飼い馴らされた生

  • 2018.12.05 Wednesday
  • 21:24

「出産を通してはじめて自分が産む身体の持ち主であることに気づいた。新大陸の

発見といえるほどの驚きだった。自分が身体の持ち主でありながら、その身体に

埋め込まれたメカニズムに出産を通してはじめて気づくという経験だった。頭で考える

自己や意志とは別に身体そのものが独自の思考や決断を下していることへの驚きが、

現代社会と身体を考えるきっかけを与えてくれた。

 それとともに妊娠から出産、出産後の身体の回復に関わる助産婦の仕事を知った。

産む身体がもつ力をできるかぎり生かし、子どもを安全に、そして産む女性が健康に

出産することができるように援助する仕事がなぜこれほど世の中で知られていない

のかという素朴な疑問が、本書の出発点となっている」。

 

「それまで医療の対象とされていなかった事象が医療の管轄下に置かれること」を

指して「医療化」と呼ぶ、らしい。自宅や助産所で専ら新生児が取り上げられたのも

遠い昔、今や99パーセントの出産は医師の下、病院で行われる。さらに出生の

曜日や時間帯の分布データは、陣痛促進剤や帝王出産などコントロールの介在を

否応なしに知らしめる。そんな「医療化」がほぼ完遂したこの時代に、あえて

「助産」にスポットライトを当てる。

 明治の目指した脱亜入欧は、富国強兵の礎としての産児にも及ぶ。一方では

確かに、消毒や異常分娩の処置等、「助産」の制度自体もまた、当時の水準にいう

「医療化」を具現する。しかし他方で、本書の白眉はそうした枠から自ずとはみ出る

オーラル・ヒストリー、語りの魅力にこそある。

 出産の制度史をたどればおそらくは通常、法制史や統計をひたすら参照する

「産む機械」の履歴に収斂せざるを得ないだろう。しかし、「正常と異常の境界」に

横たわる出産をめぐるリアルはしばしば、システム設計の意図しない逸脱を助産婦に

要請せずにはいられない。

 実は序章で展開される、経験談の語り手は筆者の義母である。「振り回される」

彼女が担った役割の多くはまず間違いなく、法律や行政文書をいくら検討しても

浮上することはない。管轄外の健康相談が持ち込まれるのなんて当たり前。

たぶん母親にしてみれば当然のアフターケアなのだろう、まるで託児所のように

子どもを預かることもあった。制度の利用を促す、今で言うソーシャルワーカーの

機能も果たした。嘱託医との関係を維持するため、「応援」にも行った。

 こうした語りのいちいちが、個人的な見聞録の域を超えて、昭和の日常を生々しく

映し出す。このフォークロア性が、「医療化」と見事なコントラストを構成し、

本書全体に立体性を与え、「助産」を特徴づけていく。

 

 ゆりかごから墓場まで。

 個人商店が消えた街並みを、大型モールやファストフード、コンビニが効率的に

埋めていく。そんなウェルメイド現象の妊娠、出産ヴァージョンとでも言うべきか。

 消費者の取捨選択という以外に、この変遷をどう説明できるだろう。

ポロメリア

  • 2018.11.06 Tuesday
  • 22:28

「遊廓の日常を描きだすといっても、ここで行なうのはノスタルジックな遊廓文化の

回想ではない。……かの女たちがおかれていたのはほぼ絶望的ともいえる過酷な

状況であった。そのような日常にあっても状況の改善に希望を見出し、ストライキや

集団逃走という手段で生き抜こうとした女性たちの歴史に光をあてることが本書の

第一のテーマである。

 第二のテーマは遊廓のなかの女性たちの行動を中心にして公娼制度の問題を

とらえかえすことである。……蚊帳の外におかれていた女性たちが、はじめて歴史の

なかで公娼制度や遊廓における搾取に団結して抗議を始めたのが1920年代の

ことであり、ここではそういった女性たちの行動を、それを後押しした社会的な議論と

あわせて提示したい」。

 

