永すぎた冬

  • 2018.01.05 Friday
  • 21:23

 表題作、「死体展覧会」。

「死体を展示して人々に見せることは、我々が追求する究極の創造性であり、我々は

それを研究して利益を得ようとしている」。

 与えられた任務は殺人、ただしそれは「芸術作品」としての。「我々は手当たり次第に

殺して人々を怯えさせることを目的とするテロリストではないし、金目当ての狂った

殺し屋でもない」。

 科されるべき義務はただひとつ、「斬新で荒々しく、目を見張るような想像力」をもって

「芸術作品」を「この国の荒廃のなかで宝石のように輝」かせること。この価値観において、

殺してはならないという命題など、「陳腐な人道的感情に感染した間抜け」に過ぎない。

 

 この不条理性が例えばF.カフカを想像させるというのは、たぶん偶然に過ぎない。

 戦争のひとまずの決着がもたらす軍事政権からの解放感が、このイラク出身作家から

見いだされることはまずない、それは宮沢俊義の八月革命論が一定の説得力を持ち得た

1945年のこの国とはまるで対照的に。さりとてまさか、サダムへの郷愁を謳うでもなく、

テロリストへの称賛を示すでもない。

 

「イラク人キリスト」、なるほどあらすじを追えば、身代りとして他者の罪を引き受ける

無辜の殉教者をなぞっただけの物語とも見える。しかし、手を変え品を変え、この生贄論が

語られ続けている事態こそが、未だ「神の国」が来たらぬ世界を何よりも能弁に告発する。

ゆえに筆者の磁場では、自爆テロの罪をあえて背負うことが「救済への謎めいた欲望」と

不意のシンクロニシティをあらわす。

「カルロス・フエンテスの悪夢」、イラクからオランダへと逃げ延びた男が保護申請に

際して同時に改名し、褐色の肌に齟齬の少ないラテン系の名前を得る。現地の社会に

溶け込んで、市民権も伴侶も得て、「何もかも順風満帆と思われたそのとき、夢の問題が

持ち上がり、すべてが砕け散った」。どうあがいても、過去は消えない、消せない。

「オランダの新聞はどれも、オランダ国民が自殺したとは書かず、イラク人男性が夜に

六階の窓から飛び降り自殺したと報道した」。

 

  「眠りたい」

  それはつつましい願いだった。

 

「記録と現実」よりの引用、この上なく、ハサン・ブラーシムを伝える。

スウィート17モンスター

  • 2017.12.31 Sunday
  • 18:08

 カッコウという鳥には、ある特殊な生殖行動が確認される、という。

 托卵といって、他の種の鳥に卵を委ね、本能にただ乗りしてヒナを育てさせてしまう。

そのプロセスにおいて、宿主のヒナや卵を駆逐する例もしばしば観察される。

 

「何年か前のことだが、大学3年生の春学期に僕は、一人の女の子を捨てるか、

それとも彼女と結婚するかという選択をするかわりに、彼女とのあいだの自殺協定に

署名することになった。……女の子の名前はプーキー・アダムズ。僕は大学に入る

前の夏に彼女とバスで出会った。彼女は僕を一目見て身も世もなく恋に落ちた。

そして僕は? 僕は『そんなものどこ吹く風』とかまえていた。それが意味するのは、

当時の僕がとてもシャイであったばかりか、それに劣らずごまかし屋でもあったと

いうことだ」。

 

