ないない尽くし

  • 2017.09.24 Sunday
  • 21:12
評価:
マドレーヌ・ピノー
白水社
¥ 1,296
(2017-08-30)

  人類の獲得した知識を分類しようとする関心は古典古代にまでさかのぼり、中世で

  弱体化した。このように、ダランベールは中世を一種の「停滞期」とし、知的営為と

  しての編集の歴史を『百科全書序論』で規定している。しかし中世をつうじて残された、

  工芸に関する内容をふくむ写本は数知れない。その内容の大半は、アラブ人学者らに

  よって複製された古典古代の知識であった。

 

 と書き出しを引用しては見たが、全編がこのような調子で進む。

 何を明らかにしたいのか、どういった方向に話を持っていきたいのか、ごく基礎的な

目的意識も示さないまま、ただいたずらに描写が進む。編集過程をめぐる群像劇が

活写されるわけでもない。知の系統樹という書物の特性が詳らかに語られるでもない。

無断引用がなされているという事実に触れこそするが、具体的に踏み込むでもない。

 そのわりに、なぜかご丁寧に、もはや素性を知るための手がかりすらも往々にしてほぼ

尽きている執筆者の略号表なんてものは紹介されたりもする。ところが、肝心の本文や

図版への分析に絡めるでもないし、彼らの履歴などに肉薄するでもない。

 筆者の略歴を見ればルーヴル美術館の元学芸員とあり、図版研究を専門としている

らしいのだが、そうした特性も何ら生かされることはない。

 

 裏表紙には「入門書」となってはいるが、これを読んで誰が『百科全書』本体に興味を

持つというのだろうか。

 これほどまでに長所の見えないテキストも珍しい。

愛宕山

  • 2017.09.20 Wednesday
  • 21:49

「分かち合う」なんてクソくらえ。

 そんな私は『ちりとてちん』原理主義者。

 

100作近くなって、それだけの伝統(女の一代記、ホームドラマ、明るくさわやかな

雰囲気)を守り続けたうえで、時代に合った新しい工夫を加味してきたからこその

楽しみがある。もはや朝ドラは古典芸能のひとつと言っていい。……いま、『みなさま』の

朝ドラに求められているのは、視聴者がそこに“自分が生きている時代との共通点”を

見出せるか、自分と関係ある話題が描かれていると思えるか、自分の姿を重ね合わせたり

共感できたりする話題があるか、である」。

 

 シングルマザーをヒロインに据えた『私の青空』が放送された2000年、母子家庭の

世帯数は100万の大台に近づいていた。国際結婚が日本人の婚姻の3パーセント強を

占める現代、2014年の『マッサン』は史上初めて外国人を主役に抜擢した。女性の

生涯未婚率が14パーセントにも達する2016年の主人公は、表題通り「とと(父)」の

役割を自ら引き受け、家族を養い、独身を貫いた。

 たぶん筆者のやりたかっただろうテーマは、いみじくも家父長制下の「内助の功」を

旨とする『おしん』を出発点として、現代に至る朝ドラが映し出す女性像の変遷。

 ただし、そうした背景は、マクラとしての各種白書でも引用すれば足りてしまう。

 なにせ半年の長丁場ともなれば、抽象的な同時代女性を超えた具体的なキャラクターが

浮かび上がり、どうにもパーソナル・ヒストリー性が強調されざるを得ない。

 ということで、実際のところ、本書がやっていることといえば、いかなる基準にしたがって

選ばれたのかも分からない歴代朝ドラ11篇のあらすじと、脚本家二名へのインタビュー。

それぞれのストーリーに重点を置いている都合上、どうしてもテーマ史的な議論は散漫な

印象になってしまう。個々の分析にしても、あいにく感想文の域を出ない。「男性が強がって、

意地を張れば張るほど、哀切の情が湧く」描写をつかこうへいの専売特許であるかのように

語るのだが、書き手本人からの言質を得ているわけでもなく、設定やセリフ回しが被っている

といった指摘もなく、勝新太郎や車寅次郎を典型に、よくあるキャラとしか私には思えない。

他作品の言及は、単に筆者の個人的な視聴データベースから引用しているに過ぎず、

そこにさしたる日本エンタメ史的必然性は感じられない。例えばアイテムが同じ俳優の

出演している作品へのオマージュになっている、とかそういう理屈があればいいのだが。

 結局、本書は終始、『わたしの朝ドラ』の域を出ない。

三方一両損

  • 2017.09.06 Wednesday
  • 21:37

 概説書って難しい。

 本書を読んでつくづく思う。

 

