いじめ、カッコ悪い。

  • 2017.07.14 Friday
  • 22:02
評価:
奥田英朗
朝日新聞出版
¥ 907
(2016-01-07)

  赤信号 みんなで渡れば 怖くない

 

 予防法は二つだけ。一つ、「信号」をなくすこと。一つ、「みんな」をなくすこと。

 

「農協と寺、そして保守政治」、そんな山間の地方都市の中学校で生徒が亡くなる。

銀杏の木の下で、転落死だった。そして、死体の背中には21もの内出血の痕が

残っていた。つねられてできたものだった。

 事件はまもなく急展開を迎える。

 死亡した生徒の同級生4人が警察に身柄を確保される。中学2年生、14歳という

少年法の壁、2人は逮捕、2人は児童相談所へ送られる。容疑は傷害だった。

 

 取材にあたる新聞記者が言う。

「ああこれはいじめられる顔だと誰もが思っただろう。……金持ちの家の子で、痩せて

チビで、おとなしそうで」。

 生徒の人物造形がこんな簡潔な表現で難なく読者へと伝達できてしまう。

 それはつまり、いじめの発生構造が世間に広くシェアされている無二の証。

 共犯性とはそもそもがこの事態こそを指す。

 

 1件の重大事故の背後には29の小事故があり、さらにその背後に300のヒヤリハットが

横たわる、ハインリッヒの法則を想起させる。

 種々の出来事の積み重ねや共同体論理、同調圧力がやがて少年の死として結実する、

そんなスパイラルに翻弄される人々の姿を描き出す点においてはよくできている、と

評するべきなのだろう。

 

 ただし、全体を見れば、現実を乖離した作り物との印象は拭えない。

 まずは報道のあり方、いじめられていた少年が自殺もしくは他殺を疑わせる仕方で

死亡し、まもなく逮捕者が出たとなれば、この祭りをテレビが放っておくはずもない。

当事者宅や学校周辺に記者が張りついて生活に支障を来すだろうに、そんな模様が

描き出されることはない。群像劇の当事者からテレビやフリーランスは排除される。

 当然ネットの世界も祭りで沸き返るだろうに、「匿名の誹謗中傷など知りたくない」の

一言で等閑視される。別にネット批判を主題化して定型文を連ねよ、とも思わないが、

筆者の箱庭世界では、通販や出前の嫌がらせを被ることもなければ、いたずら電話に

悩まされることもないようだ。これだって、いじめのひとつのかたちなのに。

 街の大事件で息子が逮捕されているのに、父は会社に向かい、妹は小学校に通う。

懐疑の目で村八分に遭うでもなく、彼らは平常通りの暮らしを営む。推定有罪、連帯責任を

国是とする日本でこの描写にリアリティを感じられる方がどうかしている。

 さらに驚くべきことに、別件逮捕の後、釈放された4人はごく通常の生活に戻る。

学校はもちろん、家庭においてすら腫れ物に触るような扱いを受けるでもなければ、

わが子への猜疑に身内が葛藤することもない。

 テニス部所属の死亡生徒が身につけていた練習着は「高級ブランド」、固有名詞を

与えないことに何の理由があるのだろうか。いじめの主犯格と目される少年が貧しい

母子家庭という設定から来るコントラストを強調できる絶好の道具立てだというのに。

 コンビニやショッピングモール、マイルドヤンキーといった現代のロードサイドの風景を

アイテムとして上手に織り込めていない点にも強く疑問が残る。

 

 そして最大の非現実は、筆者が提示する一連の人間観察にこそある。

「中学2年生は未完成な人間なのだ」。

 思春期特有の面倒くささは否定しない、ただし、おとなに「完成」があるかのような

反実仮想の果てしなさにはただただ目を覆う他ない。

 忖度と前例踏襲に明け暮れるその姿、おとなと子どもを隔てるものがどこにある?

