It's gone

  • 2020.02.08 Saturday
  • 22:32
評価:
堀田 典裕
名古屋大学出版会
¥ 5,280
(2018-05-30)

「本書のタイトルにある〈モータウン〉は、一般的には、20世紀に自動車を

製造する都市を表す言葉であるが、ここでは、自動車の存在とその交通

システムによって創り出された環境もまた、このように呼ぶことにしたい。

すなわち本書は、20世紀後半の環境を『クルマの、クルマによる、クルマの

ためのマチ』、言い換えれば『クルマとともにあるマチ』として捉え直し、

そのデザインを通覧することによって、家具・建築・都市・造園・土木からなる

諸分野を横断し、現代社会における持続可能な発展を目指すための

環境デザインの可能性を問い直そうとするものである」。

 

 その賛否はどうあれ、巨人ジェイン・ジェイコブズをめぐるサブテキストと

決め込んで手に取ったものの、早々に様子が違う。

 群馬は富士重工のお膝元、太田の自動車工場群はそもそもが戦時下の

軍需産業からの転用、日産の座間や村山は「防空空地」のコンバート、

追浜の場合は海軍からの払い下げ、とことごとくが戦後社会の構造転換、

「平和的再利用」を示唆してやまない。この掴みで気づかされる、

本書は一介のモータリゼーションではない、戦後日本の風土史なのだ、と。

 建築、といっても本書は定番の郊外化を主題とはしない。車体づくりの

各種ノウハウがスピンオフしてプレハブ工法へと持ち込まれた、そんな建築。

そもそもが「個」なる空間概念の導入を促したのが、巷間語られるソニーの

ウォークマン以前にマイカーだったとしたならば――いかにもざわめく。

 

 頻出する名前を挙げれば、丹下健三、黒川紀章、坂倉準三といった、

近現代都市史ではごくごくおなじみの面々が並ぶ。たぶん従前の議論と

比べても、そこまで手薄なニッチばかりを掘っているわけでもないだろう。

 でも、本書のバイアスがその見え方を少しだけ変える。

 

 そして何より本書を特徴づけるのは、フェティシズムにも似て、

どこか無機質ですらあるカタログ性。ガソリンスタンドやディーラー、

「消費環境」といった〈モータウン〉のサンプルが、とにかくひたすら

書き連ねられていく。カラーグラフもなく、解像度に秀でるでもない、

回顧でもなく、懐古でもなく、あからさまな意図が見えてこないことが、

かえって対象をあからさまに現前化させる。

 ポスト・モダニズム、ポスト・フォーディズムの一回答を垣間見る。

ジョーカー

  • 2019.09.12 Thursday
  • 22:13

 まなぶはまねぶ。 

 歴史を学ぶ意義とは、同じことしか起きない世界の退屈さを知ることにある。

 ただしそれは、その枝分かれの先を予知するための技術でもある。

 

「あの時代、どこもかしこも暗闇だった。慈悲の門はすべて閉ざされ、開かれた扉は

天にも地にもないように思われた。殺しを行なう者、死んでいくユダヤ人。そのとき

外の世界は、迫害に加担するか、無関心になるかだった。しかし、わずかながら、

思いやる勇気をもった人びとがいた。

 この一握りの人たちは、力があったわけでも、後ろ盾があったわけでも、恐怖心が

なかったわけでもない。それなのになぜ、他の人びとと違うことをしたのか。なぜ、

危険や苦悩はもとより、死の危険さえかえりみず、人としての道を選んだのか。なぜ、

自分の命を危険にさらしてまで、ユダヤの子ども一人、母親一人を救おうとしたのか。

 これら一握りの人たちに、われわれは深い尊敬と驚異の念を覚える。そして、数々の

疑問がわく。なぜ、もっといなかったのか。悪に反対することは、それほど覚悟の要る

ことだったのか。ほかの人は本当に助けることができなかったのか。組織的、系統的、

合法的な残虐行為、殺人行為に抵抗して、犠牲者を、たった一人の犠牲者を気遣う

こともできなかったのか。忘れるまい。犠牲者をもっとも傷つけるのは、抑圧者の

残虐行為ではなく、傍観者の沈黙だということを」。

 

