なんとなく、クリスタル

  • 2019.05.24 Friday
  • 22:55

「この応接間には一度、二十年ほど前に訪れたことがあるわけだと思つて、

変りやう、荒れ方に驚き、同じ部屋かどうか疑ふほどだつたけれど、たしかに

別の部屋ではない。……古風で地味できちんと整つてゐたたたずまひが、

何か妙に今風に変り、ずいぶん乱雑に散らかつてゐる」。

 インタビュアーが待ちわびるのは、「旧財閥系の大企業の名誉会長であり、

業界の代表的な団体の前々会長」、もっとも企画趣旨は「財界総理」としての

回顧録聴取ではない。テーマは、かつて氏が在米時に出会ったジュリアードの

日本人学生によるクヮルテット、国際的な名声を得た後、やがて空中分解を

余儀なくされた彼らの、パトロンのみが知る内実について。

 

  「棚卸資産とか、余剰キャッシュ・フローとか、株主総会とか、ランチを

  食べながらの商談とか、秋が深む前に年賀状の送り先のリストを用意する

  とか、そんなことをうまくやる雑事の連続に、藝術といふ、あの秩序と陶酔と

  力とをいつしよにもたらす不思議なものと似たやるな喜びを求めるなんて、

  できるはずがない。もし同じやうなことになつたら、今度は藝術の方が迷惑

  するでせう」

  「存在理由がなくなります?」

  「はい」

 

 はい。われわれは今まさに「存在理由」をなくした世界のただ中にいる。

そのことは引用した冒頭の書き出し、荒れ果てた応接間に凝縮される。

 本書が表現するものは、雑に言ってしまえば黄昏時の「藝術」挽歌。

かつて上流階級の誇示的消費として、あるいはクラスをクラスたらしめる

文化資本のハブを託された「藝術」が、やがて消費のパイの拡大に伴い

「大衆化」を迎える。いみじくもその最たる象徴が老紳士とクヮルテット、

「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の台頭に他ならない。

 

「大衆化」は例えばこんな局面に示される。メンバーのひとりの夫人、M&A

専門にするバンカーの仕事ぶり。

「いつたん狙ひをつけたとなるとすごいらしいですよ。何しろ執念深いから。

まづその社長の好みを調べあげて、DVDでオペラをいくつも見たり、オペラ

ハウスに行つたり、メジャー・リーグの球場へ何度も行つたり」。

 嗜みとはすなわち、階級の差を隠蔽するためのトリガーでしかもはやない。

現代においてクラシックを愛聴するとは、商談の切り口として活用したという

履歴以上の意味をなさない。その模倣の連鎖をもって人は「藝術」と呼ぶ。

 ゆえに本書の主人公は商社マンであらねばならない、慧眼に感服する。

 

 古典とは別の仕方で、ついぞモダンに至れぬ日本人の悲哀を彼らは示す。

「当人にまづ迫つて来たのは、自分の属してゐる共同体への古風な忠誠心

なのかもしれない。村への義理とか、家への義理とかに似た何か。変に

日本的なもの」。

 語り手に言わせれば、こうした「藝術」の対義語とも見える人間関係の綾が

「哀れを心のどこかで敏感に感じ取つて、その分だけ、ああきれいだな、

すばらしいなと喜びが殖えてゆく」効果をもたらす。

 語りはすべからく騙りと変換される。現代の人間は、こうした物語的夢想が

ストーリー・マーケティングの素材へと解消されたことを既に知っている。

 

 何もかもが「存在理由」を失った。

 そんな現実に目を伏せたい輩をマスとして動員するには、例えばセグメントを

薄く広く掬う単位としての抽象的な「愛国」がひとまずはリーズナブル。

 こうして日本も消費者向けに書き換えられた。

 

