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- 2020.05.10 Sunday
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「『エッセイ』ということばは、『試行』や『企図』を意味する語源から来ていて、
本書中の章それぞれに、人体のたったひとつの部分を、あまたあるうちの
たったひとつの視座から探検する企図があります。……医療を仕事にして
きましたが、医師として働くのは、人間が経験することの総覧を見るようです
――毎日のように思い知らされるのです、わたしたち一人ひとりの脆弱さと
強靭さを、祝賀とともにわたしたちが内にたたえる落胆を。クリニックを開業
するのは、患者さんの身体といっしょに人生の風景を眺める、冒険旅行に
出かけるのになぞらえられるかもしれません。よく知っている地形に見えても、
往々にして分け入った小道が開けて、日々、新たなパノラマをのぞくことに
なるのです。臨床医学とは、たんに患部と患者の話にまつわる旅である
だけではなく、人生の可能性の探検行でもあるのです。人間を冒険する
ことなのです」。
本書の叙述は、医学的な知見や古典からの引用と筆者が実際に立ち会った
エピソードを組み合わせる仕方で進められる。言ってしまえば、他人の身体で
起きた他人事の極み。なのにこの医療版『風景と記憶』、不思議とわがことへと
引き寄せられる。もっとも冷静に考えれば当然のことか、生殖器はともかくも、
基本的に各人が備えるパーツをめぐる話なのだから。凍りつく。例えば「顔」。
「顔の筋肉の発達ぶりが、それぞれの生前のありようをどこかしら示している。
いちばん違いが現れるのは大頬骨筋と小頬骨筋、つまり口角を引っぱって
笑顔をつくる筋肉。頬骨筋が分厚くて輪郭もはっきりしていると、笑いの絶えない
人生だったのが伝わってくる。しぼんでいて紐状になっていると、つらい年月を
送ったのだろう。……著しく発達した皺眉筋は、絶え間のない怒りでしかめた眉
……前頭筋は、恐怖や動揺で眉を上げるのに使う筋肉で、よく額にできるしわ、
いわゆる五線譜の原因でもある。……口角下制筋は、口角から下に伸びていて、
口をとがらせて不満顔をするのに使う。顔をしかめるのに使う筋肉は発達しすぎて、
顔つき全体が暗くなってしまった献体も、一度ならず見たことがある」。
熱を帯びた遺灰が一目で判る仕方で祖母であると証するものがあるとすれば
それは骨折に際して埋め込まれた人工股関節だった。
「火葬場でご遺族は、故人のからだの金属部分を返してもらいたいか、再生利用を
望むかを訊かれる」。
数年前にそんなことを問われたことがあった、もっとも選択肢は骨壺に収めるか、
斎場で引き取るか、だったけれど。なぜかスタッフが私を見る。土に還らぬものを
入れても仕方ないからと処分を依頼した。
その後のことなど、本書を読むまで想像だにしなかった。
「人工の腰や膝や肩には、合金のなかでも最高性能のものが使われていることが
ある。チタンとクロムとコバルトの合金は、高齢者を晩年まで動きやすいからだにして
自立させてくれたあとは、火葬場で集められ、溶かされ、精密部品に変えられて、
人工衛星や風力タービンや飛行機のエンジンの機構になる」。
骨埋める場所なんて いらないわ
評価:
ドナルド R キルシュ,オギ オーガス 早川書房 ¥ 2,160 (2018-06-05) |
「なぜ新薬の探索は、たとえば有人月面着陸や原子爆弾の設計よりもはるかに
『難易度』が高いのだろう? アポロ計画やマンハッタン計画では、すでに
確立した科学方程式や工学原理や数式が利用された。……それとは対照的に、
新薬設計の核心的な試練――膨大な数の候補化合物の試行錯誤による
スクリーニング――は、既知の方程式や公式による手引きがないなかで取り組む
仕事だ。……ハンターには、お目当ての薬がどのように作用するかについて、
人間の臨床試験参加者が実際にそれを摂取するまでよくわからない。……
本書の執筆に取りかかってみると、人間の健康や科学の限界、勇気や創造性や
直感的なリスクテイクの大切さに関して、ぜひお伝えしたいと思えるより深い
教訓がいろいろあることに気づいた。以下の章では、新薬を求めて私たち人間が
