Rain man is a main man.

  • 2017.12.09 Saturday
  • 20:04

「心の中に、素朴な疑問が湧いた。研究が70年も行われているというのに、自閉症に

ついて、どうして私たちはほとんどなにも知らないのだろうか?

 この問いへの回答を見つけるために、本書を執筆した次第である。近年、脳多様性

(ニューロダイバーシティ:neurodiversity)という概念が流布しつつある。自閉症、読み書き

障害、注意欠陥/多動性障害(ADHD)のような状態は、技術と文化の発展に貢献する

それぞれ固有の強みを持つ、自然に起こる認知的多様性とみなされるべきだという理解で

ある。自閉症スペクトラムという概念は私たちのポストモダン世界の産物であると広く

信じられているけれども、実は1938年にハンス・アスペルガーが最初の自閉症について

講演で主張した、とても古い見解に、そのルーツを求めることができることも、執筆のために

取材の過程で分かった。

 脳多様性は、自閉的行動の最も的確な理解者は彼らの両親でも医者でもなく、自閉症の

人々自身であるという発想に基づいている。自閉症は薬では治癒しない。しかし、協力的な

コミュニティで生活すると良くなるという知見は、自閉症の家族が過去から継承してきた

知恵のようなものといえよう。これからの障害者のために居場所を作り、社会で生活することが

可能となり、障害者が自分の生まれたコミュニティに貢献することさえ可能になるような未来の

創成に本書がいささかなりとも貢献できれば幸いである」。

 

 本書が取り上げるのは、自閉症をめぐる研究史、社会史。

 マイノリティというものが概してそうあるように、その歩みは必ずしも幸福なものではない。

 件の症候群の提唱者、H.アスペルガーが研究に取り組んだ地、オーストリアは間もなく

ナチスの渦に呑み込まれる。彼の「小さな教授」たちは、優生政策によって排除されるべき

対象でしかなかった。

 自閉症は「毒親」によるしつけの問題、そんな論が学術の世界さえ支配した時代もある。

溺れる者は藁をもつかむ、愛する我が子の治癒を託して民間療法に次から次へと手を

伸ばしては裏切られていく。

 環境汚染や予防接種ワクチンが自閉症を招く、そんな説が世間を震撼させた時代もある。

ただし、検証を進める過程で論文を執筆した医師によるでっち上げの事実が露呈する。

スキャンダルの渦中で、当事者はいつしか置いてけぼりを食った。「公共サービスや支援を

求めるという当初の目的が、悪意のあるワクチン論争へと流れをへし曲げられてしまった。

不毛な争いの陰で、自閉症のティーンエイジャーの就労支援プログラムの発足など、重要な

問題のほぼすべてが葬り去られてしまった」。

 

 とはいえ、本書を重苦しさから逃がし、どころか時に微笑ましいものとさえしてみせるのは

やはり「脳多様性」の持つ豊かさに他ならない。

『レインマン』の脚本を手がけたバリー・モローの作家性の原点には、自閉症の「相棒」との

出会いがあった。ヘアスプレーで固めたかつら、ボロボロの歯並び、妻に言わせればどうも

「知能が遅れて」いるらしい、ただし「これまでで出会った中で、一番友好的で優しい人物」と

付け加えることを忘れなかった。とある経緯から一度は施設へ預けられた「相棒」をモローは

連れ出し、誘拐罪の廉で起訴される。後見人を引き受けたい、との審議の席でその空気を

一変させたのは「相棒」当人だった。「神よ、相棒のバリー氏を授けてくれたことを感謝します、

彼はわたしの面倒をよくみてくれます。……いまは幸せな人生を送っています。そしてあの

地獄のようなところには絶対に戻りたくありません」。

 アカデミー賞の主演男優部門を射止めたダスティン・ホフマンに当初持ち込まれたのは、

弟の役だった。しかし脚本を一読して惚れ込んだ彼は、サヴァンの兄を逆オファーする。

ホフマンにもやはり原体験があった。役者では食べていけない時代に就いた看護助手の

職での、「博士」との出会いだった。かつて優秀な病理学者だった彼は脳卒中を患って

ほぼ寝たきりの状態になり、「チンプンカンプンな言葉しか話せなくなってしまっていた」。

そんな「博士」が妻を前にホフマンとお気に入りを歌っている最中、不意に立ち上がり

嗚咽した。「一瞬、完全な正気が顔をよぎった。『話せない、話せないんだ!』と彼は

うめき声を上げた」。ホフマンも、泣いていた。

 

