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  • 2020.05.10 Sunday

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    Castles in the Air

    • 2019.07.17 Wednesday
    • 23:00
    評価:
    ケイティ ハフナー
    筑摩書房
    ¥ 8,794
    (2011-08-08)

     そもそも「ピアノの進歩は、むしろピアノのための作品を書いた人間とともに

    あったのであって、最終的にその作品を弾くことになる人間とともにあった

    わけではない」。19世紀のトレンドにおいて先鋭化したのは、「音をより大きく

    より遠くへ飛ばす能力、言い換えればそのような効果を狙って作曲された

    音楽に適応する能力」だった。

     グレン・グールドにとって、その潮流の何もかもが苦痛だった。彼に言わせれば

    「ロマン派の音楽は、テクニックを誇示したり、音楽的内容を犠牲にして音響の

    どんちゃん騒ぎをやらかしたり、……耳になじんだ大衆迎合的な狭く無難な

    レパートリーばかりを取り上げたりすることへの強い誘惑を作り出した」。対して

    「彼がピアノから引き出したかったのは、乾いた、澄明な、軽い音色だった」。

     あるコンサート・ツアーの道中、あてがわれたピアノへの我慢が限界に達した

    彼は、砂丘の車中で演奏を開始する。「心の中だけで、一本の指も動かさずに、

    ……のちに彼自身が語ったところによれば、そのときの車の座席での体験が、

    本当に音楽というものを演奏したと感じた体験だった」。

     そして同時に知らされる、「つまり、理想のピアノはないだろう」。

     ところが、求め続けた青い鳥は生地・トロントにいた。

    「鍵を押すと驚くほどに澄んだ音が鳴り、離した途端にずば抜けて効果的な消音

    メカニズムが働いて即座に音が止まった。多くのピアノで起こるような、前の音の

    余韻が消えずに次の音にかぶるようなことがなかった。そしてこれこそまさしく

    グールドの惚れ込んだところだった。自分の命令どおりに鳴ったり、鳴りやんだり

    して欲しかったのである」。

     

     とあるインタビューで「自分のテクニックについての話になったとき、こんな

    禅問答風の説明をしたことがあった。いつでもピアノのすべての鍵について

    自分なりの心的イメージを保持していて、すべての楽音の位置や、その位置まで

    手を伸ばし打鍵するときの所作を触覚として覚えているのだというのである」。

     彼にとって、ピアノのアクションとは楽譜の記憶を繋ぎ留めるリマインダーに

    過ぎなかった。だから「心的イメージ」への没入を妨げる他人の音には神経を

    とがらせこそすれ、自らのかき立てるノイズにはとことん無頓着だった。

    「グールドにとって、音楽創造は物理的なものではなく精神的なもので、どんな

    楽器にせよその物理的な制約を超越するものだった。彼の場合、その楽器とは

    ピアノで、それは演奏される作品と心の中に存在する作品との間で演じられる

    闘いを仲介するものだった」。

    「物理的」な世界の傍から見れば、ハミングも椅子の軋みもただの雑音、

    ただし彼にとっては、「精神的」な領域へと己を誘うためのルーティーン。

    録音スタッフを悩ませた、愛器の奏でる「しゃっくり」さえもいつしか彼の

    「友だち」となった。

     

     それはどこかロマンスにおけるグールドのあり方と相似をなしていた。

    とある人妻と恋に落ち、ただし彼女は結局、彼の「妄執」の対象を超えない。

    死後に発見されたノートは証言する。「この瞬間、自分はひとりの個人との

    日々の接触、あるいは心の支えとなる接触が不可欠だと感じている」。

    事実として、「物理的」な世界において両者の交流はとうの昔に途絶え、

    ただし、彼は「精神的」な世界における空想の彼女との「日々の接触」の

    記憶をしたためた。それは他の誰でもなく、彼女であらねばならなかった。

     

    「『要するに、ピアノは自分がそれほど大きな愛情を注ぐ楽器ではないという

    ことですよ』と、彼はリポーターに向かって語ったことがある。ただし、こうも

    付け加えていた。『生涯にわたってこれを弾いてきたし、これは自分の考えを

    表現する最適の手段なんです』」。

    Me Against the World

    • 2018.04.20 Friday
    • 23:10

    「数年前のある日、ものすごい数の曲をブラウジングしていた時、急に根本的な疑問が

    浮かんだ。ってか、この音楽ってみんなどこから来てるんだ? 僕は答えを知らなかった。

    答えを探すうち、だれもそれを知らないことに気づいた。もちろん、mp3やアップルや

    ナップスターやパイレートベイについては詳しく報道されていたけれど、その発明者に

    ついてはほとんど語られていないし、実際に海賊行為をしている人たちについては

    まったくなにも明らかにされていなかった」。

     

