パーリーピーポー

  • 2017.09.16 Saturday
  • 21:40
評価:
価格: ¥ 1,512
ショップ: 楽天ブックス

「一人の人間が自死すると、家族、親族、恋人、友人等々、深い傷を負う遺者が

最低10人は生まれる。自然死と自死は別物だよ。自然死の傷は1年で治癒するが、

自死の傷は10年は掛かる。統計から換算すると、3×10×10で、自死遺者は現状で

300万人以上になるね。風邪でもひくように、誰にでも起こりうる」。

 

「大学の春学期が始まって二週が過ぎた頃だった」。郵便物を受け取った「僕」は

「差出人を見て呼吸が止まった。――仲村奈々。奈々は伯母の娘で、つまり僕の

従姉に当たり、そして彼女の葬儀も納骨も、数日前に終えていた」。

 伝票の文字も紛れもなく彼女のもので、中身はルーズリーフに綴られた日記だった。

 なぜ彼女は自殺を選んだのか。なぜ彼女は「僕」に託したのか。

 そして「僕」は、死の真相を知るべく、彼女の出入りしていたサークルREMに接触する。

管理人はインソムニア、副管理人はクレプト、そこはメンタルに問題を抱えた者が自主的に

集うコミュニティだった。奈々の過去を知ることができればそれでよかった。ただし、

彼女たちの遺した手記『日曜日の人々』のバックナンバーにアクセスするには半年間、

会員に留まり続ける必要があり、そうして「僕」はREMとの関わりを深めていく。

 

「リスカ」や「拒食症」とでも検索すれば、当事者の手記に辿り着くことはたやすい。

整理の覚束ない文体や、受け手の情報不均衡を把握しない独りよがりが、かえって

書き手の病理を伝える。必然読めない。

 そうした面で言えば、残念ながら本書の再現度ははなはだ低い。

 とはいえそれでも絶対的に、痛い。

 会員のひとりは、ファミレスの店員に「そろそろ閉店なので出ていって貰えますか」と

促され、そして「完遂」した。摂食障害のひなのは、度々「僕」の部屋を訪れるようになり、

カロリーの高い料理を作って食べさせては「航君は私の胃袋だから」と満足げな表情を

浮かべ、ただし自分はサラダとヨーグルトしか口にしようとはしない。

 当然何かしらのサンプルはあるのだろうが、立体感のある記述がひたすら続く。

 さりとて表現素材のインパクトに頼ることなく、きちんとセリフや設定に含みを持たせて

小説として作り込まれている。「人間の生い立ちが、薬で治癒するわけがないでしょうに」。

救済への受け皿なのか、はたまた病理の感染源なのか、安直な夢物語を描くでもなく、

だからといって、ただ絶望に浸り込むでもない。リアルもたぶんそういう風にできている。

「僕」の人物造形に不可解な点はある。ただし、可塑的な、どうとでも転がり得る人間の

典型としてみれば、そんなものなのかもしれない。ラスト寸前のとある「選択肢」にしても、

多少理解しがたいところはあるが、物語全体の展開上、仕方がないのかもしれない。

 なぜだろう、『限りなく透明に近いブルー』を思い出す。

 

「心が安静なときに、無理をせず、少しずつ読むこと。これを約束してくれるなら、暫く君に、

彼女の“朝の電話”の文字起こしを貸そう。それともう一つ、これを読み終えたときには、

君の朝の会を必ず聞かせて欲しい。約束だよ」。

「私は君の未来だ。」

  • 2017.09.14 Thursday
  • 21:28

 世間はなぜかくもアンチ・エイジングを目指すのか。

 あるいは単にマーケティングの空騒ぎにすぎないのかもしれない。でもたぶん、

エイジングが成熟ではなく「劣化」のみを意味することを万人が知ってしまったから。

 

