藪の中

  • 2017.09.09 Saturday
  • 21:01

「わずか150年ほど前まで、日本にはミルクを飲む習慣も、流通させるしくみもなく、

洋牛もいなかった。近代になってミルクを受容する意識や習慣が形成され、需要・

供給の構造が作られていったのである。

 ミルクが普及していったプロセスをたどると、生産や消費に関わった多様な人々の

姿がうかびあがってくる。ミルクという切り口から、近代社会の特徴を多面的に掘り下げて

いくことが可能で、ミルクは格好の社会探索のツールである」。

 

 かつて築地で乳牛が飼われていた時代があった。

 時は明治元年、明け渡された江戸城で差し押さえた物件のひとつが白牛だった。

 経済に通じた役人、由利公正(のち東京府知事)は、この牛で居留地の外国人向けに

商うことを提案し、そして見事、狙いは的中する。

 日本の畜産は、実にこうして端緒を切った。

 

「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった」。

 この「僕」とはなんと芥川龍之介、関東における乳業の旗手・耕牧舎の実務を担ったのが

実父、新原敏三であり、そのパトロンはかの渋沢栄一だった。

 

 災害は産業構造の転換をしばしば促す。

 牛乳の供給モデルを激変させたのは関東大震災だった。

 ただでさえ乳幼児の死亡率の高さに悩まされていたところで地震が襲う。発生から

わずか9日にして、被災者の乳幼児らに無償配布され、以後、栄養価の高い牛乳の

安価で大量の供給を求める動きが加速する。

 

 とりわけ明治期の描写においては、資料の不足等もあるのだろうが、パーソナルかつ

局所的な物語に着目するあまり全体像が把握しづらい、とかネガティヴな要素をいろいろ

並べることだってできる。

 だが、本書の記述はどうとも無性に面白い。

 明治維新という変動の中での起業の物語として胸躍る。産業モデルが切り替わっていく

さまは、単に牛乳や周辺の業界を超えた何かが写り込んでいるようで、欧米系の史学の

テキストさながらに、時の縮図を垣間見るスリルに満ちている。

 単に福祉政策や食品産業の枠を超えて、日本史の1ページとして楽しめる一冊。

「日本国民統合の象徴」

  • 2017.06.23 Friday
  • 22:35

「戦後70年の皇室の歴史において、ここ10年余、皇位継承問題、皇族減少問題

(女性宮家創設論)、そして『生前退位』問題と皇室典範の制度疲労が一挙に露呈

した感がある。いずれも速やかな解決が求められる喫緊の課題である。

 こういう時だからこそ、逆に原点に立ち返り、『日本人にとって皇室とは何か』、

『皇室がなくなったら、日本はどうなるのか』を問い返してみるべきであろう」。

 

 本書がまず伝えるのは、2つの「外圧」に従って変容を遂げた皇室の歴史。

 

 第一の「外圧」とはすなわち、古代日本の律令制の時代、中国によるもの。

 当時の中国において、周辺諸国の文明度を測る尺度と言えばただひとつ、「中国化の

進展度」に他ならず、程度が低いと見なされれば、「化外の地」として、「徳化」の名の下、

軍事投入をも辞さなかった。

 かくして自国の安定を図るべく、中国文化の摂取に励む時の日本の中央集権化を

率いたのは稀代の中国通で鳴らした藤原不比等。血みどろの抗争劇に示される

天皇親政から、「大宝令制」の導入により、朝廷と官僚の棲み分け、現代風に言えば

権威と権力の分離への移行が果たされる。

 

 そして第二の「外圧」とは江戸幕府末期、ペリーの来航に端を発する。

 不平等条約という「屈辱を乗り越えるため、天皇を中核として朝廷、幕府、諸藩が

立場を超えて立ち上がることが急務であった。幕末においては、かかる国是こそが

尊王攘夷論にほかならない」。

 かくして天皇が再び政治のキーパーソンとして表舞台に立ち、やがては大政奉還、

大日本帝国憲法への道筋を得る。

 

 そして現代、後継問題という「内圧」によって皇室は岐路に立たされる。

 

「即位に際し、陛下は日本国憲法の遵守を誓われ、象徴の立場から国民に寄り添いつつ、

皇后陛下とともに熱心に公務を果たされてきた。よって大多数の国民が、天皇皇后

両陛下に対し敬慕や感謝の念を抱いていることはまちがいない」。

 なるほど、そうだろう。

 しかしこの念は果たして「天皇」という機能に由来するものなのだろうか。稚拙な感情を

隠そうとしない権力の頂とはおよそ対照的に、権威の重責を誠実に完遂せんと努める

一個人の人間性への尊敬に他ならないのではなかろうか。

「天皇や皇室がもつ統合力は日本人の精神構造に根づき、日本の社会の絆として

有形、無形に大きく作用してきた」と筆者はあくまで訴えるが、その反証は明治天皇の

地方巡幸という教化キャンペーンを示せば足りる。『日本書紀』や『古事記』に基づく

「天皇中心の神の国」論とて「人間宣言」をもって終わりを告げた。

 

