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  • 2020.05.10 Sunday

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    お前はもう死んでいる

    • 2020.04.26 Sunday
    • 19:49

    「安全のためならばと自由を差し出すことを望む者は、そのいずれをも

    得ることはないし、またそれらにも値しない」。

     ベンジャミン・フランクリンの箴言を今一度確かめる。

     ただしその自由は、気ままに出歩く放縦を意味しない、自らの理性において

    ディシプリンの順守を志向する、その選択倫理を含意する。

     

    ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」。

     なるほど、テレスクリーンを通じて、「自分の立てる物音はすべて盗聴され、

    暗闇のなかにいるのでもない限り、一挙手一投足にいたるまで精査されていると

    想定して暮らさねばならなかった」。

     しかし幸運にも、その男ウィンストン・スミスは自らの住居に死角を見つける。

    抽斗から一冊の本をそっと取り出す。

    「格別美しい本だった。滑らかなクリーム色の紙は歳月を経て少し黄ばんでいたが、

    少なくとも過去四十年のあいだに造られた類の品ではない。それどころかもっとずっと

    古いものであることくらい、彼にも察しがついた。……彼のやろうとしていること、

    それは日記を始めることだった。違法行為ではなかったが(もはや法律が一切

    なくなっているので、何事も違法ではなかった)、しかしもしその行為が発覚すれば、

    死刑か最低二十五年の強制労働収容所送りになることはまず間違いない」。

     行為にはきっかけがある。勤務する真理省における、ラジオ体操のごとき日課、

    〈二分間憎悪〉の最中、不意に上官と目が合う。「二人の心が扉を開き、双方の

    考えが目を通して互いのなかに流れ込んでいるみたいだった。『君と一緒だ』

    オブライエンがそう語りかけているように思われた。……恩恵と言えば、

    そのおかげで、彼の心のなかで自分以外にも党の敵がいると言う信念もしくは

    希望が死なずにすむことくらい」、しかし彼に日記を決意させるには十分だった。

     

     人間は「全体として意志薄弱で臆病な生物であって、自由に耐えることも真実と

    向かい合うこともできないから、自分よりも強い他者によって支配され、組織的に

    瞞着されなければならない」。

     今日の世界情勢を寸分違わず言い当てた1949年のこの洞察、とはいえ、

    少なくとも身近から人が次々と消えていることはない。秘密警察的な何かによる

    非人道的な拷問もそう遍いているわけでもなさそうだ。日記を綴る自由とてある。

     しかしそれでもなお、現代の置かれた社会状況はある面では、G.オーウェルの

    ディストピアよりもよほど劣悪な方向へと進化の舵を切ってしまった。

     2020年は、真理省などという無用の長物を必要とはしなかった。何もかもが

    単純化されたリアル・ニュースピークの普及にあたって、政府や官僚機構の誰が

    強要したわけでもない。140字のtwitterをその頂に、どう見ても長文を想定しない

    FacebookにせよLINEにせよ、SNSプラットフォームのいずれもが、他ならぬ

    市場によって選好された。テレスクリーンのインフラコストの壁は、スマホによって

    訳もなく乗り越えられた。各人の趣味嗜好など検索や閲覧の履歴をセグメントで

    紐づけすれば事足りる。それ以前に、電子マネーやクレジットで捕捉可能な

    消費データを超えて収集すべき個人情報などはじめから市場にありやしない。

    センセーショナルであればあるほどにアクセス数を、つまりは広告料収入を稼げる

    フェイクニュースの流布とて同じく市場の選好だ。「過去をコントロールするものは

    未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」、

    オーウェルの読みとは裏腹に、歴史修正主義はいかなる権力の介在をも要さない。

    公文書改竄などもとより徒労でしかない、なぜなら市場はそんなことに関心を

    示さないのだから。市場は常に見たいものだけを見る、見たくないものは見ない。

     誰がコントロールしているわけでもない、市場の選好に最適化したただ乗り屋が

    ファシスト的な振る舞いをもって祝福される。痛々しいほどに〈二分間憎悪〉を

    体現する抵抗勢力は、怒りや不安を煽るだけの補完勢力でしかあれない。

    市場にコントロールされる存在でしかない入替可能な顔と名前を指さすことに

    果たしていかなる意義があるだろう。

     

