ダーウィンが来た!

  • 2017.10.12 Thursday
  • 22:43

「この地球には現在、200万種を超える多種多様な生物が棲みついている。驚くべきことは、

それらの生物がみな見事にそれぞれの得意とする技を駆使して、それぞれの環境に適応

していることだ。……こんな動物もいる。より多くの子孫を得るために、雌が生む子の性比を

操作するのだ。アカシカやキタオポッサムはその一例だが、これらの動物の雌は自分の

体調に合わせて合理的に雄と雌を産み分ける。ある種の寄生バチの雌はこのことにかけては

他の追随を許さない。体調わずか2~3ミリメートルのこの小さなハチの雌は、研究者が数式を

使って理論的に導き出した最適な性比で雄と雌を産み分ける。

 一体このような動物はどのようにして生み出されたのか。誰が創り出したのか。進化学は

このように目的にかなった合理的な生物の生物学的由来を追究する研究分野である。

本書はそれを一般向けに書き下ろした啓蒙書であるが、特にこれから生物学を学ぼうと

している高校生や大学の一般教養課程の学生などに読んでいただければ幸いである」。

 

 表題に「入門!」と銘打つだけに、そもそもの動物の分類やダーウィン進化論の基礎的な

ガイダンスから、非常に丁寧に書かれたテキスト。

 とはいってもやはり、抽象的、座学的な理論に終始するのではなく、実例が示されることで

興味は格段に惹かれる。

 例えば「ある種のコガネグモの雄は、自分自身を貞操帯として配偶者を防衛すると示唆

されている。この種の雄は雌と交尾を開始した直後に急死する。……例外なく起こることから、

遺伝的に組み込まれた自発的死であると考えられている。興味深いのは、雄の死骸は

あたかも貞操帯のようにその後雌の交尾器に付着したまま、雌について回ることである。

その間雄の死骸は他の雄との交尾を阻止する」。

 あるいは例えば「アオムシコマユバチはモンシロチョウの幼虫に寄生産卵するが、その

コマユバチに寄生産卵するヒメバチがある。この小さなヒメバチは、アオムシの体内にいる

アオムシコマユバチの幼虫に産卵管を突き刺し、そこに産卵する。/もっと驚くべきことは、

このヒメバチに寄生産卵するもっと小さいコバチがいることだ」。なるほど確かに、「これらの

動物は、他種との資源の競合を巧みに避け、これらの資源を占有することに成功している。

……しかしこのようにある特殊な環境要因に極端なまでに特化することは、長期的進化の

観点から見ると、大いなる危険に身をさらすことでもある」。

 

 そして時に話題は「入門!」を超えて、隘路に分け入ることもある。

「国立遺伝学研究所の木村資生(1924~94)は、分子時計がほぼ定速度で時刻を刻む

ことについて理論的に考察していた。……置換速度をDNAの塩基(ヌクレオチド)の

置換速度に換算し、それからゲノム全体で1塩基が置換するのに要する時間は平均で

およそ1.8年と算出した。/哺乳類の進化の中で、平均してわずか2年弱で1個の

塩基が他の塩基に置き換わるというこの進化速度は驚くべき速さである。実際それまで

標準的な速度の進化では、塩基(対立遺伝子)の置換は大まかに見て300世代に1回と

推測されていた」。木村はこのギャップの説明を「中立的な遺伝子」に求める。現状の

淘汰圧にはプラスにもマイナスにも働かない、ゆえに「自然淘汰の選択作用をすり抜けて

後代に継承されると考えたのだ。そして中立的な突然変異が次代に伝えられるかどうかは、

全くの偶然で決まるとした。……次代に伝えられるかどうかはそのときの運次第で、運が

よければ生き残り、悪ければ消滅するというのである」。

 

 ダーウィンやメンデル、DNA構造の初歩といったオーソドックスな話をしているはずが、

実はさらりと高校レベルの生物教科書の枠を超え出ていたりもする。

 そして何より単純に、動物の生態観察って面白い。

 楽しいと思わせてくれる平易な入門書が同時に少しややこしい話も織り交ぜてくれる。

そうくれば、どうして好奇心が煽られずにいられようか。

「ナードには親切にしよう」

  • 2017.10.05 Thursday
  • 22:25

『ザ・シンプソンズ』のワンシーン、スタジアムのスクリーンに4つの選択肢が大写しになる。

本日の観客数を予想してください、とのこと。

 

