ジョーカー

  • 2019.09.12 Thursday
  • 22:13

 まなぶはまねぶ。 

 歴史を学ぶ意義とは、同じことしか起きない世界の退屈さを知ることにある。

 ただしそれは、その枝分かれの先を予知するための技術でもある。

 

「あの時代、どこもかしこも暗闇だった。慈悲の門はすべて閉ざされ、開かれた扉は

天にも地にもないように思われた。殺しを行なう者、死んでいくユダヤ人。そのとき

外の世界は、迫害に加担するか、無関心になるかだった。しかし、わずかながら、

思いやる勇気をもった人びとがいた。

 この一握りの人たちは、力があったわけでも、後ろ盾があったわけでも、恐怖心が

なかったわけでもない。それなのになぜ、他の人びとと違うことをしたのか。なぜ、

危険や苦悩はもとより、死の危険さえかえりみず、人としての道を選んだのか。なぜ、

自分の命を危険にさらしてまで、ユダヤの子ども一人、母親一人を救おうとしたのか。

 これら一握りの人たちに、われわれは深い尊敬と驚異の念を覚える。そして、数々の

疑問がわく。なぜ、もっといなかったのか。悪に反対することは、それほど覚悟の要る

ことだったのか。ほかの人は本当に助けることができなかったのか。組織的、系統的、

合法的な残虐行為、殺人行為に抵抗して、犠牲者を、たった一人の犠牲者を気遣う

こともできなかったのか。忘れるまい。犠牲者をもっとも傷つけるのは、抑圧者の

残虐行為ではなく、傍観者の沈黙だということを」。

 

 この証言録が伝えるメッセージは驚くほど単純だ。

「そこに、人間らしい人がいなかったら、あなたがその人になりなさい」。

「人を職業や宗教で判断しないで、人となりで、人間としてどういう人かで、

判断しなさい」。

「少なくともここでできることをする、何かする、何か手伝う」。

 そしてただちに理解される、こんなことさえも自明でなくなってしまった時代を、

本書の復刊を必要とするような時代を、今まさに生きているのだということを。

 黒人が黒人だというだけで白人警官に銃殺される。ムスリームだというだけで

ローン・ウルフの標的にされる。雇用の調整弁として散々こき使われてきたのに、

不法入国という絶好の口実をもって親子が引き離される。「10人に1人は要治療」が

たとえ真実だとしても、そのことが国籍のみを理由に残りの9人を巻き添えにして

構わないという理由にはならない。当然、国籍は暴行の正当化事由にはならない。

 歴史の相から覗けば明らかに、予兆を告げるカナリアの段階は既に通り過ぎた。

世界の底が抜けているという事実は、ただし自身がレイシストの列に加わることを

いかなる仕方においても肯定しない。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」

  • 2019.08.09 Friday
  • 22:08

「本書は、純粋な技術史・建築史の研究でもなければ、フィクションのテクストから

『エレベーターというモチーフ』を抽出する文学研究でもない。むしろ、小説や

戯曲だけでなく、法令、建築・工学論文、医学論文や衛生ハンドブックなど、

さまざまなテクストに基づいて、特定の時代において何が建築物の『イメージの

秩序』とみなされるのかを明らかにする。19世紀から20世紀への世紀転換期に、

多層住宅やオフィスビルに対する人々の集合的イメージはどのように変化したの

だろうか? 技術的な装置であるエレベーターは、建物内部の出来事や、

空間と人の分配についての言説にどのような影響を与えたのだろうか?

ミシェル・フーコーに倣って、この無謀な企てを、エレベーターに関して建築について

語られたこと(言表)の『考古学』と呼ぶことができるかもしれない」。

 

 カフカ『審判』の「建築秩序の中で非常に困惑させられる特徴のひとつに、

屋根裏の事務局がまったく驚くべき場所とつながっていることがある。登場人物の

構成が一望できない」。現今の常識に照らせば、上層階へと近づくほどに権力機構の

中枢、伏魔殿が広がる図を想定しつつ、小説を読み解いていく誘惑に駆られる。

 しかし作家が仮託した意図はおそらく違う。ベルリンの衛生当局のまとめた統計が

その事実を示唆する。曰く、住人の「死亡率が最も低いのは主要階である二階で、

……そこから上下に行くにつれて死亡率は増加する」、言い換えれば、「地上階や、

12階上の住居は普通で、半地下住居と5階以上にある住居は普通ではない」。

 つまり、彼が屋根裏に求めたイメージは「普通ではない」、事務局の立地において

見出されるべきは青天井というよりも、底なし沼。

 

