「悔い改めよ。天の国は近づいた」

  • 2019.08.18 Sunday
  • 20:59

「運命は抗し難い力で私の背中をぐいぐい押した。理性は何度もやめろといい、

冷静な判断は家に帰るべきだと告げていたが、私はどうしてもその声に従うことが

出来なかった。私を突き動かした力、それを何と呼ぶべきか私にはわからない。

破滅へとわれわれを駆り立てる力――目の前にあるものが破滅だと承知しつつも、

そこへ飛びこんで行けと人を促す人智を超えた力――、そうした力が私に

作用していたのだと主張するつもりはない。けれども私は、何らかの不幸な運命が

私には逃れ難く課せられていて、それゆえ、落ち着いて理性を働かせ、熟慮の末に

下した判断や確信に逆らってまで突進した。そう考えざるをえない」。

 そうして「私」ロビンソン・クルーソーはアフリカを経由してブラジルへと渡る。

農園の経営者として半ば約束された成功、しかし彼はここでも「突進」を選ぶ。

奴隷を求めて漕ぎ出した船は洋上で座礁、打ち上げられた彼は命からがら

ひとり小島に辿り着く。

 

「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブをめぐって、

サタンは神を挑発する。悪辣の限りにさらされれば、お気に入りといえども

必ずや神へと呪詛を示すに違いない、と。神はまんまとその誘いに乗る。

「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」。

 艱難辛苦の末、ついにヨブは神への恨みを口走る。

 

 あたかも『ヨブ記』とロビンソンは対照的とも見える軌跡を辿る。

 孤島にひとり残された。地震にも襲われた。そして病で死線をさまよう中で、

彼は父のことばを思い出し、ついに神への信仰に覚醒する。「私の災難は、

神の思し召しであり、こんな惨めな思いをしているのも神の定めなのだ」。

 教会もない、牧師も神父もいない、ただし悔い改めた彼には聖書があった。

 

 大航海時代に「荒野の誘惑」を重ね合わせ、「聖書のみsola scriptura」の教義を

小説の形式であらわす、たぶんデフォーの意図というのはそんなところなのだろう。

 しかし、今日の眼差しから改めてこの小説を眺めるときに、そのキリスト教文化が

異なる表象を帯びて観察されることに気づく。

 座礁した船からアイテムや食料を確保する。

「パンや米、オランダ産チーズ三個、干したヤギの肉五切れ……ヨーロッパ産の

穀物の残り……飲み物は、船長の所持品であった酒瓶の木箱があり、中には

強壮飲料や、全部で五、六ガロンものアラック酒が詰まっていた」。

「次に必要なものは弾薬と武器だった。船長室には上等の鳥撃ち銃が二挺と

拳銃が二挺あったので、火薬入れや弾丸を入れる小袋、古い錆びた剣二本と

ともに、ありがたく頂戴することにした。それから火薬が入った樽が三つばかし」。

「船にはまだいろいろなものがあったので、それらを持ってくれば大いに役立つ

だろうと思った。特に、索具や帆、それから他にも持ち帰れそうなものはいろいろ

あった。……大小の釘が入った小袋、特大のねじジャッキ。一、二ダースの

手斧などである。一番の掘り出し物は砥石であった。……それから、砲手の

持ち物もいくつか入手した。二、三本のバール、マスケット銃七挺、二樽分の

マスケット銃弾、鳥撃ち銃一挺、若干量の火薬、小弾を入れた大袋、鉛板

一巻きなどである」。

 奇しくもこの作家の誕生と前後して、かのクロムウェル・ファミリーの指揮の下、

今日国家と呼ばれる概念に与えられていた語はcommonwealth

 孤独な彼は、決してプリミティヴな世界へと帰還せず、文明の記憶と暮らす。

彼に課せられたミッションとは、与えられた状況下、限られた道具立てをもって

いつか戻るべき祖国の似姿をいかにして再現するかに他ならない。

 異国情緒に身を委ねつつも、あくまで大英帝国民としてのあり方に固執する、

消費カタログとしての冒険譚、何かに似ていると思い、間もなく気づく。

 小説にせよ、映画にせよ、つまり『007』シリーズそのもの、ただし女のいない。

 