 すべてコンテンツは経済の語彙をもって記述される。

 本書の片手落ち性は、「藝術」のいわば自己手段化としての日本論にのみ

終始した点に由来する。本来は崩壊メカニズムのもうひとつの回路として、

自己目的化の極北としてのオタクの台頭――購買力を要する以上、理の必然、

その登場はバブル景気を待たざるを得ない――に触れねばならなかった。

ベタはメタとなりネタとなり、そしてオタに殺された。

 ただし、その視座を筆者はそもそも持たない。

 

 一連の古風な仮名づかいが示唆するだろうハイ・カルチャー信仰の残滓として、

自己言及的に本書は小説の、「藝術」の終わりを告げる。

 昭和末期に束の間咲いた花として、テキストはひとことで要約できよう。

 丸谷才一版『なんとなく、クリスタル』。

 あるいはそのせいかもしれない。あるときはニュー・ヨークですき焼きを囲み、

あるときは東京のベッドサイドでルームサービスのサンドイッチをつまむ。

そして例の応接間ではヴィンテージのアモンティリャードをあおる。

時をかける少女

  • 2019.05.06 Monday
  • 20:55

 夕暮れ時の多摩川の散歩道、日課の歩行訓練のため息子に寄り添う「私」の前に

木守有が姿を現す。「少年がいちばん美しかった面影を残して青年になっている」、

そんな駒場のアイコンはその後映画プロデューサーとなり「私」のもとに「M計画」を

持ち込み、それから三十年、老境にして再会を果たす。

M計画」、すなわちH.v.クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』の映画化、

中世は神聖ローマ帝国のラントにて、腐敗を極めた領主へのミヒャエルの憤激は、

妻リースベトの死をもって怒髪天を衝き、ついに蜂起を決意する。脚本を任された

「私」によぎるは、幕末の郷里の森の一揆の記憶、戦後まもなく「私」の母は伝承を

芝居に仕立て、その剣幕をもって村人をカタルシスへと誘い、ただし幼い「私」は

「口説き」を知らない。主演女優はサクラ、「私」にとっての「白い寛衣の少女」、

高校時代「アナベル・リイ映画」でまみえた忘れ得ぬ「永遠の処女」。

 そして「M計画」はあるスキャンダルをもって空中分解を余儀なくされる。

 

「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」

 かつて同じフレーズを大江の出演するラジオで聞いたことがあった。

『取り替え子』におけるM.センダック、『懐かしい年への手紙』におけるダンテ、

『水死』における『金枝篇』、本作ならばE.A.ポーやクライストやM.ラウリー、

そこに森の言い伝えを反響させる。

「永遠にこれをやっている、これをやっている瞬間、永遠の時を生きている」。

 いつものことがいつものことであれたならば、むしろどれほど幸福なことだろう。

執拗に塗り重ねた行間から不意に「永遠」が漏れ出す、それは雲を掴むように、

種をどれだけ明かせども、「もう一度」の不可能性を逆説的に暴露する。

「気分にだけ恐さがいつまでも残る夢の、全体はいつも消えてしまう出来事が、

私の本当に経験したものか、空想したことか、その空想だってあれだけいろいろ

夢を復元してみての、なんでもないチッポケな成果があるにすぎない」。

 手を変え品を変え試みられる「復元」の、ただし「復元」されぬこと、

悲劇の記憶が文学的想像をもって寸分違わず「復元」されるとしたら――

それを人は奇跡と呼ぶ、既にたどった軌跡ではなく。

ヘラクレイトス

  • 2019.04.30 Tuesday
  • 20:01
評価:
山尾悠子
文藝春秋
¥ 2,160
(2018-05-10)

