終わり良ければ全てよし

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:37

「シェイクスピアのファースト・フォリオ〔第1二つ折り本〕は、現在知られているかぎり、

全世界で232冊ある。わたしは何人かのファースト・フォリオ・ハンターとチームを

組み、10年以上かけて、現存するファースト・フォリオ本をつきとめ、精査してきた。

調査のために、わたしたちは地球上をかけめぐった。その過程で、過去400年間で

盗難や紛失の憂き目にあったフォリオ本についての心奪われる情報の山を発掘

したのである。……わたしたちは世界中でもっとも高額な印刷本の表表紙と裏表紙の

あいだに横たわる、シェイクスピア劇そっくりの、魅力にみちた世界をあきらかにしたい。

その世界には泥棒、黒幕、愚者、変人が住み、このひとびとはみな、憧れのファースト・

フォリオを手に入れるためには、財産も名誉も危険にさらしたのである」。

 

 2008年のこと、米国はフォルジャー・シェイクスピア・ライブラリーに鑑定を求めて

一冊の本が持ち込まれる。「装丁が失われ」おり、かつ「確信犯の何者かによって

個別の本を見分けるしるしをすべてはぎとられてい」た。キューバから持ち込まれた

新発見かと色めき立つも、サイズや書き込み等の特徴から間もなくイギリス北東部の

ダラム大学からの盗難品であることが発覚する。かくして男は御用となる。

 実はこの本、「すべてのファースト・フォリオ中でもっとも長く継続的に同一の

持ち主のもとにあった」テキストでもあった。購入した聖職者の名前から、その彼が

内戦により亡命を余儀なくされ図書館に預けられた経緯まで明らかになっていた。

 そして、この盗人をめぐる法廷劇は英国のタブロイド紙を引きつけた。男は言った。

「この世は舞台」。公聴会の出席に際してあるときは「銀色のストレッチ・リムジンで

乗りつけた。全身、白い衣装で固め、片手にシガー、片手にカップヌードルを持ち、

シェイクスピアの『リチャード三世』の台詞……を朗読しながら」、またあるときは、

「バグパイプ奏者に先導され、馬車に乗ってやってきた」。そんなゴージャス・ライフを

満喫するこの男、「見かけだけの億万長者で、53歳にして一度も仕事に就いたことも

大学に行ったこともなく、労働者階級の住む地域の小さなレンガづくりの家に住んで

いた。同居していたのは、82歳の障害をもった母親だった」。

 

 その盗難劇は公衆の面前で堂々決行された。しかも犯人は時の教皇パウロ六世。

それは「記録されているかぎり教皇が史上初めて演劇を鑑賞した機会だった。……

俳優たちはロイヤル・シェイクスピア劇団の宝物であるファースト・フォリオ本を携え、

終演後、本に教皇の祝福をいただくつもりだった」。そして事件は起きる。「祝福を

与える代わりに、教皇は贈りものとして受けとってしまった。……いったい、どのように

して教皇のあやまりを正せばいいのだろう?」。

 

 とはいえまさか、これほどまでに波瀾万丈な物語ばかりが展開されるわけでもない。

総じて言うと、それぞれの来歴を一冊のテキストにまとめたごく簡潔なダイジェストとの

読後感がどうしても拭えない。この印象がシェイクスピア作品本体より面白い事件を

期待させずにはいないところから来てしまうのだとすればいかにも罪深い。

黒船来襲

  • 2018.03.13 Tuesday
  • 22:24

「先日売場で『いつもここで見て、家に帰ってからアマゾンに注文するの』という大きな女性の

声が聞こえた。きっと他のお客さんに『クレバー・ユーザー宣言』をしたかったのだろう」。

 恥も外聞もないこんな戯言わめかれたらメンタル壊す、少なくとも私なら。

 

「本書は私の勤務するジュンク堂書店池袋本店で働く社員たちのほかに、ジュンク堂と

2009年に経営統合を発表した丸善丸の内本店の社員、1976年からほぼ20年勤務した

リブロ池袋本店の社員、そして書店員とはちょっと毛色は違うが日本出版インフラセンター

JPO)の専務理事(現在・顧問)、おのおの一名ずつにインタビューしたものを中心に

まとめた。……私たちにとっての『約束の地』が、読者にとっては『そうではない』と少しずつ

明らかになってくる。去年まで来てくれていたお客さんがいつのまにか来なくなっている。

その去年も、一昨年に比べて減少している、そんな現象が何年も続き、いまだにとまらない。

……私たち書店員が続けてきた仕事はとうに曲がり角を過ぎているのかもしれない。でも

曲がり角を過ぎたかどうかは読者がする判断であろう。いや、もうその判断は下されている

のだろう。だがあきらめの悪い私は、私たちが毎日どういう仕事を、どういう思いで続けている

のかを読者に知ってほしい、と願う。そう願いながらこの本を書いた」。

 

