Q.E.D.

  • 2020.03.22 Sunday
  • 22:07

 を覚ましました。

 朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変ったことでは

ありません。しかし、何が変なのでしょう? 何かしら変なのです。……

空腹のせいかもしれないと思って、食堂に行き、……ところがそうしている

間にも、その変なことはいよいよ変になり、胸はますますからっぽになって

行くのでぼくはそれ以上食べるのをやめました。……カウンターの前に

立って、係の少女からつけの帳面を受取りました。サインをしようとして、

ぼくはふと何かをためらいました。……ふと、ぼくはペンを握ったまま、

サインができずに困っていることに気づきました。僕は自分の名前が

どうしても想出せないでいるのでした」。

「名前」を失った「ぼく」、何者でもあれない「ぼく」は翻って、

何者にも代入可能な「ぼく」として、「歴史に記載されたすべての

事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判」の被告人として

追われる羽目になる。近代自我の果てを「ぼく」に見て取ることは

たやすい。むしろ主題としてはドストエフスキーに遡るのだろうが、

一連の展開にカフカ『審判』を想起せずにいる方が難しい。

「君自身の気分よりもぼくの言葉のほうが君そのものなんだ」。恐らく

安部や時代の文脈に即せば、史的唯物論や疎外といった用語法から

理解されるべきことばなのだろうが、現代の視座からはAIやアバターを

先取ったものと読めないことはない。見る主体としての眼球のみを

残して、見られる客体としての身体を透明にする、というモチーフは、

「時間彫刻器」よろしく、後の『箱男』において反復される。

あるいは恋愛、フェティシズム文学としての『壁』。

 

 と、作品中に仮託されたモザイクを列挙すればきりがない、ただし、

労働者革命をめぐるあまりに理に落ち過ぎた寓意としての「洪水」を

例外として、本書は間もなくその密度ゆえ空中分解を余儀なくされる。

 挿入歌が見事に帰結を叙述する。「一つの口でいちどきに二つの音を

出すことはさすが出来ないらしく、全然関係のない歌を少しずつ交代に

歌うので、何がなんだか分らなくなるのでした」。

 

  悲しい海辺の、ようこそ、わ……

  好きな誤解も、たし、たま、いい日

  気楽に他所見、悲しいの、る

  ため、駄々をこ、泣いているの、ねた

  朝の散歩、り、愛した、消えて、り

  ゆく、踊ろうよ、不幸な私

  ハイ、踊ろ、不幸なあ、うよ、なた。

 

