道の駅型ローカリティ

  • 2019.01.21 Monday
  • 22:36
評価:
ミロスラフ・ペンコフ
白水社
¥ 3,024
(2018-10-26)

 かつてスタロ・セロなる村があった。大戦を経て、村を走る川が国境線に変わる。

東はブルガリアに、西はセルビアに、そしてそれぞれに新たな名前が与えられた。

まもなく川にはベルリンの壁や38度線と同じ意味が付され、監視する軍人たちの

銃を構える光景が日常と化した。ただし、彼らは両国の許可の下、5年に一度、

「スボール」なる再会イベントを催し、そこで東の民はリーバイスやアディダスを

知ることとなる(「西欧の東」)。

 長く続く風習のひとつ、「誰かが亡くなると、遺族は故人の名前と遺影、その下に

短く悲しい詩をつけた『ネクロログ』という紙を作る」(「ユキとの写真」)。

 ある年のこと、党の指令により、「ポマク人であれその他のイスラム教徒であれ、

国内のすべてのトルコ人に、新しくブルガリアの氏名が与えられる。ブルガリアに

住んでいるなら、ブルガリアの名前を名乗らねばならない。それがいやなら、

トルコに去ってもらって構わない」(「夜の地平線」)。

 グリーンカードを取得してアメリカン・ドリームを思い描くも、やがて挫けた男が

失った祖国のアイデンティティとしての「ヤッド」を語る。「悪意や強い怒りや

憤りにも似ていて、でももっとエレガントで複雑なんだ。誰かに対する哀れみの

気持ちとか、自分がやったことやらなかったこと、逃したチャンス、しくじった

機会を悔やむ気持ち、そうした思いのすべてが、ヤッドっていう美しいひと言には

こめられている」(「デヴシルメ」)。

 

 ブルガリアと耳にして連想することといえば、カザンリクとヨーグルトと琴欧洲、

白地図を渡されて位置を指し示せと言われてもたぶん正解できそうもない、

その程度の、知識と呼べる代物を持たない私が以下にする指摘は、全くもって

的を外した言いがかりでしかないのかもしれない。

 なるほど、短編の中に見事に東欧の小国の歴史トピックが織り込まれている。

もしかしたらブルガリア人は、この一冊に国民作家の誕生を見るのかもしれない。

 ところが、読み進むほどに引っかかる。

 うまくできている、いや、うますぎる。異国情緒を求める顧客の期待に応えて

ブルガリア固有の歴史、風土を分かりやすくサービスに折り込む、それはまるで

アミューズメント・パークのマーケティング接客術のように。ジャパンといえば

スシ、サムライ、フジヤマ……そんな記号性のプールと何が違うというのだろう。

 

「レーニン買います」よりの抜粋、アメリカン・ジョーク集からの誤引用ではなく。

 

   1999811日、僕はアーカンソーに到着した。空港に迎えに来てくれた

  若い男ふたりと女の子ひとりは、みんなスーツ姿だった。留学生を何かと

  ケアしてくれる何かの組織に入っているらしい。

  「アメリカにようこそ」と、三人は温かく親しげな声をそろえて言い、誠実な

  顔が満面の笑みになった。車に乗ると、僕は聖書を渡された。

  「これが何かわかりますか?」ゆっくりと迫力ある声で、女の子は言った。

  「いいえ」と僕は言った。女の子は心底うれしそうだった。

  「これは我らが救世主の言行録です。我らが主の福音です」

  「ああ、レーニン全集のことだね」と僕は言った。「第何巻?」

 

 商品化のほかに、ナショナリズムは生き延びる術を持たない。

君が代は 千代に八千代に

  • 2019.01.14 Monday
  • 21:40
評価:
夏目 漱石
新潮社
¥ 367
(1948-10-27)

 偶然に汽車で隣席し、同じ部屋で一晩を過ごす羽目になった女に言われる。

「あなたは余っ程度胸のない方ですね」。

 乗り込んだ列車で、やはり隣り合わせた男に言われる。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……日本より頭の中の方が

