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- 2020.05.10 Sunday
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「子どもを産めば自然に授乳できるものと考えていた。ところが出産直後、
高年初産の身体から乳はなかなか出ない。授乳できないことで落ち込み、
さらに出なくなる。出産した産院は粉ミルクを使わなかった。我が子は同じ時期に
出産した若い母親の乳をもらうことになった。驚いた。不安も感じた。しかし子供は
満足していた。……授乳不全の敗北感のなか、小説の端役として登場した乳母と
いう存在にひっかかった。母親が自分で授乳できないわけではなくても乳母を
雇ったことがあったらしい。なぜそんなことができたのだろう、ゆるされたのだろう。
他人に任せることに躊躇はなかったのだろうか。乳母に自分の子をとられたような
気がしなかったのだろうか。病気感染の心配もしたはずだ。初めは母親の方に
注意が向いていた。しかし、考えてみれば、乳母は自分の子をどうしたのだろう。
どんな気持ちで他人の子にお乳をあげていたのだろう。疑問はどんどんふくらんで
いった。乳母と、乳母を雇う母親の両方を、理解しかがたく受け入れがたい思いを、
どうにかしておさめなだめようとする作業が始まった」。
本書のテーマは乳母、とはいってもnannyやsitter、つまり子守の言い換えとしての
乳母ではなく、wetnurse、つまりは実母に代わって母乳を授ける労働者としての乳母。
19世紀といえば、粉ミルクはまだ開発の端緒に立っただけの段階。当時の医師が
代用に薦めていたウシやヤギの乳にしても、市販品は水増しや混ぜ物が当然で、
乳児には到底与えられない。自宅で飼育、搾乳、殺菌できる環境を整えられる
家庭などおのずと限られざるを得ない。
ということで、消去法的に浮上するのが、乳母の雇用という選択肢。しかしそこで、
大きな問題が生じる。「深刻な影響は、乳母の側、より正確にいえば乳母の子に
及んだ。乳母の子どもたちにとって、実母が乳母として働きに出ることは、文字通り
命をかけた問題になったのである」。
この雇用形態においては、子どもが乳母のもとに託されるでも、逆に実子の同伴が
許されるでもなかった。ゆえに母が勤めに出ている間、子どもは栄養にありつくことが
できない、なにせ人工哺育不全の時代だ。
その結果など、想像を巡らせるまでもない。
乳母の求人に際してしばしば用いられた表現にrespectable(品行方正)なる語が
あったという。母乳の性質が子どもの発育と相関性を持つとの説に依拠したもので
あるらしいのだが、雇用−被雇用のミスマッチングがこれほどまでに顕在化する例は
お目にかかれない。実際に立候補する者といえば専ら「悪い男にだまされて妊娠し、
未婚で出産した『かわいそうな娘』」。
雇用の推進派は高らかに言った。「未婚の母は娼婦予備軍とみなされているが、
乳母として雇われるという道があれば娼婦に落ちなくて済む」。
ここで現代の読者は、乳母雇用の持つ隠れテーマに否応なしに気づかされる。
乳母として働きに出ることは実子の命を引き換えにすること、つまり、この労働は
娼婦への事後的な堕胎機能に他ならないのではないか、と。
結果的に本書はイギリス階級社会の再生産システムを明かす。母乳哺育を促す
言説などアッパー、ミドルの価値規範に過ぎない、というかそもそも言説を担うべき
資格すらロウアーには認められない。家事労働すら控えて、母体の安静に努めろ、と
医師は言うが、裕福な彼らの想像力には労働の穴埋めを買う財力がないことなど
思いも及ばない。よしんば子どもが育ったとしても、待ち受けるのは労働者階級の