 この詩を超える要約を本書がどうして持つことができようか。

 偽装されたシュール・レアリズムの狭間で、あからさまに着地点を失うことで

『壁』は逆説的に成功を収める。いみじくも「ぼくは空想しプランを立て」、

そして程なく破綻する、その一連の経過を自己言及的に例証する。

「世界をつくりかえるのは、チョークではない」。かくして命題は証明された。

俺らこんな村いやだ

  • 2020.03.16 Monday
  • 21:17

「ここじゃない、どこか遠くへ行きたい。だけど、それがどこにもないこと。……

俺も昔、それを知ってた。だけど、大丈夫なんだ。今、どれだけおかしくても、

そのうちちゃんとうまくいく。気づいた頃には、知らないうちに望んでいた

“遠く”を自分が手にできたことを知る、そんな時が来る」。

 多少の叙述トリックによる目先の違いこそあれ、本書の作品群のテーマは、

「道の先」において提示されるこのテーゼを限りなく通底する。そしてこの主題に

敷衍して、ほぼ共通の問題を露呈する点においても同工異曲の相を持つ。

「実際の姿より、語る実態のない“東京”の方が、より“東京”っぽいんじゃないかな。

漢字で書く“東京”じゃなくて、カタカナで“トーキョー”。軽くて、ちょっとニセモノ

っぽい響き」。

 どの作品をめくっても、描き出される「ここ」といえばそのことごとくが「語る実態の

ない」「ここ」、あるいは筆者に倣って「ココ」と表記すべきか。より正確には、そして

より罪深くは、その風景を描き出す気概すら持とうとはしないために、「語る実態」を

持ち得ない「ココ」へと堕落せしめられてしまった。

「気持ちがギスギズしていて、見るもの、聞くもの全てが、怒りに結びついてしまう」。

 こんなあからさまな文字列を並べて横着する前になすべきは、「見るもの、聞くもの

全て」を切り出すことで、「ギスギス」や「怒り」を読み手の側に喚起することでは

なかろうか。それを例えば「F県」や「U市」と呼ぼうがそんなことはどうでもいい、

ただし、仮にも『ロードムービー』なる表題を掲げておきながら、「ロード」をまるで

記述しようとしない、その態度はもはや論外としか言えない。

「ここ」が「ココ」でしかないがために孕んでしまう構造的な障害は、たぶん筆者が

その風土に重ねて描き出そうとしているだろう、スクールカーストにおける内と外の

問題をも平板化して、定型的、「カタカナ」的記号へと変えてしまう。

 不機嫌な人間が世界を不機嫌に捉えるのか、不機嫌な世界が人間を不機嫌に

させるのか、鶏が先か、卵が先か、ではない、同一の表象だ。

 

「ここ」が「ココ」なら、「わたし」は「ワタシ」。

 おそらく筆者の意図するところではないだろうが、ある面、真を衝いてはいる。

「軽くて、ちょっとニセモノっぽい」。

 ちょっとどころでないにせよ、本書の要約としてこれ以上の表現があるだろうか。

生成文法

  • 2020.02.16 Sunday
  • 20:23
評価:
インゲボルク・バッハマン
岩波書店
¥ 946
(2016-01-16)

「人生で三十番目の年を迎えても、人々は彼を若者と見なし続けるだろう。

しかし彼自身は、何か自分に変化を見いだすわけではないにせよ、確信が

持てなくなってくる。自分には、もう若いと主張する資格はないような気が

するのだ。(中略)それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら

違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、

たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。(中略)いまのように、

三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも

恐れなかった。『アクション』の声がかかり、自分がほんとうに何を考え、

何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに

大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、

ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、

自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるを

得なかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

 彼は考えもしなかった……」。

 

 果たしてこの作品群を詩と呼ぶべきか、小説と呼ぶべきか、当惑を抱かずには

いられない散文体。あえて挑発的な物言いをすれば、書き散らかされた何か、

とりわけ表題作「三十歳」については。時間経過らしきものは刻まれてはいる、

放浪の地も転々と移りはする、けれども実のところ、何が変わっているでもない。

 たとえば、「彼」の若き日々を振り返ってのパートタイマーが羅列される。

「食事と引き替えに生徒たちに補習授業をし、新聞を売り、一時間五シリングで

雪かきをし、合間にソクラテス以前の哲学を勉強した。(中略)新聞社では

歯科用のドリルについて、双子の研究について、シュテファン大聖堂の

修復作業についてルポを書かされた」。

 あるいは原著でならば、韻律なりの文法的な必然があるのかもしれない、

だがあったとしてその程度、「彼」の人生にそれ以上の何があるでもない。

全編を通じて展開されるものといえば「可能性」のサンプルに過ぎない。

果たしてランダムピックのどこに物語を認めることができるだろう。

 ただし、奇しくもその点が、「三十歳」にただひとつの物語を宿す。

「新しい言葉がなければ、新しい世界もない」。

 本作はただこの宣言を引き出すべく綴られる。既存の「言葉」の規定する

「千と一つあった可能性」、つまりは既存の「世界」、彼があてどなくさまよう

「世界」ではなく、「新しい言葉」、「新しい世界」を欲する。

 