 インドネシアはトラジャ族に伝わる神話。創造主は石の彫刻から人類最初の

男と女を作った。主は併せて人類に火を与えたが、ただし作り方は授けなかった。

途絶えぬように守り続けてきたがある日、火は消えてしまう。折りよく天が地上に

近づいてきたので、火を再度分けてもらえるように使者を出す。乞われた通りに

火は与えよう、ただしその過程を見てはならない。そう命じられた昆虫は手で

目を覆った。ただし神はその肩の下についたもう一対の目の存在を見落とした。

かくして人は石を打ち、火の粉を広げることを知る。

 ニュージーランド、マオリ族の場合。英雄マウイが村中の火を全て消して回る。

火を取り戻すには大祖先マフーイカのもとに出向いてもらってくるより他にない。

その役を引き受けるのもまたマウイ。子孫を歓待するマフーイカは自らの爪を

引き抜いて火を起こす。ところがマウイは受け取っては消し、受け取っては消し、

そうして最後の爪のみを残したところでマフーイカはマウイの陰謀に気づく。

女神は怒りの炎を地上に放ち、その火でマウイを追い回す。マウイの懇願で

水の神が大雨をもたらし鎮火する。マフーイカの火は消えた、ただし彼女は

いくつかの火花を木の中に隠した。だから木をこすり合わせれば火が起きる。

 数日前にたまたま読んでいた、J.G.フレイザー『火の起原の神話』からの引用。

この碩学の立場は明快だ。「神話はそれらの多くをゆがめている幻想的な特徴にも

かかわらず、本質的には真実なものを持って」いる、その痕跡を求めて読み進む。

 そして私はバカバカしくも換骨奪胎して「幻想的な特徴」に魅かれていく。

数多の口伝は神からの窃盗をもって起原を明かす。プロメテウスを典型に、

火は原罪を象徴する。

 

「シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。

 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけ

だったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳では

ないのだが、とにかくしんねりと燃え難い」。

『飛ぶ孔雀』の物語の舞台は、川のほとりのとある街。流れ出る先は

どうやらあるらしい、ただし「トエは川を知るばかりで海を知らない」、

そして源流についても知らない。

 

 同じ川に二度入ることはできない、と古代ギリシア、ヘラクレイトスは言った。

いっそ本邦古典に倣って、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に

あらず」とすべきか。一時の洪水の奔流をもって人はそれを川と呼ばない。

川が川と呼ばれるために問うべきは「水」ではなく「流れ」。絶えざる運動性を

構成するかぎりにおいて、「水」に違いを論ずべき必然は何一つとしてない。

同じ「流れ」に身を浸す限りにおいて、それは同じ川でしかあれない。

 流転しているはずの万物が、同一性の相に繋がれる。

 この小説の時間はたぶん右から左へと流れてはいかない。より正確には

流すべき時間すらない、なぜなら同じなのだから。火が失われてすら、以前と

以後を隔てることができない。運動を持てど、時間は自明性を脱臼する。

 原罪以前の世界など人はそもそも持たない。できるのはただ現在ある世界が

現在ある世界、同じ世界であることを受容することだけ。

「――だって皆、この手紙に書いてあることばかりだもの。予言だなんて

もともと本気ではないにしても、これほど楽勝の予想もないってものだわ。

問題は聞いてくれる観客がいないということで、こればかりはあたしの宿命、

抗えない運命なのよね」。

現を抜かす

  • 2019.03.22 Friday
  • 22:43
評価:
川端 康成
新潮社
¥ 464
(1960-12-25)

「銀平は金が目あてではなかった。女のハンド・バッグのなかに大金がはいっている

ことはかぎつけもしなかったし、考えもしなかった。犯罪の明らかな証拠を消す

つもりでハンド・バッグを拾うと、二十万円はいっていたわけだった。……金が

目あてではなく、女の魔力に誘われたのだったとすると、金と通帳とは宮子に

送りかえすべきだっただろう。しかし銀平としては返すはずがなかった。銀平が

女を追って歩いたように、その金は魂のあるようなないような生きもので、銀平を

追って歩いた。……銀平があの女のあとをつけたのは、あの女にも銀平に後を

つけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう」。

 