 A. 8191

 B. 8128

 C. 8208

 D. 不明

 

 予備知識がなければたぶん8000人前後ということか、くらいで見過ごしてしまうだろう場面、

ただし本書によれば、それぞれの数が大いなる含みを秘めているのだ、という。

 

「実は、『ザ・シンプソンズ』の脚本家チームには、数を深く愛する者が何人もいて、彼らの

究極の望みは、視聴者の無意識下の頭脳に、数学というごちそうをポトリポトリと滴らせる

ことなのだ。つまり、かれこれ20年以上ものあいだ、われわれはそうとは知らぬまに、

微積分から幾何学まで、πからゲーム理論まで、さらには無限小から無限大まで、実に

さまざまなトピックについての入門番組を、アニメという形でまんまと見させられてきたので

ある。……1999年には、このなかの数名が『ザ・シンプソンズ』の姉妹篇として、1000年後の

未来を舞台とする『フューチュラマ』というシリーズを立ち上げた。驚くにはあたらないが、

SFの形をとることで、彼らは数学的なテーマにいっそう深く踏み込めるようになった。……

しかし、その切り立つ高みを目指す前に、まず次のことを証明しておきたい。すなわち、

『フューチュラマ』が、テレビを媒体として、定理や予想や方程式の話題をちりばめながら、

大衆文化としての数学を視聴者に届ける究極の作品となるための礎石を築いたのは、

ナードたち、そしてギークたちだったということだ」。

 

 基本的に、頂の高さは裾野の広さに従って規定される。

 国産SF検証がほとんどの場合において、柳田理科雄よろしくトンデモ科学の匂いを

させずして書き進めることができないのとは彼我の差。なにせ脚本家のことごとくが

名門大学の修士、博士を経て、査読つきの論文を通した実績持ちと来ている。

日本のオタクの鼻をへし折る記述に気圧される。

 フェルマーの定理にせよ、素数にせよ、円周率にせよ、取り上げられる数学の大半は、

切り口を見ても、確かに既存の一般向け概説書で紹介済みのレベルには違いない。

小ネタのエッジが過ぎれば、ほとんど誰も気づけないのだから、当然なのかもしれない。

安定のサイモン・シンなだけに、そうしたダイジェストとしても本書はよくできている。

 しかし圧巻なのは何というに、さりげなく『フューチュラマ』に導入した設定が、応用数学の

専門家の手をも煩わせるなかなかの難問になり、ついにはその結果が「フューチュラマの

定理」と名づけられるまでに至った、というその事実。

 既知に飽き足らず数学の扉を叩いてしまったというのだから、もはや唖然とするばかり。

 

 日本でこんなオタクの楽園を提供できたのは誰だろう、と考える。

 ふと頭を過ぎったのはオウム真理教、やるせない。

 

 脚本家のひとりは言う。

「本音のところでは、自分は研究者として一生を送りたかったのかもしれない。それでも、

『ザ・シンプソンズ』と『フューチュラマ』は、数学と科学を楽しいものにしているとは思って

いるし、そのことで新しい世代に影響を及ぼせるんじゃないかとも思っている。そうして

影響を受けた人たちの中から、わたしがやれなかったことをやってくれる人が出るかも

しれない。そう思えば慰めにもなるし、これで良かったと思えるんだ」。

 エンタメはエンタメ、それ以上の何かである必要なんてない、基本的にはそう思う。

ただし、作り手のこの志の高さとそれを具現する能力に異を唱える気にはとてもなれない。

 