 そしてその期待は裏切られる。

「自分は何にでもなれる」、つまり、「何か」にしかなれないのだから。

 ある意味で、本作は「彼」と「ぼく」を、そしてあるいは友人モルの存在さえ、

不規則な仕方で入れ替えることで、その点を鮮やかに証明してみせる。

「ぼく」だろうか、「彼」だろうが、つまり「何か」でしかないのだから。

何をどこに代入しようとも、それは文法のはしためを決して超えない。

 人間の性質が否応なく「言葉」を規定する、今改めてN.チョムスキーの

「生成文法」論を引き出いに出してみる。E.カントのカテゴリー論とも

プラトンのイデア論とも異なって、彼の学術的な急進性の一つは、

「言葉」を通じて規定される人間の側ではなくむしろ、「言葉」の側にこそ

自律性を認めたことにある。

 三十歳の「彼」の呻吟は、「可能性」をいかなる仕方においても変えない。

ただひとつ、「言葉」が変われば「世界」も変わる。

Make America Great Again

  • 2020.02.08 Saturday
  • 22:39
評価:
スティーヴ エリクソン
筑摩書房
¥ 1,540
(2015-10-07)

 主人公ザン(アレギザンダー)は小説家、とはいっても最後の発表からは

既に10年以上が経過している。リビングのテレビが映し出すのは、合衆国

史上初の有色大統領の誕生。膝の上に座るのは人類のルーツ、エチオピアから

引き受けた養女シバ、ご贔屓の白人対立候補が敗北したことにどこか不機嫌。

 ザンは記憶を呼び起こす。それは彼がまだ学生だったころのこと、

democracydemocrazyに変わった刹那、候補者に熱狂する人ごみに

押しつぶされかけた彼の手を黒い腕がさっと掴み、そして救い出す。

褐色の若い女の眼差し、瞳のグレーを彼は瞬間焼きつける。

 

 政権交代を引き起こす契機となった金融崩壊は、ザンの家計にも重篤な

影響を及ぼす。月額2800ドルの住宅ローン返済は6500ドルにまで膨らみ、

どころか糊口をしのぐ大学非常勤講師の職すらも失うことになりそうだ。

 そんな危機を知ってか知らずか、妻ヴィヴの元恋人からイギリスの大学での

集中講義の依頼が届く。主題は「衰退に直面する文学形式としての小説」。

報酬3500ポンド、焼け石に水、でも彼は息子と娘を連れて英国へと向かう。

 妻はといえば、エチオピアへと旅立った。目的はシバの母の足跡を追うこと。

合流の約束も虚しく、彼女は間もなく消息を絶つ。

 彼のもとにシッターとしてモリー、『ユリシーズ』のヒロインと同じ名前、

シバと同じルーツ、が現れ、そして間もなくシバを連れて姿をくらます。

 

「エチオピアが独自の時間帯を発明したというのではなく、エチオピアの

時間帯がオリジナルな時間、つまり、他の時間帯がそれを参照して時間を

決めるような時間なのだ。シバは、ロサンジェルスにやってきて数週間の

うちに英語をマスターしたが、一年以上たっても、時間の概念は彼女の

頭に入らなかった。時間に関する用語を理解しないのだ。『明日、みんなで

公園に行くよ』と、ザンが言う。

『オーケー』と、シバが言い、数分後には、『パピー、行こう』と言うのだ」。

 本作はすべてこのルールに従って書き進められる。

 あるいはそれは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を想起させる。

 時の流れや因果さえもがしばしば脱臼を来したまま、例の未来学とやらが

言うように、無数の選択肢の枝分かれが編み込まれ、綾をなし、あまりに

ご都合主義的な結びつけを経つつも、やがてとある「名前」へと収束する。

一見、無時間的な仕方で撚られる糸は、それでもなお歴史に縛られることを、

あるいは歴史を縛ることを片時もやめない。

 

「一人じゃ、何も変えられない。少なくとも、私には無理だ。私は偶然に

生まれた子にすぎない。だが、偉大でない人間でも、偉大なことをしようと

試みなければならないときもある。……私は自分が怖いと思うことをします。

なぜなら誰かが何かの一部を変えることはできるし、そうした何かの一部が

別の一部を変え、やがて湖のさざなみが水辺まで届くのだと思うからです」。

「変える」ことを放棄して、このうんざりするような世界を「変え」てくれる

誰かを求めれば、その「さざなみ」からファシストは生まれる。

 ファシストが世界を壊すわけではない。

 壊れた世界だからこそ、ファシストが現れる。

 