「一般化して言うと、映画に託されてきた夢は大きく三つに分類できるのでは

ないでしょうか。つくる人の夢、上映する人の夢、そして観る人の夢に、です。

……その上で、あえて思い切った言い方をしたいのですが、ハリウッド映画を

取り巻く、それら三つの夢は、十分に大きな視座から眺めるとき、どうもある定着した

型を時代、時代にもっていたと言えるのではないだろうか、と問いを立ててみようと

いうのが僕の考えた作戦の大本です。……そして、それらの夢は、反発したり

共振したりしながら溶け合い、次第に作品を象る大きな型みたいなものを形成する

ようになっていったと言えるのではないだろうか、だからこそ、ハリウッド映画という

巨大な視覚文化は成り立ちえたのではないだろうか、そう議論の道筋をつけて

おきたいというわけです」。

 

 本書内ではわずか数行で処理されてしまうような固有名詞ひとつだけで、一冊の

本が優に書けてしまう。映画撮影の文法、技術の変遷などを取ってもまた然り。

法律や経済といった社会事情と映画業界の絡みにしてもやはり同じ。

 あれもこれも、と多方面に手を伸ばす総花的なテキストが、情報カスケードを

起こした末、さしたる内容を伝えないまま終わる、そんなサンプルのような一冊。

 取り上げられる人名、映画タイトルの重要性が半ば自明のものとして話が進む結果、

逆になぜそうした定説が自明化していったのか、という疑問ばかりを膨張させ続ける、

まるで余白だらけの歴史教科書を読まされたときのように。

 映画紹介というには簡潔に過ぎて、本書に刺激されて観賞意欲を起こす読者が

そういるようには思えない。映画史的にターニング・ポイントなので踏まえておかねば

いけない一本、と説得しようにもいかんせん議論が物足りない。

 2001年の旧版にリライトをかけたというわりに、映画からテレビドラマ、ネットドラマへの

人材や投資の流出といった現代ハリウッドを特徴づける事象は一切言及されない。

あるいは、世界的にも異質なまでにガラパゴス化した日本のコンテンツ消費者なんて

話題にも波及することはない。

 

 すべてにおいて議論というには程遠いまま、ただトピックがさらさらと上滑りしていく、

残念ながら、そんな一冊。

「想像の読者共同体」

  • 2017.08.09 Wednesday
  • 21:59

「かつて、『生き方』『読書』『社会批判』を主題とした人生雑誌は、なぜ読まれていたのか。

学歴や知識層とは縁がなかった読者たちは、なぜ、教養主義の香りを帯びたこれらの

雑誌を手にしたのか。彼らの営みは、大学エリートたちの教養主義に対し、いかなる

親和性や差異を有していたのか。そして人生雑誌はいつ、どのような過程を経て衰退し、

『実利』を扱うものへと取って代わられることになったのか。……人生雑誌の主たる

読者層は、集団就職をしたような勤労青年たちであった。彼らについては、主に戦後の

格差や労働の問題として論じられることが多い。だが、少なからぬ彼らが手にした

人生雑誌の歴史を眺めてみると、それにとどまらない勤労青年像が浮かび上がる」。

 

 NHKの名物プログラム『青年の主張』の終焉は、「青年」がもはやいなくなったから。

『葦』や『人生手帖』の行路はまるで、佐藤卓己『青年の主張 まなざしのメディア史』の

議論をはるか先取りするように。

 

 かつて、社会に出るの対義語は学校に入る、という時代があった。

 義務教育を終えれば、即座に就職や家業へと動員される。雇用環境は当然に劣悪、

そんな彼らには「勉学の空間が職場の労苦を忘れさせ、『憩いの場』と」映った。

そして同時に、各種不条理の共有は「人生雑誌」の結束、「想像の読者共同体」を

生み出す種ともなった。

 なるほど、知識への憧れはある、さりとて知識人は気に食わない。それはひとつには

職場と同じヒエラルキーを想起させずにはいないから。かくして、彼らの「反知性主義的

知性主義」の姿勢が立ち上がる。

 

