現を抜かす

  • 2019.03.22 Friday
  • 22:43
評価:
川端 康成
新潮社
¥ 464
(1960-12-25)

「銀平は金が目あてではなかった。女のハンド・バッグのなかに大金がはいっている

ことはかぎつけもしなかったし、考えもしなかった。犯罪の明らかな証拠を消す

つもりでハンド・バッグを拾うと、二十万円はいっていたわけだった。……金が

目あてではなく、女の魔力に誘われたのだったとすると、金と通帳とは宮子に

送りかえすべきだっただろう。しかし銀平としては返すはずがなかった。銀平が

女を追って歩いたように、その金は魂のあるようなないような生きもので、銀平を

追って歩いた。……銀平があの女のあとをつけたのは、あの女にも銀平に後を

つけられるものがあったのだ。いわば一つの同じ魔界の住人だったのだろう」。

 

「能動者のあって受動者のない快楽は人間にあるだろうか」。

 追う男、追われる女。

 今様に言えばストーカー、ただし明快な動機や目的が示されるわけでもない。

「一度おかした罪悪は人間の後をつけて来て罪悪を重ねさせる。……一度女の後を

つけたことが銀平にまた女の後をつけさせる」。

 銀平がなぜに女を追うといって、それはつまり、彼自身が記憶に追われているからに

他ならない。不細工なまでにねじ込まれる回想、デジャ・ヴュのように反復される体験、

螺旋を巻いてめまいとともに現実と幻想は境を失う。

「幽霊に足がないとは誰が見た象徴かと、……銀平自身の足からして、すでにこの世の

土を踏んでいないのかもしれない」。

 それはあたかも自らの宿命を醜くむくんだ足に刻まれたオイディプスのように。

 

 共犯関係の完成は、れる−られる、その非対称性が反転する瞬間に訪れる。

 この小説に迫真の何かを宿すものといえば、川端康成自身の文学体験、すなわち

谷崎を追うものとしての。「刺青」、「秘密」、『痴人の愛』――そうした小説群と

本作を重ねるな、という方が誰の目にも無理な注文としか私には思えない。

 男−女、見る−見られる、支配−被支配の系譜としての大谷崎をなぞることから

『みずうみ』は生まれた。

 追う男としての康成、その限りにおいて、本作は紛れもない私小説の典型をなす。

「それが生存者の務めなんだと思う」

  • 2019.03.04 Monday
  • 23:35

 風が吹けば桶屋が儲かる。

 そのロジックをWikipediaに頼る。曰く、風が巻き起こす土ぼこりが盲人を増やし、

彼らが手に職をと三味線を買い求め、その材料に皮が用いられるためネコが激減し、

天敵の消えたネズミが我が物顔で家宅の桶をかじって回るので、桶屋が潤う。

 事象と事象の連鎖の先に、思わぬ帰結が待ち受ける。

 

 繋がる、ということ、レベッカ・マカーイの短編集『戦時の音楽』について。

「これ以上ひどい思い」の主人公は、「取り憑かれており、世界の、つまりは過去と

現在と未来の亡霊や、炎や、世界の悪を見ることができる」、かもしれない少年。

音楽家の父に同伴してその郷里ルーマニアを訪ね、そしてコンサートでの演奏中、

歴史と繋がる。彼は父の顔に「何かを見た、……若きラビが何かを見たのだ」。

11月のストーリー」は、多様なジャンルの若手芸術家が共同生活の中でふるいに

かけられるリアリティ・ショー、つまり、演出によって繋がることが作り出される

場面としての。視聴者を惹きつけるために必要なのは恋愛、ならば制作サイドの

「私」たちにできるのはカメラを回すことではなく、彼らの接近を媒介すること。

曰く、「二人の人間が愛に気づく手伝いをする。そのどこがいけないの?」

 あるいは、繋がることに不能を来した存在としての「砕け散るピーター・トレリ」、

「公演の最中に、まさに科白の途中で、わが友人は突然、そして永遠に、演技する

能力を失ってしまったのだ」。奇しくも彼が吐き捨てる、「『昔は何か意味があるって

信じてたけど、そんなものはないんだ。シナプスがでたらめに繋がってるだけさ』」。

 