「能動者のあって受動者のない快楽は人間にあるだろうか」。

 追う男、追われる女。

 今様に言えばストーカー、ただし明快な動機や目的が示されるわけでもない。

「一度おかした罪悪は人間の後をつけて来て罪悪を重ねさせる。……一度女の後を

つけたことが銀平にまた女の後をつけさせる」。

 銀平がなぜに女を追うといって、それはつまり、彼自身が記憶に追われているからに

他ならない。不細工なまでにねじ込まれる回想、デジャ・ヴュのように反復される体験、

螺旋を巻いてめまいとともに現実と幻想は境を失う。

「幽霊に足がないとは誰が見た象徴かと、……銀平自身の足からして、すでにこの世の

土を踏んでいないのかもしれない」。

 それはあたかも自らの宿命を醜くむくんだ足に刻まれたオイディプスのように。

 

 共犯関係の完成は、れる−られる、その非対称性が反転する瞬間に訪れる。

 この小説に迫真の何かを宿すものといえば、川端康成自身の文学体験、すなわち

谷崎を追うものとしての。「刺青」、「秘密」、『痴人の愛』――そうした小説群と

本作を重ねるな、という方が誰の目にも無理な注文としか私には思えない。

 男−女、見る−見られる、支配−被支配の系譜としての大谷崎をなぞることから

『みずうみ』は生まれた。

 追う男としての康成、その限りにおいて、本作は紛れもない私小説の典型をなす。

「それが生存者の務めなんだと思う」

  • 2019.03.04 Monday
  • 23:35

 風が吹けば桶屋が儲かる。

 そのロジックをWikipediaに頼る。曰く、風が巻き起こす土ぼこりが盲人を増やし、

彼らが手に職をと三味線を買い求め、その材料に皮が用いられるためネコが激減し、

天敵の消えたネズミが我が物顔で家宅の桶をかじって回るので、桶屋が潤う。

 事象と事象の連鎖の先に、思わぬ帰結が待ち受ける。

 

 繋がる、ということ、レベッカ・マカーイの短編集『戦時の音楽』について。

「これ以上ひどい思い」の主人公は、「取り憑かれており、世界の、つまりは過去と

現在と未来の亡霊や、炎や、世界の悪を見ることができる」、かもしれない少年。

音楽家の父に同伴してその郷里ルーマニアを訪ね、そしてコンサートでの演奏中、

歴史と繋がる。彼は父の顔に「何かを見た、……若きラビが何かを見たのだ」。

11月のストーリー」は、多様なジャンルの若手芸術家が共同生活の中でふるいに

かけられるリアリティ・ショー、つまり、演出によって繋がることが作り出される

場面としての。視聴者を惹きつけるために必要なのは恋愛、ならば制作サイドの

「私」たちにできるのはカメラを回すことではなく、彼らの接近を媒介すること。

曰く、「二人の人間が愛に気づく手伝いをする。そのどこがいけないの?」

 あるいは、繋がることに不能を来した存在としての「砕け散るピーター・トレリ」、

「公演の最中に、まさに科白の途中で、わが友人は突然、そして永遠に、演技する

能力を失ってしまったのだ」。奇しくも彼が吐き捨てる、「『昔は何か意味があるって

信じてたけど、そんなものはないんだ。シナプスがでたらめに繋がってるだけさ』」。

 

 そして、祖母と「私」が繋がるシーンとしての「侍者(第二の言い伝え)」。

「祖母が書いた最も長い小説には、ルーマニアのモルダヴィア地方出身の男が、

恐るべき〈鉄衛団〉によって射殺される場面があるのだ。十年前に私が書いた

短編小説では、モルダヴィア地方の街ヤシで〈鉄衛団〉によって射殺された人に

ついて、アメリカ人の少年が知ることになる。私は地域を当てずっぽうに選び、

その歴史に引き込まれてどっぷり浸かっていただけだった」。

 あからさまに自伝の匂いを湛えるこの作品に、フィクションか史実かを問うことは

意味をなさない。例えば、目の前の靴底がすり減っていることは刻まれた歩みを

自明に表さない。繋がること、繋ぐこと、それこそが物語る作用なのだから。

 

「爆破犯について私たちの知るすべて」より。

「事実を繰り返していけば、そのうちに歴史のように思えてくるだろう。何度も語れば、

そのうちに運命のように思えてくるだろう」。