乗り出した大胆な旅を石器時代の祖先たちから今日の巨大製薬企業までたどり、
ほぼ広大無辺な科学ライブラリーのどこかに隠されたわかりにくい手がかりを
人類が追い求めてきた旅路を年代順に見ていこう」。
2015年のノーベル生理学・医学賞は、日本人科学者・大村智に与えられた。
受賞に際して大々的に報じられたのは例えば、ゴルフのプレイ中に採取した
サンプルから発見された微生物が画期的な抗菌剤をもたらした、という逸話。
しかし本書に従えば、輝ける「土壌時代」はとうに黄昏の時を迎えている、
ニーズは変わらず続いているし、探索が一通り終結したわけでもないのに。
というのも、「抗菌薬からは、製薬企業にとって特に儲かるビジネスモデルが
生み出されないからだ。大手製薬企業は、高血圧や高コレステロール血症の
薬のように、何度も繰り返して服用される薬を開発したがる。そのような慢性病の
治療薬は、患者が一生のあいだ毎日飲み続けなくてはならないので、莫大な
売り上げをもたらす可能性がある。一方、抗菌薬の服用期間はせいぜい一週間
くらいしかない。それで患者は回復し、その薬はもう必要とされないのだ。
これでは利益が大幅に制限される」。
だが、この斜陽を強欲の果てとのみ結論するのはあまりに早計だ。
「新しい抗菌薬が登場してもいずれ病原菌が耐性を生じることを医師たちが認識し
始め、新しい抗菌薬が発売されると、それをいざというときのためにしまいこむ
ようになったのだ。医師たちはそれらの新しい薬を、抗菌薬耐性菌によってひどい
感染が起きた患者のみに使うようになった」。
しかし、そんな経済性の横紙を突き破る異端児と本書は時に巡り合う。
その中でも屈指の人物が、経口避妊薬の立役者、ラッセル・マーカーである。
時々で自らの興味を引くテーマに集中的に打ち込んでは偉大な業績を残し、
ただし間もなく飽きては他を探す、そんな物語的人物が引きつけられたのが
妊娠を司るステロイドホルモン、プロゲステロンの合成だった。「当時における
化学上の困難な未解決問題」にとらわれたマーカーは、「逆転の発想」により
鮮やかに制圧を果たす、つまり「プロゲステロンの合成を足し算のゲームとして
見るのではなく、引き算のゲームとして見」ることによって。原材料を求めて
メキシコに辿り着いた彼にはただし、製薬会社を説得する雄弁術が欠けていた。
ならば自分で作ればいい、と製陶所の納屋を間借りして実証、さらに現地企業と
提携して、ついに彼は「合成化学における賢者の石、すなわちヤムイモを金に
変える手段を発見」する。ところがある日突然、持ち株も知的財産権も手放し、
そればかりか、化学の世界から完全に彼は足を洗う。
「医学関連の発明で、ピルほど社会の基本的な構造を迅速かつ劇的に変えた
ものは歴史上ほとんどない」。
この革命物語の魅力は、マーカーですら埋没しかねないくらい、ことごとくが
アウトサイダーに牽引されたことに起因する。
「ピルは、大手製薬企業の科学研究所や販売チームの会議から生まれたのでは
なかった。まず、ウシの妊娠を急がせたがったスイスの酪農家たちが、ちょっと
変わった解剖学上の発見をした。次に、ある獣医学教授がこの知見を発表した
ことがきっかけとなり、排卵抑制薬としてのプロゲステロンが特定された。偏屈な
一匹狼の化学者が、単におもしろいパズルだからという理由でプロゲステロンの
合成法を見出した。二人の70代の女性解放活動家が、経口避妊薬をつくり出すと
いう自分たちの夢を叶えるため、信用を失った生物学者に白羽の矢を立てた。
敬虔なカトリック教徒で根っからの理想主義の婦人科医が、経口避妊薬の世界初と
なる臨床試験の実施に賛同した。その生物学者と婦人科医は協力し、プエルトリコで
臨床試験をおこなって連邦法や州法、さらには医療倫理も巧妙に逃れ、有害な
副作用の明らかな兆候にも目をつぶった。彼らが、カトリック教徒のボイコットを
恐れる製薬企業をようやく説得でき、その薬の製造が始まったのは、女性たちが、
その企業が販売していた薬の一つを、避妊という適応外の目的で勝手に使っていた
ことに運よく気づいたあとのことだった。
このようなわけで、一言でいえば新薬の開発は恐ろしく困難なのだ」。
評価:
ホリー・タッカー 河出書房新社 ¥ 3,024 (2013-05-18) |