 そして、祖母と「私」が繋がるシーンとしての「侍者(第二の言い伝え)」。

「祖母が書いた最も長い小説には、ルーマニアのモルダヴィア地方出身の男が、

恐るべき〈鉄衛団〉によって射殺される場面があるのだ。十年前に私が書いた

短編小説では、モルダヴィア地方の街ヤシで〈鉄衛団〉によって射殺された人に

ついて、アメリカ人の少年が知ることになる。私は地域を当てずっぽうに選び、

その歴史に引き込まれてどっぷり浸かっていただけだった」。

 あからさまに自伝の匂いを湛えるこの作品に、フィクションか史実かを問うことは

意味をなさない。例えば、目の前の靴底がすり減っていることは刻まれた歩みを

自明に表さない。繋がること、繋ぐこと、それこそが物語る作用なのだから。

 

「爆破犯について私たちの知るすべて」より。

「事実を繰り返していけば、そのうちに歴史のように思えてくるだろう。何度も語れば、

そのうちに運命のように思えてくるだろう」。

夢のなか

  • 2019.02.23 Saturday
  • 19:51
評価:
ジョイス・キャロル・オーツ
河出書房新社
¥ 2,484
(2018-09-22)

「私」ことアンドリュー・J・ラッシュは売れっ子作家、人呼んで「紳士のための

スティーヴン・キング」。この二つ名の意味するところは、「少しだけ残酷で……

ただし適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さだ。卑猥な描写も、女性差別的な

ところもない、どうしてもノワールにならざるを得ない場合を除き、私のミステリー

小説の女性たちは丁寧に扱われ、死ぬのはたいてい白人の成人男性」、つまりは、

世の善男善女に向けられた毒にも薬にもならないジャンル・ノヴェル。私生活では

相応の収入に恵まれつつも、不倫のひとつも犯さないよき家庭人、逮捕歴は当然なし、

図書館への寄付などのチャリティも欠かさず地域の名士として尊敬を集める。

 ただし「私」には知られざる顔がある。それが「ジャック・オブ・スペード」、

「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛がよだつ作家」。

作風ゆえ一部にカルト的な人気を博し、五冊もの作品を上梓するに至る。ネットの

過激な推測のひとつに従えば、「犯罪の常習犯で、おそらくは連続殺人鬼であり、

逮捕はおろか正体を知られることもなく、子供時代から数えきれない罪を犯し、

本名も所在も常に不明であり続けている」。

 そんなある日、「私」のもとに裁判所から出廷命令が届く。スペルさえもでたらめだが、

窃盗の廉で告発を受けているらしい。原告の名も罪状も、何ひとつ心当たりはなかった。

「招かれもしないのにジャック・オブ・スペードがやってきて私の人生の一角にしゃがみ

込み、光をすべて身のうちに集めて、吸収する。まるでブラックホールのように」。

 

『ジキルとハイド』との表現が人口に膾炙するほどにおなじみの、ドッペルゲンガー。

ドストエフスキー『分身』や『ドリアン・グレイ』等の小説に限らず、『サイコ』を嚆矢に、

『ブラック・スワン』、『ファイト・クラブ』と映画にも枚挙に暇がない。さらに遡れば

陰陽相克の系譜、シンデレラをはじめ類例あまた、もはや初出など知りようがない。

 アポロンを食い潰すディオニュソスのモチーフを用いて、むしろスリリングにならない

方がどうかしている。自他の区別から果ては虚実の被膜までが溶解し「私」が「私」で

あることの自明性を喪失していく、余程のことがない限り、舞台設定の段階で既に

一定の面白さは担保されている。

 さらにレヴューのためにざっと読み返すことで、さりげない表現のいちいちが周到に

張り巡らされていることに改めて気づかされる。物語を推進するフレームワークとしての

「もうひとりの自分」の多義的構造にもひたすら感嘆させられるばかり。

 

