カブトムシ

  • 2018.11.08 Thursday
  • 22:52

1924年の3月だった。6月ではなかったが、6月みたいな一日だった。……

この日は330日、そして日曜だった。かつて『母を訪う日曜』とよばれた、

一年に一度の日曜だった」。

 もっともヒロインのジェーンに帰るべき母はない。主人に暇を言い渡された

召使の彼女は自転車で近くの大邸宅へと出向き、御曹司と寸刻のふたりきり、

逢瀬のときを過ごす。やがてことが終わると、彼は二週間後に式を控えた

フィアンセのもとへと自動車で走り去っていく。

 昼下がりの屋敷に残された彼女は全裸のまま、部屋という部屋を歩いて回る。

「住む人のいなくなった小さな外国みたい、嘆願したにもかかわらず見捨てられた

所有物の集積みたい」な応接間、「静粛を旨とする男性の聖域」としての図書室、

「ポール坊ちゃまがその気になれば家の中のどこへなり持って上がれるように

軽食全体が整えられ」た調理場……。

 そして電話のベルが鳴る。

 メイドがメイドンを喪失する、そのこと以上にこの音色が「マザリング・サンデー」を

忘れ得ぬ日へと変える知らせの調べであることなど、まさか彼女の知る由もない。

 

「のちに彼女は……その事務的な言いつけのほとんど一言一句を反芻することになる。

ことばが薄気味悪いほど深く心に刻まれることになる。けれども、まさにそれだからこそ、

すべて自分ででっち上げたような、50年も経って自分がこんなにはっきりと覚えている

こと全部を、あの人が言ったはずがないというような気のすることもあった」。

 追憶とは、ダビングの効かない上書き作業に他ならない。

「事実と虚構は常に混じり合い、入れ替わる」。

 ディテールをいかに細かく刻もうとも、記憶は常に反復を信じる己を裏切りすり抜ける。

 

 そしてこの語りは、可塑性に加えて、記憶に関するもうひとつの作用を明かす。すなわち、

主体としての過去の自身の振る舞いが現在において客体化される。

 シェリンガム家を侵犯するジェーンは、しばしばその家政婦エセルを意識せずには

いられない。「マザリング・サンデー」で留守にしている同業者はそこにはいない、

ただしジェーンが至るところに残した痕跡にやがて気づく、たとえそれが彼女のそれと

知ることはなくとも。

 そのことに思いをめぐらすジェーンは束の間エセルと「混じり合い、入れ替わる」。

「なぜあのとき……自分が誰か別の人になったような気がしたのだろう。……この物語の

登場人物たちがすっかりごた混ぜになってしまったような」。

 

 失われた時を求め――ず。

日はまた昇る

  • 2018.09.28 Friday
  • 21:27

 すべてが右肩上がりだった。

「薬瓶に詰められていた綿は取っておかれ、母親たちはそれを使ってろうそくの芯を

作った。……母はマッチ箱を買うと、兄をテーブルの前に座らせ、マッチ棒を剃刀で

二つに割らせていた」。そんな祖国インドを離れ、一家でアメリカに移住する。

 時は70年代、「緑の革命」の夢華やかなりし時代のこと。

「栓をひねった。蛇口からお湯がざーっと流れ出した。……僕はそれまで蛇口から

お湯が出るのを見たことがなかった。……テレビは朝から晩まで番組をやっていた。

僕はそれまでエレベーターには乗ったことがなかった。……建物の外には四車線の

道路があった。たいてい車がたくさん走っていて、ほとんどの交差点には信号があった。

インドで僕が唯一見たことがある信号は、インド門近くにあったものだ」。

 兄は見事エリート高校に合格、医師かエンジニアというインド人コミュニティの思い描く

理想のキャリア・パスが開かれた。

 と、その矢先、前途を暗転させる不幸な事故が一家を襲う。

 

「悪いことが起こると、僕は思った――もう少し辛抱すれば読書に戻れる。そしたら時間は

消えてなくなり、ふたたびわれに返ったときには困難は消え去っているか、変化している

はずだ」。読書の自由を「僕」は既に知っていた、とはいえ、人が往々にしてそうあるように、

運命の一冊との出会いはあまりに邪な動機に従い果たされる。

「伝記を読めばかなり効率よくヘミングウェイを読んだふりができると思ったのだ。……

読むうちに作家になりたいと思うようになっていた」。

 