 序文で早々にこのテーマの困難を明かす、つまり、「当事者による手記などがほとんど

残っていない以上、史料批判に耐え得る史料を使って史実を確定していくという通常の

実証史学の方法で遊廓のなかの女性たちの歴史を叙述することはまず不可能である」。

聞き取り調査というのも、とうに時効を迎えている。

 そこで筆者が主として頼るのが新聞記事、ところがこの策が苦肉どころか、研究に思わぬ

僥倖をもたらす。本書の描き出す光景は、まさにマス・コミュニケーションがなぜにかつて

そう呼ばれ得たのか、その所以を映してみせる。

 元娼婦による回想録、森光子『光明に芽ぐむ日』の一節が引用される。曰く、「自分の

今の慰めの一つは、自分と同じ運命の人達の、今迄辿って来た道を聞く事である。聞いて、

その人に同情し、又その人に憐れまれると云う事は、今の自分にとって、唯一の慰めに

なるように思われる。同病相憐むといったのはほんとうのことだ」。

「同情」が波紋となって伝播する。遊廓の同僚が身を寄せ合って相憐れむ。隔絶されて

いるはずの遊廓と遊廓を新聞が繋ぐ。自主廃業を求めての脱走を報じる記事の切り抜きが

回し読みされることで得られた「慰め」が、後にストライキとして決壊を招く。

 それは例えば貧困問題のように、人はしばしば娼婦に「籠の鳥」を見てしまう、つまり、

自ら立ち上がる術など知らない、支援されるべき無力な対象としての彼女たちの姿を。

 しかし、本書は「遊廓のなか」に焦点を当てることで見事その固定観念を払い落とす。

 廃娼運動家や当時の思想潮流がこの動向に何の影響も持たなかったとは無論言えない。

しかし本書による限り、彼女たちは「救済者」によるメディア型トップ・ダウンに導かれ、

多少なりとも改善された待遇の恩恵を授かったわけではない。コミュニケーションの

密やかなボトム・アップの輪が彼女たちを鼓舞し、能動的にアクトへと駆り立てた。

 新聞が字義通りマスのコミュニケーションを媒介した時代がそこにあった。

 

 マウントか、虎の威を借る狐になるか、声がでかけりゃ、それでいい。

 文春砲よろしく、今やニュースは感情の沸騰を束の間誘い、そしてその場で捨てられる

ためだけに存在する。コミュニケーションではなく分断の誘発装置としてのマスゴミ。

熟慮のためのプラットフォームなど、まさか望むべくもない。

 ひたすら惨め、やがて悲しき。そんな時代から「遊廓のストライキ」を逆照射するとき、

1世紀前の#Me Tooがユートピアとさえ見えてくる。

制服少女たちの選択

  • 2018.04.03 Tuesday
  • 22:20

「学校制服に投影される願望や悩み、生徒や保護者が学校制服を求める理由に

ついては、十分に解明されたとは思えない。そこで本書は、歴史的観点から

学校制服の成立・普及過程を見直し、どのような背景や理由のもとに学校制服が

求められ、いかなる議論や実践を伴いながら定着したのか、具体的な事例に

基づいて検証していきたい。このことは、学校制服がどのように受け入れられ、

価値づけられてきたかを明らかにする試みでもある。特に、本書は、明治から

昭和初期までの女子の学校制服を対象とし、なかでも学校制服の成立・

制服文化の形成を先導したと考えられる高等女学校を中心に取り上げる」。

 

 本書を概観して言えば、むしろ謎は深まるばかり、そんな念は拭えない。

 例えば「良妻賢母」の追求が教育の現場においても図られる中で、和服の機能性や

各種コストの改善をめぐる試行錯誤の軌跡が探られるのだが、こうしたアプローチが

まさか学校の枠組みに限定されていたはずもない。にもかかわらず、そのフレームの

外側にはほとんど言及されることがない。「和服の改良の断念は和服の長袖、長裾、

広帯の形式を保存することにもつながった」とあるが、この分析における制服の占める

位置というのは、果たしてどれほどのものなのだろうか。

 そもそも英米の男性水兵のユニフォームであったはずのセーラー服が、日本において

いかなる遍歴を経て女子の学校服に固有の地位を持つようになったのか、そんな点への

言及もないまま、気づけばテキスト内に一定のポジションを確立してしまっている。

 これは筆者自らあとがきで触れておられることだが、就学率等の格差を考えても、

比較対照としての男子の制服についての目配せがないのは、やはりバランスを欠く。

 