広いでしょう」。

『三四郎』を今さらながら読み返して驚く、第一章で提示されたこの対立軸から

一歩も前に進まない。トリックスターの与次郎や、ファム・ファタールの美禰子を

交えても、三四郎の何が変わることもない。通過儀礼の典型としてのセックスに

はじまり、あからさまに成長物語のフォーマットを踏襲しているはずなのに、

肝心のその成長が果たされることは決してない。

 明治の東京を舞台に展開されるスクラップ・アンド・ビルドに圧倒されて独白する。

「この激烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、自分が今日までの

生活は現実世界に毫も接触していない事になる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。

それでは今日限り昼寝をやめて、活動の割前が払えるかと云うと、それは困難である。

自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起る

活動を見なければならない地位に起き易えられたと云うまでで、学生としての生活は

以前と変る訳はない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。

けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に

並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、

自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である」。

 開始まもなく26ページのこの記述をもって、あるいはそれ以前に、事実上、

彼個人の物語は既に終わっている。社会に出るか、それとも象牙の塔に留まるか、

三四郎が立つモラトリアムは見事なまでにその先の予感を持たない。

 

 しかし今改めて向かい合い、妙な気分に襲われる。ビルドゥングスロマンなど

所詮は文学の内部構造においてのみ存在の余地を持ち得るいわば様式美に過ぎず、

成長の不可能性を謳う『三四郎』こそが、むしろ自然主義なのではなかろうか。

 その表題とは裏腹に、彼はあくまで「動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は

出来ない」傍観者以外の何者でもない。変わらない、変われない、そのことはもはや

三四郎の問題ではあり得ない。今や本書の主題は明らかだ。

「目的だけは親切な所も少しあるんだが、何しろ、頭の出来が甚だ不親切なもの

だから、碌な事は仕出かさない。一寸見ると、要領を得ている。寧ろ得過ぎている。

けれども終局へ行くと、何の為めに要領を得てきたのだか、まるで滅茶苦茶に

なってしまう。いくら云っても直さないから放って置く。あれは悪戯をしに世の中へ

生れて来た男だね」。

 与次郎を評してこう言った広田は、「済んだ事は、もう已めよう」と切り上げて、

昼寝の最中見た夢の話をはじめる。「昔の通りの顔をしている。昔の通りの服装を

している。髪も昔の髪である。黒子も無論あった。つまり二十年前見た時と少しも

変らない十二三の女」に再会したという。変わらないことを問われ彼女は夢に言う。

「この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから、こうしている」。

 その年とは――「憲法発布は明治二十二年だったね」。

 

「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」。

 明治が描いた国家の成長神話すら失効した現代ゆえにこそ、漱石の刻んだものが

かえって見える。

マニフェスト・デスティニー

  • 2019.01.07 Monday
  • 22:27
評価:
ウィリアム フォークナー
光文社
¥ 1,685
(2018-05-09)

 アメリカ南部ミシシッピ州の町、ジェファソンで殺人放火事件が発生する。

被害者は、「年寄りじゃないよ。若くもないけど」な白人女性、炎に焼かれた

広い屋敷に独身住まい、「毎日一定時間、静かに机に向かい、年齢を問わない

さまざまな人に、聖職者と銀行家と看護師を兼ねたような立場から、実際的な

助言をする」ことに従事していた。

 事件を知った遠い縁者は間もなく、逮捕協力者への懸賞金を提示した。

早々に保安官の捜査線上に浮上したのは、離れの小屋に暮らしていた男。

行方をくらました容疑者、見た目は白人、ただし黒人の血を引いていた、

少なくとも本人はそう信じていた。

 