 社の大御所による現場訪問at書店。

 そう聞くとひどく気疲れするが、読み進むとそんな憂鬱が物の数でないことを知らされる。

 最盛期、1989年には27000億円を叩き出していた出版業界の売上総計が今や半分。

大学生の半数が既に買わないどころか読みすらしない。新聞も雑誌も置かない家庭で育つ

スマホ世代の子どもは、そもそも活字に親しむ機会すら持たない。アマゾン上陸やテキスト

電子化以前にこの下落傾向には出口が見えない。底を打つ気配すらない。

 2016年、長年続いてきた雑誌の書籍に対しての優位がついに逆転した。そうはいっても、

書籍が伸びたわけではなく、雑誌がすさまじいペースで没落しただけのこと。

 この話がまるで喜べないのは、物流をめぐる産業構造にとって致命傷になりかねない

点にもある。つまり、書籍が曲がりなりにも日本各地へと届けられていたのは、雑誌を運ぶ

そのついでに載せてもらえる、といういわば寄生ベースの流通が常態化していたから。

紙媒体の歴史は新たな宿主を見出すこともなく途絶えITプラットフォームへと移行する、

そんな着地を目の当たりにするだろうことは想像に難くない。

 

「アマゾンユーザーは出版関係者が結構多い。私たちには『書店さんが消えていくのは

悲しい』などと言いながら、『書店では必要な本がすぐには手に入らない』といってアマゾンに

注文するアマゾンヘビーユーザーが『本周り』にはごちゃっといる」。

 経済人は功利性に勝てない。たとえ出版業界が万が一多少の上昇気流に乗ろうとも、

スケール・メリットや利益率を考えれば早晩書店はネットに屈する。

 それでもなお、一目惚れのセンセーションに勝る興奮はウェル・メイドからは生まれない。

人間がノマドでいられない最大の理由は、街角の偶然を運命だと強弁する快感に代わる

オルタナティヴを見出せないことにある。

 身体を持つこと、かたちを持つこと、それゆえにこそ与えられるセレンディピティの瞬間が

本書においてもあとがきにふと訪れる。

 

 過去の購入、クリックデータに基づくリコメンドなんて、そんな本、もう読んだ、の宝庫。

特定のジャンルや著者の本を探している、という目途もなくたまたま出会う、出会ってしまう、

そんな好機を仲立ちしてくれることは今のところない。

 経験の焼き直しではなく、あえて未知の横たわる場所として。本を開くのは知らないことに

めぐり会うため、書店を訪ねる理由と同じ。「約束の地」を否定することは情報の存在意義を

否定するに等しい。

 餅は餅屋で、本は本屋で。

バベルの図書館

  • 2018.01.20 Saturday
  • 23:31
評価:
ジョン・アガード
フィルムアート社
¥ 1,728
(2017-11-25)

 

  わたしの

  名前は

  本。

 

  これから

  わたしの

  物語をしよう。

 

   そのうち、粘土板や、アルファベットの発明や、美しい写本や、図書館などの

  話もすることになる。

   しかし、わたしの物語はそのはるか昔から始まる。

 

  本の前に、

  息が

  あった。

 

 本書の原題はBook: My Autobiography、本の本による本のための「私の履歴書」。

 文字の発明、紙や文具の来歴、印刷術の開発、図書館、焚書、デジタル・テキスト――

そんな歴史をシンプルなことばとイラストで綴る。途中しばしば、紹介されるエピソードに

関連した名言も引用される。

 たとえ背景に膨大な研究史が横たわっていようとも、本書自体の情報量は少ない。

 ただし、この素朴さ、簡素さこそが時に本書の長所ともなる。

 象形文字から表音文字へ、そんな機能的な移行に寄り添うように、逆に、その中で

あるいは失われてしまったかもしれない何かを追憶するように、この本が文字と絵で

構成されていることがふと意味を帯びる。

 単に記された情報だけで判定するならば、この価格はいかにも割に合わない。

しかしこのテキストは紙の物語でもある。

「そしてわたしは電子書籍に語った。古代ローマ時代、ヴェラムでできていたときの

わたしはサフランの香りがしていたし、ヴィクトリア朝の時代には、わたしの紙は

ラベンダーやバラの花びらが貼りつけてあったので、その香りがした。

 それから、すぐに、こういった。もちろん、すべての本が同じにおいがするわけでは

ない。しかし、本に慣れ親しんだ人の鼻は、ワインのソムリエの鼻のように、熟成した

木のパルプの香りにヴァニラの香りがかすかにまじったようなにおいをかぎとることが

できる。それはまるで、森そのものが、わたしに古代の知恵の香りを押印してくれた

かのようだ」。

 ハードカバーで綴じられた、ほのかに赤みのさしたクリーム色の紙に指を走らせる。

本が媒介するものは視覚情報に限られない。たとえものを語らずとも、物体としての

本には伝達できる快感がある。

 そして紙の束が火にくべられようとも、「記憶は、真実と同様、常に証人を見つける」。

 