 ところが、経済が上向くにつれて、労働環境や所得、あるいは高等教育進学率は

改善を見せ、そうなれば「マルクスみかん水」はどうにも求心力を失わざるを得ない。

 そしてその果て、「人生雑誌」はついに「健康」へと舵を切る。

 

 そんな過去の先に立つ現代日本について思う。

 もはや経済成長は見込めない、所得は伸びない、社会保障は膨張する、どころか

人口減とグローバル化に基づく縮小局面に間もなく突入するだろう。

 失われたx年を果てなく更新する中で、社会に出るの対義語は引きこもる、と化した。

 このシチュエーションで「想像の読者共同体」を構成するのは例えばコミケ、同人誌、

萌えに包まれた幸福なコミュニティはしかし、傍からは今なお、時に凶悪犯罪予備軍で

あるかのような無理解の視線を浴びる。

 社会の閉塞の中で、理想像も何もなく、敵の敵は味方、という回路でしかもはや

「想像の共同体」を調達できない以上、現代型「反知性主義的知性主義」はネットで

真実を知りました系の排他性、攻撃性に終始する他ない。この暴力思考のインフレを

食い止めるロジックを持たないのは、つまり事実上「共同体」を編成しようがないのは、

世界中いずこも同じ。

 こんなものならばセカイ系、「想像」はそもそも「想像」を越えず、従って「共同体」など

成り立ち得ない、この図式の方がどれほどまでに幸福か。

 

 人間はか弱き葦に過ぎない、ただしその葦は考える葦である。

 貧すれば鈍するのか、鈍すれば貧するのか。

 考えることをやめてしまった、そしてわびしき世界の中で。

公共空間

  • 2017.07.21 Friday
  • 21:54

 老若男女がゆったりとした時間を過ごす。

 ショッピングモールでは顧客がそれぞれセグメント単位で事実上、分離されている。

美容院や病院は層が偏る。スーパーやコンビニはあまりにせわしない。保護者を除けば、

公園で幼児が戯れる様子を見ているおとなは今や不審者扱い。

 となると、そんな空間って、確かに図書館や本屋の他には案外ないのかもしれない。

 他人のスマホやタブレットを覗くのはただの不躾、翻って、すれ違いざまに手にした

本のカバーを互いにチラ見することで、ささやかな交流が生まれる。

 IT時代に託されたテキストの機能は、そんなかすがいにこそあるのかもしれない。

 

「あなたが『図書館』についてお考えになるとき、延々と続く書架や埃のつもった棚、

来館者を睨むようにじっと見つめる意地悪そうなオールドミスの図書館員をすぐに

連想なさるのはよく分かっています。ですがほとんどの図書館にとって、それは風説に

過ぎません。……本日私がお話ししたいのは、同じ呼び方こそされていますが中身は

まったく違う図書館、規則重視の保存図書館とは似て非なるもの、つまり、サービスも

目的もまったく異なる公共図書館のことです」。

 筆者によれば、「図書館」は二種類に大別される。

 つまり、「読書のための公共図書館」と「保存のための図書館」。

 そして、本書が迫るのはもっぱら前者、公共空間としての「図書館」づくりの模索。

 

 メディアからコミュニケーションへ。

 およそ情報がデジタルデータで一元的に組織化されていく世相の中で、これからの

図書館に求められる機能といえば、「図書」のある前に「館」であること、場であること、

身体を帯びたノマドではあれない人間の人間たる所以を表現することなのかもしれない。

 そんなパラダイムシフトは、図書館設計への提言に具体化される。

「人々が一緒にいられるように空間を使い、蔵書スペースは今よりも少なくする」。

「オープンスペースを増やす。禁止事項を作ったり、空間を分断しないようにする」。

 その世界観においては、多様な人が交わる「公共」の場であることが、「保存のための

図書館」であることよりも優先される。

 確かに本末転倒の事態とも見えるかもしれない。

 しかし、動員をかけられなければ、そもそもの「保存」すらも意味をなさない。

 いくらご立派な理想を並べ立てたところで、ドキドキしないところに人はそうそう

集まらない、そのことはおとなも子どももみな同じ。動物を駆り立てるのはただひとつ、

快感原則のインセンティヴだけ。

 そうしてひとつに集まることで何かが変わる、のかもしれない。

 

Nati per Leggere(読むために生まれた)」。

「公共性」ゆえに成り立つ「図書館」が再帰的に「公共性」を醸成する。

 もはや修正不能としか見えない世界の中で、そんなことをあえて試みる。

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