「理屈で感情を律するというのが苦手なの」。主語はあえて伏せてみる。

 なぜ犯罪が世界からなくならないか――人間というコンテンツの行動類型一覧表に

例えば「殺人」や「窃盗」がエントリーされている以上、その不経済コードの発動は

決して排除できない。そしてもちろん「いじめ」も同じく。

 そしてあいにく、「自覚」や「自律」といったコマンドはプログラミングのバグなのか、

そもそもインストールされていないのか、有史以来上手に起動したためしを持たない。

「中学生は残酷だ。……自立への過程で噴き出る膿のようなものだ」。

 現代の苦痛とはつまり、「自立」というフィクションがフィクションでしかないことが、

つまりは人間というコンテンツの底の浅さが明るみに晒されてしまったことにある。

 そして皮肉にも、本書はそんな幻の理念を具現する場としての学校を舞台とする。

 成長という神話の終わり、ひいては人間という神話の終わりを直視すること、それこそが

未来の人間に許された唯一の成長なのではなかろうか。

フォーカス

  • 2017.07.02 Sunday
  • 21:29
評価:
藤野 可織
新潮社
¥ 464
(2015-12-23)

  私は無力で

  言葉を選べずに

 

「私」が「私」であることの不可能性の換言としての、「無力で言葉を選べ」ないこと、

そんな初歩的な形容矛盾をあざ笑うように。

 

  それは とても晴れた日で

  泣くことさえできなくて、あまりにも、

  大地は果てしなく

  全ては美しく

  白い服で遠くから

  行列に並べずに少し歌ってた

 

「泣くことさえできな」かったのは誰か、「歌ってた」のは誰か、「私」という主語が省かれて

いるわけではない、だって名指す理由がないのだから。「太陽」にひざまずく「大地」の上、

並置される他ない入れ替え可能、入れ替え不要な存在はいかなる呼称をも持たない、

それはちょうど、「教室で」「笑ってた」「誰か」が「誰か」でしかあれないことと等しく。

「太陽」の光と同じ「白」に文字通り「服」すること、つまり「無力で言葉を選べ」ないこと、

CoccoRaining』、もしくはS.フロイトよりの引用。

 

「わたし」、「あなた」という人称が持つ、ノイジーかつクレイジーな特権性について、

それはあたかもE.レヴィナスの一連の錯誤にも似て。

 見る−見られる。藤野可織「爪と目」の話。

 終始、神の視点から物語り続ける「わたし」(3歳)。

「あなた」の視力は「裸眼では0.1もない」。だから向き合う相手の「顔自体は見える」

けれども、「中身はよくわかんない。目も鼻も口もあるといえばあるけど、かたちが

はっきりしない」。

 そんな「あなた」と「わたし」の「父」が眼科で出会う。エレベーターの中、「父」は思う、

「あなた」は「あのときたしかに自分を見て微笑んだんだ」、と。でも真相は違った。

「あなたは、顔の中身も見えない目で父を見て、そして微笑んだ」。

「あなた」にとって物事というのは、そういうものだった。「あなたに手に入らないものを

強く求めることはせず、手に入るものを淡々と、ただ、手に入るままに得ては手放した」。

「あなた」と「父」が出会って程なく、「母」が亡くなる。「事故死」だった。そうして残された

「父」と「わたし」は「あなた」と暮らしはじめる。「あなた」の目は「わたし」の顔を捉える

ことを知らず、かつて「母」の亡骸の横たわったベランダは遮光カーテンに閉ざされて、

「外の世界なんて存在しないみたいな部屋で、あなたとわたしは、お互いのことを気に

掛けずに、ごくしぜんな沈黙を共有してそこにいることができた。なんの緊張感も

なかった。まるでずっと一緒に生きてきた家族か、公共の場に居合わせただけの

まったくの他人のようだった」。

 インテリアについてネットで調べているうちに、「あなた」は「母」のブログを見つける。

タイトルは「透きとおる日々」。「あなた」は「母」の顔を知らない。「あなた」の視線から

「母」は「透きとお」っていた。

 視線の政治学をめぐる、ひどく古典的な筋立て。

「わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。

わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」。

「あなた」も「わたし」も何もない、「だいたい」という語の必要すらなく、誰しも「おなじ」。

En Marche!