「当時、フランスとイングランドの科学者たちは、血液の謎を解き明かして人間への
輸血を最初に成功させようと、しのぎを削って激しく争っていた。……そんなときに、
どこからともなく現れたのが、ジャン=バティスト・ドニという若い医師だった。彼は、
初の動物からヒトへの輸血を行って科学界をあっと言わせ、大きな評価を得る一方で、
それ以上に大きな論争を巻き起こした。1667年6月の半ば、ドニは子羊の血液を
16歳の少年の静脈に輸血した。結果は驚くべきものだった。少年は死ななかった
……最初の成功に気を良くしたドニは、さらに患者を見つけて数回にわたる輸血を
行なったが、結局3人目が最後の被験者となった……ドニは子牛の動脈を切開し、
数本の鵞鳥の羽軸を糸でつないだ初歩的な装置を取りつけてから、150ミリリットル
余りの子牛の血液をモーロワの腕から輸血した。すると翌朝には、実験がうまくいって
いる――少なくとも致死的な状態には至っていない――という明るい兆しが見えた。
ところが、その後輸血を繰り返したところ、結局モーロワは死亡した。そして、間もなく
ドニは、殺人罪で告発された。……本書では、ドニの試みをふたつの異なる側面から
考える。ひとつは、17世紀のわずか数年間に起きた、輸血医ドニ、及び輸血全般の
盛衰をたどる……ミクロヒステリーの側面で、もうひとつは、麻酔、消毒薬、血液型の
概念がない時代に、輸血を考え出すことができた知識、発見、文化、政治、宗教の
土壌をたどる、より重要性が高いと思われるマクロヒストリーの側面だ。すなわち、
本書で取り上げるのは、輸血そのものに関する歴史であると同時に、科学革命――
偉大な科学者たちと計算高い国王たち――の歴史でもある」。
血に飢えた各国のナショナリズムの燃料に、17世紀ヨーロッパは事欠くことを
知らなかった。例えば三十年戦争、例えばピューリタン革命。戦火に次ぐ戦火は、
倦んだ者に海を渡らせるに十分な動機を与えた。
血の通った母国語で学問を著す、その潮流が生まれたのも時代の必然だった。
時の公用語とも呼ぶべきラテン語でもフランス語でもなく、自国の言葉で論じる、
科学革命を導いたガリレオもニュートンもいくつかの著作ではその作法に従った。
血で血を洗う、そんな国家間対立の舞台のひとつが輸血医療だった。
血と汗の結晶、「血液循環説」を提唱することでイングランドを牽引したのが
かのウィリアム・ハーヴェイだった。対するフランスはといえば、不動の中心たる
パリ大学医学部が依然としてガレノスやアリストテレス由来の古典主義信奉を
貫いていた。「循環運動はあまりにも単純であり、非常に単純な生物にしか適さない
……人体では、血液は目に見えない導管を通り、心臓の房を横切って、『純粋な
生命の液に変化し、それがすべての内臓器官を生まれもった温かさに保つ』」、
血とし肉とし、古典に通じたトップ・エリートの彼らにとって、この見解こそが
揺るぎようもない真理だった。
血をたぎらせて、パリへの対抗意識に燃えていたのが、フランス医学の傍流
モンペリエが育んだ無名のアウトサイダー、ジャン=バティスト・ドニだった。
彼は夢見る、動物からヒトへの輸血を論より証拠と示すことで、パリはおろか
イングランドさえも出し抜いて、スターダムへと駆け上がるその日を。
血道を上げて科学に入れ込むパトロンがドニの野心を支えた。上流階級にとって
科学は当時、最高のステータス・シンボルだった。その支援者モンモールは、
「私的な学会……の会員に、思いつく限りの資源、広々とした空間、必要な器具、
研究用の豊富な蔵書、そして――むろんのこと――満腹になる食事を提供」した。
ところが、楽園に斜陽が射す。王立科学アカデミーが創設されたのだ。財源は
民の生き血を絞って得た税金、一介の貴族では太刀打ちできるはずもない。
血も涙もなくルイ14世は決断する、「絶対的忠誠に対しては多額の報酬を
惜しみなく与え、少しでも忠誠心に欠ければ徹底的な罰を惜しみなく与える」、
この意に面した会員がモンモールに背を向けたのは、やむなき必然だった。
血を吐く思いで没落貴族は、挽回の一縷の望みをドニに託す。対して学界は、
反逆児を血祭りに上げるその好機を手ぐすね引いて待っていた。
血湧き肉躍る、ということにおいて、ここまでの材料を揃えた作品も珍しい。