     そして皮肉にも、本書は終盤に至ってその極限のユートピア性を獲得する。

    ウィンストンはとある者と対峙し、延々と議論を交わす。言い換えれば、彼らには

    共通の言語がある。ただしポスト・トゥルースの断絶にそんなものはない。

     翻って、そこに辛うじての希望を見る。なぜ本書が読まれなければならないのか、

    いや、テキストなるものが読まれなければならないのか。単純化された言語は

    単純化された人間を作り出す。そのために、140字ではまとめ切れるはずもない

    複雑な言語を身につけなければならない。奇しくもウィンストンが日記を志すように、

    自らの記憶を守るために、複雑な言語を通じて記録する。誰とつながるかではなく、

    その前に、つながるに値する正気を保持するために本を読む、文字を書く。

     

     本書においても提示されるだろう、ソーニャ的、車寅次郎的、無知ゆえに無垢、

    そうした幻想はいい加減捨て去らねばならない。自らを疑うことを知らぬバカなど

    クズの同義語をいかなる仕方においても決して出ることがない。

     すべて成功は合理性に、失敗は人間性に由来する。人間性の定義は唯一、

    繰り返され続ける失敗の説明関数としてのみ規定される。

     

     歴史を参照すれば、コミュニケーションの具としての言語などとうに用を終えた。

    すべてのコミュニケーションはボットで書ける。ソーシャルであることの一切に

    コンピュータの計算可能性を超えるものなどもはやないのだから。

     ニュースピークな人間にならない、「自由とは二足す二が四であると言える自由」、

    その自由を己に向けて語りかけるために言語はある。

     そしてその先にはもしかしたら続きがある、オーウェルの言うことには。

    「もし万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで

    麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める大衆が、読み書きを習得し、自分で

    考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、

    少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに

    廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、

    成立しえないのだ」。

    「がらんどう」

    • 2020.04.21 Tuesday
    • 20:56

     駆け落ちた姉が身ごもって十余年、その赤子が大きな腹を抱えて郷里に戻る。

    「秋幸には、そっくりそのままかつてあったことを芝居のように演じなおしている

    気がした。いや、自分が、かつて十六年前の兄と同じ役を振り当てられている

    気がした」。

     幻聴とアルコールに苦しむその兄は「おれたちを棄てた、殺してやる」と

    包丁を手に母と秋幸を脅し、そして間もなく、桃の節句に首を吊った。

     

     秋幸は五人兄弟の末子にして、ただひとりの種違い。

    「人が様々な噂をしていたのだった。その噂のひとつひとつに自分がかかずらって

    いるのが不思議だった。おれはここ在る、今、在る、秋幸はそう思った。だが、

    人夫たち、近隣の人間ども、いや母や義父、姉たちの関係の、あの、人の疎まれ

    憎まれ、そして別の者には畏れられうやまわれた男がつくった二十六歳になる

    子供である気がしたのだった。『あの男はどこぞの王様みたいにふんぞりかえっとる

    わだ』いつぞや、姉の美恵はそう言ってからかった。『蠅の糞みたいな王様かい』

    秋幸は言った。その蠅の王たる男にことごとくは原因したのだった」。

     

    「片眼片脚」、父殺し、近親相姦……『オイディプス』に通うのは、単にプロット面に

    留まらない。それは預言か、はたまた虚言か、女の持ち込む噂がさらなる噂を生む、

    リフレインが叫んでる、そんな増幅装置としての路地、すなわちコロス。

     実際、『枯木灘』にも『オイディプス』にも英雄などいない。そこにあるのはただ

    噂に、コロスに、翻弄される「がらんどう」の姿。これは断じて秋幸の物語ではない、

    すべて物語はコロスの中にしかないのだから。

     話すは離す。血に基づく親和の出来事は時に痴を交え噂として話されることで

    原形を離れ、地に憑依する神話へと変わる。騙りを語り、語りを騙りと書き換える。

    火によって路地は焼かれようとも、碑をもって噂はうたかたを逃れ、日の下でかくして

    性器は石碑となってその不滅を獲得する。熊野の麓、聖は性より生成する。

     