  • 2017.06.02 Friday
  • 21:25

「この畢生の大作は発表されるや空前のベストセラーになったばかりか、今日でもなお

フランスで読まれている本のうち、『聖書』に次いで第2位の位置を占めている。

文字通り、ユゴーの代表作である。

 しかし、極めて有名なこの『世界の大作』は、長大かつ複雑きわまる小説であり、

ともすれば初めて読む読者の気を削いでしまう。……なぜ、この小説は読みづらいのか、

もちろん、その理由のひとつは、これがきわめて長大な小説だからである。拙訳では

500ページ前後の文庫本で5冊の分量にもなる。また登場人物が100名を超え、

主要人物のみならず、副次的な人物の生い立ち、容貌、性格まで一人ひとりできるだけ

丁寧に描き出され、作品世界を多重、多彩にする半面、ストーリーの展開を複雑に

している。さらに、……小説のなかに『哲学的な部分』、つまりかなり長い逸脱、余談が

相当数挿入されているので、読者はしばしば途方に暮れることがある」。

 

「詩人・作家にして政治家」、フランス革命の只中にその生を享け、文学の神童として

幼少時より注目を集めるも、他方で貴族院議員を務め、ただし共和制を樹立できぬまま

第二帝政、ルイ・ナポレオンによってユゴーは祖国を追われる羽目となる。

 そしてジャン・ヴァルジャンもまた、この革命に翻弄されて、その生涯を閉じる。

 浩瀚なテキストをもっても描かれざるそんな歴史的背景に肉薄した、非常に高密度な

『レ・ミゼラブル』の概説書。

 ふたりのナポレオンをめぐる彼の転向は、時の民の姿を反映せずにはいないだろう。

ユゴーに学ぶフランス革命入門、あるいはそんなテキストとしても読める。

 

 世界はやり過ごすためにある。

『レ・ミゼラブル』が今なお、読者に訴求する理由の一つは、マドレーヌと名を変えた

ジャン・ヴァルジャンのホワイト経営者ぶりにある。小説の中でユゴーは謳う。

「ふたつの問題を解決せよ。金持ちをはげまし、貧乏人をまもれ。貧困をなくせ。強者に

よる弱者の不当な搾取に終止符をうて。立身した者にたいする立身途中の者の不当な

嫉みにブレーキをかけよ。数学的かつ友愛的に賃金を労働に合わせて調整せよ。……

要するに、富を生産し、富を分配するすべを心得よ。そうすれば、みんながいっしょに

なって、物質的な偉大さと精神的な偉大さとをもてることになるだろう」。

 死の最適分配の他に世界史はいかなる政策課題をも持たない。

「進歩」なんてただのパラノイア、リアルの世界に「物質的な偉大さと精神的な偉大さ」を

期待するなど、ただの脳障害の典型症状という以上の意味を持たない。

 そして、だからこそ人間には、リアル(笑)へのいかなる希望をも放棄して、精神の自由を

謳歌する権利が、本を読む権利が、フィクションに耽溺する権利が残される。

 ユゴーは言った。

「人間の主要な役割は食べることではなく、考えることである。なるほど食べない人間は

死ぬかもしれない。だが、考えない人間は這いつくばる。このほうがもっと悪いのだ」。

「考える」ことを知らないサルを殺してなぜ悪い? ただしリアルはサルのためにある。

殺すより他に使い道のないサル、そして殺すにも値しないサル。

 殺人は常に最善の倫理。

 人間に許されるものはただひとつ、「考える」領域のみにこそある。

ヴァージン・スーサイズ

  • 2017.05.25 Thursday
  • 21:52
評価:
シャーリイ・ジャクスン
文遊社
¥ 1,944
(2016-08-23)

 冒頭、主人公のナタリーは、ホーム・パーティを控えて口論にふける両親をよそに、

空想を遊ばせる。刑事からの執拗な取り調べ、どうやら恋人を殺した廉で詰問されて

いるらしい。いつものことだった。彼女は「17歳だったが、もう15になったころから、

ほんとうの自覚が生じたと思っていて、日々聞こえる両親の声と、二人の理解しがたい

行動が及ばない別の音と視界の世界の片隅で生きてきた」。

「わたしが神さまかな」、そんなジョークもジョークにはなり切らない抑圧的な父と、

振り回されて疲弊した母。彼女は娘に言い聞かせる。「自分の時間の大半を何に

費やしているかといったら、昔はよかったと懐かしんだり、またよくなるのかしらと

疑ったりすることばかり。……結婚する相手には気をつけなさい。お父さんみたいな

人には絶対に近づいちゃ駄目よ」。

 やがて家族を離れて、大学進学を機に入寮するも、やはり居場所は見出せず……。

 と、そんなある日、彼女はトニーと出会い、そこから運命は急展開する。

 