『ラプンツェル』を思い出せば話が早い、天へと延びる塔は社会を隔てられた

孤独な寓居を象徴した。対して現代、その住人は世俗を見下ろす、見下す、

そうして富を吸い上げる。社会的地位や年収を表す形容詞に高いか、低いか、

という語が割り振られることを思えば、誰がこの価値づけに疑問を持つだろう。

ホテル、マンション、オフィス・ビル――いずれをとっても、頂へと向かうほどに

その価格は文字通り上昇する、あるいは高騰する。

 こうした現代的なパラダイムをエレベーターの普及がアシストしただろうことは

想像に難くない。この利器がもたらしたのはヒエラルキーの可視化だけではない。

ボタンひとつで各階に止まる、「それによって多層建築は、それぞれに独立した

平面の連なりへと決定的に変容したのである。エレベーターは垂直性の分割を

生み出した」。かつての階段が担保しただろう連続性はここにおいて分断される。

 

 棲み分けを担保するエレベーターは、ただし縦断という性質を通じて寸刻、

この階級制の無効化を企てる。そして人間は徹底的に抗う。

「都市部での人との交流――多くのつかの間の邂逅――には、知覚に一種の

鎧をまとわせること、つまりコミュニケーションを避ける技術が必要となる」。

かくして「エレベーターボックスは、都市生活の生態学にとっての一種の実験室」を

提供する。行動心理学の先駆けとも呼ぶべきある研究が明かすに、「最初に

乗り込んだ者が、コントロールパネルに近い隅か、奥の片隅を占める。次の者は、

一般に最初の者がいる場所とは対角線上にある隅を取る。三番目と四番目の者が

残りの隅に行き、五番目の者は壁際の真ん中に行く」。

 

 こうした「他人とできるだけ距離を取ろうとする自省の表れ」を剥奪するのが、

フィクションにおいて描かれるエレベーターの故障、閉じ込めシーンである。

「公的な事件統計の値にはまったく現れない」、ただし作家にはやけに好まれる

このシチュエーションに託されるのは「世俗社会の告解室」、その典型が映画

『ユー・ガット・メール』。例によって封じられたアパートメントの住人たちは、

「長い時間が経ち、何もすることがなくなると、次第に落ち着きを失っていく。

結局、彼らは輪になって座り、一人ずつ、この不幸な状況から救い出されたら

自分の人生で何を変えたいと思うかを語り始める。この会話の状況は、ここで

一つには太古の文化モデルを思い起こさせる。それは、死の危険から逃れる

ために語りが生まれるというもので、短編小説の原点にある『千夜一夜物語』や

『デカメロン』においてすでに披露されている。もう一つには、エレベーター内の

儀礼的行為は、まったく文字通り告解を思い起こされるものである。というのも、

中に閉じ込められた人々は一人ずつ順番に、昔の人生の罪の浄化を請い、

救出されたあかつきにはより良く生きることを誓うからである」。

 彼らは一度天へと召され、そしてその後地上に再び降臨する。

 何たる奇跡か、エレベーターに乗るだけで、キリストの復活は追体験できる。

密林の語り部

  • 2019.05.10 Friday
  • 23:12

「歴史のなかの語ること、聞くこと、書くことに関心をもち、戦前から戦後の日本の

歴史を訪ねてみた。すると、そこには、文字を中心にした今までの歴史では見えて

いなかった大変に興味深い世界がひろがっていた。語り手や聞き手の声が聞こえる

世界であり、沈黙や表情を含め、生身の人間同士が向き合った歴史の場面であって、

人びとの生きられた歴史を垣間見ることができる。聞き手は自らの登場の有無を含め、

さまざまな工夫をして書きとめていた」。

 