     情緒を増長させる、その方法としてのあえての冗長。

     あまりにしばしば、ぎこちない仕方で回想が挟み込まれる。それはすなわち、

    秋幸が噂の階層の中に辛うじて生を見出す、その存在のありさまを反映する。

    同じエピソードを幾度となく聞き、果たして既視感は既成事実へと変わる。

    過去の真相を求むべき深層などどこにもなくて、ただ噂のみが繰り返される。

    コロスのロゴス、コロスが殺す、路地のロジック。やがて気づくだろう。

    「竹原でもない、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった」。

     秋幸を築くのは血ではなく、地。もとより、土から作られたアダムは、吐息を

    吹き込まれることで生を得た。神の使者たるコロスの噂で「がらんどう」が埋まる、

    埋まるを通じて人は生まる。地で知を洗う。噂に聞こゆ昔はかくして具体を遣わす。

     

    「働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに

    一枚膜を張り、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、

    その土をつるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけの

    がらんどうの体腔から、日にあぶられた土の匂いのする空気、めくれあがる土に

    共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の

    風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた

    自分が、昔を持ち今を持ってしまうのが不思議に思えた。昔のことなど切って

    捨ててしまいたい。いや、土方をやっている秋幸には、昔のことなど何もなかった。

    今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸だった。

    シャベルが秋幸だった。めくれあがった土、地中に埋もれたために濡れたように

    黒い石、葉を風に震わせる草、その山に何年、何百年生えているのか判別つかない

    ほど空にのびて枝を張った杉の大木、それらすべてが秋幸だった。秋幸は土方を

    しながら、その風景に染め上げられるのが好きだった。セミが鳴いていた。幾つもの

    鳴き声が重なり、うねり、ある時、不意に鳴き止む。そしてまた一匹がおずおずと

    鳴きはじめ、声が重なりはじめる。汗が額からまぶたに流れ落ち真珠のように

    ぶらさがる。体が焼け焦げている気がした」。

     文体が、死すべき肉の「がらんどう」でしかあれない運命を説き伏せる。

     蠅の王、風を追う。太陽の下、すべては空しい。

     肉らしい、すなわち、憎らしい。

     

     オイディプス、エディプス・コンプレックス、ポルノを芸術と強弁すべく誤読された

    デウス・エクス・マキナとしてのS.フロイトの話ではなく。「がらんどう」、いみじくも。

     我思う、ゆえに我なし。

     ほとんど偶然的な、そしてまさしく無意識的な、暗黙裡のこの喚起をもって、

    オーストリアン・ジャンキーは近代の桎梏を、漆黒を解き放つ。

     

     すべての神は紙より出ずる。

    Q.E.D.