 そんな記述の最中に、どこか微笑ましさを誘われる瞬間が訪れる。

 19世紀末における袴の普及プロセス。「当時、女子で袴を穿くことができる者は

家族という宮中に縁のある特権的身分の子女のみであった」。公的な文書を追う限り、

そうした「貴族的」な衣服の解放は、専ら「運動に便利」という機能性の観点から

要請され、やがて全国的な拡がりを見せたかに見える。

 ところが生徒の側に目をやると、景色が違える。一部の学校における先行導入に

着目した女学生が、学校の指導に先がけて、自主的にそのスタイルを組み込んで、

「その様子を教員が観察した結果、袴の随意着用が認められ、主事や担任から

奨励されるとたちまち生徒の間に袴が普及することとなった」。

 生徒が作り出した流行を制度が追認していく。この現象は1930年代のセーラー服に

その再来を見る。あるいは逆に、和服改良の試みが挫折したのとて、実際に着用する

彼女たちのお眼鏡にかなわなかったところから来ている。

 人に歴史あり。誰にでも若かりし頃があり、追い求めたトレンドがある。

 加齢は成熟ではなく劣化を指す、そんなアンチ・エイジング社会だからこそかえって

青き時代の瑞々しさにすっと心洗われる。

#Me Too

  • 2017.12.26 Tuesday
  • 22:13
評価:
伊藤 詩織
文藝春秋
¥ 1,512
(2017-10-18)

 国連薬物犯罪事務所のまとめたデータによれば、人口10万人当たりのレイプ件数で

最も多いのはスウェーデンで58.5件、イギリスで36.4件、アメリカで35.9件。

 対して日本といえばわずかに1.1件。

 一方、内閣府による「男女間における暴力」に関する調査によれば、15人に1人の女性が

「異性から無理やり性交された」経験を持つ。

 警察の担当者は、筆者に向けてこう言った。

「よくある話だし、事件として捜査するのは難しいですよ」。

 

「性暴力は、誰にも経験して欲しくない恐怖と痛みを人にもたらす。そしてそれは長い間、

その人を苦しめる。/なぜ、私がレイプされたのか? そこに明確な答えはない。私は何度も

自分を責めた。……しかし、その経験は無駄ではなかったと思いたい。私も、自分の身に

起きて初めて、この苦しみを知ったのだ。この想像もしていなかった出来事に対し、どう対処

すればいいのか、最初はまったくわからなかった。/しかし、今なら何が必要なのかわかる。

そしてこれを実現するには、性暴力に関する社会的、法的システムを、同時に変えなければ

いけない。そのためにまず第一に、被害についてオープンに話せる社会にしたい。私自身の

ため、そして大好きな妹や友人、将来の子ども、そのほか顔も名前も知らない大勢の人たちの

ために。/私自身が恥や怒りを持っていたら、何も変えることはできないだろう。だから、

この本には率直に、何を考え、何を変えなければならないかを、書き記したいと思う」。

 

 強姦の立件で争点となるのは主に二点だという。すなわち、行為の有無、合意の有無。

論点となるのは、殺人や窃盗におけるように、構成要件をなす外形的な要素よりもむしろ、

合意のあるやなしや、この主観性が性犯罪を特徴づけ、そして困難なものにする。

 筆者自身も、本書内で幾度となく、客観性を担保し切れぬ当事者が世に明かすことの

正当性への煩悶を語る。その扱いの難しさは、筆者が会見を申請し、そして拒絶された

外国人記者クラブによるコメントに集約される。

Too personal, too sensitive”

 