 半自伝的な作家の誕生譚ではなく、あくまで『ファミリー・ライフ』、だとしてもこの作品、

組み立てにおいてあまりに歪な印象は否めない。

「僕がプリンストン大学に合格したのは、出願書類のひとつとして提出した短編を、

自分自身も兄を水難事故で亡くした人が読んだからだと知った」。

 それまでの記述が創作ノートの公開という性質を持っていたにしても、処女作に

まつわる描写がこれだけ、というのは質量ともに淡白にも程がありやしないだろうか。

 無理矢理な弁護を図るならば、「僕」における主観の比重がそのように構成されて

いるのだから仕方がないということにでもなるのかもしれない。ただし、原体験としての

崩壊家族についてならまだしも、この出来事のプライオリティが例えば交際していた

女性たちをめぐる記述に比べてさえ劣るものとは思い難い。

 聖書の時代よろしく背景や内面を排した――というか配慮するという前提を欠いていた

――簡潔な描写に徹する実験だとすれば中途半端もはなはだだしく、ラフデッサンの

メモとしても、このエッジの立たなさ加減は単に感興を削ぐ効果しかもたらしていない。

 率直に言って、この竜頭蛇尾の配分は単に作家への道筋に至る段階で既に筆者の本作に

賭ける熱情が疲弊したことによって引き起こされたものとしか見えない。

アルマゲドン

  • 2018.09.25 Tuesday
  • 21:54

 1984年の冬の出来事、それは隕石か、彗星か、宇宙のいずこを発った「名もない物は、

叫び声のように測定できぬほどの速さをゆるめることなく飛びつづけた。地球の大気圏に

突入した時、もはやその眼中に地球という惑星はなく、まっすぐあの場所に向かっていた。

 

 まるまる一分間、ガルヴェイアスでは爆発に次ぐ爆発が一瞬の間も空かず続いた。

それとも、ただ一度の爆発が一分間ずっと続いたのかもしれない。……大地が真ん中で

裂け、地球そのものがぱっくりと割れたかのようだった」。

 

「多くの人が世界の終わりだと思った」。そしてそれは杞憂だった。

 変わったことといえば、ガルヴェイアスの村中に硫黄臭が立ち込めるようになり、

そしてでき上がるパンの味がどうしようもなくまずくなったことくらい。

 おそらくは原文を踏襲しているだろう、抑制の効いた文体で構成されるこの群像劇が

伝えるものはつまり、ウ○コとチ○コの話、まるでそこらのボンクラ小学生のように。

 村にやってきてまだまもない新任の女教師、マリア・テレザにはひとつだけ欠点があった。

つまり、「まるでテレビに出てくる人が話しているみたい」な口調から気を抜くと一転、

下劣な罵倒表現へと切り替わってしまうこと。村人のつまらない嫌がらせに耐えかねて

つい暴発してしまう。

「この腐りきったクソ野郎、ふざけたことぬかすとタマつぶすぞ」。

 