    • 2020.03.22 Sunday
    • 22:07

     を覚ましました。

     朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変ったことでは

    ありません。しかし、何が変なのでしょう? 何かしら変なのです。……

    空腹のせいかもしれないと思って、食堂に行き、……ところがそうしている

    間にも、その変なことはいよいよ変になり、胸はますますからっぽになって

    行くのでぼくはそれ以上食べるのをやめました。……カウンターの前に

    立って、係の少女からつけの帳面を受取りました。サインをしようとして、

    ぼくはふと何かをためらいました。……ふと、ぼくはペンを握ったまま、

    サインができずに困っていることに気づきました。僕は自分の名前が

    どうしても想出せないでいるのでした」。

    「名前」を失った「ぼく」、何者でもあれない「ぼく」は翻って、

    何者にも代入可能な「ぼく」として、「歴史に記載されたすべての

    事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判」の被告人として

    追われる羽目になる。近代自我の果てを「ぼく」に見て取ることは

    たやすい。むしろ主題としてはドストエフスキーに遡るのだろうが、

    一連の展開にカフカ『審判』を想起せずにいる方が難しい。

    「君自身の気分よりもぼくの言葉のほうが君そのものなんだ」。恐らく

    安部や時代の文脈に即せば、史的唯物論や疎外といった用語法から

    理解されるべきことばなのだろうが、現代の視座からはAIやアバターを

    先取ったものと読めないことはない。見る主体としての眼球のみを

    残して、見られる客体としての身体を透明にする、というモチーフは、

    「時間彫刻器」よろしく、後の『箱男』において反復される。

    あるいは恋愛、フェティシズム文学としての『壁』。

     

     と、作品中に仮託されたモザイクを列挙すればきりがない、ただし、

    労働者革命をめぐるあまりに理に落ち過ぎた寓意としての「洪水」を

    例外として、本書は間もなくその密度ゆえ空中分解を余儀なくされる。

     挿入歌が見事に帰結を叙述する。「一つの口でいちどきに二つの音を

    出すことはさすが出来ないらしく、全然関係のない歌を少しずつ交代に

    歌うので、何がなんだか分らなくなるのでした」。

     

      悲しい海辺の、ようこそ、わ……

      好きな誤解も、たし、たま、いい日

      気楽に他所見、悲しいの、る

      ため、駄々をこ、泣いているの、ねた

      朝の散歩、り、愛した、消えて、り

      ゆく、踊ろうよ、不幸な私

      ハイ、踊ろ、不幸なあ、うよ、なた。

     

     この詩を超える要約を本書がどうして持つことができようか。

     偽装されたシュール・レアリズムの狭間で、あからさまに着地点を失うことで

    『壁』は逆説的に成功を収める。いみじくも「ぼくは空想しプランを立て」、

    そして程なく破綻する、その一連の経過を自己言及的に例証する。

    「世界をつくりかえるのは、チョークではない」。かくして命題は証明された。

    俺らこんな村いやだ

    • 2020.03.16 Monday
    • 21:17

    「ここじゃない、どこか遠くへ行きたい。だけど、それがどこにもないこと。……

    俺も昔、それを知ってた。だけど、大丈夫なんだ。今、どれだけおかしくても、

    そのうちちゃんとうまくいく。気づいた頃には、知らないうちに望んでいた

    “遠く”を自分が手にできたことを知る、そんな時が来る」。

     多少の叙述トリックによる目先の違いこそあれ、本書の作品群のテーマは、

    「道の先」において提示されるこのテーゼを限りなく通底する。そしてこの主題に

    敷衍して、ほぼ共通の問題を露呈する点においても同工異曲の相を持つ。

    「実際の姿より、語る実態のない“東京”の方が、より“東京”っぽいんじゃないかな。

    漢字で書く“東京”じゃなくて、カタカナで“トーキョー”。軽くて、ちょっとニセモノ

    っぽい響き」。

     どの作品をめくっても、描き出される「ここ」といえばそのことごとくが「語る実態の

    ない」「ここ」、あるいは筆者に倣って「ココ」と表記すべきか。より正確には、そして

    より罪深くは、その風景を描き出す気概すら持とうとはしないために、「語る実態」を

    持ち得ない「ココ」へと堕落せしめられてしまった。

    「気持ちがギスギズしていて、見るもの、聞くもの全てが、怒りに結びついてしまう」。

     こんなあからさまな文字列を並べて横着する前になすべきは、「見るもの、聞くもの

    全て」を切り出すことで、「ギスギス」や「怒り」を読み手の側に喚起することでは

    なかろうか。それを例えば「F県」や「U市」と呼ぼうがそんなことはどうでもいい、

    ただし、仮にも『ロードムービー』なる表題を掲げておきながら、「ロード」をまるで

    記述しようとしない、その態度はもはや論外としか言えない。

    「ここ」が「ココ」でしかないがために孕んでしまう構造的な障害は、たぶん筆者が

    その風土に重ねて描き出そうとしているだろう、スクールカーストにおける内と外の

    問題をも平板化して、定型的、「カタカナ」的記号へと変えてしまう。

     不機嫌な人間が世界を不機嫌に捉えるのか、不機嫌な世界が人間を不機嫌に

    させるのか、鶏が先か、卵が先か、ではない、同一の表象だ。

     