 能の世界にシテ−ワキなる概念がある、という。異界から降臨せし神や霊に

扮するいわば主役がシテ、そのかたりを受ける現世の聞き手がワキ。

 本書の議論にふとそんなことを想起する。あるいは夢幻にすぎぬかもしれない

過ぎ去りしもの(過−去)を表出させる仲立ちを「聞く」という装置が担うことで、

時に束の間、今ここにある何か(現−在)よりも生々しい場が現に与えられる。

そんな〈現場〉を成り立たしめる要件は、語り手(シテ)の記憶のみでは足りない、

聞き手(ワキ)とのコミュニケーションをもって瞬間うごめき、そして消える。

 オーラル・ヒストリーにおいて、史料研究の垂直性はひとまず括弧に入れられる。

ここにおける稼働原理は、〈現場〉の共有という水平性。主か従か、記録か記憶か、

正か誤か、という二択ではなく、そもそも違う。

 語り手にとってはしばしば「時間にそって経験があるのではなく、経験のなかで

時間がつながり合」う。過去という記憶のフォルダーは必ずしも時間的な近接性に

従って配列されない。たとえ主観による経験の因果律が時間軸を裏切ろうとも、

不可逆の時間の堆積を辿るばかりが歴史ではない。

 もちろん、このアプローチにポスト・トゥルースにも通じる危うさがある点は

議論の余地はない。とはいえ、自らの体験を聞いてくれる、聞かせてくれる誰かの

いる社会と、壁や液晶に向かって妄想をこじらせるより他にない不安型社会の

どちらによりまともさを見出すことができるだろうか。真偽の前にまず生き方に

ついて、それこそが逆説的にパラノイアを遠ざける。

 鶴見俊輔は指摘する。「きくということは、書いている本人が、自分以外の

人びととのかかわりにおいて生きるという姿勢を自覚してるからこそ、なりたつ。

人との関係において生きるということが、考えをのべる前提になっている」。

 主題は過去ではなく現在、ここにおいて歴史学は換骨奪胎された。

風見鶏

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:20

「国鉄の経営が単年度赤字に陥ったのは、東海道新幹線が開業した昭和39

1964)。それから20年余。公共企業体『国鉄』は、労使の対立と同時に、労働組合

同士のいがみ合い、国鉄当局内の派閥抗争、政府、自民党内の運輸族や、組合の

支持を受けた社会党の圧力などが複雑に絡み合い、赤字の解消や経営の合理化

などの改革案は常に先送りにされ続けた。その結果、莫大な累積債務を抱え、

ついに『分割・民営化』という“解体”に追い込まれ、7万人余の職員がその職場を

失うことになったのである。

 国鉄当局も組合も、いずれ政府が尻拭いするだろうという甘い『親方日の丸意識』に

安住し続けた。これを打破し鉄道再生を図ろうと、井手正敬、松田昌士、葛西敬之の、

『三人組』と呼ばれる若手キャリアを中心にした改革派が立ち上がり、『国鉄解体』に

向けて走り出す。その奔流は、国鉄問題を政策の目玉に据えた『時の政権』中曽根康弘

内閣と、『財界総理』土光敏夫率いる第二臨調の行財政改革という太い地下水脈と

合流し、日本の戦後政治・経済体制を一変させる大河となった」。

 

 本書が試みんとするのは「国鉄維新」史観。経営陣、労組、政界――やがて民営化を

もってひとまずの終焉に至る国鉄史の叙述が臨場感をもって語られる。

 しかし読むほどにどうにもその違和感が深まっていく。肝心のステーク・ホルダーが

抜け落ちてはいないだろうか。

 そう、鉄道行政を司っていたはずの運輸省の動向がきれいに欠落しているのだ。

その奇怪さがいよいよ表出するのが1985年、「国体護持派」総退陣により新総裁に

就任するのが杉浦喬也、ほんの1年ほど前まで運輸事務次官の職にあった男だ。

第二臨調の提言を受けての分割・民営化への動きが加速する中で、本来ならば

キーパーソンとしてその言行が取り上げられていなければならないような立場に

あった人物がここでようやく顔を出す。その果て、グループ中核のJR東日本の

初代社長に就任したのが元運輸事務次官の住田正二と来れば、もう訳が分からない。

こうした人事を誰が采配したのかが問題なのではない、役人としての彼らの振る舞い

それ自体にこそ焦点が向かわねばならない。政治主導の物語を描き出すために

官僚がなきもののごとく遇される、グロテスクという以外にどう形容できようか。

 そうして本書をさらい直すと、現在なお続く社会の基礎インフラとしての国鉄(JR

第三セクター)に定められたといってよい、構造不良問題が見事なほど書き換えられて

しまっている相に否応なしに気づかされる。合理化を阻む抵抗勢力としての労組、

旧経営陣の処遇へと負債はいつしか集約される。しかし事実はそれとは著しく異なる、

つまり国家百年の計としての運輸省主導の設計思想にこそ、その根幹は横たわる。

 にもかかわらず、その点はほぼ蔑ろにされ、「裏日本」の過疎をめぐる主題は単に

日本列島改造論の頓挫とすり替えられ、終始、運輸省は姿を現すことがない。

 

 ある面本書は新しい、何せインフラの話をインフラなしで済ましてしまうのだから。

 なるほど確かに、政治劇への拍手喝采は86年衆参同時選空前の大勝を招いた。

そのドキュメントとしては成立している。

 とはいえ、劇は劇、リアルはリアル。

 そして結果、「平成」なる失われた30年に大いなる示唆をもたらし得たであろう

この「昭和」の試金石は、秘めたる教訓をまるで引き出されぬまま終わる。

CAN YOU CELEBRATE?

