ。我々は

またも、この生活を支えているのは誰なのかを忘れようとしている。壊滅的と言われた

石巻工場であの日何があったのか、そして誰がどのようにして復興したのか、疑問を

口にするものはいなくなった。

 震災から2年後のある日、私は石巻に取材に入った。

 あの日、東日本大震災に襲われた製紙工場で何が起こったのかを、書き残すためだ」。

 

 もちろん本書の中心は、震災と復興をめぐるドキュメンタリー。津波に呑み込まれた

工場を立て直し、わずか半年で製品を市場に供給する、そんな無謀としか見えない

目標点へと辿り着いてみせた人々――そして彼らは同時に罹災者――の物語。

 

「石巻工場の総生産量は年に100万トン……石巻工場だけで、日本製紙の洋紙

国内販売量の実に4分の1を供給していた」。

 出版用紙国内シェア率40%の日本製紙、市中を出回る書籍の多くも石巻工場の

恩恵に与る。例えば『ONE PIECE』、例えば『NARUTO』――そしてこの本も。

 東北復興の物語と同時に、あるいはそれ以上に、読書を嗜好する者にとって本書が

感慨深いのは、テキストを支える紙という素材の凄みに気づかされることにある。

「文庫っていうのはね、みんな色が違うんです。講談社が若干黄色、角川が赤くて、

新潮社がめっちゃ赤。普段はざっくりと白というイメージしかないかもしれないけど、

出版社は文庫の色に『これが俺たちの色だ』っていう強い誇りを持ってるんです」。

 すっと血が引く。本棚を漁り机に並べる。

 クリームがかった岩波、相対的に青くすら見える早川、「めっちゃ赤」を凌いで

ちくまは赤く染まり、河出はさらに濃く赤い。

 目を伏せて親指で早めくりする。それぞれ滑らかに走る中にもどこかしなりが違う。

この薄み、この柔らかみ、気持ちいい。瞼を開く。『死の棘』、新潮文庫。

 

 中でもひときわ刺さることばがある。日本製紙のエースマシン8号の「親分」曰く、

「部下たちには、こう言って聞かせるんですよ。『お前ら、書店さんにワンコインを

握りしめてコロコロコミックを買いにくるお子さんのことを思い浮かべて作れ』と。

小さくて柔らかい手でページをめくっても、手が切れたりしないでしょう? あれは

すごい技術なんですよ。一枚の紙を厚くすると、こしが強くなって指を切っちゃう。

そこで、パルプの繊維結合を弱めながら、それでもふわっと厚手の紙になるように

開発してあるんです」。

 

 もちろんスマホやタブレットの液晶やグラフィック・プログラムにとて、エンジニアの

配慮が細かく張り巡らされていることだろう。

 でも、この本を読みながら改めて気づかされる、読書という体験から得られるものは、

テキストに刻まれた活字や写真の視覚的情報だけではなくて、紙をめくっていく触覚

それ自体でもあることに。

 優劣ではなく、そもそも別種の体験として。

 環境負荷が高いなんて話もあって、いずれ駆逐される運命にあるのかもしれない、

紙媒体というそんな束の間の贅沢のかけがえのなさを知らしめる一冊。

まなざしの地獄

  • 2017.03.17 Friday
  • 23:30

 たかだか2000字足らずの弁論に与えられる「全体講評」から。

 例えば1956年度の場合、「全体的に具体性に欠け、観念的」、そして1959年度、

「あまりに具体的で、普遍性のないものも多い」。

 具体的であろうと、なかろうと、とにかく言いがかりをつけてみたいだけ。

 どうしようもなく、稚拙。

 この「まなざし」から暴かれる教訓、すなわち、年長の上位など愚昧な迷妄にすぎず、

人間(笑)にははじめから成熟などありやしない、ということ。

 

「本書の目的は、[《NHK青年の主張》という]この『成人の日』特別番組の全体像を

明らかにし、その集合的記憶の形成プロセスをメディア研究から考察することである。

あらかじめ結論を言っておけば、それは出場者一人ひとりを『予言の自己成就』に

導く社会教育的装置である以上に、戦後『青年期』の日本社会が必要とした『手の届く』

近接未来予言の供給システムだった」。

 

《青年の主張》は1955年にはじまり、89年にひとまず幕を下ろし、《青春メッセージ》へと

リニューアルされ、そして2004年をもって打ち切られた。なぜか?

