「若者のイスラエル離れ」

  • 2017.05.05 Friday
  • 20:46

 二極化する世界の中で、ユダヤ人コミュニティとてその例外ではいられない。

「イスラエルのユダヤ社会は過去20年ほどの間に、右傾化を強めている。特に

目立っているのが偏狭とも言えるナショナリズムが台頭していることだ。その結果、

リクードを中心とする右派政党が政権を握り続け、国際社会の批判にもかかわらず

占領地における入植活動や人権を軽視した占領政策を続けている。/一方、

米国のユダヤ人の多くは、自分たちがマイノリティであるだけに、多元主義や

少数者の権利尊重などリベラルな価値観を重視する傾向が強い。……二つの

ユダヤ社会の間でいったい何が起き、それが両者の関係やイスラエル・ロビーの

あり方、さらには米・イスラエル関係にどのような変化をもたらしているのだろうか。

この問いに対する答えを見つけ出すことが本書の目的である」。

 

 本書で紹介される数字の一部を引くだけで、その興味深さを窺い知ることができる。

 例えば「神はイスラエルをユダヤ人に与えたと思うか」とのアンケートへの回答、

ユダヤ人の40%が是とする一方(そしてそれ以前に28%はそもそも神を信じていない)、

米国のクリスチャンは同じ問いに対して55%もの賛成票を寄せる。さらにセグメントを

白人福音派に限定すれば、その数値は82%にまで上昇する。

「キリスト教シオニストからすると、現代のアラブ・イスラエル紛争は神の計画による

『正』と『邪』の戦いであり、イスラエルとそれを支持する自分たちは『正』、イスラエルの

存在を受け入れようとしないイスラーム教徒は『邪』となる」。

 あるいは「若者のイスラエル離れ」を示唆するデータ、例えば2014年のガザ地区での

衝突をめぐる在米ユダヤ人へのアンケート、「どの世代もイスラエルの軍事攻撃への

支持が多かった。ただ、40歳以上であれば支持が80パーセントを超えているのに対し、

3039歳では76パーセント……30歳未満では65パーセントにまで減少している」。

 そして、イスラエル国内で行われた類似の調査と比較すれば、双方の民の乖離もまた、

鮮明化する。「ユダヤ人回答者の92パーセントがイスラエルの軍事攻撃を『正当』と

捉えていた。さらにイスラエル軍が使用した軍事力の程度についても、『適切』という

回答が48パーセントと最も多いが、『過少』という回答もほぼ同数の45パーセント……

逆に『過剰』という批判的な回答はわずか6パーセントに過ぎなかった」。

 

 当然、巷に溢れる荒唐無稽な陰謀論に与するものではない。

 論理立ても明快で、とてもよくまとまったテキストには違いない、ただし本書の概要

それ自体は、佐藤唯行『アメリカはなぜイスラエルを偏愛するのか』に果てしなく重なる。

もちろんこの間に起きた情勢の変化を盛り込んで、多少の更新も図られてはいるが、

残念ながら大筋にさして目新しいものはない。

 幸か不幸か、2016年の本書に風雲急を告げるD.トランプの予感はまだない。間もなく

アメリカ大使館はテルアビブからエルサレムへと移されるだろう。絶大なる信頼を寄せる

義理の息子、J.クシュナーが敬虔なユダヤ教徒だというのはさて偶然だろうか。

「ポスト身分制社会」

  • 2017.04.14 Friday
  • 21:24

「本書は以下の三点を柱に、自由民権運動を見ていく。/第一に、自由民権運動とは、

江戸時代の社会(近世社会)の解体のなかから生まれてきた運動……近世身分社会に

かわる新しい社会を、自分たちの手で作り出そうとする運動なのである。……第二に、

近世社会が終わったのは、戊辰戦争という内戦を通じてであった。だから、近世社会に

かわる社会の構築を目指す自由民権運動は、戊辰戦争に大きく規定されている。……

第三に、明治初めという時代には、近世社会にかわる社会を、どのような手段で、

どのような手続きで、またどのような社会として構想するか、という点について、多様な

考えが存在したということである」。

 