  • 2019.02.23 Saturday
  • 19:59
評価:
アントワーヌ・リルティ
名古屋大学出版会
¥ 5,832
(2018-12-25)

 本書の原題はFigures publique: l'invention de la celebrite 1750-1850

「著名性は、公共文化あるいは公共圏の衰退、さらには近代が約束するとされた

解放が忘れ去られたことを証明するようなものとして現代に新しく生じたのではなく、

まさに近代社会の際立った特徴であり、ほとんど不可能なまでに巨大化し、つねに

その正当性を脅かされる危険をはらんだ近代社会に見合った偉大さの形式なのだ

……そのことを証明するために、私は著名性の最初の時代を描写することに専念

したい。……階級社会の危機、文化の商業化の始まり、印刷物ときに定期刊行物の

大規模な飛躍、少なくとも理論上ではあるが人民主権の確立などといった近代性の

主な特徴がここに登場しているのである。著名性の歴史にとってとりわけ重要な

意味を持つのは、現実そして原理としての世論と、個人の純粋性を要求する自我の

新しい理想とが連動して登場したことである」。

 

「著名性celebrite」なる語は18世紀の「発明」を待つまでもなく、ラテン語celebratus

由来を持つ。celebrationと語源は同じ、宗教や貴族の「荘厳な儀式」から、その場に

立ち会う人々へと意味は拡がりを含む。「ある場所に人々がたくさんいること」や

その絢爛を示した語はいつしか、「ある場所に」いない「人々」、生涯に一度として

まみえることのない「公衆」の視線のその先を指す語へと用法を変えた。

 

 フランス語にfemme publiqueなる成句がある。

 一般的な用法に素知らぬふりを決め込んで直訳すれば、公的な女性、典型的には

王妃マリー・アントワネット。「国王はつねに表象であり、絶えず主権を具現していると

いう意味において、国王の生活は完全に公的なものであった。ラ・ブリュイエールは

そうしたイデオロギーを表すものとして次のような言葉を残している。『国王に欠けて

いるのは、甘美な私生活だけだ』」。絶対王政の時代、なるほど彼らはすべてを見せた、

自らを公にさらした。「臣民は、物事の本質を見抜くことができないので、一般的に

外見に見えるものに基づいて判断を決定する」。国王たる者、「他の人と混同されたり

比較されたりするようなことがないほど、他の人より抜きん出て」いなければならない。

 ところが、マリー・アントワネットはこの伝統に背を向けた。お忍びで――とはいえ

家来を引き連れて――彼女はオペラ座を訪れた、自身を王妃と眼差されぬことを求めて。

クラシカルなドレスではなく時のモードをまとって舞踏会に現れた彼女は、不可触の

玉座を降りて、社交界の華として毀誉褒貶に自らを投げ入れた。

 例のfemme publiqueに話を戻す。辞書にあたれば、娼婦なる語彙が知られよう。

最新の「著名性」を身につけたやんごとなき方は、スキャンダルにまみれることで、

みんなの女、想像の上で夜な夜な誰とでも寝る女と化した。

 

『新エロイーズ』の成功は、ジャン=ジャック・ルソーをたちまち著名人へと押し上げた。

スイスの彼の日常がロンドンで記事になる。パリを訪れれば、立ち寄ったカフェに黒山の

人だかりができる。彼のテキストを開いたこともない人々が、名前の放つスペクタクルに

魅せられて狂喜乱舞する。

「彼のすることなすことが、他の人とはまったく異なる」。「著名性」を意のままに操り

体現していたこの論壇の炎上王が、ところがあからさまに「著名性」を投げ捨てる。

 かつて彼が夢見た「著名性」とはすなわち、「公衆や善意を持った読者たち」と

つながるチャンネルだった。「公衆は理性によって判断する」、1761年の幸福な宣言は

翌年の『社会契約論』における「一般意志」と「著名性」の連関を必ずや示唆する。

 しかし最晩年、『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』に至って、公衆像は完全に覆る。

「公衆は目くらましされて、何でも信じ込んでしまうような存在であり、信じやすい人間で

あることに幸せを感じてもいる。そして、彼らは虚偽のイメージが流布することに対して

奇妙で歪んだ満足を覚える。……このようなテーマのうちに、著名性のメカニズムの描写を

見ないわけにはいかない」。

 ここに至って、ハーバーマスの「公共圏」論とルソーが見事な共鳴反応を示す。

世界が啓蒙時代に唯一見た「理性の批判的使用」としての「公共性publicite」は、

革命の収束に伴い「メディア的・商業的操作」としての「広告publicite」に座を譲る。

ドイツ人政治学者のこのロマン主義は世界史にいかなる論拠をも持たず、ただし

この「ジュネーヴ市民」の「著名性」をめぐる精神遍歴叙述としては正鵠を得る。