 もはや「青年」がいなくなったから。

 

 そもそも番組開始時における「青年」なる語の意は「『生徒』『学生』の集団をふくまず、

学校教育体系からはみ出た『勤労者少年』を指すのが普通であった」。だが経済成長に

歩を合わせるように、高校大学進学率は上昇曲線を描き、それに歩を合わせるように、

もはや同世代が番組を見ない時代が訪れる。彼らが存在を知るのは唯一、タモリが扮する

固定観念的なものまね芸の中だけ。「青年」を知る年長世代が、彼らの見たい演じられた

「青年」を「まなざ」す装置と化した《青年の主張》は、昭和の終わりと節目を重ねるように、

「普通の若者が普通のスタンスで話せるよう」な番組に生まれ変わるべく、衣替えを果たす。

とはいえこの小手先細工も、「普通」の定義すら共有不能な他者に向けて発信すべき

「メッセージ」など当然にあり得ないことを露呈して崩壊する。

 この過程で、「『青年』というまじめな政治的主体は、『若者』というノリのいい経済的主体に

置き換えられた」。さらに、就職氷河期の中で労働市場から締め出された世代は、無神経に

「青年」の影を追う「大人」との断絶の中で、さりとて「少年」のままでいられるわけでもなく、

一定の有効性を持った消費セグメントとしてのM1F1との「まなざし」すらも逃れるように、

「『若者』のゲットー化」を遂げた。かくして今や、この世代が何かを「主張」することは、

ノスタルジックな慰藉物として痛々しさをしばしば放つ。

 そして誰もいなくなった。

 

 こうした社会学的時代論に関心はなく、番組の歴史を知りたい、という人に向けても

本書は丹念に調べられたクロニクルを提供する。

 もし「あの人」があの日、遅刻していなかったなら――後から見れば、これほどまでに

《青年の主張》にふさわしい女子高生もそうはない、そんな歴史の「もしも」を発掘した

点においても楽しめるテキスト。

 

 とはいえ、《青年の主張》から、現代の若年層が解放されたわけでもない。

 典型的には就職活動、語らされる志望動機、演じさせられる自己実現は、弁論という名の

罰ゲームの縮小再生産でしかない。

 あるいは、「ポスト・トゥルース」の世界における「まなざし」論。

 見たいものだけを見る。

 見たくないものは見ない。

 そんな現代をも、《青年の主張》は「近接未来予言」していたのかもしれない。

メディアはマッサージである

  • 2017.03.03 Friday
  • 21:26

「ニュースは、ビジネスにおいても生活においても重要な情報源であり、判断基準であり、

社会への接点でもある。食事と同じで、バランスの良いニュース接触が必要だ。……

このまま偽ニュースによるネットの汚染が続けば、どのニュースを信じればいいのか

分からなくなり、フィルターバブルによって偽ニュースを信じた人々が偏った考えに

とらわれ、問題を引き起こす可能性もある。……スマホは若者だけでなく、中高年にも

普及し、ニュースを見る主要な手段となっている。スマホは、ニュースメディアの新たな

主戦場となっているのだ。そこで本書では、偽ニュースを生み出す背景や構造を

明らかにした上で、ヤフー、LINE、スマートニュース、日本経済新聞、ニューズピックスと

いう5つのニュースメディアを中心に、スマホを舞台にしたニュースを巡る攻防を描く」。

 

 それと気づかれることなく、偽ニュースが高速で消費されてしまうプラットフォーム設計の

問題も興味深い。タダ乗りか、公益性か、そうした議論も不可欠だろう。各社の生存戦略

ヒアリングにしても読み応えはある。

 しかし、本書は少なくとも私には、あまりに多種多様な関心のあまり、情報カスケードに

陥ってしまっている印象が拭えない。

 そして、どうにも隔靴掻痒の感を得る最大の難点は、「プラットフォームがビジネスの

勝敗を決める」という真っ当な指摘をしながら、その大元に手が伸びていない点にある。

つまり、ヤフーか、LINEか、なんて入れ替え可能な狭義の「プラットフォーム」ではなく、

広義のそれとしての、例えばアップルやグーグルの問題こそが取り上げられねばならない

はずなのに、そこに踏み込めずじまい、どうもそんな不満を抱かざるを得ない。

 偽ニュースのひとつの原因がコストをかけられない点にあるのだとすれば、それは

つまるところ、現状ネットの広告を圧倒的に牛耳るグーグルの問題となってくるはず。

絶対的な支配を武器にユーザーにダンピングを強い続けるYouTubeに安定的な情報供給

プラットフォームとしての信頼を寄せることができるだろうか。

 メディアがメッセージを規定する、M.マクルーハンの古典を持ち出すまでもない、

iPhoneだろうが、Androidだろうが、あんな小さな液晶を媒介に、誰が長文のテキストと

関わる気になるだろう。

 先の大統領選は、国の趨勢を左右することばを発するに、もはやtwitter140字で

十二分に事足りることを明らかにした。

 あるいはそれすらも長文に過ぎるのだろう。Facebookが暴露するに、人間の認識など

「いいね! like」と「クソだね!」の10字程度のものでしかない。

 

 そして文字すらもはやいらない。猫の写真の萌えさえあれば、それでいい。

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