 この証言録が伝えるメッセージは驚くほど単純だ。

「そこに、人間らしい人がいなかったら、あなたがその人になりなさい」。

「人を職業や宗教で判断しないで、人となりで、人間としてどういう人かで、

判断しなさい」。

「少なくともここでできることをする、何かする、何か手伝う」。

 そしてただちに理解される、こんなことさえも自明でなくなってしまった時代を、

本書の復刊を必要とするような時代を、今まさに生きているのだということを。

 黒人が黒人だというだけで白人警官に銃殺される。ムスリームだというだけで

ローン・ウルフの標的にされる。雇用の調整弁として散々こき使われてきたのに、

不法入国という絶好の口実をもって親子が引き離される。「10人に1人は要治療」が

たとえ真実だとしても、そのことが国籍のみを理由に残りの9人を巻き添えにして

構わないという理由にはならない。当然、国籍は暴行の正当化事由にはならない。

 歴史の相から覗けば明らかに、予兆を告げるカナリアの段階は既に通り過ぎた。

世界の底が抜けているという事実は、ただし自身がレイシストの列に加わることを

いかなる仕方においても肯定しない。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」

  • 2019.08.09 Friday
  • 22:08

「本書は、純粋な技術史・建築史の研究でもなければ、フィクションのテクストから

『エレベーターというモチーフ』を抽出する文学研究でもない。むしろ、小説や

戯曲だけでなく、法令、建築・工学論文、医学論文や衛生ハンドブックなど、

さまざまなテクストに基づいて、特定の時代において何が建築物の『イメージの

秩序』とみなされるのかを明らかにする。19世紀から20世紀への世紀転換期に、

多層住宅やオフィスビルに対する人々の集合的イメージはどのように変化したの

だろうか? 技術的な装置であるエレベーターは、建物内部の出来事や、

空間と人の分配についての言説にどのような影響を与えたのだろうか?

ミシェル・フーコーに倣って、この無謀な企てを、エレベーターに関して建築について

語られたこと(言表)の『考古学』と呼ぶことができるかもしれない」。

 

 カフカ『審判』の「建築秩序の中で非常に困惑させられる特徴のひとつに、

屋根裏の事務局がまったく驚くべき場所とつながっていることがある。登場人物の

構成が一望できない」。現今の常識に照らせば、上層階へと近づくほどに権力機構の

中枢、伏魔殿が広がる図を想定しつつ、小説を読み解いていく誘惑に駆られる。

 しかし作家が仮託した意図はおそらく違う。ベルリンの衛生当局のまとめた統計が

その事実を示唆する。曰く、住人の「死亡率が最も低いのは主要階である二階で、

……そこから上下に行くにつれて死亡率は増加する」、言い換えれば、「地上階や、

12階上の住居は普通で、半地下住居と5階以上にある住居は普通ではない」。

 つまり、彼が屋根裏に求めたイメージは「普通ではない」、事務局の立地において

見出されるべきは青天井というよりも、底なし沼。

 

『ラプンツェル』を思い出せば話が早い、天へと延びる塔は社会を隔てられた

孤独な寓居を象徴した。対して現代、その住人は世俗を見下ろす、見下す、

そうして富を吸い上げる。社会的地位や年収を表す形容詞に高いか、低いか、

という語が割り振られることを思えば、誰がこの価値づけに疑問を持つだろう。

ホテル、マンション、オフィス・ビル――いずれをとっても、頂へと向かうほどに

その価格は文字通り上昇する、あるいは高騰する。

 こうした現代的なパラダイムをエレベーターの普及がアシストしただろうことは

想像に難くない。この利器がもたらしたのはヒエラルキーの可視化だけではない。

ボタンひとつで各階に止まる、「それによって多層建築は、それぞれに独立した

平面の連なりへと決定的に変容したのである。エレベーターは垂直性の分割を

生み出した」。かつての階段が担保しただろう連続性はここにおいて分断される。

 