 戦後、昭和天皇は転向と平和の「象徴」となった。今上天皇、皇后は家父長制に

背を向けた新たなる家族像の「象徴」となった。現皇太子妃は成婚時においては、

その華々しいキャリアから女性の時代の「象徴」となり、そして今、重圧に耐えかねてか、

公の場からはほぼ引きこもり、息女は拒食に苦しんでいる、という。そんな病める時代を

「象徴」する皇室は、次にいかなる未来を「象徴」するのだろうか。

「自己植民地化」

  • 2017.06.16 Friday
  • 22:44

 言語の違いとはすなわち世界の見え方の違い。

 例えば『プルーストとイカ』が教えてくれること。

 

「本書のタイトルとしている『英語の帝国』とは、英語がイングランドから発して、まず

ブリテン諸島(イングランド、ウェールズ、スコットランドのブリテン島とアイルランド島

およびその周辺の島々からなる)に広がり、ついで、ブリテン帝国(いまはアメリカ

合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドとなっている白人が移住した領土に、

異民族支配型のインドやアフリカを併せた広大な領域)に達して、さらには、それ以外の

文字通りグローバルな地域に拡大した英語圏を指す。

 したがって、本書は、地域的には、グローバルな地域を視野に収めるとともに、

時代的にも、イングランドに英語と呼ばれる言語が出現した古代の終わりから、

中世、近世、近代、現代をカバーする長期にわたって、英語の世界的な普及を見る」。

 

「○○語を話す能力、母語とすることは日常の慣習的な使用と関連しなくなる。なぜなら、

両親は○○語を子供の将来の障害になると見なすようになり、周到に家庭から追放した

からである。両親は最低限の野心を持った子供には格好の道具となる英語の習得を望み、

可能な限り、学校では、もっぱら英語教育がなされることを望んだ」。

 本書におけるこの伏字はアイルランドを指す。19世紀の愛国版寺子屋、生垣学校を

めぐる叙述、ただし現代、この○○に日本を代入しても、たぶん少なからぬ保護者たちの

意識を反映するだろう。

『英語の帝国』、まず何よりもこの見事に過ぎる表題に快哉をあげずにはいられない。

 もちろん、本書では一方でトップダウン式にイングランドが領地の母語を駆逐していった

様子も描き出される。典型的にはスコットランド、ハイランドとローランドにおける「野蛮」の

応酬は、ゲール語−カトリック対英語−プロテスタント(国教会)の対立図式として現れる。

 とはいえ、背に腹は代えられない。言語の障壁が持つ経済的な機会の逸失は耐え難く、

アイルランド語への抑圧や使用罰則は、「何らかの法律とか公的な規則の所産ではなく、

人々の集団行動としての社会的な自発的運動の所産であった」。彼らはボトム・アップで

進んでアイルランド語の「自殺」を選択した。

 そして、こうした「帝国」支配の系譜は至るべくして明治の極東を襲う。

 

 1961年、マケレレ会議なる席上で、とある「信条」が採択される。

「英語は英語で教えるのがもっともよい。理想的な英語教師は英語を母語とする話者で

ある。英語学習の開始は早いにこしたことはない。英語に接する時間は長いにこした

ことはない。英語以外の言語の使用は英語の水準を低下させる」。

 そしてこの線をなぞるように、現代日本の教育は構築される、これら原則の反証例は

教育心理学や実践の現場から数多挙げられているにもかかわらず。

「『英語の帝国』の歴史を知ったからといって、子や孫がうまく英語を話せるようには

ならないが、いまの過剰な『英語熱』を冷静に考え、『自己植民地化』から免れるヒント、

過去を見据えて未来を展望する一助くらいにはなるだろう」。

 歴史に学ぶことすらできない無能が子どもの未来をしたり顔で憂う、あな恐ろしや。

「若者のイスラエル離れ」

  • 2017.05.05 Friday
  • 20:46

 二極化する世界の中で、ユダヤ人コミュニティとてその例外ではいられない。

「イスラエルのユダヤ社会は過去20年ほどの間に、右傾化を強めている。特に

目立っているのが偏狭とも言えるナショナリズムが台頭していることだ。その結果、

リクードを中心とする右派政党が政権を握り続け、国際社会の批判にもかかわらず

占領地における入植活動や人権を軽視した占領政策を続けている。/一方、

米国のユダヤ人の多くは、自分たちがマイノリティであるだけに、多元主義や

少数者の権利尊重などリベラルな価値観を重視する傾向が強い。……二つの

ユダヤ社会の間でいったい何が起き、それが両者の関係やイスラエル・ロビーの

あり方、さらには米・イスラエル関係にどのような変化をもたらしているのだろうか。

この問いに対する答えを見つけ出すことが本書の目的である」。

 