 一度知恵の実を味を知ったアダムは、もはやエデンに戻ることはできない。

 その子孫たる読者は、神への限りなき恭順にかこつけたこの現世の勝利宣言に

拍手を送る以外に何ができるだろう。

善悪の彼岸

  • 2019.08.01 Thursday
  • 21:29

 その男、チャーリー・マーロウにあったのは、船乗りとしてのいくばくかの経験と

未知の大陸をめぐる好奇心、そして職を得るのに必要なコネだけだった。

かくして商社に雇われた彼は勇躍コンゴへと漕ぎ出す。

 目的地が近づいていくにつれ、出会う人々がある共通の人物を口にする。

奥地の出張所で責任者を務める傑物で、その名をクルツという。象牙の入手に

剛腕を発揮する彼は「万能の天才」にして、「慈悲と、科学と、進歩と、そのほか

いろんなものの使者」、そして今、その彼が危殆に瀕しているという。

「あの河をさかのぼるのは、世界の一番初めの時代へ戻るのに似ていた。

地上で植物が氾濫し、巨大な樹木が王者として君臨していた時代のことだ。

がらんと広い河面、大いなる沈黙、入り込めそうにない密林。大気は熱く、

ねっとりと濃く、重く、澱んでいた」。

 この船路の果てには先駆者クルツが待ち受ける。目に映るものの何もかもが

今やマーロウにおいてはクルツの追体験として把握される。やがて彼はクルツに

まみえ、そしてその後、とある決断を迫られる。

 

「クルツはあの土地の悪魔どものあいだで高い地位を占めていた――これは

文字どおりの意味でだ。君らにはわからないよ。だってわかるはずないだろう

――足の下には堅い舗道で、まわりには励ましてくれたり文句を言ってきたりする

良き隣人たちがいて、肉屋と警察官がいる街を上品に歩き、醜聞の種になったり、

絞首刑になったり、狂気に陥ったりすることをひどく恐れながら小心翼々と

暮らしている、そんな君らにはね。誰にも束縛されずに歩いていく人間が、

孤独をくぐり抜け、静寂を通り抜けて、原始の世界のどんな異様な場所へ

たどり着いてしまうことがあるか、君らにわかるはずがない。その孤独は、警察官の

いない完全な孤独――静寂は、親切な隣人が世の意見を代表して警告してくれる

声が聴こえない完全な静寂だ。警察官の保護や隣人の助けといったものが

あるかないかでは大きな違いが出てくる。そういうものがなくなれば、持って

生まれた自分の力と、自信を持つ能力に頼るほかない」。

 本書の主題はこの独白をもってほぼ遺漏なく尽くされる。そしてこの引用から

フリードリッヒ・ニーチェを想起することをためらうべきいかなる理由がありえようか。

 時にそれは人種を超えた理想主義者として、時にそれは商社の命を受けた

辣腕の功利主義者として、時にそれは暴力をもって従える植民地主義者として、

クルツはいずれの瞬間においても、状況への応答主体としての己を引き受ける。

彼は決して多面的なるスフィンクスとして表象されない。永劫回帰を知悉しつつ、

クルツはクルツ、そのことを徹底的に具現する「超人」であるに過ぎない。

 

「どんな経験であれ、生で感じたままを他人に伝えるのは不可能だ――

生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり――捉えがたい深い本質

なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぽっちで生きている」。

 ただし同時にマーロウは訴える。

「クルツと話を……俺は片方の靴を河に投げたが、その時不意に、それこそが

まさに俺の求めていたことだったと自覚した――クルツと話すことがね。(中略)