「我々はおしゃべりをした。というのはつまり、彼女が一人でしゃべりまくったと

いうことだ」。

「僕」が何気なく言った「君が科学的なものごとに興味を持っていないってことは

分かるよ」に激高して、「じゃあ、私が常緑樹の隣に植えたクサフジウツギ……の

ことはどうなるわけ? 私がうちにコレクションしている17匹のオオカバマダラと、

6匹の黄色オオトラフアゲハと、9匹の黒アゲハと、4匹のモーニング・グローリーと、

2匹のスズメガと、1匹のアメリカオオミズアオと、970億匹のモンシロチョウはどうなる

わけ。トンボやらオオツノカブトムシやキリギリスやコフキコガネや、……ビネガロン

さそりは言うに及ばず。そういうのってどうなのよ? 君はビネガロンを持っているの?」

とまくしたてる、とても村上春樹的なヒロイン。それに対してさらっとビネガロンの学名

マルティゴプロクトゥス・ギガンテウスを諳んじてみせることで束の間彼女を沈黙させる、

とても村上春樹的な「僕」。

「僕は年若い頃からずっと、一人でやっていく人間だった(それは『ひとりぼっち』と

いうのとは違う)。なぜなら僕はひとりでいるときがいちばん幸福だったからだ」。

 そんな「僕」に彼女は言った。「もし君が孤独であるのなら、誰か愛せる人を持つと

いうのはきっと役に立つよ」。

 そして「僕」は少しだけ変わったのかもしれない。大学に進んだ「僕」はフラタニティに

入会し、『嗚呼!!花の応援団』のごときシゴキに身を置く中でいつしか、「汚らしくて

おぞましいケモノと化して、腐ったキャベツみたいな色に塗られたひどいポンコツ車を

乗り回したりするようになった」。

 

 プーキーが枝で地面にお絵描きをする。二種類の〈長くちばしスニート〉。

「小型スニートは小さな川に住んでいて、夜になるとゴルフコースにあがってくるの。

そしてくちばしを地面に突っ込んで、その尻尾をティーがわりにしてボールを打つ人が

やってくるのを待って……スニートたちは一晩中ずっと待っているの。ふわふわした

草の中のぴかぴかの金貨みたいに。ひょっとしたらゴルファーがたまたま通りかかるん

じゃないかみたいな虚しい希望を抱いて。でも誰もやってこない。……でもほんの

ときたまだけど……とても小さな冷えた星が漂い落ちてきて、彼らの尻尾の上にしばらく

留まっていくの。そうすると彼らはとっても幸福な気分になることができる」。

 対して大型スニートは「とっても愛情に溢れていて、キスをするのが大好きなの。

でもそれをするのにものすごい時間がかかるわけ。なにしろその長いくちばしの先が

触れあうために、ものすごくゆっくりとお互いに接近しなくちゃならないわけだから。

でもそれはおおむね不可能なことなの。というのは、ちょっとした流れの動きで彼らは

上下に振れたり、左右に振れたりしちゃうから。そして彼らには自分の身体を安定させる

ためのひれとか水かきとかそういうものがまったく具わっていないの。そんな悪戦苦闘の

末にもしくちばしの先っぽで、ちゅっと完璧なキスができたとしても、その頃にはもう

くたくたになっていて、それを心から楽しむこともできないわけ」。

 そんな〈スニート〉による、〈スニート〉のためのビルドゥングスロマン。

 フィクションにおける至上の幸福のひとつは、生身の誰よりもリアルな誰かを束の間

降臨させてくれること。仕方がない、エキセントリックでエキサイティングなプーキーが

街を歩いているはずなんてないのだから。そこらのかまってちゃんなど、粗悪を極めた

レプリカントですらあれない。

 現実は手段であって、目的ではない。

 恋は唯一、塔の上の幽閉状態において成り立つ。すべての道はパルムに通ず。

伏魔殿

  • 2017.11.07 Tuesday
  • 21:52
評価:
ミハイル・ブルガーコフ
白水社
¥ 1,944
(2017-09-21)

「あらかじめ読者にお断りしておかなければならないが、ここに発表する手記のかたちを

とった作品とわたしはなんの関係もなく、この手記がわたしの手にはいったのは、きわめて

奇妙な、そして悲しむべき事情によるものである。/昨年の春、セルゲイ・レオンチエヴィチ・

マクスードフがキエフで自殺を企てたちょうどその日に、彼が前もって投函していた小包と

手紙をわたしは受けとった。/小包を開くと、この手記が出てきたが、手紙の内容は驚くべき

ものであった。/この世を去るにあたって、セルゲイ・レオンチエヴィチは、この手記を唯一の

友であるわたしに贈る、これに手を加えて、わたしの名前で出版してほしい、と希望を

表明していた。(中略)自殺者は演劇や劇場と関係をもったことは一度も無く、『船舶通信』と

いう新聞のしがない記者として生計を立て、たった一度だけ、作家として世に出ようと試みた

こともあったが、それもうまくゆかず、セルゲイ・レオンチエヴィチの長篇小説は活字に

ならなかった。/このようなわけで、セルゲイ・レオンチエヴィチの手記は空想の産物に

ほかならないが、それにしても、ああ、なんという病的な空想の産物であることか、セルゲイ・

レオンチエヴィチは憂鬱症というきわめていまわしい名称をもつ病気に悩まされていた」。

 