 物語の舞台は小さな温泉街、11歳の「ぼく」は「中の下」の規模の宿の一人息子。

その「あかつき館」にある日、住み込みで働く母親に連れられてコズエがやってきた。

「コズエは、まくのが好きだった。大好きだった。

 ポケットに入れた小銭を、神社に敷いてある玉砂利を、道ばたに積んである干草を、

木になっている人の家のみかんを。とにかくコズエは、なんでもまいた。

 コズエは、得体が知れなくなかった。コズエは、何かに向かっているような感じが

しなかった。コズエそのままで、きちんと足りている、そんな感じだった。

 コズエがぼくらの集落にいたのは、ほんの少しの間だ。

 でも、ぼくはコズエの姿を、今も思い出す。コズエがコズエとして、まるのままで

いてくれたあの時間を、ぼくはすべて、はっきりと思い出すことができる」。

 そしてコズエはある日秘密を打ち明ける。

「私、ある星から来たの。」

 

 大人になんてなりたくない「ぼく」が変わりゆく自分自身や周囲を受け入れていく。

 本書の分類は、身体を含めた典型的な成長物語の系譜。

 夏祭りの最後に「サーイセ!」のかけ声とともに壊されるためだけに毎年作られる神輿、

あるいはコズエが「まく」ことの意味。

 通過儀礼としてよく筋立っている、なにせただでさえ見え見えの配置の意図を文字で

懇切丁寧にネタバラシしてくれるのだから。あるのはただ、答え合わせと答え合わせ。

自ら進んで寓意を放棄した人間の書く寓話って、とんでもなく退屈。

 同様の状況における行為のビフォー・アフターで成長が読者に暗黙裡に伝わる、なんて

物語表現の王道すら本書には期待できない、とにかく行動原理を内面の語りを通じて

ディスクロージャーしてくれるのだから。それでいて、たちの悪いことに、そもそも「ぼく」に

成長をためらわせる諸々の要因が別段解決しているわけでもない。

 個人レベルの意識づけがすべてを解決する、なんてどこのバカの自己責任論だろう。

 世の中はそんなに単純にできていない、そんなことを知り、そして引き受けることこそが

人間に許された数少ない成長なのではなかろうか。

美しく青き春

  • 2017.09.09 Saturday
  • 21:14
評価:
古谷田 奈月
新潮社
¥ 1,620
(2017-08-22)

  少女だったといつの日か 想う時がくるのさ

 

15歳。若い人間として生きられる、これが最後の1年だ」。

 高校入学を間近に控えた主人公・松浦小春の隣宅、安藤家にそれまでは

伯父の下で暮らしていた歩くんが引っ越してきた。夫婦に息子がいたことすら、

小春は知らなかった。「質素な顔立ちの男の子だった。目の表情はどこか怯えた

様子だが、背は大柄な秋子さんより高い。驚くほど色白で、細い体がすらりと

まっすぐに伸びている」。同じ高校、同じクラス、最初のホームルームで出席番号

1番の彼は、末尾の小春をはじめ一同に宣言する。

「ぼくは、バレエダンサーです」。

 そして、歩くんの母、秋子さんはゴリラだった。

 そしてより重要なことに、彼にはもっと大きな秘密があった。

 

 分からない。

 秋子さんはゴリラで、美術教諭はハクビシン。この手の設定はたいていの場合、

マイノリティの寓意だけれども、本作においてはどうやらそうでもないらしい。さりとて

マジック・リアリズムの焼き直しとも違う。ことばも難なく操るし、捕獲の危機に追われる

こともなく、ペット的な扱いでもなく、未知のウィルスや病原菌をばらまくでもなく、

人格を認められた上でごく普通の日常を送る。そんな世界観なのに、母がゴリラという

理由で歩くんがいじめられることを小春は危惧し、その場合には、と彼を守る騎士と

自らを見立て、あっけなく空振る。

 