『レインマン』の名シーンのひとつに、カジノのブラックジャック・コーナーでいわゆるカウントを

用いて兄弟がボロ儲けする場面がある。現実味があるのか、とモデルのイディオ・サヴァンを

脚本家が賭博場へと連れ出して検証しようとしたが、彼はきっぱりと拒絶して言った。

「これはフェアではない、バリー・モロー」

「脳多様性」の愚直は決してルールからの逸脱を許さない、たとえその代償にトム・クルーズの

表象する「定型脳neurotypical」の歓心が買えなくなったとしても。

 現実はしばしばフィクションを超える。

スキマスイッチ

  • 2017.11.30 Thursday
  • 22:25

「植物はスキマに生えるものである。

 コンクリートの割れ目、アスファルトのひび割れ、石垣の隙間など都市部のあちこちで

目にするスキマには、しばしば植物がその生を謳歌している。

 彼らは孤独に悩んだり、住まいの狭さを嘆いたりなどはしていない。むしろ呑気に、

自らの生活の糧であるところの太陽の光を憂いなく浴び、この世の自由を満喫している

ところだ。隣に邪魔者が来る心配がないこと、これは、光を他の植物に先取りされ、陰に

回ってしまわないよう、常に競争を強いられている植物にとって、なによりの恩恵である。

隣の植物と背比べをし続けなくて済む好運、自分のペースで成長していればよい

スキマという環境こそは、植物にとってじつに快適な空間なのだ」。

 

 街歩きのよくある光景。影の覆った過密状態の住宅地、例えば道端のわずかな割れ目に

エノコログサが茂る。地域の無関心の象徴のようで、どこか荒涼とした心持になる。

 ところが、そんな植物をクローズ・アップしてみれば、華やかな写真集ができあがる、

もちろんリアルの佇まいが本書ほどにカラフルなことは稀だろうけれども。

 そんな視点の転換を促すだろうテキスト。

 そしてそれは単に審美眼の問題に限らない。

「ときとしてそこは、生態系の重要な一部となっている。……スキマは人の目にもつかず、

管理対象もなっていない。その利点に気づいた個体群が、街中で新しく繁殖した結果が、

今、都心部などで見られる蝶たちなのではないかと思う。スキマの利点を活かして暮らす

スミレ類、それを食べて育つヒョウモンチョウの幼虫。成虫はあたりのスキマや花壇などの

花の蜜を吸って飛び回り、結実を助ける。また幼虫も成虫も、シジュウカラなどの小鳥に

とって大事な、雛の餌だ。小鳥たちが都心部でもさえずるのは、彼らがいてこそのことで

ある。……既製品の植木が整然と並び、大きさも形もそろった草が植え込まれているだけの、

虫も鳥もいない『緑の空間』は寒々しい。それを、蝶が舞い、小鳥がさえずる親しみ深い

空間に変えるのは、スキマの大事な役割だ。スキマは、街中の生物多様性を支える

生態系の重要要素なのである」。

 確かに。デヴェロッパーの手によって整然と統一されたニュータウンのポスターは

焼け野原と紙一重、時として管理社会のディストピアに似るのかもしれない。

 そう思いつつ、今日も私は祖父母宅の雑草むしりをやめられない、キリなきことを知りつつも。

「ひとりでできないもん!」

  • 2017.11.28 Tuesday
  • 23:33

「自らはゴミを拾えないけれど、子どもたちの手助けを引き出しながらゴミを拾い集めて

しまう〈ゴミ箱ロボット〉、人の目を気にしながらたどたどしく話す〈トーキング・アリー〉、

一緒に手をつないで並んで歩くだけの〈マコのて〉、コンコンというノック音だけで意志

疎通を図ろうとする〈コーヒーポット〉など、いずれもなにかすぐに役に立つようなものでは

ない。けれども、これらの〈弱いロボット〉たちは、いまでは、コミュニケーションということを

考えるうえで、なくてはならない大切な〈思考の道具〉となっている。

 本書では、こうした〈弱いロボット〉たちと関わるなかで、折にふれて考えてきたことを

紹介してみたい。〈弱さ〉をちからに変えるとはどういうことなのか。なぜ〈ロボット〉の

〈弱さ〉について議論するのか。テーマの一部として、『コミュニケーション』や『関係性』と

いうこともあるけれど、なにか一方的に『コミュニケーションとは……』ということを論じる

ことは避けたい。むしろロボットたちと『ああでもない、こうでもない』と考えるなかで、例の

こんな感じということを一緒に共有できたらと思う」。

 