 ひとつには未完の小説というせいもあるのだろうが、それにしても分からない。

 それが本書読後の偽らざる感想。

 自身の原稿を持ち込むも文芸誌に拒絶され、絶望のあまり自殺を決意するも、そこで

現れた「メフィストフェレス」が紙面への掲載を申し出る。ところがその出版を前に、件の

編集者は雑誌もろとも姿をくらましてしまうのだが、どこからか、その小説を入手したという

男が、作品を戯曲化して上演しないか、と話を持ち込む。かくして執筆に入るも、劇団なる

伏魔殿の中で作品は換骨奪胎されて、その原形を失っていく……。

 劇場で契約書への同意を求められる。

「契約書には、《もしも……ならば》とか《なんとなれば》という言葉がひんぱんに出てき、

各項目が《作者は……の権利を有さず》という言葉ではじまっていたのを覚えている。

(中略)もっとも、一つの項目だけがこの書類の単調さを破っていたが、それは第57

だった。それは、《作者は……の義務を負う》という言葉ではじまっていた。その項目に

よると、作者は《もしも指導部、なんらかの委員会、機関、組織、団体、組合、ないし

権限をもった個人などの要求があった場合には、無条件で、即時、戯曲の訂正、変更、

加筆、削除などを行なわねばならず、それに際しては、第15項に明記された以外の

いかなる報酬も要求することは許されない》とあった」。

 作者には「権利」など認められず、ただ「義務」のみが横たわる。

 大御所の「要求」でキャストの平均年齢が大幅に引き上げられる「変更」を強いられ、

やはり演出家の「要求」でキーとなるべきシーンも「変更」を重ね、骨抜きにされた。

もはやマクスードフの作品たる性質を失い、それでもなお、「わたしは、毎晩、芝居を見に

劇場に足を向けずにはいられないのだった」。

 こうした一連のプロセスが、ロシア革命の夢と挫折を寓意しているのだろうか、と

見立ててみたりはするが、正直なところ、分からない。

 書かれざる暗黙の時代背景、感情論理、社会制度の欠落がどうにも埋まらない。

 見知らぬ地の古い小説を読む困難を知らされる。

タイガー&ドラゴン

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:21
評価:
金子 薫
河出書房新社
¥ 1,728
(2017-09-22)

「目が醒めてから再び眠りに就くまでのあいだ、今日も『君子危うきに近寄らず』は辛抱

強く待ち続けていた。相も変わらず少年と少女、それから驢馬の到着を待っている。

いつかやって来るという確信も時には揺らぎ、所詮は自分の思いこみに過ぎないのでは

ないかと悩むこともあった。しかし、みつるもことみも少しずつではあるが間違いなく

近づいてきており、この部屋に光が射し込むのもそう遠くないはずだった」。

「君子危うきに近寄らず」が暗い部屋に幽閉されるようになってもう何年が経っただろう、

朝食には白米と冷水が、夕食には鶏肉入りの南瓜スープ、差し出されるときに辛うじて

射し込む外の光とともに、一応時の流れていることを知る。

 記憶喪失に陥った「君子危うきに近寄らず」には同居人がいた。名を「君子」という。

「今では紛れもなく自分の息子だと信じているが、以前はそうではなかった」。

「君子」もまた同様に記憶をなくしていた。

「君子危うきに近寄らず」が持っていた唯一の私物が「体操服を着ている子供たちの

写真だった。校舎と思われる建物の前に13人の子供が並んでいる」。その中に例の双子、

みつるとことみがいた。「双子は驢馬に跨って私を助けに来るであろう。移動手段としては、

子供に馬は御しかねるだろうし、……双子はやはり驢馬に、それも一頭の驢馬に跨って

来るはずだ」。そして写真にはもうひとり、「君子」も写っていた。

 親子はいつしか壁に地図を描くようになった。故郷と部屋をつなぐ双子の旅路だった。

地図が細密を増すほどに両者の距離も縮んでいく、そんな望みが親子を繋ぐ絆となった。

 

「アタリ、コウ、ツケ、ハネ、ノビ、ツギ、キリ、シチョウ」……といきなり並べられても、

現代人の多くは何のことやら、訳が分からず当惑することだろう。これらはすべて囲碁用語。

 地図を黒く塗り消された親子は、いつしか会話の糸口を失ってしまう。そんな二人を

再び向き合わせる契機が囲碁だった。棋は対話なり。看守の目の届かないトイレの中で

「君子危うきに近寄らず」は「君子」にいろはを施すところからはじめる。

 19路盤においてルール上実現可能な局面数はこの宇宙の総原子数をも超えるという。

そうして彼らは対局という共同作業の中に、地図に代わる世界の表現方法を見出した。

 