医学史だけでも十分にそそるというのに、そこに陰謀渦巻く政治劇に法廷劇、
血なるものが人間に呼び起こさずにいないスリルと戦慄、さらに宗教対立さえも
絡んでくるというのだから。
血のにじむような筆者の労苦が、素材を見事に生かす。軽やかで、かつ精緻、
まるで見てきたかのような筆致が冴え渡る。史学書としては時に過剰演出を
疑うほどに、街並み、手術台、食卓……その情景が匂いとともに立ち現れる。
血気にはやるならず者、事件の概要のみを知れば、ドニをそう見なすのも
無理はない、ところが事実は異なる像を示す。そこにささやかな救いがある。
「裁判の4年後、輸血を専門としていた彼は、まったくあり得ないような方向へ
研究の道筋を向けた。強い抵抗を受けながらも、堂々と輸血を支持していたドニが、
今度は止血剤を開発したのだ――現在では世界中の薬品戸棚に保管され、
軽い出血の処置に使われる薬だ。彼は、血流を促すことを基本とする治療では
後世に遺産を遺すには至らなかったにしても、血流を止める治療においては
足跡を残すことができた」。
血の涙のその先で、アスクレピオスはドニに微笑む。
血が騒ぐ、とはまさに本書を指していう。
「確かに、失われたものを悼むべきだ。地球上の生物学的および物理的プロセスには
すでに消すことのできない人類の足跡がついている――このため、科学者たちは
しだいに今の時代を人新世と呼ぶようになってきた。……私たちの祖先は最大級の
陸生動物の大半を狩って絶滅させ、のちには貪欲な捕食動物や恐ろしい病気を
孤島に運んでほかの動物を絶滅させた。……その一方で、私たちのまわりには
まだ多数の種がいて、その多くが人間がいることで利益を得ているように見える。
人間が変えたこの世界で減少している種もいるが、繁栄している種もいるのなら、
将来の見通しは本当に生物学的衰退という悲運が予想される悪いものなのだろうか。
……本書でも、すでに生じて今日まで続いている多くのロス(損失)に注目する。
しかし、多くの点で、人間の時代に自然は驚くほどうまく対処している。生命全体を
見た生物学的等式のゲイン(利得)の側を無視するべきではない」。
温暖化の影響だろう、あるリサーチによれば、「動物は10年でおよそ17キロの
スピードで、北極または南極に向かって移動している」。このデータを聞いて、
こんなことを思う者もあるだろう、ならば時間を遡って、本来あるべき土地に
戻してやらねばならない、それが自然の摂理だ、と。
しかし、本書はそうした見解を一蹴する。なぜならば、そもそも「種の分布が
固定されているという考えは時代遅れ」なのだから。
確かにそれは外的条件の変化によって強いられた移動かもしれない、しかし、
適した新天地を求めた彼らを自ら不向きとした場所に戻したところで何になろう。
そもそもヨーロッパでは、長い氷期に常緑樹はほぼ死滅した。かつて存在した
ことは化石が教える。ただし、それらは地球上から消失したわけではなかった。
北アメリカや東アジアで生き延びた「親戚」が今、人間の手で「故郷」へ戻り
森を潤す。この「親戚」は果たして駆除されるべき「外来生物」なのだろうか。
リンゴミバエという虫がいる。「リンゴの木の上で交尾し、リンゴの果実の中に
卵を産む。幼虫はリンゴの中で発育し、十分に育ったら、通常はリンゴの中に入った
まま地面に落ち、その後、這い出して、リンゴの木の下の土壌中で蛹になる」、
リンゴなしでは生きていけない、そんな依存性を持つ。ところで、この先祖を辿ると
サンザシミバエなる虫に至る。サンザシに差し替えれば、概ね同じ性質を示す。
不思議なことに、リンゴミバエはサンザシを嫌う。寄生する樹木が開花する時期の
違いにより発情のタイミングもずれる、だから交雑も起きづらい、結果「全般的に
両者はすでに遺伝的に隔離されて」いる。さらには、ミバエに寄生するハチまでも
宿主の変化に巻き込まれて性質を変えた。これら分岐はすべて「たったひとつの
導入植物が関与して起こっている」。
世の趨勢は環境の変化で失われた「ロス」ばかりを数えようとしてしまい、
新たにもたらされるこうした「ゲイン」には目を向けようとはしない。
レッドリストが声高に叫ばれる一方、新種として聞こえてくるものといえば、
クローンやDNA組み換え技術の脅威だとか、害虫や細菌が薬剤への耐性を