 棲み分けを担保するエレベーターは、ただし縦断という性質を通じて寸刻、

この階級制の無効化を企てる。そして人間は徹底的に抗う。

「都市部での人との交流――多くのつかの間の邂逅――には、知覚に一種の

鎧をまとわせること、つまりコミュニケーションを避ける技術が必要となる」。

かくして「エレベーターボックスは、都市生活の生態学にとっての一種の実験室」を

提供する。行動心理学の先駆けとも呼ぶべきある研究が明かすに、「最初に

乗り込んだ者が、コントロールパネルに近い隅か、奥の片隅を占める。次の者は、

一般に最初の者がいる場所とは対角線上にある隅を取る。三番目と四番目の者が

残りの隅に行き、五番目の者は壁際の真ん中に行く」。

 

 こうした「他人とできるだけ距離を取ろうとする自省の表れ」を剥奪するのが、

フィクションにおいて描かれるエレベーターの故障、閉じ込めシーンである。

「公的な事件統計の値にはまったく現れない」、ただし作家にはやけに好まれる

このシチュエーションに託されるのは「世俗社会の告解室」、その典型が映画

『ユー・ガット・メール』。例によって封じられたアパートメントの住人たちは、

「長い時間が経ち、何もすることがなくなると、次第に落ち着きを失っていく。

結局、彼らは輪になって座り、一人ずつ、この不幸な状況から救い出されたら

自分の人生で何を変えたいと思うかを語り始める。この会話の状況は、ここで

一つには太古の文化モデルを思い起こさせる。それは、死の危険から逃れる

ために語りが生まれるというもので、短編小説の原点にある『千夜一夜物語』や

『デカメロン』においてすでに披露されている。もう一つには、エレベーター内の

儀礼的行為は、まったく文字通り告解を思い起こされるものである。というのも、

中に閉じ込められた人々は一人ずつ順番に、昔の人生の罪の浄化を請い、

救出されたあかつきにはより良く生きることを誓うからである」。

 彼らは一度天へと召され、そしてその後地上に再び降臨する。

 何たる奇跡か、エレベーターに乗るだけで、キリストの復活は追体験できる。

密林の語り部

  • 2019.05.10 Friday
  • 23:12

「歴史のなかの語ること、聞くこと、書くことに関心をもち、戦前から戦後の日本の

歴史を訪ねてみた。すると、そこには、文字を中心にした今までの歴史では見えて

いなかった大変に興味深い世界がひろがっていた。語り手や聞き手の声が聞こえる

世界であり、沈黙や表情を含め、生身の人間同士が向き合った歴史の場面であって、

人びとの生きられた歴史を垣間見ることができる。聞き手は自らの登場の有無を含め、

さまざまな工夫をして書きとめていた」。

 