 分からない。

「舞い上がる花びらが、曇天に溶け込む……まず色が染み出し、次いで命が吸われる」。

 色占いなる職業を営む祖母に触発されて、小春は日々、地下室で絵の具を用いて、

色を作る。何を描くでもなく、色を作る。友人にも打ち明けられない秘密だった。例えば

シュタイナーのオーラやら錬金術やらに従う風もなく、それぞれの色に託された意味も

見えない。たぶん真相は「でたらめ」、ひとり籠って色を調合するよりも、今この瞬間の

目の前の世界を今この瞬間に祝福しよう、そんなところではあるのだろうけれども。

 

 その上で、よく分からない思春期の肖像として、この小説は少しだけ分かる。

 自分への過大評価と過小評価を勝手に反復させて悶絶し、恋に恋して破れて泣いて、

周りに意味なく毒を吐き、そのくせ妙に内弁慶、自意識を日々こじらせてのたうち回る

「若い人間」が微笑ましくも綴られる、それはまるで独自のロジックで自己撞着を起こした

挙げ句、いじけ、泣きじゃくり、そして突然眠りに落ちる街角のちびっ子にも似て。

 多くの場合、コメディって、当事者たちにはトラジェディ。

 その読後感はどこか、C.マッカラーズ『結婚式のメンバー』に通じる。

 そして思う、歳をいくつ重ねても、小春が思うほどに人は別に変わりやしない。

あの日

  • 2017.09.09 Saturday
  • 20:54

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

人はこうして生きる者となった」(『創世記』2章7節)。

 

 3.11は祖父母の世代の記憶、早稲田と思しきキャンパスに大学創立200年記念タワーが建つ。

数か月前には大地震が襲い、1年以内に同等以上の被害罹災率が90パーセント以上と目される、

そんな未来の日本の、傷跡だらけの大学校地で余震に囲まれながら暮らし続ける「私」の記録。

「指導者を信じて集団で動くのではなく、あくまで個人で考えろ」、そう訴える「反宇宙派」の

リーダーが構内でその地位を獲得したのは、やはり例の地震だった。

「あと二日で夏休み」の「よく晴れた日」、「わずか二分の間にこの国の半分が破壊されて

5万人が命を失った。……私たちは防災法に従って学内での待機を命じられた。命じられ

なくても、周辺の道路は全壊、交通も連絡手段も麻痺して、家族が無事か、どこにいるかも

分からないまま私たちが行く場所などどこにもなかった」。

 配給も不十分、感染症も広まりつつある中、とある噂が流れる。地下の倉庫に数千人分の

非常用物資が備蓄されているという。ところが、配分をめぐって理事会が紛糾している結果、

未だ開かずじまい。業を煮やしたリーダーがどこからか鍵を入手して運び出し、学内の

病人に優先的にばらまいた。「教室の入り口にそっと置かれた救援物資は、内容の豊富さ

うんぬんより、自分たちを気にかけて守ろうとしてくれる人が存在している証明として、

弱った人たちを元気づけ」、こうしてリーダーはリーダーになった。

 そうして軟禁状態のまま、「あの日」は訪れて、彼はいよいよカリスマとなった――

 

 やがて気づくだろう。

「私たちは、この地から動きたくない、動けない。どれだけ大穴の危険地帯となっても、

ここで自分の人生を紡ぎたい。……私はこれ以上広がれない、この身体を持つかぎり。

でもいつか、流れ出せたらどうだろう。あふれる濁流で土のすみずみにまでしみ渡り、

大地とともに脈づく。私たちは土を、空気を、水を、けっして本気で憎むことはできない。

ぬかるみの泥から生まれ、また泥へ還る」。

 対して、国家も他者も宇宙さえも疑え、と説いたリーダーは……。

 

