伏魔殿

  • 2017.11.07 Tuesday
  • 21:52
評価:
ミハイル・ブルガーコフ
白水社
¥ 1,944
(2017-09-21)

「あらかじめ読者にお断りしておかなければならないが、ここに発表する手記のかたちを

とった作品とわたしはなんの関係もなく、この手記がわたしの手にはいったのは、きわめて

奇妙な、そして悲しむべき事情によるものである。/昨年の春、セルゲイ・レオンチエヴィチ・

マクスードフがキエフで自殺を企てたちょうどその日に、彼が前もって投函していた小包と

手紙をわたしは受けとった。/小包を開くと、この手記が出てきたが、手紙の内容は驚くべき

ものであった。/この世を去るにあたって、セルゲイ・レオンチエヴィチは、この手記を唯一の

友であるわたしに贈る、これに手を加えて、わたしの名前で出版してほしい、と希望を

表明していた。(中略)自殺者は演劇や劇場と関係をもったことは一度も無く、『船舶通信』と

いう新聞のしがない記者として生計を立て、たった一度だけ、作家として世に出ようと試みた

こともあったが、それもうまくゆかず、セルゲイ・レオンチエヴィチの長篇小説は活字に

ならなかった。/このようなわけで、セルゲイ・レオンチエヴィチの手記は空想の産物に

ほかならないが、それにしても、ああ、なんという病的な空想の産物であることか、セルゲイ・

レオンチエヴィチは憂鬱症というきわめていまわしい名称をもつ病気に悩まされていた」。

 

 ひとつには未完の小説というせいもあるのだろうが、それにしても分からない。

 それが本書読後の偽らざる感想。

 自身の原稿を持ち込むも文芸誌に拒絶され、絶望のあまり自殺を決意するも、そこで

現れた「メフィストフェレス」が紙面への掲載を申し出る。ところがその出版を前に、件の

編集者は雑誌もろとも姿をくらましてしまうのだが、どこからか、その小説を入手したという

男が、作品を戯曲化して上演しないか、と話を持ち込む。かくして執筆に入るも、劇団なる

伏魔殿の中で作品は換骨奪胎されて、その原形を失っていく……。

 劇場で契約書への同意を求められる。

「契約書には、《もしも……ならば》とか《なんとなれば》という言葉がひんぱんに出てき、

各項目が《作者は……の権利を有さず》という言葉ではじまっていたのを覚えている。

(中略)もっとも、一つの項目だけがこの書類の単調さを破っていたが、それは第57

だった。それは、《作者は……の義務を負う》という言葉ではじまっていた。その項目に

よると、作者は《もしも指導部、なんらかの委員会、機関、組織、団体、組合、ないし

権限をもった個人などの要求があった場合には、無条件で、即時、戯曲の訂正、変更、

加筆、削除などを行なわねばならず、それに際しては、第15項に明記された以外の

いかなる報酬も要求することは許されない》とあった」。

 作者には「権利」など認められず、ただ「義務」のみが横たわる。

 大御所の「要求」でキャストの平均年齢が大幅に引き上げられる「変更」を強いられ、

やはり演出家の「要求」でキーとなるべきシーンも「変更」を重ね、骨抜きにされた。

もはやマクスードフの作品たる性質を失い、それでもなお、「わたしは、毎晩、芝居を見に

劇場に足を向けずにはいられないのだった」。

 こうした一連のプロセスが、ロシア革命の夢と挫折を寓意しているのだろうか、と

見立ててみたりはするが、正直なところ、分からない。

 書かれざる暗黙の時代背景、感情論理、社会制度の欠落がどうにも埋まらない。

 見知らぬ地の古い小説を読む困難を知らされる。

タイガー&ドラゴン

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:21
評価:
金子 薫
河出書房新社
¥ 1,728
(2017-09-22)