 しかし、彼女はあえて「『被害者のAさん』ではなく、実際に名前と顔がある人間として」

公表することを選んだ。選ばざるを得なかった。

 本来において、刑事システムの運用にあたって、被害者も加害者も「名前と顔」を持つ

必要がない、と私は考えている。罪を憎んで人を憎まず、とは抽象的な格率でも何でもなく、

刑事訴訟の基本理念を体現する。つまり、罪刑法的主義に従って、構成要件を満たした

行為を犯したがゆえに罪を問われ、罰を科される。このスクリプトは例外を持つ必要がない。

法のアウトノミーに人格はいらない。

 ところが、この法体系が「ブラックボックス」を持つ。個別的な事例における忖度の有無が

重要なのではない、忖度の余地を持つ杜撰な体系しか組めていないこと、法の支配が

貫徹されていないこと、その事態こそが問題視されねばならない。社会が「名前と顔」で

営まれている以上、対峙する者もまた、「名前と顔」を持たずにはあれない。

 当事者が声を挙げずとも、可視性を担保された刑事司法が適用される、そんな時代の

到来は遠い。筆者が訴えるのは加害者の前に、この社会の露わなファクトだった。

 

 #Me Too

 きっかけはハリウッドにおけるセクハラ案件、今日もSNS上で「名前と顔がある人間として」

女性たちが告発する、 “too personal, too sensitive”であることの痛みを背負いながら。

 meからusへ、本書が願うのはたぶん、publicであれる未来だ。

感情教育

  • 2017.12.17 Sunday
  • 21:53

「みなさんは『性を題材にした小説を書く女性』というと、どのような人物像を思い浮かべる

でしょうか。その方の容姿や生い立ちなど、あらゆる想像を膨らませてしまうのではない

でしょうか。

 かくいう私も、その一人でした。

 性というのは人間の本能であり、自分でもコントロールがきかない感情でもあります。

そんな性を題材にして小説にするからには、並大抵のパワーの持ち主ではないはず、と

興味を抱くようになりました」。

 

 本書の値打ちは、その第一部、女流作家インタビューに凝縮される。

 ある女は、「初体験の時は60万円、クンニしてもらうためには30万円を払」った。そうして

いつしか気づく。「穴さえあればセックスはできる」。

 ある女は「心に嵐を抱えて生まれた」父を持ち、溺愛を受ける一方で、「父が考える『娘』の

枠から」外れれば、DVにさらされた。それでもなお、理想のタイプは父親と言って憚らない。

 またある女は、SMクラブ勤務当時、暮らす実家の自室にコスチューム姿の写真を飾り、

「なんでやってるの?」とそれを見た母に問われ、ただ「好きだから」と答えた。

 ある女は言う。「私、女が好きなんですよ。昔は大嫌いだったんですけどね。女子校出身

なんですが、在学中には、女同士の嫉妬や意地悪、立ち位置を確保するための駆け引きに

うんざりし、男友達のほうが多かったくらい。だけど恋愛を重ねて、男がどういうものかを知り、

自分のなかにも女のドロドロしたものがあるとわかって、女が好きになりました。いまでは逆に、

好きな男以外の男は全員嫌いですね(笑)」。

 別にこれら独白のすべてを真に受けるつもりはない。けれども、そんなフェイクの小賢しい

粗探しなど凌駕してむしろ、明かされざる闇の気配がそこかしこに漂うことに戦慄する。

日々のせせこましい損得勘定に翻弄される男どもが、此岸の艱難辛苦に揉みしだかれて

突き抜けた菩薩になど太刀打ちできるはずもない。

 

「どうしても女性の『性』はないことにされるか、逆にヤリマンや娼婦として語られるなど、

両極端なんですよね」。

 ちんこはOK、まんこはNG、この境界がすべてを象徴する。女が「両極端」を克服する道は

現状、業を通じて彼岸へと至る他ないのかもしれない。

 ハーレムあり、させ子あり、そんなファンタジーの向こうにむき出しの現実感が横たわる。

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