「おそらく――そしてこれは彼女がもっともこだわる考え、彼女に取りつき、折々に

いきなり彼女を悩ませたり慰めたりする考えだったが――もし、実は自分が女子大生で

アーノルド・ウエイトの娘のナタリー・ウエイト、奥深くも美しい運命の子でなかったら

どうだろう? 自分がほかの誰かだったらどうだろう?」

 そして例の世界から不意に引き戻されて、否応なしに気づかされる。

「しかし、一瞬で過ぎ去ってしまうこういう感覚以上に悪いのは、おそらく現実には

自分は女子大生でアーノルドの娘のナタリー・ウエイトにほかならず、この世界の

堅固さを無視するわけにもいかないまま、厳然と存在する陰鬱なそれへの対処に

迫られるという恐ろしい確信だった」。

 この世界に存在することそれ自体すらも、否定せずにはいられない。

 寄る辺なき過剰な自意識を描く、たぶん、典型的な愛着障害の手記。

 

 この訳者、『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹The Virgin Suicides』の翻訳を

手がけた方でもあるらしい。文体的なものもあるのだろうが、どこか読後感も似る。

 パターナリズムの失敗ゆえか、うまく世界になじめない少女の記録。

 悪い小説とは思わない。少なくとも『ヘビトンボ―』よりはよくできている。さりとて、

この手の類書の中で傑出した何かがあるとも見立て難い。空想か、現実か、迷える

ナタリーのそんな境に没入できなかった私にはどうにも間延びした感が振り払えない。

 C.マッカラーズの名作『結婚式のメンバー』とは、残念ながら、比ぶべくもない。

バタフライ・エフェクト

  • 2017.05.19 Friday
  • 21:47

 主人公ジャズはインド出身のクオンツ、両親は敬虔なシク教徒、対する妻のリサは

ユダヤ系白人。そんな「文明の衝突」の末に生まれた息子のラージは自閉症。

 閉塞した夫婦仲を改善するため、NYを離れ西部へと旅に出るも、口論は絶えず

リサは一夜を外泊で過ごす。翌日、仲直りのため砂漠の国立公園内、巨大な岩山、

通称ピナクル・ロックを訪れ、そしてそこでラージが消える。

 

「問題の核心は、希望対測定の闘いになった」。

 リーマン・ショック前夜、ジャズがウォール街で挑むのは、ビッグデータを紐づけて

世界を計算するコンピュータ・プログラムの開発。「バクー・トビリシ・ジェイハンと

ドゥルージバのパイプラインを流れる石油の量、オーストラリアにおいて人種がらみで

起きた傷害事件の件数、コンゴ民主共和国における紛争に関与しないコロンバイト・

タンタライト鉱石の産出量、同地域におけるマールブルグ出血熱の発症数、日経で

毎時間取引されるハイテク株の数……」そんなデータを叩きこまれたコンピュータを

前に、「全てが全てに結び付いているように思えた」。

 対するリサは藁にもすがる思いで、わが子の矯正を望む。原因を突き止めるため、

症状を改善するため、ひどく怪しい療法に加担するも、効力などあるはずもない。

しかし「非難の矛先はジャズに向かった。治療がうまくいかないのは彼のせいだ。

もしも彼が信じていれば、本当に信じていれば、うまくいったかもしれないのに」。

 

 そんな家族劇にピナクル・ロックをめぐる記憶が交差する。

 それは例えばUFOがこの地に飛来したことを信じる集団、「光る男の子。宇宙から

来た子」をめぐる伝説。あるいはより古く1920年、先住民の男が白人少年を連れて

砂漠の奥深くへと入っていく。「とりわけ不思議なのは、その子供自身が光の源に

見えたことだ」。

 そして上空を轟音とともに飛行機が往来する。中東派兵に備えて、米軍基地が

その地に拠点を構えていた。

「全てが全てに結び付いている」。

 

 不合理ゆえに吾信ず。

 世界の根源的な不可知性について。

 やりたいことは分からなくはない。私の把握できていないオマージュや暗喩が多々

含まれているに違いない。

 しかし、本書の試みは総じてみれば、荒唐無稽なオカルトに堕してしまっている。

 世界の底が抜けている。人間には限界が横たわる。なるほど、そうなのだろう。

 ただしそのことは、例えば「自分より上にあるものを知ろうとしてはならない。自分より

下にあるものを知ろうとしてはならない。自分の前にあるものを知ろうとしてはならない」、

そんな命題にひとつの肯定の余地をも与えるものではない。

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