    「今世紀に入ってからは、自分のお金でアルバムを買っていない」。

     この告白に何ら悪びれたところはない。筆者は典型的な「海賊版の世代」の一人だ。

    さりとて、「音楽を盗んでファイルをシェアするのは違法」であることを認識していない

    わけでもない。

     ただし本書を限りなく面白いものに仕立てるのは、パブリック・ドメインやコモンズをめぐる

    ロブ・ロイどうこうなんて自己正当化ではなく、物語が描き出すイノヴェーションにこそある。

     

     今となってはデジタル音楽配信のスタンダードとなったmp3だが、その地位にまで

    この技術を押し上げたのは、彼ら「海賊」たちだった。

     強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ。優れた新技術の開発は、その領野の

    征服権を何ら担保しない。そもそもmp3は「ドイツ版のベル研究所」の片隅で、わずか

    6人のメンバーによってはじまった。やがて彼らは、音質においても、処理能力においても、

    次世代に相応しい傑作を生み出した。ただし決定的に欠けるものがあった。政治的奸智。

    天下のフィリップス擁するmp2と対峙するに彼らはナイーヴに過ぎた。

     かくして負け犬に成り果てたmp3を救い出したのが「海賊」だった。ウェブ黎明期の

    ファイル共有システムに最適の道具を突き止めた。ドイツの秀才の英知をもってしても

    こんな用途があろうとは想像だにしなかった。

     そして歴史はさらなる展開を用意する。ナップスターでmp3の利便性を知った大衆に

    マーケットは遂に絶好のデバイスを提供することに成功した。iPodだ。これを契機に

    Macintoshの栄光も遠い昔の斜陽企業が上昇気流を掴み取り、今や時価総額世界一。

     K.ブランデンブルクがつき、「海賊」がこねし天下餅、座りしままに食うはアップル。

    1995年に誰がこんな未来を予想できた?

     

     歌詞に込められるメッセージなんてとうの昔に出尽くした。オーディオから流れる音とて、

    人間の聴覚が感知できて、脳で処理できる範疇のものでしかない。つまり、あり合わせを

    つなぐだけのブリコラージュにクリエイティヴィティなんて代物が横たわろうはずがない。

     しかし、技術の選好をめぐる市場の気まぐれはあまりにランダム。ITバブル期に

    ミュージック・レーベルがこぞって投資に走り、そして焦げつかせた履歴が何よりも

    あからさまにその予測不可能性を教えてくれる。

     経済によるイノヴェーションへの適応要請が音楽産業に及ばないはずはない。

    「アーティストとレーベルは新しい収入源を探し続け、そのうちにバイラルビデオ、版権、

    ストリーミングサービス、音楽フェスへの出演はますます重要になってきた。2011年には、

    蓄音機の発明以来初めて、アメリカ人は録音された音楽よりもライブにおカネを落として

    いた。2012年、北米のデジタル音楽売上はCDの売上を上回った。2013年、会員制と

    広告制のストリーミング収入が初めて10億ドルを超えた」。

     退屈の同義語としての楽曲はただし、この上なくスリリングなシーンを展開してくれる。

     音楽は聴くためではなく、消費するためだけにある。

     もとより人間に創造力などない、できるのは技術が提示する時代に応答することだけだ。

    にぎやかな世界

    • 2017.09.01 Friday
    • 22:56

     本書は2008年の連続講演「ジョン・ケージ『433秒』を/から考える」のテキスト化。

     

      この連続講義ではもちろん、ケージの言ったことや書いたこと、さまざまな作品に

      言及はしていきますが、ジョン・ケージの全体像、彼がどういうことをなしえた人

      なのかをトータルに論じることが目的ではありません。……僕がやってみたいのは、

      ジョン・ケージが作曲した『433秒』という作品「を/から」考えるということです。

      この作品はいったい何を意味しているのか、いったいこの作品は何なのか、もう一度

      考えられる限り考えてみる、つまり「『433秒』を考える」ということが一つ。もう一つは、

      『433秒』という作品を足掛かりにして、どこまで思考を拡げていくことが出来るか、

      どこまで色んな多くのことを考えることが出来るか、つまり「『433秒』から考える」と

      いうこともやってみたい。

     