クルツは豊かな才能を備えた人物だったが、そのすべての才能のうち、最も顕著で

本当に存在感を持っていたのは、語る力、その言葉――表現する能力、人を

混乱させ、啓蒙する、とびきり高尚でありながら卑しむべきもの、脈打つ光の流れ、

あるいは見通せない闇の奥から発する欺瞞の流れだったんだ」。

 その「言葉」のあり方は、どこか現代的なオーラル・ヒストリアンと一脈通じる。

歴史の審判なる糾弾へと晒すでもない。正史を綴るための具を求めるでもない。

さりとて罪に目をつぶれと唱えるでもない。「不可能」性を知りながら「生の感覚」に

寄り添うこと、「誰にも束縛されずに歩いていく人間」が状況へと立ち向かった

その事実に拍手を送ること、「声」を交わす一連の過程こそが自己目的化される。

 それは言い換えれば、物語が物語であれた時代を悼む挽歌として。

 

 ドイツの巨人は間もなく狂人としてこの世を追われた。

 来るべき歴史は、「永劫回帰」のその意味を否応なしに上書きした。世界が不可視で

あるとすれば、それは単に人間の計算能力の貧弱の結果に過ぎない。行為の一切は

スクリプトとして記述される。意志なる神話はもはや横たわるべき場所を持たない。

ゆえに「超人」もそこにない。

 正論は唯一、他人を叩くための方便として存在する、そんな卑しき黄昏の時代に

誰が『闇の奥』を読み解くことができるだろう。

なんとなく、クリスタル

  • 2019.05.24 Friday
  • 22:55

「この応接間には一度、二十年ほど前に訪れたことがあるわけだと思つて、

変りやう、荒れ方に驚き、同じ部屋かどうか疑ふほどだつたけれど、たしかに

別の部屋ではない。……古風で地味できちんと整つてゐたたたずまひが、

何か妙に今風に変り、ずいぶん乱雑に散らかつてゐる」。

 インタビュアーが待ちわびるのは、「旧財閥系の大企業の名誉会長であり、

業界の代表的な団体の前々会長」、もっとも企画趣旨は「財界総理」としての

回顧録聴取ではない。テーマは、かつて氏が在米時に出会ったジュリアードの

日本人学生によるクヮルテット、国際的な名声を得た後、やがて空中分解を

余儀なくされた彼らの、パトロンのみが知る内実について。

 

  「棚卸資産とか、余剰キャッシュ・フローとか、株主総会とか、ランチを

  食べながらの商談とか、秋が深む前に年賀状の送り先のリストを用意する

  とか、そんなことをうまくやる雑事の連続に、藝術といふ、あの秩序と陶酔と

  力とをいつしよにもたらす不思議なものと似たやるな喜びを求めるなんて、

  できるはずがない。もし同じやうなことになつたら、今度は藝術の方が迷惑

  するでせう」

  「存在理由がなくなります?」

  「はい」

 

 はい。われわれは今まさに「存在理由」をなくした世界のただ中にいる。

そのことは引用した冒頭の書き出し、荒れ果てた応接間に凝縮される。

 本書が表現するものは、雑に言ってしまえば黄昏時の「藝術」挽歌。

かつて上流階級の誇示的消費として、あるいはクラスをクラスたらしめる

文化資本のハブを託された「藝術」が、やがて消費のパイの拡大に伴い

「大衆化」を迎える。いみじくもその最たる象徴が老紳士とクヮルテット、

「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」の台頭に他ならない。

 

「大衆化」は例えばこんな局面に示される。メンバーのひとりの夫人、M&A

専門にするバンカーの仕事ぶり。

「いつたん狙ひをつけたとなるとすごいらしいですよ。何しろ執念深いから。

まづその社長の好みを調べあげて、DVDでオペラをいくつも見たり、オペラ

ハウスに行つたり、メジャー・リーグの球場へ何度も行つたり」。

 嗜みとはすなわち、階級の差を隠蔽するためのトリガーでしかもはやない。

現代においてクラシックを愛聴するとは、商談の切り口として活用したという

履歴以上の意味をなさない。その模倣の連鎖をもって人は「藝術」と呼ぶ。

 ゆえに本書の主人公は商社マンであらねばならない、慧眼に感服する。

 