 となれば絶賛一辺倒に傾いてもよいところだが、どうしても引っかかりを覚えずには

いられない。というのも、たぶん筆者にしてみれば、それが侵食された「私」を

表しているということだろうが、物語の進展につれて顕著になる書かれざる空白が

多過ぎるから。「私」の与り知らぬところで何が起きようが、それは他人事を超えない。

理に落ちないことと理を曖昧にすますことは、まったく別の話。

 私が思うに、このジャンル至高のスリルは、書かれているもの、目に映るものの

どこまでを信じていいのか、その境界さえもが揺さぶられること。一見、この上もなく

明晰にすべてが描き込まれ、ただし虚と実を隔てる手がかりさえも主観は持たない。

判明たるものなど何もなく、猜疑に次ぐ猜疑でついには自らを滅ぼす。必要なのは

結末の巧拙よりも、生々しい過程の、ただし底が抜けているやもしれない恐怖。

幻聴が聞こえる、幻視が見える、そんな狂気表現よりも、確かなはずの何もかもが

ことごとく幻聴、幻視だったとしたら――デカルト的懐疑のその方がはるかに怖い、

少なくとも私には。

「ない」はずのものが「ある」、それより怖いのは、「ある」はずのものが「ない」。

何でもありの世界よりも、何にもない世界にこそ、戦慄は誘われる。

 筆舌に尽くせぬ畏怖は、筆舌を尽くした先に訪れる。

どうもすいません

  • 2019.02.02 Saturday
  • 22:30

「こうして食事という義務を済ませた僕らは、空いたグラスに飲み物をつぎなおし、

パイプに火をつけて、健康状態についての議論にまた取りかかった。実際どこが

どう悪いのかは誰もはっきり言えなかったが、三人が文句なしに一致したのは、

病気が何であるにせよ働きすぎが原因だという点だった。

『僕らに必要なのは休養だよ』とハリスが言った。

『休養を取って、気分を一新することだな』とジョージ。……僕はジョージに賛成し、

どこか人の来ない昔ながらの場所を探そうじゃないかと提案した。群衆の狂騒から

遠く離れ、なかば眠ったような小道の通る村で日なたぼっこをして一週間を過ごす

……『そうだとも。休養と変化が欲しいなら、船旅にまさるものなしだ』」

 

 弥次喜多ものというべきか、あるいは与太郎ものというべきか、とにかく古典的な

ショート・シチュエーション・コント集。

 珍道中旅日記の殿堂としてまず誰しもが連想するものといえば『ドン・キホーテ』、

ただし本書にツッコミ役としてのサンチョ・パンサの影はなく、それゆえ起きることと

いえば、類は友を呼ぶで知的レベルの似通った三人組が代わる代わるナンセンスな

ギャグと呼ぶのもためらわれるようなギャグを繰り出すだけ。「緊張と緩和」理論を

傍証するように、益体もないことばがメリハリなく垂れ流される。

 しかも構成がうまくない、何せほぼすべての章に数ページにもわたる過去の

おもしろエピソードが挿入されては、物語進行の腰を折り続けるのだから。

 あるいはテムズの川上り描写に古き良き英国の原風景を訪ねる、なんて高尚な

読み解きもできなくはないのだろうが、「霧の都」とはつまりPM2.5以外の何物でも

ないわけで、例の反現実ノスタルジーの試みとして挫折を余儀なくされる。

 