「『人らしさ』や『コミュニケーションとはどのようなものか』を探るうえで、あえてロボットを作り

ながら考えてみる」。

 これが本書の一貫したアプローチ。ゆえに、ここで展開されるのは、工学最前線どうこうと

いう前に、ロボットを媒介とした人間についての試論。

 現代、既に「『テキストからの音声合成』の技術を利用すれば、テキストを入力するだけで、

流暢な音声に変換してくれる」。この機能を搭載したロボットを子どもたちの輪の中に入れる。

最初は喋る物珍しさが手伝って歓喜の声が生まれるが、途中からどうにも怪しくなっていく。

「それはとても生きた意味をともなっているようには思えない」のだ。

「生きた意味」など持っているはずもなかった。「アリガトウ!」や「アイシテル!」といった

「メッセージやその意味は自己完結して」しまっているのだから。

 対してコミュニケーションの場面においては、「その発話の意味や価値は必ずしも完結した

ものではない。そこで伝えたいことも漠然としている。それでも、なにげなく言葉を繰りだす

なかで、その意味や役割がおぼろげに見えてくるのだ」。

 欠けていたのはこの「弱さ」だった。

 

 たまたまここ数日、五代目古今亭志ん生をかけていた。

 息子のように滑らかで粋な語り口があるでもない。演じ分ける技術に秀でているでもない。

ただし、そこには「弱さ」がある。あるいはこうも言い換えられるのかもしれない、そもそも

出来上がっているはずの筋立て、構成をあえて瞬間に紡ぎ上げていくライブ感、とでも。

その日当人に起きた出来事や場の空気が期せずして混ざり込んでしまうことで絶対無二の

噺が時に生まれた、たぶん。

「誰でもなく、自分に話しかけてもらっている、そういう志向性を感じるにつけ、なにか

応答せずにはいられない、そこに思わず応答責任を感じてしまうのである」。

 まさしく。

 BGMのはずが、聞き流せない。

 志ん生は〈トーキング・アリー〉だった。

ダーウィンが来た!

  • 2017.10.12 Thursday
  • 22:43

「この地球には現在、200万種を超える多種多様な生物が棲みついている。驚くべきことは、

それらの生物がみな見事にそれぞれの得意とする技を駆使して、それぞれの環境に適応

していることだ。……こんな動物もいる。より多くの子孫を得るために、雌が生む子の性比を

操作するのだ。アカシカやキタオポッサムはその一例だが、これらの動物の雌は自分の

体調に合わせて合理的に雄と雌を産み分ける。ある種の寄生バチの雌はこのことにかけては

他の追随を許さない。体調わずか2~3ミリメートルのこの小さなハチの雌は、研究者が数式を

使って理論的に導き出した最適な性比で雄と雌を産み分ける。

 一体このような動物はどのようにして生み出されたのか。誰が創り出したのか。進化学は

このように目的にかなった合理的な生物の生物学的由来を追究する研究分野である。

本書はそれを一般向けに書き下ろした啓蒙書であるが、特にこれから生物学を学ぼうと

している高校生や大学の一般教養課程の学生などに読んでいただければ幸いである」。

 

 表題に「入門!」と銘打つだけに、そもそもの動物の分類やダーウィン進化論の基礎的な

ガイダンスから、非常に丁寧に書かれたテキスト。

 とはいってもやはり、抽象的、座学的な理論に終始するのではなく、実例が示されることで

興味は格段に惹かれる。

 例えば「ある種のコガネグモの雄は、自分自身を貞操帯として配偶者を防衛すると示唆

されている。この種の雄は雌と交尾を開始した直後に急死する。……例外なく起こることから、

遺伝的に組み込まれた自発的死であると考えられている。興味深いのは、雄の死骸は

あたかも貞操帯のようにその後雌の交尾器に付着したまま、雌について回ることである。

その間雄の死骸は他の雄との交尾を阻止する」。

 あるいは例えば「アオムシコマユバチはモンシロチョウの幼虫に寄生産卵するが、その

コマユバチに寄生産卵するヒメバチがある。この小さなヒメバチは、アオムシの体内にいる

アオムシコマユバチの幼虫に産卵管を突き刺し、そこに産卵する。/もっと驚くべきことは、

このヒメバチに寄生産卵するもっと小さいコバチがいることだ」。なるほど確かに、「これらの

動物は、他種との資源の競合を巧みに避け、これらの資源を占有することに成功している。

……しかしこのようにある特殊な環境要因に極端なまでに特化することは、長期的進化の

観点から見ると、大いなる危険に身をさらすことでもある」。

 