 安部公房の異色作に『榎本武揚』なる小説がある。

 このテキストの中で、榎本もしくは安部は、戊辰戦争が、天皇か、将軍か、いずれの

「父」を選ぶ戦いに過ぎないことを喝破する。彼らが目指すのは、上下規律からの解放、

共に歩む民主主義社会の構築に他ならない。

 

 本書もまた、そうした問題軸をなぞるかのように議論が展開される。

 河野広中を典型に、江戸の崩壊をガラガラボンの大チャンスと捉えた者たちがあった。

すなわち、旧来の身分制度に代わり、論功行賞によって下剋上を期待する、つまり、

顔ぶれと仕組みが多少変わるだけで、上下関係という構造自体は当然に保たれる。

覆すべきはまさにその構造に他ならないことに思い至る民など、そこにはなかった。

「少し想像をたくましくすることを許されるならば、……民権家の訴えを聞いた人びとは、

それを新しい組織に加入すれば武士のような支配者の地位につくことができ、安楽な

暮らしを送ることができるようになる、と受け取ったのではないか」。

 

 終わってみれば、ヨーロッパ近代革命は、上下を規定する権威を血筋や宗教から

金の多寡にすり替えただけだった。

 自由民権運動を頓挫させたものはつまるところ、金だった。

 松方デフレの不況下で、負債にあえぐ農民たちと手を組んで、「民権乞食」と揶揄された

自由党の一部勢力は「最後の手段」に訴えた。

 抽象極まる理念や思想には、結局のところ、共有すべき実態なんてどこにもなくて、

それに比して、利権構造の何と強靭たることか。

 自由党崩壊のトラウマが星亨を明治期の汚職政治の権化、「醜類の首領」たらしめたとの

筆者の見立ては、なるほど鋭い。

 

 例えば現代の中東を思う。フセインなきイラクにおいて、少なからぬ国民が夢見たのは、

自らが被支配から支配へと回り、旧政権の豪奢を味わうこと。理不尽は他人になすりつけて

しまえばいい、かつて自分がそうされたように。上下の解体など、誰も望んでいなかった。

ウサマ・ビン・ラディンの求心力とて、金の他になかった。 

 他人に寄せる信などない。この世の沙汰は金次第。 

情報化社会

  • 2017.04.12 Wednesday
  • 21:41

「本書で主要な研究対象とするのは、その通信メディア史上の重要な時代となる

1930年代に生まれた満州電信電話株式会社……である。満州電電は1933

9月に満州国において設立された電信・電話・ラジオ放送の電気通信を総合的に

管掌する日満合弁の国策会社である。本書は満州電信電話株式会社の電気通信

事業を包括的に明らかにすることで、東アジア通信メディア史上の空白を埋め、

1930年代の電気通信メディアの位置付けを明らかにする。それとともに、満州国に

おける総力戦体制とメディア文化政策への新たな示唆を与えることを目的としたい」。

 

 個人的にひときわ感慨深いのは、ラジオ史をめぐる叙述だろうか。

 国威発揚における放送メディアの重要性に着目したのはA.ヒトラーだけではない。

そもそも「満州ラジオが目指していたのも、複雑な民族構成を備えた満州国において、

『国家意識乃至国民意識の統一』、すなわち『満州国ナショナリズム』をすみやかに

形成することであった」。

 とはいえ、そこにはまず異なる言語という壁が存在する。かくして第一、第二との

区分が設けられるのだが、単に日本語を翻訳したものとしての満州語プログラムが

提供されたわけではない。重複は極めて限定的で、第二においては娯楽中心の

構成が取られ、「『建国精神』を喚起させる番組よりも『中国古典文化』に依拠した

番組が圧倒的に多かった」。その意図としては例えばラジオの普及や、エンタメが持つ

「秩序維持」機能があり、そして何よりも他国電波とのパイの奪い合い、ひいては

思想戦への対応という性格があった。

 