苦難を反復するだけの人生。やり逃げるだけの男に罪悪感を持てと言うのがいかに
無理難題であるかはセックス市場の歴史が証明する。
終章にアメリカのセレブリティにおける乳母復活の兆候が紹介される。人命は
所詮、商取引の材料に過ぎない、ゆえに乳母は赤裸々に階級格差を顕現する。
本書を見事にまとめてみせる19世紀の英国女性労働者の嘆きから。
「子どもたちを養育するお金がたっぷりあるなら、母親であることをすばらしさを
享受できるでしょう。しかし、現実にどんな母親が子どもを産もうとするでしょうか。
家計逼迫のため、子どもは一刻も早くとせかされて、世俗の骨折り仕事に
押しやられるようになるというのに」。
評価:
ヴィクトリア・ヴァントック 明石書店 ¥ 3,456 (2018-11-07) |
「一見すると、スチュワーデスは大戦後の保守的なジェンダー・ロールを体現している、
と思えるかもしれない。理想の男性と結婚し、身を固めるためなら喜んで仕事を辞めた、
1950年代の神話化された主婦たちが、非の打ちどころのない空挺部隊に生まれ
変わった、というわけである。口紅を塗り、哺乳瓶を温めて、マティーニをシェイクする、
スチュワーデスはこの上ないお嫁さん候補、みながそう考えていた。……踏み込んで
みれば、彼女たちは最先端の科学技術と共に働く、洗練された、自立志向の、向上心ある
キャリアウーマンでもあった。この偶像化された女性は、労働人口のなかで特異な位置に
あった。彼女たちは、戦後の家庭的な理想像〔専業主婦〕と女性に開かれた賃金労働
〔キャリアウーマン〕との隔たりを橋渡しして、働く女性に社会的受容と尊厳とを
もたらした。スチュワーデスは、家庭的な理想と、家庭を離れて行う仕事という、
この双方を股にかけていたのである。やがてスチュワーデスは、アメリカでフェミニズムの
地歩を固める立役者となった」。
闘いと、闘いと、そして闘い。ワンダーウーマンとしてのスチュワーデスについて。
その女、パトリシア・バンクスはスチュワーデス志願者の中にあって、申し分のない
スペックを備えていた。スチュワーデスの専門学校では極めて優秀な成績を収めた。
仕事と並行してカレッジまでをもかけ持ちし語学に堪能。航空会社が定めていた
プロポーションの基準もクリア。何もかも完璧だった、ただ一点、彼女が黒い肌を持つ
アフリカ系アメリカ人だったことを除いては。いつしか彼女の戦場は人種差別訴訟を
超えて、「アメリカ人らしい女の子」という概念へと移る。
ときに彼女たちは社会のトレンドとも闘う羽目になる。
ジェット機時代の到来する50年代の身体に求められたキーワードは「グラマー」、
つまり「従来のお隣りの女の子風情のスチュワーデスと比べて、高身長、細身、そして
国際色豊か」なエリート、換言すれば、「飛行機と同様、画一化されて、合理化された
ある種の規格品になった」。
正統派は限りなくオールド・ファッションに近づく。ベトナム戦争期のアメリカを
カウンター・カルチャーの波が襲う。「若者市場がアメリカの市場になった」。
航空会社が新興マーケットへの宣伝要員として目をつけたのがスチュワーデス、
彼女たちに性の解放を体現させることだった。その制服に用いられたのは例えば
エミリオ・プッチの華やかな色彩、あるいはチェルシー・ルック。広告ポスターは
蠱惑的な笑みを湛える。
体重制限、年齢規定、妊娠・結婚の禁止――眼差しを集める職種ゆえにこそ、
やがて彼女たちは自らの束縛をめぐる不条理に目覚める。そんな視線を彼女たちは
したたかに逆用する。彼女たちの美がフェミニズム運動の武器へと変わる。
そして彼女たちが巻き込まれた最大の闘いは、米ソ冷戦だった。
「1968年7月15日、モスクワとニューヨークを結ぶ最初の定期航路が、パン・アメリカン