 とはいえ、かくのごとき現代から振り返っての揚げ足取りに終始しても仕方ない、

それは林家三平――終身名誉いっ平ではなく――を掘り起こして酷評したところで

「昭和の爆笑王」としての栄えある過去が消えないのと同じ。

 古いものに古いと言って何になる? だから風化に委ねてそっとしてあげよう。

 ――と締めるつもりで気まぐれにamazon.co.ukthree men in a boatを検索したら、

あら、びっくり、レビュー数787件、本国では今なお読み継がれているらしい。

 正気かよ、ブリテン。

道の駅型ローカリティ

  • 2019.01.21 Monday
  • 22:36
評価:
ミロスラフ・ペンコフ
白水社
¥ 3,024
(2018-10-26)

 かつてスタロ・セロなる村があった。大戦を経て、村を走る川が国境線に変わる。

東はブルガリアに、西はセルビアに、そしてそれぞれに新たな名前が与えられた。

まもなく川にはベルリンの壁や38度線と同じ意味が付され、監視する軍人たちの

銃を構える光景が日常と化した。ただし、彼らは両国の許可の下、5年に一度、

「スボール」なる再会イベントを催し、そこで東の民はリーバイスやアディダスを

知ることとなる(「西欧の東」)。

 長く続く風習のひとつ、「誰かが亡くなると、遺族は故人の名前と遺影、その下に

短く悲しい詩をつけた『ネクロログ』という紙を作る」(「ユキとの写真」)。

 ある年のこと、党の指令により、「ポマク人であれその他のイスラム教徒であれ、

国内のすべてのトルコ人に、新しくブルガリアの氏名が与えられる。ブルガリアに

住んでいるなら、ブルガリアの名前を名乗らねばならない。それがいやなら、

トルコに去ってもらって構わない」(「夜の地平線」)。

 グリーンカードを取得してアメリカン・ドリームを思い描くも、やがて挫けた男が

失った祖国のアイデンティティとしての「ヤッド」を語る。「悪意や強い怒りや

憤りにも似ていて、でももっとエレガントで複雑なんだ。誰かに対する哀れみの

気持ちとか、自分がやったことやらなかったこと、逃したチャンス、しくじった

機会を悔やむ気持ち、そうした思いのすべてが、ヤッドっていう美しいひと言には

こめられている」(「デヴシルメ」)。

 

 ブルガリアと耳にして連想することといえば、カザンリクとヨーグルトと琴欧洲、

白地図を渡されて位置を指し示せと言われてもたぶん正解できそうもない、

その程度の、知識と呼べる代物を持たない私が以下にする指摘は、全くもって

的を外した言いがかりでしかないのかもしれない。

 なるほど、短編の中に見事に東欧の小国の歴史トピックが織り込まれている。

もしかしたらブルガリア人は、この一冊に国民作家の誕生を見るのかもしれない。

 ところが、読み進むほどに引っかかる。

 うまくできている、いや、うますぎる。異国情緒を求める顧客の期待に応えて

ブルガリア固有の歴史、風土を分かりやすくサービスに折り込む、それはまるで

アミューズメント・パークのマーケティング接客術のように。ジャパンといえば

スシ、サムライ、フジヤマ……そんな記号性のプールと何が違うというのだろう。

 

「レーニン買います」よりの抜粋、アメリカン・ジョーク集からの誤引用ではなく。

 

   1999811日、僕はアーカンソーに到着した。空港に迎えに来てくれた

  若い男ふたりと女の子ひとりは、みんなスーツ姿だった。留学生を何かと

  ケアしてくれる何かの組織に入っているらしい。

  「アメリカにようこそ」と、三人は温かく親しげな声をそろえて言い、誠実な

  顔が満面の笑みになった。車に乗ると、僕は聖書を渡された。

  「これが何かわかりますか?」ゆっくりと迫力ある声で、女の子は言った。

  「いいえ」と僕は言った。女の子は心底うれしそうだった。

  「これは我らが救世主の言行録です。我らが主の福音です」

  「ああ、レーニン全集のことだね」と僕は言った。「第何巻?」

 

 商品化のほかに、ナショナリズムは生き延びる術を持たない。