「誰にだって、運命の場所ってもんがあるのさ。誰の世界にも中心がある。あたしの場所は

あんたのよりましだとか、そんなことは関係ないの。自分の場所ってのは、他人のそれと

比べるようなものじゃない。自分だけの大事なもんだからね。どこにあるかなんて、自分に

しかわからないの。みんなの目に見える物にはその形の上に見えない層がいくつも

重なっているんだ。自分の場所をだれかに説明しようったって無駄だよ、わかっちゃ

もらえないからね。言葉はその真実の重みには耐えられない。そこははるか遠い昔からの

肥えた土地、死のない未来へと続く小川の源流なのさ」。

 時に登場人物にこんな露骨な独白をさせてみたくなる誘惑に負けてしまう瞬間もある、

そしてたぶん筆者が物語に託さんとしたメッセージはこれ以上でも以下でもない。

「名もない物」が宇宙から飛来しようが、「自分の場所」が「自分の場所」であることをやめる

わけではない。「自分の場所」で昔も今も人々はウ○コ、チ○コをひたすら語る。「重な」る

「層」をどれだけめくろうとも、掘り出されるのはひたすらにウ○コとチ○コ。

 共同体における葬送と誕生が繰り返し描き出されることが、「自分の場所」の果てなき

スパイラルを雄弁に物語る。本作にあって、葬送は冗長な憐れみの場ではなく、日常の

ワンシーンに過ぎない、漏れなくウ○コ、チ○コが付随した。

 人類の祖先アダムは神の手により土より出でた。土から生まれ土へと帰る。換言すれば、

ウ○コ、チ○コに帰着する。

『アルマゲドン』の英雄伝など荒唐無稽で稚拙で惨めな絵空事。たかが人間ごときに

高尚なものなど何もない、人間ごときに払うべき敬意などひとつとして存在しない、

この事実を受容することのみが、この世界にあって唯一可能な人間賛歌となる。

嘆きの歌

  • 2018.09.17 Monday
  • 20:05

 主人公の「私」はナイジェリア出身の精神科医、マンハッタンの街を散歩する。

 学生時代の恩師を訪ねる。「戦時中は詩をたくさん暗記したよ。……教授は過去の思い出に

浸ることで病の日常から逃れ、毛布のかたまりや尿の入った袋から逃れた」。

 フライトで隣り合った年配女性もいつしか「記憶の奥深くに潜り話し続けた。少女だった

日々のことを、戦時中は辛いことばかりだったことを、レオポルド三世が食糧配給の改善を

求めてヒトラーと交渉したことを」。

 過去を語りかけてくるのは、人ばかりでなく街もまた、同じだった。

 タワーレコードの前を通ると、張り紙がしてあった。すべての業務を打ち切る、という。

ブロックバスターもやはり閉店を決めていた。「個性を欠いたこれらの大企業に同情など

感じなかった。なにしろ彼らは、元々地元に根付いていた小さな店を潰すことで収益を生み、

名を上げてきたのだから。……数年前まで堅調そうだったビジネスが、数週間かと思える

わずかなうちに姿を消すのだ。彼らが担っていた役割すべては別の者に渡される。

その者たちは束の間、安泰な気でいるだろうが、時が来れば予想だにしなかった変化に

屈するのだ」。

 そんな折、「私」は祖母の足跡をたどって冬のブリュッセルを旅する。「それらは劇場であり、

オランダ、ドイツ、イギリス、フランスがまさに交差する地点で、ヨーロッパの運命を決める

死闘が演じられた。しかしブリュッヘもヘントもブリュッセルも爆撃を受けなかった。言うまでも

なく、降伏し、侵略してきた軍と交渉したことで街は生き残ったのだ。仮にもし、ブリュッセルの

統治者が無防備都市(オープン・シティ)を宣言せず、そして第二次大戦中に街を砲撃から

護らなかったとしたら、ブリュッセルは破壊され瓦礫と化していたかもしれない」。

 そして現代、戦争をくぐり抜けたその街並みに排斥の風が吹き荒れていた。

 

 音楽とて歴史を伝える、あるいは、空を舞う鳥たちですらも。

 そんな時の流れを透かし眼差すカメラのような存在として「私」を設定するならば、

この小説は香り高く成り立っていたかもしれない。フランシス・フクヤマの言う「歴史の

終わり」にあって、果てなき反復構造を生きる他ない「私」の無時間性を時間を通じて

描き出す、というのならば、話の辻褄は合っている。あるいは逆に、現代の風景への

コミットメントを通じて、無時間的ではいられない自身に気づく、変わりゆく世界の途上に

立っていることに気づく、という成長物語の典型図式もあり得ただろう。

 しかし、本書はそうしたスタンスを示すでもなく、結果、全体を通じて何が表現されて

いたのかが杳として掴めない。

 読み返して愕然とする。書き出しと終わりが見事につながっている。ただし、それは単に

技巧のための技巧でしかなく、物語の必然として両端を結ぶ論理は何もない。歴史に名を

借りたトリビアのためのトリビアで構成された悪趣味極まるこの事態こそが象徴する、

単に本書がオールド・スクールの教養主義的産物に他ならないことを。

木綿のハンカチーフ

  • 2018.02.21 Wednesday
  • 23:16
評価:
ゴールズワージー
新潮社
¥ 432
(2017-12-25)

 ここに銀婚式を迎えた夫婦がいる。

 二人が出会った街へと向かう道すがら、麗しい光景に車を止める。その傍らに墓がある。

「アシャーストは、とつぜん立ちあがった。この景色に見おぼえがある。公有地のこの場所を、

細長い小径を、背後の古い塀を、たしかに知っている。車で走っていたときは、物思いに

ふけってぼうっとしていたせいか、まったく気づかなかった。しかし今は、はっきりとわかる!

26年前のちょうど今ごろ、アシャーストはこの場所から800メートルほどのところにあった

農場を出てトーキーに向かい、それきりここには戻らなかった。彼はとつぜん胸の痛みを

おぼえた。過去のあの一場面が心によみがえってきたのだ。彼の手を逃れ、翼を

はためかせてどこかに飛び去ってしまった美しい歓喜の日々と、またたく間に色を変えて

終わりを迎えた、たとえようもなく甘かなあのひととき。深く埋もれてていたあの頃の記憶が、

今、鮮やかによみがえってきた」。

 

 卒業旅行中のエリート青年が、ウェールズの田舎娘と恋に落ち、一度は契りを交わすも、

あっさりと心変わりして裏切る。

 早い話がイギリス版『舞姫』、ただし主人公に何の葛藤もない。

 何せこのアシャースト、「ぼくは、正しい人間であること自体が正しいから、正しく生きる

ことを信条としているんだ」なんてことを臆面もなく口走れる自己肯定の塊。はじめから

苦悩や屈託なんて代物を抱きようがない。多少はためらう素振りを見せたりもするが、

健忘症を疑わせるほどのポジティヴなマインドですぐに前を向いて歩き出す。

 アメリカン・ヒーロー映画でさえ、主人公が正義の行使をめぐって延々と内省を繰り返す

この現代とは隔世の感はなはだしく、もはや何の感情論理をも共有しようがない。

 後に残るものといえば、たぶん書いていて楽しくてたまらなかったんでしょうね、くらいの

感想しか湧き上がりようのない、ただひたすらにくどくどしい形容表現の数々。

 

 何もかもがグロテスク。

 今日日、こんな物語、もはや書けない、つまり読めない。

 そんな作品が100年前にはそれなりに社会に受容されていた、という史料的な価値を

除いて、現代に本作が蘇るべき何の理由があるのか、まるで理解できない。