 敗戦とともに、満州電電は解散を余儀なくされる。

 しかし、ラジオの物語はそこで終わらない。

 かの地における実践経験が、戦後日本における民間放送局の開設、運営において

非常な貢献を与えることとなった。この活動を主導したのは電通、いみじくも満州での

情報工作にルーツを持つ企業だった。

 

「帝国ラジオ」を志向したはずが、実際に出来上がったのはむしろ、毛色の違いを

印象づけるだろうプログラム、統合の夢ははるか手前で頓挫した。

 メディアのありさまそれ自体が時に何より雄弁に属する社会の実相を伝える。

「はじあい」

  • 2017.04.07 Friday
  • 23:37

 時は1935年、「熊本県で一番小さな村」をあるアメリカ人夫婦が訪れる。

27歳の夫は、シカゴ大学で社会人類学を学ぶジョン・フィ・エンブリー。妻エラは26歳。

2人はシカゴ大学から日本農村調査のために派遣され、8月中旬に日本に到着した。

……2人は一目で須恵村が気に入り、程なく調査地として正式に決定。112日に

覚井部落に居を構え、12月で2歳になる娘クレアと3人の田舎暮らしがスタートする。

……アメリカに帰国後、ジョンは『Suye Mura: A Japanese Village〔日本の村 須恵村〕』

……を刊行。『須恵』の名を世界に知らしめた。日本が達者なエラ……も、共著者……の

助けによって、困難の中にも奔放に生きる女性たちを描いた『The Women of Suye Mura

〔須恵村の女たち〕』……を著した。……本書では、『須江村』の分析を軸に、『女たち』に

登場する村人の生身の言葉で補足しながら、エンブリーとエラのヒューマニズムを、そして

2人の感性に映じた須恵村を、具体的な暮らし方に即してもう一度現代によみがえらせて

みたい。そして、3年の間、須江に身を置いて分かった今の須江を報告することによって、

当時と現在の“記憶録”として、『協同(はじあい)』の物語を紡いでみたい」。

 

 私を含め、現代の日本人にはあまりなじみのないだろう『須恵村』、とはいえこのテキスト、

かのR.ベネディクト『菊と刀』に強い影響を及ぼした、という。夫婦が滞在した当時でさえも

軍国主義のきな臭さは立ち込め、片田舎にあってさえ時にスパイの嫌疑をかけられた。

帰国後のエンブリーは知日派として軍の重責を担うことともなった。

 しかし本書は、太平洋戦争秘史を明るみに出すことをその目的とするものではない。

 あくまで主題は『須恵村』であり『女たち』であり、彼らが日々の交わりから見出した

「文化の基底」としての「協同」のあり方にフォーカスは向かう。

 例えば「かったり」、農繁期における労働力の相互提供システム。あるいは「講」、

病や借金で首が回らなくなった村人のためにいわばファンドを組んで融通する制度。

そこにはしばしば祭りや酒の享楽が絡まり、しかし単純に義理人情へと解消されるでもない

計算のうごめく余地を見落とすものではない。

 そうした日常の細やかな観察は、いかに彼らが受け入れられていたかを同時に伝える。

 

 ただし、本書の惜しい点は、プライヴァシーやセキュリティなど難しい点はあるのだろうが、

筆者が実際に数年をこの地域で過ごしたというのに、そのあたりの描写があまりに淡白と

映る点だろうか。触れたとして、夫婦のテキストをひもとくついでにごく簡潔につけ足される

のみで、そもそも機会そのものが少ない。あるいは、もはや特筆すべき点が失われてしまった

暗示として受け止めなければならないのかもしれない。

 歴史に埋もれた古典を発掘するというだけで本書は既に一定の役割を果たしてはいる。

だがしかし、そこからさらに歩を進め、詳らかな日常描写とともに、今昔をシンクロさせた

新たなる『須恵村』を期待するのは無理難題なのだろうか。

絶望の国の幸福なリーマンたち

  • 2017.03.31 Friday
  • 21:19

「この本のテーマは『戦前日本の“ふつうの人”の生活感覚』である。具体的には、

大企業サラリーマンや軍人、女性店員などの平均的給料がいくらで、それで

どの程度の生活ができたのか、東京の家賃はどの程度の水準で、娘を嫁にやれば

どの程度の費用がかかったのか、といったミクロ情報に徹した」。

 