「ナードには親切にしよう。きみたちは将来、ナードに雇ってもらうことになる可能性が

高いのだから」とは、本書で引かれるさる教育者のことばだという。

 ホモ・サピエンス、何よりもまず知に従ってヒトは定義される。

 経済的なインセンティヴだけが人間の意欲を引き出すわけではない。どころか時代を

切り拓く者はたいていにして、差し出された既存の価値観を後追いすることしかできない

ジョック的なものの向こう岸から突然にして現れる。

 奇しくも私の師は言った、勉強は仕事かもしれないが、学問は遊びだ、と。

 教育の投資効率ばかりを謳い、楽しいとか面白いという動機づけを蔑ろにする社会に

いかなる未来が広がっているというのだろうか。

 つくづく思う、好きこそものの上手なれ。

雲をつかむような話

  • 2017.08.27 Sunday
  • 21:17

「本書では、からだの中で、いつ、どこで、どれくらいの量のたんぱく質がどのように

はたらいているのか、その全体像を、タンパク質の研究者でない方々にも理解して

いただけるように記述した。また、なぜタンパク質で病気を予防できるのか、なぜ

タンパク質で病気を診断できるのか、さらに、なぜタンパク質の異常を治療できるのか

についてもできる限り詳しく説明した。これまでに出版されたタンパク質の本とはかなり

違った視点から、からだのタンパク質について考察したつもりである」。

 

 本書の内容は新書という枠をはるかに超えてガチ、というか晦渋。

 論より証拠、漠然と開いたページから(p.94)

「抗体を用いることによって定量的に特定のタンパク質を検出したり、精製したり、

局在性を解析することができる。これを免疫化学的手法というが、この手法は

タンパク質発現解析に欠かせないものになっている。免疫化学的な手法には、

エンザイムイムノアッセイ法(ELISA)、免疫組織化学的方法、免疫電子顕微鏡法、

免疫沈降法、ウエスタンブロッティング法などがある。いずれの方法を用いる場合でも、

まず検出したいタンパク質に対するモノクローナル抗体またはポリクローナル抗体

(注11)を作製する必要がある」。

 全編がこんな調子で進んでいく。もちろんこんなタームを丸暗記してもらおうなどという

非効率な意図で書かれているわけでないことくらいは分かる。その動的な性質ゆえに

プロテオームが秘めたゲノム・サイエンスとも似て非なる難しさ、あるいは面白さを

表現するという点ではある程度うまくいっているようにも思う。結論だけを中途半端に

耳障りよく紹介する安直さを避けたいという真剣さも伝わる。とはいえ、こうした記述群を

目にした上でそこから何かを得るとなれば、対象はどうにも限られてしまう。教科書や

論文ならばそれでもいい、ただし新書というのはそういう場所ではない、と私は思う。

その高度な技術や知識から導き出された結論の恩恵は何かしら受けているのかも

しれないが、実験環境にアクセスできるでもない人間にとっては、雲をつかむような話が

ひたすらに展開されていく。

 

 筆者の知的な廉直を疑うつもりは微塵もない。

 私のスペックに問題があるのも事実だろう。

 ただし、一般向けの橋渡しという新書の役割に鑑みたとき、この書き口はどうなのか、と

首を傾げざるを得ない。

猫の皿

  • 2017.08.18 Friday
  • 21:21

「ネコは原始的な過去の遺産をひきずっていて、その行動の多くはいまだに野生の

本能を反映している。ネコの行動の理由を理解するためには、それがどこから

生じたかと、それを現在の形に変えた影響について理解しなくてはならない。

そのため、この本の最初の3章では、野生の孤独なハンターから、高級マンションに

住む動物へネコが進化したことについて記している。……ネコは人間のかたわらで

暮らすようになった。しかし、ネコと分かち合っている世界について情報を集める

方法も、理解のしかたも、人間とネコではまったく異なっている。第4章から第6章は

ヒトとネコのちがいを検討する。……飼いならされるために求められることによって、

ネコの社会的な領域を野生の祖先と比べて劇的に広げた。第7章から第9章は

こうした社会的な関わりを詳細に検討する。……最後に、本書では世界における

現在のネコの立場を検討し、今後それがどうなっていくかについて考察する」。

 

 本書の射程は、ネコの行動学や心理学の範疇をも時に超えてみせる。

 それは例えば歴史学、世界中のイエネコのDNAを調べてみると、彼らを運び入れた

人間の移住や海洋進出の過程もまた見えてくる。文献を渉猟すれば、迫害と迫害と、

あと迫害、ハンターからコンパニオンへ、というネコの発達史とはまた違う、血まみれの

暗部を目の当たりにさせられる。

 