 本書で紹介される数字の一部を引くだけで、その興味深さを窺い知ることができる。

 例えば「神はイスラエルをユダヤ人に与えたと思うか」とのアンケートへの回答、

ユダヤ人の40%が是とする一方(そしてそれ以前に28%はそもそも神を信じていない)、

米国のクリスチャンは同じ問いに対して55%もの賛成票を寄せる。さらにセグメントを

白人福音派に限定すれば、その数値は82%にまで上昇する。

「キリスト教シオニストからすると、現代のアラブ・イスラエル紛争は神の計画による

『正』と『邪』の戦いであり、イスラエルとそれを支持する自分たちは『正』、イスラエルの

存在を受け入れようとしないイスラーム教徒は『邪』となる」。

 あるいは「若者のイスラエル離れ」を示唆するデータ、例えば2014年のガザ地区での

衝突をめぐる在米ユダヤ人へのアンケート、「どの世代もイスラエルの軍事攻撃への

支持が多かった。ただ、40歳以上であれば支持が80パーセントを超えているのに対し、

3039歳では76パーセント……30歳未満では65パーセントにまで減少している」。

 そして、イスラエル国内で行われた類似の調査と比較すれば、双方の民の乖離もまた、

鮮明化する。「ユダヤ人回答者の92パーセントがイスラエルの軍事攻撃を『正当』と

捉えていた。さらにイスラエル軍が使用した軍事力の程度についても、『適切』という

回答が48パーセントと最も多いが、『過少』という回答もほぼ同数の45パーセント……

逆に『過剰』という批判的な回答はわずか6パーセントに過ぎなかった」。

 

 当然、巷に溢れる荒唐無稽な陰謀論に与するものではない。

 論理立ても明快で、とてもよくまとまったテキストには違いない、ただし本書の概要

それ自体は、佐藤唯行『アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか』に果てしなく重なる。

もちろんこの間に起きた情勢の変化を盛り込んで、多少の更新も図られてはいるが、

残念ながら大筋にさして目新しいものはない。

 幸か不幸か、2016年の本書に風雲急を告げるD.トランプの予感はまだない。間もなく

アメリカ大使館はテルアビブからエルサレムへと移されるだろう。絶大なる信頼を寄せる

義理の息子、J.クシュナーが敬虔なユダヤ教徒だというのはさて偶然だろうか。

「ポスト身分制社会」

  • 2017.04.14 Friday
  • 21:24

「本書は以下の三点を柱に、自由民権運動を見ていく。/第一に、自由民権運動とは、

江戸時代の社会(近世社会)の解体のなかから生まれてきた運動……近世身分社会に

かわる新しい社会を、自分たちの手で作り出そうとする運動なのである。……第二に、

近世社会が終わったのは、戊辰戦争という内戦を通じてであった。だから、近世社会に

かわる社会の構築を目指す自由民権運動は、戊辰戦争に大きく規定されている。……

第三に、明治初めという時代には、近世社会にかわる社会を、どのような手段で、

どのような手続きで、またどのような社会として構想するか、という点について、多様な

考えが存在したということである」。

 

 安部公房の異色作に『榎本武揚』なる小説がある。

 このテキストの中で、榎本もしくは安部は、戊辰戦争が、天皇か、将軍か、いずれの

「父」を選ぶ戦いに過ぎないことを喝破する。彼らが目指すのは、上下規律からの解放、

共に歩む民主主義社会の構築に他ならない。

 

 本書もまた、そうした問題軸をなぞるかのように議論が展開される。

 河野広中を典型に、江戸の崩壊をガラガラボンの大チャンスと捉えた者たちがあった。

すなわち、旧来の身分制度に代わり、論功行賞によって下剋上を期待する、つまり、

顔ぶれと仕組みが多少変わるだけで、上下関係という構造自体は当然に保たれる。

覆すべきはまさにその構造に他ならないことに思い至る民など、そこにはなかった。

「少し想像をたくましくすることを許されるならば、……民権家の訴えを聞いた人びとは、

それを新しい組織に加入すれば武士のような支配者の地位につくことができ、安楽な

暮らしを送ることができるようになる、と受け取ったのではないか」。

 

 終わってみれば、ヨーロッパ近代革命は、上下を規定する権威を血筋や宗教から

金の多寡にすり替えただけだった。

 自由民権運動を頓挫させたものはつまるところ、金だった。

 松方デフレの不況下で、負債にあえぐ農民たちと手を組んで、「民権乞食」と揶揄された

自由党の一部勢力は「最後の手段」に訴えた。

 抽象極まる理念や思想には、結局のところ、共有すべき実態なんてどこにもなくて、

それに比して、利権構造の何と強靭たることか。

 自由党崩壊のトラウマが星亨を明治期の汚職政治の権化、「醜類の首領」たらしめたとの

筆者の見立ては、なるほど鋭い。

 

 例えば現代の中東を思う。フセインなきイラクにおいて、少なからぬ国民が夢見たのは、

自らが被支配から支配へと回り、旧政権の豪奢を味わうこと。理不尽は他人になすりつけて

しまえばいい、かつて自分がそうされたように。上下の解体など、誰も望んでいなかった。

ウサマ・ビン・ラディンの求心力とて、金の他になかった。 

 他人に寄せる信などない。この世の沙汰は金次第。 

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