「目が醒めてから再び眠りに就くまでのあいだ、今日も『君子危うきに近寄らず』は辛抱

強く待ち続けていた。相も変わらず少年と少女、それから驢馬の到着を待っている。

いつかやって来るという確信も時には揺らぎ、所詮は自分の思いこみに過ぎないのでは

ないかと悩むこともあった。しかし、みつるもことみも少しずつではあるが間違いなく

近づいてきており、この部屋に光が射し込むのもそう遠くないはずだった」。

「君子危うきに近寄らず」が暗い部屋に幽閉されるようになってもう何年が経っただろう、

朝食には白米と冷水が、夕食には鶏肉入りの南瓜スープ、差し出されるときに辛うじて

射し込む外の光とともに、一応時の流れていることを知る。

 記憶喪失に陥った「君子危うきに近寄らず」には同居人がいた。名を「君子」という。

「今では紛れもなく自分の息子だと信じているが、以前はそうではなかった」。

「君子」もまた同様に記憶をなくしていた。

「君子危うきに近寄らず」が持っていた唯一の私物が「体操服を着ている子供たちの

写真だった。校舎と思われる建物の前に13人の子供が並んでいる」。その中に例の双子、

みつるとことみがいた。「双子は驢馬に跨って私を助けに来るであろう。移動手段としては、

子供に馬は御しかねるだろうし、……双子はやはり驢馬に、それも一頭の驢馬に跨って

来るはずだ」。そして写真にはもうひとり、「君子」も写っていた。

 親子はいつしか壁に地図を描くようになった。故郷と部屋をつなぐ双子の旅路だった。

地図が細密を増すほどに両者の距離も縮んでいく、そんな望みが親子を繋ぐ絆となった。

 

「アタリ、コウ、ツケ、ハネ、ノビ、ツギ、キリ、シチョウ」……といきなり並べられても、

現代人の多くは何のことやら、訳が分からず当惑することだろう。これらはすべて囲碁用語。

 地図を黒く塗り消された親子は、いつしか会話の糸口を失ってしまう。そんな二人を

再び向き合わせる契機が囲碁だった。棋は対話なり。看守の目の届かないトイレの中で

「君子危うきに近寄らず」は「君子」にいろはを施すところからはじめる。

 19路盤においてルール上実現可能な局面数はこの宇宙の総原子数をも超えるという。

そうして彼らは対局という共同作業の中に、地図に代わる世界の表現方法を見出した。

 

『ドン・キホーテ』、『青い鳥』、『ロビンソン・クルーソー』、『オイディプス』……

貴種流離譚のそんな系譜を混ぜ合わせたような作品。表紙の男性はたぶんホルヘ・ボルヘス、

マジック・リアリズムの匂いも濃密に漂う。

 なぜ彼らは幽閉されているのか。親子の過去に何が起きたのか。謎はみな、ただ彼岸の

ままに横たわり、そして彼らは部屋にいる。否、誰が本当にいるのかさえも分からない。

 何がリアルか、何が虚構か、そんな境を冷たくも怪しい筆致で描く。

 

「厚みを活かして中央を目指すような足の速い碁が可能になる」。

 いったいどこのアルファ先生だよ、そんな碁打てたら、井山裕太倒せるわ。

 とか思ってみたりもするが、ファンとしては、囲碁について書かれている、しかもちゃんと

胸躍る、というだけでとりあえず無条件に甘やかしてみたくもなる。

 それはさておき、やっていることそれ自体はひどく古典的。理由づけの捨象というのも、

シャルル・ペローを筆頭に昔話の類型だし、アンチ・クライマックス、アンチ・カタルシスの

手法とて、そう珍しい話でもない。

 底の抜けた論理、底の抜けた世界、そんな不可知性をめぐる試論。

神保町で逢いましょう

  • 2017.10.12 Thursday
  • 22:40
評価:
藤野 千夜
双葉社
¥ 1,836
(2017-09-20)

 本書は現代の「笹子」と、1985年に青雲社(仮名)に契約社員として入社した

「小笹一夫」が交錯するかたちで書き進められる。

「笹子がこの街を訪れるのは、正確に数えれば……22年ぶりだった。(中略)葛藤や

経緯もあっての、22年ぶりだった。/笹子は今、物書きをしている。/その職業から

すれば、せめて22年間、『自分からは』一度も足を踏み入れなかった、等と正しく

言い添えておいたほうがいいかもしれないけれども。/ともあれ、22年前まで、笹子は

ここ、J保町にある出版社に勤めていた。/そしてクビになった」。

 