 この小説が幕を下ろし、それに代わり読みはじめたテキストの冒頭から

安部公房『第四間氷期』を重引する。

「残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だという

ことで、すでに本来的に残酷なのである。その残酷さの責任は、未来にある

のではなく、むしろ断絶を肯んじようとしない現在の側にあるのだろう」。

『きみを夢みて』の要約として、たぶんそう遠からぬところにある。

 この符合、果たして偶然か。

ヤングアダルト

  • 2020.02.05 Wednesday
  • 21:59

 ファウストよろしく知に倦み果てたヴィクター・フランケンシュタインは、「時間の

流れを遡り、知識の足跡を逆にたどり、……忘れられた錬金術師の夢を求めた」。

解剖学に魅せられたダ・ヴィンチをなぞるがごとく、「堂々たる体格の男が朽ち果て、

無に帰していくさまを眺め、生命の徴候を宿した頬が死の腐乱に乗っ取られる

ところを見守り、驚異の結晶とも呼ぶべき人間の眼球や脳を蛆虫が食いあさる

様子を凝視しました。……こうした観察から得られた、生から死へ、死から生へと

転じる原因と結果と思われるものを、どんな些細なものも余さず詳細に分析し、

検討し続けたのです。そうするうちに、この先も見えぬ漆黒の闇の彼方から突然、

ひと筋の光明が射してきました」。

 そうして彼は怪物を生み出した。

 

 原子力やAIを典型に、人智にして人智を超えた制御不能なモンスターを

科学に重ねる、そんな読み方もできるだろう。ある時代においては、肌の色に

根拠を置いた人種差別の悲哀が投影されることもあっただろう。現代ならば、

リチャード・ジュエルがやがてジョーカーへと変じる、そんなローン・ウルフの

原型を見て取ることもできるかもしれない。

 だが、本書においてまず観察されるべきは、アダマ(土)に息を吹き込む

ことで己が似姿に生命を注いだ物語を重ねることで神に比肩し、神を失い、

ただし全知全能の属性を欠いた近代自我の帰結に他ならない。

「ああ、神よ! あの怪物の悪魔のごとき企みにどれほどいまわしい意図が

隠されていたことか、ほんの一瞬でもそこに考えが至っていれば、……自ら祖国を

永遠に去り、友もいない孤独な世捨て人となってこの地上をさまよい続ける道を

選んでいます。けれども、これもまたあの怪物の魔力のせいでしょうか、わたしは

眼をふさがれたように、あやつの真意を読み取れなかったのです」。

 神託を辿る他ないわが身を嘆くオイディプスならば、物語をそこで閉じることが

できただろう。しかしフランケンシュタインの眼前にもはや神は残されていない。

「慰めを得る手段」は唯一、「孤独と錯乱から生まれ」る、ノスタルジアなるものが

すべからくそうあるように。恋しきエデンの記憶すら有無すら知れぬ辿り着き得ぬ

彼岸でしかなく、やがてヴィクターが看破する通り、イヴはアダムを癒さない、

今、ここを共有可能な主体であることがもはやできないのだから。

 再帰型近代の磔にされた彼が向き合うことを許されるのはもうひとりの「わたし」、

怪物の他に何もない。この独白体で構成される小説の巧みは、ヴィクターと怪物が

ともに「わたし」を主語にとることで図らずもその同一性を明かすことにある。

「わたしが為さねばならぬのは、この手で創り出した怪物を追いつめ、滅ぼす

ことです。それが終われば、この地上でわたしに与えられた運命は完結した

ことになる。そのとき、わたしも死ぬことができるでしょう」。

 すべてエロスはタナトスを通じてのみ規定される。

 ここでもまた、フロイトは偶発的に真を衝く。