「時間が続いていく中、無数のことが起きるが、何もかも覚えのあるものばかり。

というのも、かつて起きたことはすべてこれから起きることと同じであり、

未来と過去は同じものだからだ」。

 この群像劇においては、登場人物のことごとくが時間を失う。

 ある指名手配者は逃避行の途上、疲労のせいか、「この30年、数字と

曜日で表される日日が柵の市中のように整然と並んでいるその柵の内側で

生きてきたのに、ある夜眠りについて、目が覚めるとその外側にいた」。

 ある牧師が壇上で説いたのは決まって南北戦争期、ジェファソンの地で

勇躍した祖父をめぐる英雄伝。彼は「自分が生まれた日より30年も前の、

祖父が疾駆する馬の背から撃ち落とされた日だけを生きてい」た。「機械的な

時間とは無縁に生き……とは言っても時間を失ってしまったわけではない。

……時計の助けを借りずとも、日曜日の朝の礼拝と、日曜日の夕べの礼拝と、

水曜日の夜の礼拝の、始まりと終わりを示すふたつの決まった瞬間の間に

自分がどこにいて何をしていたか、そのことを思うだけですぐに判るのだ」。

 とある老女もまた、失われた時の中を生きる。ようやく孫を授かるも、

その顔にまみえる機会すら与えられぬまま袂を分かち30年、偶然に出会った

赤子に孫の幻影を「ごっちゃ」にせずにいられない。

 なぜに架空の町、ジェファソンでは、時の流れが歪むのか。

「お祖父さんや、お兄さんや、父さんや、おまえが生まれるずっと以前に、

神がある人種全体にかけた呪いのために殺されたんだ。その人種は永遠の

呪いを受けて、罪を犯した白人に対する呪いとなる運命に定められた」。

 この地を、この小説を縛るのは、南北戦争、もしくはさらに遡って建国史、

アメリカの宿痾が彼らの「未来と過去は同じもの」たらしめる。

 そこに「希望」を投げ込むのが、自らのフィアンセを追って町に分け入る妊婦、

無垢にして、つまりは無知な。そんなマリアと子どもを引き受けようと決意する

ヨセフに向けて牧師は訴える。

「立ち去るんだ。今すぐに。この町、この恐ろしい町、このとんでもなく

恐ろしい町から、永久に立ち去るんだ。……きみは希望を持つことを

覚えたんだ。それだけだ。希望を持っただけだ」。

「主よ、いつまでですか」との旧約聖書「詩編」の嘆きは永遠に保留される。

「希望」は常に「呪い」の現実を前に跪伏を余儀なくされるのだから。

幸福論

  • 2018.12.27 Thursday
  • 21:59
評価:
安部 公房
新潮社
¥ 562
(2003-03)

「ある八月の午後、大きな木箱と水筒を、肩から十文字にかけ、まるでこれから

山登りでもするように、ズボンの裾を靴下のなかにたくしこんだ、ネズミ色の

ピケ帽の男が一人、S駅のプラットホームに降り立った」。

 男の目的は昆虫採集、わけても砂地に生息するハンミョウ属。万が一、新種の

発見ともなれば、「長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック

活字で、昆虫図鑑に書きとめられ、そしておそらく、半永久的に保存される」、

そんな夢に憑かれて砂を這ううち、気づけば最終便を逃していた。

 男は、集落で出会った老人に宿泊する民家を斡旋してもらう。連れられて

訪れたのは、縄梯子を垂らした先の、ひどく朽ち果てた家。そこに住まうのは

浜には不似合いなほどに色白の女。

 とめどなく風に運ばれる砂のかき出しに忙殺される女と、それを客人として

呑気に眺める男。翌朝、帰路に着こうと外へ出ると、縄梯子が消えていた。

 かくして男は女とふたり、崖の底に残された。

 

「死にぎわに、個性なんぞが、何んの役に立つ。型で抜いた駄菓子の生き方で

いいから、とにかく生きたいんだ!」

「灰色」の日常に倦み果てて、生の自明性を見失った男が、「砂に侵食されて、

日常の約束事など通用しなくなった、特別の世界」に突き落とされ、絶望に次ぐ

絶望の中で、遂に生それ自体を回復するまでの物語としての『砂の女』。

 来る日も来る日も、村が、家が押し潰されないように砂をかく。風が運び込む

砂に苛まれることがこの集落の定めである以上、一度「愛郷精神」に従うことを

選んだ彼らには砂をかく以外の日常などあり得ない。生きるために砂をかく、

生きるとは砂をかくこと、砂をかくために砂をかく、この自己目的化のサイクルに

「なぜ」の問いかけがいかなる意味を持ち得ようか。

 いかにも厄介なことに、男は砂かきに「労働」を見出す。

「労働には、行先の当てなしにでも、なお逃げ去っていく時間を耐えさせる、

人間のよりどころのようなものがあるようだ」。

 読み進めば否応なしに気づかされる、「つまり、ないものをですね、あるように

思いこませる幻想教育」からほんの少し覚めてみれば、この砂の集落は決して

生の寓話ではないのだ、と。『砂の女』とは実に生そのものに他ならない。

 