 どこかヴィクトール・フランクルの一連の著作を思い出させる。そして例えば村上龍

『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』、あるいはいっそ大江健三郎

『万延元年のフットボール』なども。とてもクラシカルなテーマの再解釈。

 そしてそうした下地を超えて、単に古臭い。中指突き立て、タバコふかして、酒あおり、

いったいどこの昭和だろう。未来設定ゆえにこそ、みすぼらしさがいっそう目につく。

 時系列をあえて交差させる演出も、関心を惹きつける仕掛けというよりも、単に情報を

断片的に切り刻んで、全体を分かりづらくすることに作用しているだけ。

 クライマックスに向けていかなる説得力も与えないだろう、「私の男」の魅力の欠如も、

もう少し何とかならないものだろうか。

 

 読みやすい、といえば読みやすい。

 だってどこかで既に読んだことがあるから。

 では先行作品に優越するポイントについて考えると別段ない、少なくとも私の目には。

3.11の体験も、単に時事ネタという範疇を出ない。

 

 人はノマドでいられない。パトリを持たずにいられない。

 たぶん、そんな声の届く「大地」を残念ながら生きていない。

青い鳥

  • 2017.09.08 Friday
  • 23:13

「このなんともついてない日」、時の旧帝大養成門、日比谷高校三年生の

「ぼく」の一日。学生紛争の煽りを受けて、志望校の東大は入試を停止、

その日は奇しくも国公立大学の願書締め切り日でもあった。おまけに

前日には飼い犬が亡くなり、挙げ句、自分の左足親指の生爪まで痛める。

さらには、気になって仕方ない幼なじみとも些細なことから仲違いしてしまう。

 いけすかない未来のエスタブリッシュメント候補生の果てしなく長い一日。

 

「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向ひて、心にうつりゆくよしなし事を、

そこはかとなく書きつくれば、あやしうことそものぐるほしけれ」。

 文体を見れば、このフレーズをそのままなぞったようなとりとめのなさ、ただし

それでいてハイ・カロリー。そして宣うのはつまり、誰も分かってくれない。

 だから、ただ「狂気の時代」に素知らぬ顔で「つれづれなるままに」書くしかない、

という態度をそのまま文体化したのか、と思いきや、実はそうでもない。

「ぼく」が東京大学法学部を目指すのだって、ただブランドに惹かれたわけではない、

兄の指導教官である教授の下で学びたい、そんな動機だってきちんとある。高校でも

『椿姫』やシェイクスピアを好む「ぼく」は、「古典派」どころか、「論外なやつ」として

周囲からは浮いてしまう。18歳がまさか性衝動を持て余していないはずがない。

 でも、傍目に映る「ぼく」は基本、官僚制予備軍のエリートの雛形でしかなくて、

銀座の街で「狂気の時代」の風に吹かれて、ついに苛立ちを沸騰させる。

 そんな刹那、「ぼく」は「赤頭巾ちゃん」と出会う。

 

 何者にもなれず、向かうべき場所を持つわけでもない、そんなモラトリアム文学の典型。

さまよい歩き、ふと気づく。

「とても嬉しかったんだ。」

『ライ麦畑』というよりも、『青い鳥』。

 何気ない日常のかけがえのなさを謳う。本書が芥川賞を受賞したその翌年の出来事、

戦後消費社会の凡庸な生活を全否定し、そして空転した市ヶ谷のあの自決を思うとき、

「ぼく」の一日はどこか予言めいてすら見える。

 

 というところで、釈然としないのはやはり、情報量が多いのか、少ないのか、とにかく

疲れる一連の文体と訴える内容の著しいズレ。「いいね」って何がどう「いい」のやら、

SNS系の脊髄反射的な言いっ放しの現代ゆえにこそ、濃密とも違うバロック・ライクな

表現がかえって新鮮な面もあるのかもしれないが、18歳の等身大の葛藤や混沌を

この文体圧が適切に表現できているとは思えない。

 風変わりなタッチで古典的な主張を粉飾する、そんな違和感の実践例という以上の

特徴が本書にあるとも思えない。

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