 古典とは別の仕方で、ついぞモダンに至れぬ日本人の悲哀を彼らは示す。

「当人にまづ迫つて来たのは、自分の属してゐる共同体への古風な忠誠心

なのかもしれない。村への義理とか、家への義理とかに似た何か。変に

日本的なもの」。

 語り手に言わせれば、こうした「藝術」の対義語とも見える人間関係の綾が

「哀れを心のどこかで敏感に感じ取つて、その分だけ、ああきれいだな、

すばらしいなと喜びが殖えてゆく」効果をもたらす。

 語りはすべからく騙りと変換される。現代の人間は、こうした物語的夢想が

ストーリー・マーケティングの素材へと解消されたことを既に知っている。

 

 何もかもが「存在理由」を失った。

 そんな現実に目を伏せたい輩をマスとして動員するには、例えばセグメントを

薄く広く掬う単位としての抽象的な「愛国」がひとまずはリーズナブル。

 こうして日本も消費者向けに書き換えられた。

 

 すべてコンテンツは経済の語彙をもって記述される。

 本書の片手落ち性は、「藝術」のいわば自己手段化としての日本論にのみ

終始した点に由来する。本来は崩壊メカニズムのもうひとつの回路として、

自己目的化の極北としてのオタクの台頭――購買力を要する以上、理の必然、

その登場はバブル景気を待たざるを得ない――に触れねばならなかった。

ベタはメタとなりネタとなり、そしてオタに殺された。

 ただし、その視座を筆者はそもそも持たない。

 

 一連の古風な仮名づかいが示唆するだろうハイ・カルチャー信仰の残滓として、

自己言及的に本書は小説の、「藝術」の終わりを告げる。

 昭和末期に束の間咲いた花として、テキストはひとことで要約できよう。

 丸谷才一版『なんとなく、クリスタル』。

 あるいはそのせいかもしれない。あるときはニュー・ヨークですき焼きを囲み、

あるときは東京のベッドサイドでルームサービスのサンドイッチをつまむ。

そして例の応接間ではヴィンテージのアモンティリャードをあおる。

時をかける少女

  • 2019.05.06 Monday
  • 20:55

 夕暮れ時の多摩川の散歩道、日課の歩行訓練のため息子に寄り添う「私」の前に

木守有が姿を現す。「少年がいちばん美しかった面影を残して青年になっている」、

そんな駒場のアイコンはその後映画プロデューサーとなり「私」のもとに「M計画」を

持ち込み、それから三十年、老境にして再会を果たす。

M計画」、すなわちH.v.クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』の映画化、

中世は神聖ローマ帝国のラントにて、腐敗を極めた領主へのミヒャエルの憤激は、

妻リースベトの死をもって怒髪天を衝き、ついに蜂起を決意する。脚本を任された

「私」によぎるは、幕末の郷里の森の一揆の記憶、戦後まもなく「私」の母は伝承を

芝居に仕立て、その剣幕をもって村人をカタルシスへと誘い、ただし幼い「私」は

「口説き」を知らない。主演女優はサクラ、「私」にとっての「白い寛衣の少女」、

高校時代「アナベル・リイ映画」でまみえた忘れ得ぬ「永遠の処女」。

 そして「M計画」はあるスキャンダルをもって空中分解を余儀なくされる。

 

「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」

 かつて同じフレーズを大江の出演するラジオで聞いたことがあった。

『取り替え子』におけるM.センダック、『懐かしい年への手紙』におけるダンテ、

『水死』における『金枝篇』、本作ならばE.A.ポーやクライストやM.ラウリー、

そこに森の言い伝えを反響させる。

「永遠にこれをやっている、これをやっている瞬間、永遠の時を生きている」。

 いつものことがいつものことであれたならば、むしろどれほど幸福なことだろう。

執拗に塗り重ねた行間から不意に「永遠」が漏れ出す、それは雲を掴むように、

種をどれだけ明かせども、「もう一度」の不可能性を逆説的に暴露する。

「気分にだけ恐さがいつまでも残る夢の、全体はいつも消えてしまう出来事が、

私の本当に経験したものか、空想したことか、その空想だってあれだけいろいろ

夢を復元してみての、なんでもないチッポケな成果があるにすぎない」。

 手を変え品を変え試みられる「復元」の、ただし「復元」されぬこと、

悲劇の記憶が文学的想像をもって寸分違わず「復元」されるとしたら――

それを人は奇跡と呼ぶ、既にたどった軌跡ではなく。

ヘラクレイトス

  • 2019.04.30 Tuesday
  • 20:01
評価:
山尾悠子
文藝春秋
¥ 2,160
(2018-05-10)