 妙齢の男と女が屋根の下に住まえばやがてすることをする。新たな生が宿る。

「男というものは、何かなぐさみ物なしには、済まされない」。

 あまつさえ男は、奈落のはずのその場所に「なぐさみ物」を見つけてしまう。

それどころか今や、それを話し伝える相手を持つ。かつての「なぐさみ物」、

昆虫採集に打ち明けるべき知己などひとりとしていなかった男が。

 これを幸福と呼ばずして、他の何をそう名指すことができようか。

 本書にミシェル・フーコーの指摘を重ねることはたやすい。監視塔としての

火の見櫓のくだりに、パノプティコンを連想せずにいる方が難しい。

「漂流者が飢えや渇きで倒れるのは、生理的な欠乏そのものよりも、むしろ欠乏に

対する恐怖のせいだという。負けたと思った時から、敗北が始まるのだ」。

 男の見た幸福が、こうした生存戦略と自己監視の混淆物に過ぎないとしても、

それは読者が通過儀礼を経た男に祝意を表さずにいられる理由にはならない。

分かつ友のないラテン語学名が象徴するだろう、パトリなきナショナリストの

終着点として、これ以上の安楽をどうして望むことができようか、たとえ当の

法治国家から失踪手続きに基づく死亡認定がなされたとしても。

 ソルジェニーツィンの監獄も、ニアミスこそあれ、この作品とはすれ違う。

「けっきょく世界は砂みたいなものじゃないか」。

 つつがない幸福をめぐる試論、それが『砂の女』、衒いでも、皮肉でもなく。

ロールシャッハ・テスト

  • 2018.11.27 Tuesday
  • 22:08
評価:
アメリア・グレイ
河出書房新社
¥ 1,728
(2017-09-18)

 120章の中から、サイコロの偶然で3つほど。

 

40:PM」。

 

   自分は孤独死するだろうとテスは確信していた。普通よりも太すぎる気がする

  腕のせいだと思った。振り払うことができない自己評価の低さのせいだと思った。

  年を取り、周りの女の子たちが女になり、妊娠し、すっかり体の曲線を失ったと

  いうのに。彼女は自分の写真を撮りまくり、舐めるように見つめては粗を探し、

  焼き増しをすると、彼女の電話番号がはっきりと印字された写真を夜中の電柱に

  貼りつけた。

   あらゆる人たち、たいていは男、が電話をかけてきては、写真の女の子について

  訊ねた。テスは彼らに言った。その子は家出少女なんです。発見したら、身柄を

  確保して、秘かに警察を呼んでください。

   男たちは言った。家出少女にしては年を取り過ぎているように見えるが。

   テスは言った。おつむが弱い子なんです。

   外出時、テスはいつもよりずっと大胆になった。ノースリーブのシャツを着て、

  レジ係の男の子たちに目配せをした。図書館では、彼女が中央のテーブルに座り、

  本を読んでいる間、顔を明かりに向けた。誰かが近づいてきて、何かお困りでは

  ありませんか、とか、その作者のほかの作品を読んだことがあるか、とか、声を

  かけるたびに、彼女は持ち物をかき集め、逃げた。彼女が何から逃げようと

  しているのか、誰にもわかったためしがなかった。

 

AM:81」。

 

   ベッドシーツを漂白すればするほど、チャスティティはその中で転げ回りたくなる。

  パーティーをやろう、彼女は決めた。次の朝ちりとりの中身で小さな物語が生まれる

  ようなやつを、はがれたスパンコールやハイヒールに踏まれてめちゃくちゃになった

  ミントの葉、割れたガラスの破片と混ざり合ったエビの尾、パンの皮。彼女は漂白

  されたシーツに嵐のようにぐるぐる巻きにされ、その台風の中で眠りに落ちる。

 

106:PM」。

 

   テスは両脚をきちんと体の下に折りたたんだ状態で、リビングの真ん中で

  見つかった。その姿勢からは、突然のニュースにショックを受けた彼女が、

  ただちにその場に座り込んで感情に追いつこうとしたように見えた。

   ロープの一方は天井の梁からゆるく垂れ下がり、もう一方はいまだ彼女の首に

  かかったままで、そのちぎれた端が彼女の後ろでだらりとしている様が、まるで

  子どものおもちゃみたいだった。女から1.5メートルほど離れたテーブルの上の

  靴が、ロープがちぎれるまでに、彼女が2.4メートルほど水平に揺られたことを

  ほのめかしていた。彼女の顔に浮かんだ表情を想像してみて欲しい。

 

 インクのシミの連なりからたまさか何かが見えたとしても、その功績はすべて被験者の

幻視力に帰する。