 文中、幾度か引っかかりを感じる。つまり、一方で笹子は「お手洗いで口紅を引き直」し、

他方で小笹一夫は「ランディー・バースみたいな体」をしている。読み進んで了解する。

「心の中に内気なお姫様の棲みついている」トランス・ジェンダーであるらしい。

 よりにもよって、入社の同年、小笹の出版社でとある大型連載がはじまる。

「一騎人生劇場 男の星座」。

 媒体は、熱い漢の劇画誌『週刊大人漫画クラブ』(仮名)。

 

「……漫画があってよかった」。

 そして現代の笹子は、東京の漫画の聖地を友人と訪ねては、とにかく食べ歩く。

 J保町の記憶を辿り、時にはトキワ荘へ、あるいは水木の三鷹を訪れる。

 一見したところ、とても生ぬるい私小説。仮名を用いているものの、出版業界をめぐる

スキャンダルを繰り出すわけでもない。

 しかし、LGBTの境遇にあって、それを理由に社を追われ、ただし恨み言を恋々と連ねる

でもなく、漫画をよすがに今日まで歩み続けた笹子の心象が照らし込まれるとき、そこにふと

つつがないきらめきが生まれる。

「ここは好きだった、と思い出したのだ。

 ここだけは好きだった、と」。

 外の世界の生きづらさ、ただし居場所があることの幸福。

 01は果てしなく違う。

 

 そして、本書がひときわ私個人にとって感慨深いのは、神保町(もういいだろ、伏字は)を

舞台としている点にある。

 世紀末に、多感でもなかった10代の少なからぬ時間をこの街に費やした私には、固有名詞の

いちいちが懐古調で迫る。通り道にあっただけで入ったことのない店に、ランドマークゆえの

ノスタルジアを見出すのは厚かましくはあるけれど。我が道を行った書泉ブックマートは

店を閉じ、その向かいにドンキホーテが居を構え、ただしわずか半年で引き上げるという。

信山社は倒産し、三省堂書店からはあからさまに店員が減った。

 オフィスビルやタワマンが建つが早いか、都心五区バブルの崩壊が早いか。

 古本屋の街並みとて、たぶんそう長くはないのかもしれない。

 さて今年も神保町ブックフェスティバルの季節がやってくる。11345日の三連休。

ドレフュス事件

  • 2017.10.09 Monday
  • 21:34
評価:
松本 清張
角川書店(角川グループパブリッシング)
¥ 596
(2009-12-25)

「東京都全体の空に、にぶい色の雲が凍って、うすら寒い日だった」。

 昭和23126日午後3時過ぎ、帝国銀行椎名町支店に医学博士を名乗る

者が訪れる。近隣の井戸を発生源に赤痢が確認されたことから、GHQの指示で

消毒に先立って至急予防薬を服用して欲しい、との由。同じ瓶から取り出されて

希釈された薬剤を男は自ら飲んで実演する。それに倣って銀行員たちが口にすると、

彼らは相次いで床に倒れ、そして現金、小切手が消失していた。

 これが世に言う「帝銀事件」、最終的に命を落とした被害者は12名に及んだ。

 捜査を進めると、被害こそなかったものの、この件を前にして他の銀行でも似通った

手口が試みられていたことが発覚する。

 現場に残された一枚の名刺を手がかりに、やがて捜査当局はひとりの男に辿り着く。

その名は平沢貞通、文展無鑑査の画家だった。

 

 冒頭ほのめかされるGHQ諜報機関の関与をはじめとした清張史観への賛否はともかくも、

平沢をこの事件の主犯と見立てるのは相当な無理筋と見える。

 そもそも当局が想定した犯人像は、毒物の扱いに習熟した者。犯行時に用いられた

器具にしても戦前に製造された良質のもの、特に「ピペットは特殊なもので、生化学や、

分析化学関係のような、或は細菌学上の実験、軍関係の研究所などのほかは、あまり

一般には用いられないものだった」。当然、平沢の履歴には該当しない。

 犯行の際に男が言及した疫病が事実発生していた点を見ても、あるいはリハーサルと

思しき未遂事件を見ても、相当に周到な準備を匂わせる。だが当時、平沢はコルサコフ

症候群なる記憶障害を持っていた。

 当日の足取りを辿っても、不可能ではないにしても、相当に切迫したタイムスケジュールを

強いられねばならないようだ。57歳の「老人」が雪で道のぬかるんだ日に、である。

 ところが平沢は逮捕、起訴に至り、ついには死刑判決を下された。

 