 とはいえ、本書を手に取るような類の人々が気になるのは、やはりペットとしての

ネコと上手に暮らすための生理学に違いない。ヤマネコからイエネコへ、「住み込みの

害獣駆除係から相棒である同居者へ」、家畜化の歴史の中で、いつしか彼らも飼い主に

愛着を示すようになる。コミュニケーションのためのコミュニケーションを求めるのは

ネコとてまた同じらしい。ただしあいにくながら、ネコがいかに社会化を重ねようとも、

「大半のネコにとって、存在理由は人間との愛情あふれる関係ではない」。

 彼らにはより大切とするあるものがある。

 

 そして、こうした一連のプロセスはその先に皮肉な未来を予言する。

 ある調査によれば、イギリスのとある地域における飼いネコの98パーセント以上が

去勢されている、という。言い換えれば、子孫を残せる「ネコが産んだ子ネコの特性は、

残念ながら、わたしたちが排除したいと思っているものなのだ。すなわち、人間を警戒し、

自分の食べ物をまかなうための狩りが上手であるという特性だ。……責任感のある

飼い主によって早期の去勢が広まると、イエネコの遺伝子はじょじょに野生に戻っていき、

現在の家畜化された状態から遠ざかっていく」。

 人間の管理社会の未来とて、おそらくはまた同じ。

 なるほど、ネコがコンパニオンたる所以が見える。

プリンストンの銀河系

  • 2017.07.02 Sunday
  • 21:22

 1945年、ロスアラモスから帰還したジョニー・フォン・ノイマンは妻にまくしたてた。

「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ。

……科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、

倫理に反するんだ。その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これは

ほんの始まりに過ぎないんだ!」。

 ここであえて筆者は「怪物」を原爆ではなく、「機械の力」として解釈しようと試みる。

 本書はいわゆるノイマン型コンピュータをめぐる技術史。

「デジタル・コンピュータの歴史は、ライプニッツに率いられた予言者たちが論理を

提供した旧約聖書時代と、フォン・ノイマンに率いられた予言者たちが機械を製作した

新約聖書時代に分けられる」。

 しばしばコンピュータの誕生史として紹介されるのは、B.ラッセル、A.ホワイトヘッドの

分析哲学あたりを始原に、D.ヒルベルトやK.ゲーデルを経由しつつ、A.チューリングの

暗号解読あたりを終着点とする、英独中心の理論的な「旧約聖書時代」のもの。

 しかし、本書の舞台はもっぱらアメリカ、プリンストン大学や高等研究所の歴史を

絡めつつ、そこにフォン・ノイマンという巨人が降臨して、第二次世界大戦を背景に、

二進法の巨大計算機が生み落とされ、あるいはそれが軍事や気象、進化論といった

かたちでの活用を見るまでの「新約聖書時代」。

 この主題で面白くならないはずがない。なのに……。

 

 伝記的なストーリー・テリングの明快さとはおよそ対照的に、晦渋に過ぎてどうとも

語りようがないのは、その技術的な議論に用いられる表現の数々。

 第1章早々に出てくる言い回し、「デジタル宇宙はどれも2種類のビットからなっている。

空間における変化と、時間における変化、それぞれに対応する2種類だ。デジタル・

コンピュータは、情報をこの2種類の形――つまり、『構造』と『シーケンス』――のあいだで

厳密なルールに則って翻訳する。われわれは、構造として具現化したビット(空間のなかで

変化するが、時間が流れても変化しない)をメモリとして認識し、シーケンスとして具現化した

ビット(時間のなかで変化するが、空間を移動しても変化しない)をコードとして認識する。

ゲートは、ある瞬間から次の瞬間へと推移する刹那にビットが、この2つの世界の両方に

広がる交点である」。

 気象にせよ、モンテカルロ法にせよ、いちいちがこんな表現で紹介される、Wikipedia

連なるジャーゴンを想わせるように。

 前提知識のない人間が、これを読んで何を学べというのだろうか。

 少なくとも私には、悪趣味なひけらかしとしか映らない。