獲得した、というように概して暗い話ときている。
いい加減、そうしたバイアスから解放されるべき時が来ている。少なくとも、
愚かしい先入観に従って社会政策を規定する狂気は打ち切らねばならない。
筆者は繰り返し力説する。「移動がかかわる絶滅はどちらかといえばまれで、
大陸間の接触の増加は普通、結果として多様性の正味の減少ではなく正味の
増加をもたらす」。
この「接触」を媒介するのは人間、そう聞くと、たちまちにしてわれわれは
自然と人為という例の対立構図へと引きずり込まれそうになる。しかし筆者は、
各種リスクに目配せした上で、そうした固定観念を一笑に付す。
「ヒトという種は自然に進化したのだから、人間は自然なもののはずだという
ことを私たちは知っている。私たちは自然の一部である」。
人はつい己が浅薄になぞらえて、巨大資本によって均質化された街並みと
「外来生物」の襲来を重ねずにいられない。豪州の入植史やブラックバスでも
引き合いに出されれば論破された気分にもなる。しかし自然の懐はむしろ、
「外来生物」から多様性を引き出さずにいない。本書に盛り込まれた例証が
「ゲイン」を教える。その希望を担えるのは今や人間を置いて他にない。
環境保全を錦の御旗に純血を求めるムーヴメント、何かを想起させずにいない、
それは例えばナチスの唱えたアーリア人種の優生政策。
池の水を抜く前に、立ち止まって観察すべき自然がある。
評価:
NHK「フランケンシュタインの誘惑」制作班 NHK出版 ¥ 1,620 (2018-03-08) |
「科学とはいったい何か? 科学者とはいったいどんな人間なのか? 加速度的に
進む科学技術と、我々はどう向き合ってゆけば良いのか? 考える手がかりとして
求めたのが、科学史の輝かしい成果の陰に隠れ、歴史の闇に埋もれたさまざまな
事件だった。現在から見れば異端とされたり傍流として消えていったものにこそ、
『科学』の正体を探るヒントがあるのではないか。そして、フランケンシュタインの
ような手痛い“失敗”から学ぶことができるはずだと考えた」。
例えばガリレオは、天動説というルールを侵犯することで天文学を開拓した。
例えばニュートンは、目的論的宇宙観を拒絶することで実証主義への道筋を得た。
それは自然科学に限らない、すべてイノヴェーションの扉はルール・ブレイカーが
こじ開ける。しかしそのことは、彼らの科学的探究心を妨げるいかなるルールをも
否定する無法者たることを容認するものではない。それが本書の主題。
もちろんそこには発見をめぐる根源的なジレンマが横たわる。「いまだかつて誰も
見たことのない光景」のその先にいかなる負のエフェクトが待ち受けるのかを、
どうして予め織り込むことができようか。なるほど、中長期的な観察を経てはじめて
確認される副作用のリスクを排除できぬことをもって批判を受けねばならないならば、
不治の病の特効薬の開発などままならないだろう。
とはいえ、まさにこうした試金石にこそ、科学史を学ぶべき社会的意義が存在する。
例えばナチス・ドイツが邁進した優生思想は、現代のDNA研究に何らの教訓をも
残し得ないのだろうか。「次世代シーケンサーで一人ひとりの遺伝子を隅から隅まで
読んでみると、どの人にも必ず遺伝子の欠陥が何十個もあるということがわかって
きました。つまり、遺伝子が“正常”か“異常”かという観点から優劣を区別しようという
考え自体が、科学的には間違っているのです」。
「ごく普通の人であっても他人を完全に支配できれば、たやすく悪魔になり得る」。
「スタンフォード監獄実験」は社会心理学のありとあらゆる教科書に参照されることで
不滅の悪名を獲得した。にもかかわらず、イラク戦争の果て、アブグレイブ刑務所では
その惨劇が寸分違わず再現された。「良いリンゴ」も「悪い樽」に放り込めばたちまち
「腐ったリンゴ」になる。ならば、社会が志向すべきルールは、「リンゴ」をやみくもに
罰することではない、「悪い樽」を作らせない工夫を講じることだ。
「純粋な学問が特定の思想や価値観と結びついたとき、いかに危険なものとなるのか。
自身の思考の枠組みに捉われ現実の非道から目を背けることが、いかに恐ろしい結果を
生み出すのか、心に焼き付けるために。重要なのは、学問それ自体に任せないことです」。