航空とアエロフロートとの合意により、開始されたのである。……就航は実際のところ、
プロパガンダ合戦の発火点となった。つまり、このフライトは、国家理念をお披露目する
国際的な晴れ舞台となったのである。アエロフロートとパン・アメリカン航空が対峙した
とき、海外を飛び回るジェット・セットの女性たちは、相互の国家理念を体現する
偶像となった。……世界の舞台で理想の女性らしさを張り合う代表者たちとなった」。
華やかな衣装をまとい化粧で固めたアメリカのスチュワーデスは、消費社会の繁栄を
具体する「アメリカン・ウェイ」の代名詞となる。対して口紅すら知らないソビエトが
称揚したのは、「労働力の担い手としての女性の立場であり、これが女性らしさの
理想像として信奉されていた」。その価値規範に従えば、米国人スチュワーデスは
ジェンダー・ロールに抑圧された、男女格差の犠牲者でしかなかった。
ところがこの「雪解け」が彼女たちに思わぬ混淆をもたらす。
いい意味で、本書は高嶺の花に託された神話履歴をはるか超える。時代の波を
いち早く先取りした女性史として、とても丁寧に調べられたテキストとなっている。
彼女たちは今――「新しいビジネス環境の到来によって、航空会社は競合他社を
出し抜くために、過激なセックス・アピールに頼る必要もなくなった。より安い運賃が、
第一に求められるようになったからである。1980年代のはじめには、乗客たちはより
多くの路線と、より安いチケットを目にすることになった。気取ったサーヴィスは
行わない、これが標準となった。グラマーは失墜してしまった。……かつて、大空で
接客していた偶像化された女性たちは、もはや特別な社会的地位や、尊敬を受ける
こともなく、空で働くウェイトレスに格下げされてしまった」。
こうしてサービスを受ける側も授ける側も真に「規格品」となった。
マクドナルド化、セブンイレブン化した社会を先行した彼女たちの次の一手も既に
ほぼ確定している。つまりはGAFA化する社会、言い換えれば、モノや情報を動かす
必要はあっても、ヒトを動かすべきいかなる合理的理由をも持たない社会。
そうしてAIにバベルの塔から追放される人間は、高く高く果てなき空を諦めて、
地上半径数メートルのつつがない幸福を求める。
「出産を通してはじめて自分が産む身体の持ち主であることに気づいた。新大陸の
発見といえるほどの驚きだった。自分が身体の持ち主でありながら、その身体に
埋め込まれたメカニズムに出産を通してはじめて気づくという経験だった。頭で考える
自己や意志とは別に身体そのものが独自の思考や決断を下していることへの驚きが、
現代社会と身体を考えるきっかけを与えてくれた。
それとともに妊娠から出産、出産後の身体の回復に関わる助産婦の仕事を知った。
産む身体がもつ力をできるかぎり生かし、子どもを安全に、そして産む女性が健康に
出産することができるように援助する仕事がなぜこれほど世の中で知られていない
のかという素朴な疑問が、本書の出発点となっている」。
「それまで医療の対象とされていなかった事象が医療の管轄下に置かれること」を
指して「医療化」と呼ぶ、らしい。自宅や助産所で専ら新生児が取り上げられたのも
遠い昔、今や99パーセントの出産は医師の下、病院で行われる。さらに出生の
曜日や時間帯の分布データは、陣痛促進剤や帝王出産などコントロールの介在を
否応なしに知らしめる。そんな「医療化」がほぼ完遂したこの時代に、あえて
「助産」にスポットライトを当てる。
明治の目指した脱亜入欧は、富国強兵の礎としての産児にも及ぶ。一方では
確かに、消毒や異常分娩の処置等、「助産」の制度自体もまた、当時の水準にいう
「医療化」を具現する。しかし他方で、本書の白眉はそうした枠から自ずとはみ出る