 いみじくも弁護人はドレフュス事件との類似性を指摘した。

 平沢を有罪へと近づけた物的証拠のひとつは、名刺や小切手の裏書きに基づく

筆跡鑑定だった。奇遇にもかのユダヤ人将校を牢獄へと導いた決め手と同じだった。

 供述を受けて技官は、「遂に熱心のあまり自己暗示でこの字を読み取って来てしまった」。

 見たいものだけを見る、見たくないものは見ない。

 そんな心性がひとりの人間を獄中死へと至らしめ、そして真相は霧の中へ消えた。

「親譲りの無鉄砲で、子供の頃から損ばかりしている」

  • 2017.10.05 Thursday
  • 22:14
評価:
獅子文六
朝日新聞出版
¥ 756
(2017-08-07)

「富士山だけは、立派だと思った」。

 郷里の豊後を離れ汽車に揺られる「あたしは、東京の大都女学校の教師になるために、

上京の途中なのである。尤も、その女学校が、どんな学校で、どんな町にあって、また、

どんな授業を受持たされるのだか、一切知らない。すべては、郷里の先輩の小林秀子

さんに、任せてある。秀子さんが、今度結婚して、学校をやめるので、その後任にあたしを

推薦してくれたのである。

 あたしは、東京へ始めて行くのだ。大阪と京都は、修学旅行で知ってるが、それから

東京は、今度が初旅である。でも、心細いことなんか、ちっともない。東京なんか、ちっとも

可怖くはない。憚りながら、田舎にいたって、近代的な日本女性の教養は、タップリ

受けられるのだ。馬鹿にして貰いたくない」。

 職員室の勢力争い、有力政治家の子女の問題児、校地の売却騒動――「信子、お前の

信は、通信の信ではなく、信念の信からとったのじゃよ」、田舎娘が女は度胸で立ち向かう。

 

 裏表紙に女版『坊っちゃん』と紹介がある。本文を一読すれば誰しもが気づくだろう。

 ただし、その大いなる劣化版であることにも。

 同僚教員をとりあえずあだ名で呼ぶ。校長は「宇垣さん」、「宇垣大将にそっくりなのだ。

つまり、髭のない、髪を結った宇垣さんだ」。教頭は「ニヤリスト」、「ニヤリニヤリとお笑いに

なる癖がある」。他にも、「声が甲高くて、キンキンと教室に響く」から「欣々女史」、「お講義が

クドイ」から「餡蜜」、「頬に、骨膜炎手術の穴がある」から「アナ・ベラ」――。

 二番煎じもここまで開き直っていれば、どこかすがすがしくすらある。

 それでいて、派閥で色分けされただけの記号に過ぎないから、キャラが一向に立たない。

 生徒においてもほぼ同じ。ひとりを除けば、ほとんどがただ引き立て役の背景と化して、

そのひとりについても恐ろしいほど何のひねりもない。現代においてはステレオタイプ、

当時においては斬新、もしかしたらそうなのかもしれないが。

「あたし」の愚直さを伝えたいだろうエピソードは、いちいちが世間知らずと興ざめを誘う。

 個々の人物描写が非常に類型的で、漱石におけるような皮肉や諧謔の要素もなく、

それでいて単調な勧善懲悪を目指してしまうものだから、そのさまはどこか幼児向けの

書き直しを経て骨抜きにされたおとぎ話を思わせる。目いっぱいによく言って健康的、

率直に言えば平板でぬるい。文体において目をみはるものもない。

 

 原著は1938年から40年にかけての連載という。

 近頃書店ではどうしたことか、獅子文六リヴァイヴァルの花盛り。

 何かあるのか、と手に取ってはみたものの、なぜこの程度の小説をわざわざ復刊させたのか、

ただ疑問が募るばかり。