 能の世界にシテ−ワキなる概念がある、という。異界から降臨せし神や霊に

扮するいわば主役がシテ、そのかたりを受ける現世の聞き手がワキ。

 本書の議論にふとそんなことを想起する。あるいは夢幻にすぎぬかもしれない

過ぎ去りしもの(過−去)を表出させる仲立ちを「聞く」という装置が担うことで、

時に束の間、今ここにある何か(現−在)よりも生々しい場が現に与えられる。

そんな〈現場〉を成り立たしめる要件は、語り手(シテ)の記憶のみでは足りない、

聞き手(ワキ)とのコミュニケーションをもって瞬間うごめき、そして消える。

 オーラル・ヒストリーにおいて、史料研究の垂直性はひとまず括弧に入れられる。

ここにおける稼働原理は、〈現場〉の共有という水平性。主か従か、記録か記憶か、

正か誤か、という二択ではなく、そもそも違う。

 語り手にとってはしばしば「時間にそって経験があるのではなく、経験のなかで

時間がつながり合」う。過去という記憶のフォルダーは必ずしも時間的な近接性に

従って配列されない。たとえ主観による経験の因果律が時間軸を裏切ろうとも、

不可逆の時間の堆積を辿るばかりが歴史ではない。

 もちろん、このアプローチにポスト・トゥルースにも通じる危うさがある点は

議論の余地はない。とはいえ、自らの体験を聞いてくれる、聞かせてくれる誰かの

いる社会と、壁や液晶に向かって妄想をこじらせるより他にない不安型社会の

どちらによりまともさを見出すことができるだろうか。真偽の前にまず生き方に

ついて、それこそが逆説的にパラノイアを遠ざける。

 鶴見俊輔は指摘する。「きくということは、書いている本人が、自分以外の

人びととのかかわりにおいて生きるという姿勢を自覚してるからこそ、なりたつ。

人との関係において生きるということが、考えをのべる前提になっている」。

 主題は過去ではなく現在、ここにおいて歴史学は換骨奪胎された。

風見鶏

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:20

「国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、東海道新幹線が開業した昭和39

1964)。それから20年余。公共企業体『国鉄』は、労使の対立と同時に、労働組合

同士のいがみ合い、国鉄当局内の派閥抗争、政府、自民党内の運輸族や、組合の

支持を受けた社会党の圧力などが複雑に絡み合い、赤字の解消や経営の合理化

などの改革案は常に先送りにされ続けた。その結果、莫大な累積債務を抱え、

ついに『分割・民営化』という“解体”に追い込まれ、7万人余の職員がその職場を

失うことになったのである。

 国鉄当局も組合も、いずれ政府が尻拭いするだろうという甘い『親方日の丸意識』に

安住し続けた。これを打破し鉄道再生を図ろうと、井手正敬、松田昌士、葛西敬之の、

『三人組』と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、『国鉄解体』に

向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた『時の政権』中曽根康弘

内閣と、『財界総理』土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と

合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった」。

 

 本書が試みんとするのは「国鉄維新」史観。経営陣、労組、政界――やがて民営化を

もってひとまずの終焉に至る国鉄史の叙述が臨場感をもって語られる。

 しかし読むほどにどうにもその違和感が深まっていく。肝心のステーク・ホルダーが

抜け落ちてはいないだろうか。

 そう、鉄道行政を司っていたはずの運輸省の動向がきれいに欠落しているのだ。

その奇怪さがいよいよ表出するのが1985年、「国体護持派」総退陣により新総裁に

就任するのが杉浦喬也、ほんの1年ほど前まで運輸事務次官の職にあった男だ。

第二臨調の提言を受けての分割・民営化への動きが加速する中で、本来ならば

キーパーソンとしてその言行が取り上げられていなければならないような立場に

あった人物がここでようやく顔を出す。その果て、グループ中核のJR東日本の

初代社長に就任したのが元運輸事務次官の住田正二と来れば、もう訳が分からない。

こうした人事を誰が采配したのかが問題なのではない、役人としての彼らの振る舞い

それ自体にこそ焦点が向かわねばならない。政治主導の物語を描き出すために

官僚がなきもののごとく遇される、グロテスクという以外にどう形容できようか。

 そうして本書をさらい直すと、現在なお続く社会の基礎インフラとしての国鉄(JR

第三セクター)に定められたといってよい、構造不良問題が見事なほど書き換えられて

しまっている相に否応なしに気づかされる。合理化を阻む抵抗勢力としての労組、

旧経営陣の処遇へと負債はいつしか集約される。しかし事実はそれとは著しく異なる、

つまり国家百年の計としての運輸省主導の設計思想にこそ、その根幹は横たわる。

 にもかかわらず、その点はほぼ蔑ろにされ、「裏日本」の過疎をめぐる主題は単に

日本列島改造論の頓挫とすり替えられ、終始、運輸省は姿を現すことがない。

 

 ある面本書は新しい、何せインフラの話をインフラなしで済ましてしまうのだから。

 なるほど確かに、政治劇への拍手喝采は86年衆参同時選空前の大勝を招いた。

そのドキュメントとしては成立している。

 とはいえ、劇は劇、リアルはリアル。

 そして結果、「平成」なる失われた30年に大いなる示唆をもたらし得たであろう

この「昭和」の試金石は、秘めたる教訓をまるで引き出されぬまま終わる。