  紙は燃えても、言葉は飛んでゆく。

 

 古代パレスチナのラビ、アキバ・ベン・ヨーセフなる人の言だという。

ないない尽くし

  • 2017.09.24 Sunday
  • 21:12
評価:
マドレーヌ・ピノー
白水社
¥ 1,296
(2017-08-30)

  人類の獲得した知識を分類しようとする関心は古典古代にまでさかのぼり、中世で

  弱体化した。このように、ダランベールは中世を一種の「停滞期」とし、知的営為と

  しての編集の歴史を『百科全書序論』で規定している。しかし中世をつうじて残された、

  工芸に関する内容をふくむ写本は数知れない。その内容の大半は、アラブ人学者らに

  よって複製された古典古代の知識であった。

 

 と書き出しを引用しては見たが、全編がこのような調子で進む。

 何を明らかにしたいのか、どういった方向に話を持っていきたいのか、ごく基礎的な

目的意識も示さないまま、ただいたずらに描写が進む。編集過程をめぐる群像劇が

活写されるわけでもない。知の系統樹という書物の特性が詳らかに語られるでもない。

無断引用がなされているという事実に触れこそするが、具体的に踏み込むでもない。

 そのわりに、なぜかご丁寧に、もはや素性を知るための手がかりすらも往々にしてほぼ

尽きている執筆者の略号表なんてものは紹介されたりもする。ところが、肝心の本文や

図版への分析に絡めるでもないし、彼らの履歴などに肉薄するでもない。

 筆者の略歴を見ればルーヴル美術館の元学芸員とあり、図版研究を専門としている

らしいのだが、そうした特性も何ら生かされることはない。

 

 裏表紙には「入門書」となってはいるが、これを読んで誰が『百科全書』本体に興味を

持つというのだろうか。

 これほどまでに長所の見えないテキストも珍しい。

愛宕山

  • 2017.09.20 Wednesday
  • 21:49

「分かち合う」なんてクソくらえ。

 そんな私は『ちりとてちん』原理主義者。

 

100作近くなって、それだけの伝統(女の一代記、ホームドラマ、明るくさわやかな

雰囲気)を守り続けたうえで、時代に合った新しい工夫を加味してきたからこその

楽しみがある。もはや朝ドラは古典芸能のひとつと言っていい。……いま、『みなさま』の

朝ドラに求められているのは、視聴者がそこに“自分が生きている時代との共通点”を

見出せるか、自分と関係ある話題が描かれていると思えるか、自分の姿を重ね合わせたり

共感できたりする話題があるか、である」。

 

 シングルマザーをヒロインに据えた『私の青空』が放送された2000年、母子家庭の

世帯数は100万の大台に近づいていた。国際結婚が日本人の婚姻の3パーセント強を

占める現代、2014年の『マッサン』は史上初めて外国人を主役に抜擢した。女性の

生涯未婚率が14パーセントにも達する2016年の主人公は、表題通り「とと(父)」の

役割を自ら引き受け、家族を養い、独身を貫いた。

 たぶん筆者のやりたかっただろうテーマは、いみじくも家父長制下の「内助の功」を

旨とする『おしん』を出発点として、現代に至る朝ドラが映し出す女性像の変遷。

 ただし、そうした背景は、マクラとしての各種白書でも引用すれば足りてしまう。

 なにせ半年の長丁場ともなれば、抽象的な同時代女性を超えた具体的なキャラクターが

浮かび上がり、どうにもパーソナル・ヒストリー性が強調されざるを得ない。

 ということで、実際のところ、本書がやっていることといえば、いかなる基準にしたがって

選ばれたのかも分からない歴代朝ドラ11篇のあらすじと、脚本家二名へのインタビュー。

それぞれのストーリーに重点を置いている都合上、どうしてもテーマ史的な議論は散漫な

印象になってしまう。個々の分析にしても、あいにく感想文の域を出ない。「男性が強がって、

意地を張れば張るほど、哀切の情が湧く」描写をつかこうへいの専売特許であるかのように

語るのだが、書き手本人からの言質を得ているわけでもなく、設定やセリフ回しが被っている

といった指摘もなく、勝新太郎や車寅次郎を典型に、よくあるキャラとしか私には思えない。

他作品の言及は、単に筆者の個人的な視聴データベースから引用しているに過ぎず、

そこにさしたる日本エンタメ史的必然性は感じられない。例えばアイテムが同じ俳優の

出演している作品へのオマージュになっている、とかそういう理屈があればいいのだが。

 結局、本書は終始、『わたしの朝ドラ』の域を出ない。