     ケージの作曲の契機としての「無響室の体験」というものをここに重引する。

     

      空っぽの部屋や空っぽの時間などというものはない。見るべき何ものか、聴くべき

      何ものかがいつもある。実際、沈黙をつくろうとしても、つくることなどできないのだ。

      ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は

      無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。

      私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、

      二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が

      働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた。私が死ぬまで

      音は鳴っている。そして死んでからも音は鳴り続けるだろう。音楽の未来について

      恐れる必要はない。

     

     良くも悪くも、講演はこの体験の堂々巡りに終始する。

    「音は鳴っている」、たとえ433秒にわたって「休止Tacet」していたとしても。

    「聞こえているのに聴いていなかった『音』を『聴く』ように仕向ける。あるいは、あなたは

    自分でも気づいていないまま、そうしているつもりもないままで、実はすでに『聴いて』いる」。

     筆者が幾度も繰り返すように、「聴くlisten」の「聞くhear」に対する、「音楽」の「音」に

    対する優位性を論じているわけではない。

     ただし、このロジックの延長は、ひとつの重要な宣言を孕むこととなる。

    「音楽家なんかいらない、窓を開ければいい」。

     

     窓を開ける。

     もう9月というのに朝方に喚き散らしていた蝉の声は消えた。

     夜、入れ替わるように、子どもの泣きじゃくる声が遠く聴こえる。ロールスクリーンが風に

    なびいて壁を打つ。うるさい。

     窓を閉める。

     PCの排気音がして、結局うるさい。

     

     いちいち有料で購入するまでもなく世界に溢れた、溢れる、溢れるだろう『433秒』

    ――「枠」をどうするのかは大問題だけれど――を作品たらしめるものといえば今や、

    そのほぼすべてが作曲家自身を含めた語りや解釈に他ならない。

     聴覚から視覚媒体への脱構築的変換作業としての『433秒』は、別の仕方で自ずから

    「音楽」の終わりを知らせる。それはあたかも視覚的、技術的探求のほぼ一切を放棄して、

    小学生レベルのなぞなぞ大会に日々励む現代美術とやらに似て。

     それも仕方がないのかもしれない。知覚や認識をめぐるまともな探求作業は、とうの昔に

    人間工学やITにその座を譲り渡してしまったのだから。理論知scienceとしての立場はおろか、

    実践知artであることすらやめてしまった芸術は、さてどこに次なる居場所を持つのだろうか。

    Yours Truly

    • 2017.05.25 Thursday
    • 21:44

    「ここ十数年の音楽業界が直面してきた『ヒットの崩壊』は、単なる不況などではなく、

    構造的な問題だった。それをもたらしたのは、人々の価値観の抜本的な変化だった。

    『モノ』から『体験』へと、消費の軸足が移り変わっていったこと。ソーシャルメディアが

    普及し、流行が局所的に生じるようになったこと。そういう時代の潮流の大きな変化に

    よって、マスメディアへの大量露出を仕掛けてブームを作り出すかつての『ヒットの

    方程式』が成立しなくなってきたのである。

     本書は様々な角度から取材を重ね、そんな現在の音楽シーンの実情を解き明かす

    ルポルタージュだ」。

     

    「史上最もCDが売れた年である1998年に比べ、2015年の音楽ソフトの生産金額は

    40%に過ぎない。6074億円から2544億円へ。この17年でおよそ3500億円の市場が

    失われた計算になる」。

     とはいえ、こうした数字を論拠に、音楽業界が時代の動向を掴み損ね、取り残された

    証左だ、などという安直な結論を本書は引き出すものではない。それどころか、こうした

    数字こそが、音楽シーンと社会の連動性を示唆するものに他ならないことを主張する。

     