    「ここ」が「ココ」なら、「わたし」は「ワタシ」。

     おそらく筆者の意図するところではないだろうが、ある面、真を衝いてはいる。

    「軽くて、ちょっとニセモノっぽい」。

     ちょっとどころでないにせよ、本書の要約としてこれ以上の表現があるだろうか。

    生成文法

    • 2020.02.16 Sunday
    • 20:23
    評価:
    インゲボルク・バッハマン
    岩波書店
    ¥ 946
    (2016-01-16)

    「人生で三十番目の年を迎えても、人々は彼を若者と見なし続けるだろう。

    しかし彼自身は、何か自分に変化を見いだすわけではないにせよ、確信が

    持てなくなってくる。自分には、もう若いと主張する資格はないような気が

    するのだ。(中略)それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら

    違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、

    たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。(中略)いまのように、

    三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも

    恐れなかった。『アクション』の声がかかり、自分がほんとうに何を考え、

    何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに

    大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、

    ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、

    自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるを

    得なかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

     彼は考えもしなかった……」。

     

     果たしてこの作品群を詩と呼ぶべきか、小説と呼ぶべきか、当惑を抱かずには

    いられない散文体。あえて挑発的な物言いをすれば、書き散らかされた何か、

    とりわけ表題作「三十歳」については。時間経過らしきものは刻まれてはいる、

    放浪の地も転々と移りはする、けれども実のところ、何が変わっているでもない。

     たとえば、「彼」の若き日々を振り返ってのパートタイマーが羅列される。

    「食事と引き替えに生徒たちに補習授業をし、新聞を売り、一時間五シリングで

    雪かきをし、合間にソクラテス以前の哲学を勉強した。(中略)新聞社では

    歯科用のドリルについて、双子の研究について、シュテファン大聖堂の

    修復作業についてルポを書かされた」。

     あるいは原著でならば、韻律なりの文法的な必然があるのかもしれない、

    だがあったとしてその程度、「彼」の人生にそれ以上の何があるでもない。

    全編を通じて展開されるものといえば「可能性」のサンプルに過ぎない。

    果たしてランダムピックのどこに物語を認めることができるだろう。

     ただし、奇しくもその点が、「三十歳」にただひとつの物語を宿す。

    「新しい言葉がなければ、新しい世界もない」。

     本作はただこの宣言を引き出すべく綴られる。既存の「言葉」の規定する

    「千と一つあった可能性」、つまりは既存の「世界」、彼があてどなくさまよう

    「世界」ではなく、「新しい言葉」、「新しい世界」を欲する。

     

     そしてその期待は裏切られる。

    「自分は何にでもなれる」、つまり、「何か」にしかなれないのだから。

     ある意味で、本作は「彼」と「ぼく」を、そしてあるいは友人モルの存在さえ、

    不規則な仕方で入れ替えることで、その点を鮮やかに証明してみせる。

    「ぼく」だろうか、「彼」だろうが、つまり「何か」でしかないのだから。

    何をどこに代入しようとも、それは文法のはしためを決して超えない。

     人間の性質が否応なく「言葉」を規定する、今改めてN.チョムスキーの

    「生成文法」論を引き出いに出してみる。E.カントのカテゴリー論とも

    プラトンのイデア論とも異なって、彼の学術的な急進性の一つは、

    「言葉」を通じて規定される人間の側ではなくむしろ、「言葉」の側にこそ

    自律性を認めたことにある。

     三十歳の「彼」の呻吟は、「可能性」をいかなる仕方においても変えない。

    ただひとつ、「言葉」が変われば「世界」も変わる。