 インドネシアはトラジャ族に伝わる神話。創造主は石の彫刻から人類最初の

男と女を作った。主は併せて人類に火を与えたが、ただし作り方は授けなかった。

途絶えぬように守り続けてきたがある日、火は消えてしまう。折りよく天が地上に

近づいてきたので、火を再度分けてもらえるように使者を出す。乞われた通りに

火は与えよう、ただしその過程を見てはならない。そう命じられた昆虫は手で

目を覆った。ただし神はその肩の下についたもう一対の目の存在を見落とした。

かくして人は石を打ち、火の粉を広げることを知る。

 ニュージーランド、マオリ族の場合。英雄マウイが村中の火を全て消して回る。

火を取り戻すには大祖先マフーイカのもとに出向いてもらってくるより他にない。

その役を引き受けるのもまたマウイ。子孫を歓待するマフーイカは自らの爪を

引き抜いて火を起こす。ところがマウイは受け取っては消し、受け取っては消し、

そうして最後の爪のみを残したところでマフーイカはマウイの陰謀に気づく。

女神は怒りの炎を地上に放ち、その火でマウイを追い回す。マウイの懇願で

水の神が大雨をもたらし鎮火する。マフーイカの火は消えた、ただし彼女は

いくつかの火花を木の中に隠した。だから木をこすり合わせれば火が起きる。

 数日前にたまたま読んでいた、J.G.フレイザー『火の起原の神話』からの引用。

この碩学の立場は明快だ。「神話はそれらの多くをゆがめている幻想的な特徴にも

かかわらず、本質的には真実なものを持って」いる、その痕跡を求めて読み進む。

 そして私はバカバカしくも換骨奪胎して「幻想的な特徴」に魅かれていく。

数多の口伝は神からの窃盗をもって起原を明かす。プロメテウスを典型に、

火は原罪を象徴する。

 

「シブレ山の石切り場で事故があって、火は燃え難くなった。

 大人たちがそう言うのを聞いて、少女のトエはそうかそうかと思っただけ

だったが、火は確かに燃え難くなっていた。まったく燃えないという訳では

ないのだが、とにかくしんねりと燃え難い」。

『飛ぶ孔雀』の物語の舞台は、川のほとりのとある街。流れ出る先は

どうやらあるらしい、ただし「トエは川を知るばかりで海を知らない」、

そして源流についても知らない。

 

 同じ川に二度入ることはできない、と古代ギリシア、ヘラクレイトスは言った。

いっそ本邦古典に倣って、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水に

あらず」とすべきか。一時の洪水の奔流をもって人はそれを川と呼ばない。

川が川と呼ばれるために問うべきは「水」ではなく「流れ」。絶えざる運動性を

構成するかぎりにおいて、「水」に違いを論ずべき必然は何一つとしてない。

同じ「流れ」に身を浸す限りにおいて、それは同じ川でしかあれない。

 流転しているはずの万物が、同一性の相に繋がれる。

 この小説の時間はたぶん右から左へと流れてはいかない。より正確には

流すべき時間すらない、なぜなら同じなのだから。火が失われてすら、以前と

以後を隔てることができない。運動を持てど、時間は自明性を脱臼する。

 原罪以前の世界など人はそもそも持たない。できるのはただ現在ある世界が

現在ある世界、同じ世界であることを受容することだけ。

「――だって皆、この手紙に書いてあることばかりだもの。予言だなんて

もともと本気ではないにしても、これほど楽勝の予想もないってものだわ。

問題は聞いてくれる観客がいないということで、こればかりはあたしの宿命、

抗えない運命なのよね」。