オーラル・ヒストリー、語りの魅力にこそある。
出産の制度史をたどればおそらくは通常、法制史や統計をひたすら参照する
「産む機械」の履歴に収斂せざるを得ないだろう。しかし、「正常と異常の境界」に
横たわる出産をめぐるリアルはしばしば、システム設計の意図しない逸脱を助産婦に
要請せずにはいられない。
実は序章で展開される、経験談の語り手は筆者の義母である。「振り回される」
彼女が担った役割の多くはまず間違いなく、法律や行政文書をいくら検討しても
浮上することはない。管轄外の健康相談が持ち込まれるのなんて当たり前。
たぶん母親にしてみれば当然のアフターケアなのだろう、まるで託児所のように
子どもを預かることもあった。制度の利用を促す、今で言うソーシャルワーカーの
機能も果たした。嘱託医との関係を維持するため、「応援」にも行った。
こうした語りのいちいちが、個人的な見聞録の域を超えて、昭和の日常を生々しく
映し出す。このフォークロア性が、「医療化」と見事なコントラストを構成し、
本書全体に立体性を与え、「助産」を特徴づけていく。
ゆりかごから墓場まで。
個人商店が消えた街並みを、大型モールやファストフード、コンビニが効率的に
埋めていく。そんなウェルメイド現象の妊娠、出産ヴァージョンとでも言うべきか。
消費者の取捨選択という以外に、この変遷をどう説明できるだろう。
「遊廓の日常を描きだすといっても、ここで行なうのはノスタルジックな遊廓文化の
回想ではない。……かの女たちがおかれていたのはほぼ絶望的ともいえる過酷な
状況であった。そのような日常にあっても状況の改善に希望を見出し、ストライキや
集団逃走という手段で生き抜こうとした女性たちの歴史に光をあてることが本書の
第一のテーマである。
第二のテーマは遊廓のなかの女性たちの行動を中心にして公娼制度の問題を
とらえかえすことである。……蚊帳の外におかれていた女性たちが、はじめて歴史の
なかで公娼制度や遊廓における搾取に団結して抗議を始めたのが1920年代の
ことであり、ここではそういった女性たちの行動を、それを後押しした社会的な議論と
あわせて提示したい」。
序文で早々にこのテーマの困難を明かす、つまり、「当事者による手記などがほとんど
残っていない以上、史料批判に耐え得る史料を使って史実を確定していくという通常の
実証史学の方法で遊廓のなかの女性たちの歴史を叙述することはまず不可能である」。
聞き取り調査というのも、とうに時効を迎えている。
そこで筆者が主として頼るのが新聞記事、ところがこの策が苦肉どころか、研究に思わぬ
僥倖をもたらす。本書の描き出す光景は、まさにマス・コミュニケーションがなぜにかつて
そう呼ばれ得たのか、その所以を映してみせる。
元娼婦による回想録、森光子『光明に芽ぐむ日』の一節が引用される。曰く、「自分の
今の慰めの一つは、自分と同じ運命の人達の、今迄辿って来た道を聞く事である。聞いて、
その人に同情し、又その人に憐れまれると云う事は、今の自分にとって、唯一の慰めに
なるように思われる。同病相憐むといったのはほんとうのことだ」。
「同情」が波紋となって伝播する。遊廓の同僚が身を寄せ合って相憐れむ。隔絶されて
いるはずの遊廓と遊廓を新聞が繋ぐ。自主廃業を求めての脱走を報じる記事の切り抜きが
回し読みされることで得られた「慰め」が、後にストライキとして決壊を招く。
それは例えば貧困問題のように、人はしばしば娼婦に「籠の鳥」を見てしまう、つまり、
自ら立ち上がる術など知らない、支援されるべき無力な対象としての彼女たちの姿を。
しかし、本書は「遊廓のなか」に焦点を当てることで見事その固定観念を払い落とす。
廃娼運動家や当時の思想潮流がこの動向に何の影響も持たなかったとは無論言えない。