「戦前社会を現在とまったく継続性のない『別世界』扱いにしてしまうのはやはり

大きな間違いだろう」。

 事実、敗戦後の日本が目指した復興モデルはアメリカよりも何よりも、まずは

「昭和八年に帰ろう」。つまり、本書は単に当時の世相を知るよりも、戦前と戦後の

「継続性」を橋渡しするためのものとして読まれるべきなのかもしれない。

 例えば当時の受験事情、「戦前社会では全体の3割から4割しかいない中学

進学者の、そのまた1割しか旧制高校や大学予科に行かなかった」。このデータが

訴えるのは、単に進学の余裕もなく働かざるを得ない層の存在ばかりではなく、

その狭き門をめぐる過熱競争。そこには当然、学習塾のニーズもあれば、裏口や

賄賂などもはびこる。とはいえ、大学へとたどり着いた学生たちがみな勤勉な意欲に

燃え盛るわけでもなく、太陽族に先駆けて「猿の如く」街を跋扈し、「人のノートで

試験をパスする」輩のためのモラトリアム批判は既にしばしば語られていた。

 

 そして戦争へと至る経済困窮の影は、当然に市井の人々を直撃せずにはいない。

 例えば「資本主義は行き詰まっている訴えた29歳のサラリーマンは『自分の生活の

ためと、プチブル・インテルの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を

最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与できない』」。

 多少は景気回復の兆しを見せた昭和8年前後、しかし企業が言うに、「来るべき

反動期に対して、万全の策を講じておかねばならぬ。今日多少の利益は挙がっても、

宜しく将来のために蓄積するが、堅実なる実業家の執るべき方針である」、かくして

「空の上から手の中には何も落ちてこないのである」。

 とはいえ、就職難を免れて「『恵まれた』ホワイトカラーはますますおとなしくなって

いったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ」。

 沈黙は追認以外のいかなる事態も意味しない、たとえ当時の「インテリ及びサラリー

マン層が、毎日毎日どんなに憂鬱な、未来のない、明日の事を考えても仕方がない、

考えても解らない、だから考えずに、その日その日を唯送って行くと云った気分で

生きてい」たとしても。

 

 あえて本書への不満と言えば、より具体的な消費細目の情報だろうか。

 永井荷風などに依拠しつつ、風俗産業の価格や内容を明らかにしていく試みは

なるほど面白いのだが、こうした細心が全編に及ばない。典型的には、電気冷蔵庫の

普及も遠い当時において、人々はいったい何を食べていたのか、とか、家賃相場は

ある程度見えた上で、どのような条件に人々が高い金を払ったのか、とか。

 単に金額という定量的な数字だけでなく、具体的、定性的な記述がないことには

やはり観察として片手落ちとの感がどこかしてしまう。

 

 だがやはり、現代へと繋がる「継続性」の匂いはどうにも否定することができない。

 本書の驚きのひとつは、2006年のテキストの再版であるという点、2017年における

問題意識としてはむしろ自然とすら見える――というか、あからさまに過ぎるものと

受け取られるだろう――暗示の数々が、時代を先取りするように刻まれている。

 そしてここにこそ、未来へと生きる者が過去を照らすべき最大の理由がある。

 歴史は繰り返す、翻してみれば、世界は何も変わらない。

 いかに学びを得ようとも、それを生かす能力など、ヒトもどきのサルにはない。

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