『ドン・キホーテ』、『青い鳥』、『ロビンソン・クルーソー』、『オイディプス』……

貴種流離譚のそんな系譜を混ぜ合わせたような作品。表紙の男性はたぶんホルヘ・ボルヘス、

マジック・リアリズムの匂いも濃密に漂う。

 なぜ彼らは幽閉されているのか。親子の過去に何が起きたのか。謎はみな、ただ彼岸の

ままに横たわり、そして彼らは部屋にいる。否、誰が本当にいるのかさえも分からない。

 何がリアルか、何が虚構か、そんな境を冷たくも怪しい筆致で描く。

 

「厚みを活かして中央を目指すような足の速い碁が可能になる」。

 いったいどこのアルファ先生だよ、そんな碁打てたら、井山裕太倒せるわ。

 とか思ってみたりもするが、ファンとしては、囲碁について書かれている、しかもちゃんと

胸躍る、というだけでとりあえず無条件に甘やかしてみたくもなる。

 それはさておき、やっていることそれ自体はひどく古典的。理由づけの捨象というのも、

シャルル・ペローを筆頭に昔話の類型だし、アンチ・クライマックス、アンチ・カタルシスの

手法とて、そう珍しい話でもない。

 底の抜けた論理、底の抜けた世界、そんな不可知性をめぐる試論。

神保町で逢いましょう

  • 2017.10.12 Thursday
  • 22:40
評価:
藤野 千夜
双葉社
¥ 1,836
(2017-09-20)

 本書は現代の「笹子」と、1985年に青雲社(仮名)に契約社員として入社した

「小笹一夫」が交錯するかたちで書き進められる。

「笹子がこの街を訪れるのは、正確に数えれば……22年ぶりだった。(中略)葛藤や

経緯もあっての、22年ぶりだった。/笹子は今、物書きをしている。/その職業から

すれば、せめて22年間、『自分からは』一度も足を踏み入れなかった、等と正しく

言い添えておいたほうがいいかもしれないけれども。/ともあれ、22年前まで、笹子は

ここ、J保町にある出版社に勤めていた。/そしてクビになった」。

 

 文中、幾度か引っかかりを感じる。つまり、一方で笹子は「お手洗いで口紅を引き直」し、

他方で小笹一夫は「ランディー・バースみたいな体」をしている。読み進んで了解する。

「心の中に内気なお姫様の棲みついている」トランス・ジェンダーであるらしい。

 よりにもよって、入社の同年、小笹の出版社でとある大型連載がはじまる。

「一騎人生劇場 男の星座」。

 媒体は、熱い漢の劇画誌『週刊大人漫画クラブ』(仮名)。

 

「……漫画があってよかった」。

 そして現代の笹子は、東京の漫画の聖地を友人と訪ねては、とにかく食べ歩く。

 J保町の記憶を辿り、時にはトキワ荘へ、あるいは水木の三鷹を訪れる。

 一見したところ、とても生ぬるい私小説。仮名を用いているものの、出版業界をめぐる

スキャンダルを繰り出すわけでもない。

 しかし、LGBTの境遇にあって、それを理由に社を追われ、ただし恨み言を恋々と連ねる

でもなく、漫画をよすがに今日まで歩み続けた笹子の心象が照らし込まれるとき、そこにふと

つつがないきらめきが生まれる。

「ここは好きだった、と思い出したのだ。

 ここだけは好きだった、と」。

 外の世界の生きづらさ、ただし居場所があることの幸福。

 01は果てしなく違う。

 

 そして、本書がひときわ私個人にとって感慨深いのは、神保町(もういいだろ、伏字は)を

舞台としている点にある。

 世紀末に、多感でもなかった10代の少なからぬ時間をこの街に費やした私には、固有名詞の

いちいちが懐古調で迫る。通り道にあっただけで入ったことのない店に、ランドマークゆえの

ノスタルジアを見出すのは厚かましくはあるけれど。我が道を行った書泉ブックマートは

店を閉じ、その向かいにドンキホーテが居を構え、ただしわずか半年で引き上げるという。

信山社は倒産し、三省堂書店からはあからさまに店員が減った。

 オフィスビルやタワマンが建つが早いか、都心五区バブルの崩壊が早いか。

 古本屋の街並みとて、たぶんそう長くはないのかもしれない。

 さて今年も神保町ブックフェスティバルの季節がやってくる。11345日の三連休。