     上記の通り、CDは売れなくなった。しかし、それだけの金が音楽コンテンツの消費から

    まるまる消え去ったわけではない。「CDよりライブで稼ぐ時代になっているのだ。……

    2015年の音楽ライブ・エンターテインメントの市場規模は3405億円。2010年からの5年間で

    2倍以上に市場が拡大した」。

     この背後にあるのは、いわゆる「モノ」から「コト」への体験消費マーケティングの隆盛、

    いみじくもライブ市場は恰好の仕方でそれを体現する。

     そしてその風景はしばしば、「参加型」の体験として実践される。会場内の聴衆に配布

    された無線型ペンライトやLEDリストバンドを「主催者側が無線通信を用いて光の点灯や

    点滅、色の変化を制御」することで、客席が視覚的にも「曲や照明や映像と連動」して、

    その結果「強い一体感が生まれる」。

     

     とはいえ、本書の骨子というべき社会構造の転換をめぐる議論に別段新しい話が

    観察されるでもない。率直に言えば、既知のフォーマットを音楽業界に落とし込んで、

    それをおさらいしただけのテキストという以上のものではない。

    ホモ・ルーデンス

    • 2016.12.30 Friday
    • 20:22

    「バイエル・ピアノ教則本は世界中で愛用されてきたのに、バイエルと彼の教則本に

    ついて確実なことが何もない。肝心なことは何も分かっていない。信頼できる情報が

    何もない。なぜ日本人はこんなにも長くバイエル・ピアノ教則本を弾いてきたのだろうか。

    誰も答えることができない。私が知りたいのはその答えである。日本の大切な文化の

    一つについて知りたいと思っている」。

     

     初版本を求めて、公的な記録を求めて、世界を飛び回る。そして往々にして空振る。

     輪郭さえも掴めないその旅程でも、確かな発見はある。訪れたドイツの出版社で

    カタログを閲覧する。「1900年発行のショット社の出版目録でバイエルの作品は最大の

    27ページを占め、ベートーヴェンの2倍以上、モーツァルトの5倍以上、シューマンと

    ショパンの約7倍である」。編曲であることを差し引いても、大御所と呼ぶに恥じぬ実績、

    それなのに伝記のひとつも書かれていない。ゆえに不在説や偽名説も飛び交う。

     探求を立ち上げて既に4年目、冬のマインツ、文書館で名前を検索にかける。

    新資料発見か、しかしまもなく落胆に変わる。「興奮して飛びついたカタログは

    99パーセント同姓同名の建築家バイエルのものだった」。ところがそんな失意の中、

    漠然と犯したとある言い間違いが思わぬ真相へと筆者を誘うこととなる。

     

     ある大胆な仮説を立てる。曰く、「バイエルは教則本である、という前提を破棄して、

    バイエルはお楽しみ曲集である、としてしまえば、番外曲は盲腸のようなもので、

    前時代の教則本の遺物のようなものでしかない」。

     音楽的素養に欠ける私には、その真偽は知れないが、少なくとも思ってしまう。

     意匠すらも受け取り手に伝わらずに今日まで来てしまったテキストって、どうなんだろう。

     

     ある面、本書のハイライトはエピローグにこそある。

    「脱稿で解放されたような気分になった私は、何の気なしにグーグル・ブックスの検索

    ボックスに『Ferdinand Bayer』と入れてみた。すると気になる記事が出てきた。以前には

    なかったものだ」。

     かくして筆者の作業はただの答え合わせへと変わってしまったかに見える。

    「たった数回クリックするだけです。それだけです。それだけのことで私の6年間が

    無意味になったのです」。

     なるほどこの旅路は、スマホ世代にしてみれば、ググレカスで終わってしまうような

    話でしかないのかもしれない。一連の費用を印税で回収できるのかさえ怪しい。

     しかし、筆者が遭遇したセレンディピティの興奮をネットはどこまで与えてくれるだろう。

     他人が拾ってきたデジタル情報を映し出すディスプレイを見て、果たして誰が「この日、

    この瞬間のために私は生きてきたのだ、と言いたいくらい」の情念を抱けるだろう。

     

    「知る」だけならば、いずれ情報の組織化は世界を覆ってしまう。

     しかし、「探す」ことの面白さを検索窓がもたらしてくれるかは、はなはだ怪しい。

    それが欲しければ、あえてPCやスマホを切ることくらい、未来にもおいて許されるだろう。

     役に立つ、金になる、それ以外には何もない小うるさいだけのサルどもに背を向けて、

    束の間、好きな音楽に耳を澄まし、好きな本を調べてみる自由くらい、人間にはある。

     無駄? だから何?

     かくして本書の主題は、フェルディナント・バイヤーから筆者へと変わる。