しかし本書による限り、彼女たちは「救済者」によるメディア型トップ・ダウンに導かれ、
多少なりとも改善された待遇の恩恵を授かったわけではない。コミュニケーションの
密やかなボトム・アップの輪が彼女たちを鼓舞し、能動的にアクトへと駆り立てた。
新聞が字義通りマスのコミュニケーションを媒介した時代がそこにあった。
マウントか、虎の威を借る狐になるか、声がでかけりゃ、それでいい。
文春砲よろしく、今やニュースは感情の沸騰を束の間誘い、そしてその場で捨てられる
ためだけに存在する。コミュニケーションではなく分断の誘発装置としてのマスゴミ。
熟慮のためのプラットフォームなど、まさか望むべくもない。
ひたすら惨め、やがて悲しき。そんな時代から「遊廓のストライキ」を逆照射するとき、
1世紀前の#Me Tooがユートピアとさえ見えてくる。
「学校制服に投影される願望や悩み、生徒や保護者が学校制服を求める理由に
ついては、十分に解明されたとは思えない。そこで本書は、歴史的観点から
学校制服の成立・普及過程を見直し、どのような背景や理由のもとに学校制服が
求められ、いかなる議論や実践を伴いながら定着したのか、具体的な事例に
基づいて検証していきたい。このことは、学校制服がどのように受け入れられ、
価値づけられてきたかを明らかにする試みでもある。特に、本書は、明治から
昭和初期までの女子の学校制服を対象とし、なかでも学校制服の成立・
制服文化の形成を先導したと考えられる高等女学校を中心に取り上げる」。
本書を概観して言えば、むしろ謎は深まるばかり、そんな念は拭えない。
例えば「良妻賢母」の追求が教育の現場においても図られる中で、和服の機能性や
各種コストの改善をめぐる試行錯誤の軌跡が探られるのだが、こうしたアプローチが
まさか学校の枠組みに限定されていたはずもない。にもかかわらず、そのフレームの
外側にはほとんど言及されることがない。「和服の改良の断念は和服の長袖、長裾、
広帯の形式を保存することにもつながった」とあるが、この分析における制服の占める
位置というのは、果たしてどれほどのものなのだろうか。
そもそも英米の男性水兵のユニフォームであったはずのセーラー服が、日本において
いかなる遍歴を経て女子の学校服に固有の地位を持つようになったのか、そんな点への
言及もないまま、気づけばテキスト内に一定のポジションを確立してしまっている。
これは筆者自らあとがきで触れておられることだが、就学率等の格差を考えても、
比較対照としての男子の制服についての目配せがないのは、やはりバランスを欠く。
そんな記述の最中に、どこか微笑ましさを誘われる瞬間が訪れる。
19世紀末における袴の普及プロセス。「当時、女子で袴を穿くことができる者は
家族という宮中に縁のある特権的身分の子女のみであった」。公的な文書を追う限り、
そうした「貴族的」な衣服の解放は、専ら「運動に便利」という機能性の観点から
要請され、やがて全国的な拡がりを見せたかに見える。
ところが生徒の側に目をやると、景色が違える。一部の学校における先行導入に
着目した女学生が、学校の指導に先がけて、自主的にそのスタイルを組み込んで、
「その様子を教員が観察した結果、袴の随意着用が認められ、主事や担任から
奨励されるとたちまち生徒の間に袴が普及することとなった」。
生徒が作り出した流行を制度が追認していく。この現象は1930年代のセーラー服に
その再来を見る。あるいは逆に、和服改良の試みが挫折したのとて、実際に着用する
彼女たちのお眼鏡にかなわなかったところから来ている。
人に歴史あり。誰にでも若かりし頃があり、追い求めたトレンドがある。
加齢は成熟ではなく劣化を指す、そんなアンチ・エイジング社会だからこそかえって
青き時代の瑞々しさにすっと心洗われる。