 そして時に話題は「入門!」を超えて、隘路に分け入ることもある。

「国立遺伝学研究所の木村資生(1924~94)は、分子時計がほぼ定速度で時刻を刻む

ことについて理論的に考察していた。……置換速度をDNAの塩基(ヌクレオチド)の

置換速度に換算し、それからゲノム全体で1塩基が置換するのに要する時間は平均で

およそ1.8年と算出した。/哺乳類の進化の中で、平均してわずか2年弱で1個の

塩基が他の塩基に置き換わるというこの進化速度は驚くべき速さである。実際それまで

標準的な速度の進化では、塩基(対立遺伝子)の置換は大まかに見て300世代に1回と

推測されていた」。木村はこのギャップの説明を「中立的な遺伝子」に求める。現状の

淘汰圧にはプラスにもマイナスにも働かない、ゆえに「自然淘汰の選択作用をすり抜けて

後代に継承されると考えたのだ。そして中立的な突然変異が次代に伝えられるかどうかは、

全くの偶然で決まるとした。……次代に伝えられるかどうかはそのときの運次第で、運が

よければ生き残り、悪ければ消滅するというのである」。

 

 ダーウィンやメンデル、DNA構造の初歩といったオーソドックスな話をしているはずが、

実はさらりと高校レベルの生物教科書の枠を超え出ていたりもする。

 そして何より単純に、動物の生態観察って面白い。

 楽しいと思わせてくれる平易な入門書が同時に少しややこしい話も織り交ぜてくれる。

そうくれば、どうして好奇心が煽られずにいられようか。

「ナードには親切にしよう」

  • 2017.10.05 Thursday
  • 22:25

『ザ・シンプソンズ』のワンシーン、スタジアムのスクリーンに4つの選択肢が大写しになる。

本日の観客数を予想してください、とのこと。

 

 A. 8191

 B. 8128

 C. 8208

 D. 不明

 

 予備知識がなければたぶん8000人前後ということか、くらいで見過ごしてしまうだろう場面、

ただし本書によれば、それぞれの数が大いなる含みを秘めているのだ、という。

 

「実は、『ザ・シンプソンズ』の脚本家チームには、数を深く愛する者が何人もいて、彼らの

究極の望みは、視聴者の無意識下の頭脳に、数学というごちそうをポトリポトリと滴らせる

ことなのだ。つまり、かれこれ20年以上ものあいだ、われわれはそうとは知らぬまに、

微積分から幾何学まで、πからゲーム理論まで、さらには無限小から無限大まで、実に

さまざまなトピックについての入門番組を、アニメという形でまんまと見させられてきたので

ある。……1999年には、このなかの数名が『ザ・シンプソンズ』の姉妹篇として、1000年後の

未来を舞台とする『フューチュラマ』というシリーズを立ち上げた。驚くにはあたらないが、

SFの形をとることで、彼らは数学的なテーマにいっそう深く踏み込めるようになった。……

しかし、その切り立つ高みを目指す前に、まず次のことを証明しておきたい。すなわち、

『フューチュラマ』が、テレビを媒体として、定理や予想や方程式の話題をちりばめながら、

大衆文化としての数学を視聴者に届ける究極の作品となるための礎石を築いたのは、

ナードたち、そしてギークたちだったということだ」。

 

 基本的に、頂の高さは裾野の広さに従って規定される。

 国産SF検証がほとんどの場合において、柳田理科雄よろしくトンデモ科学の匂いを

させずして書き進めることができないのとは彼我の差。なにせ脚本家のことごとくが

名門大学の修士、博士を経て、査読つきの論文を通した実績持ちと来ている。

日本のオタクの鼻をへし折る記述に気圧される。

 フェルマーの定理にせよ、素数にせよ、円周率にせよ、取り上げられる数学の大半は、

切り口を見ても、確かに既存の一般向け概説書で紹介済みのレベルには違いない。

小ネタのエッジが過ぎれば、ほとんど誰も気づけないのだから、当然なのかもしれない。

安定のサイモン・シンなだけに、そうしたダイジェストとしても本書はよくできている。

 しかし圧巻なのは何というに、さりげなく『フューチュラマ』に導入した設定が、応用数学の

専門家の手をも煩わせるなかなかの難問になり、ついにはその結果が「フューチュラマの

定理」と名づけられるまでに至った、というその事実。

 既知に飽き足らず数学の扉を叩いてしまったというのだから、もはや唖然とするばかり。

 

 日本でこんなオタクの楽園を提供できたのは誰だろう、と考える。

 ふと頭を過ぎったのはオウム真理教、やるせない。

 

 脚本家のひとりは言う。

「本音のところでは、自分は研究者として一生を送りたかったのかもしれない。それでも、

『ザ・シンプソンズ』と『フューチュラマ』は、数学と科学を楽しいものにしているとは思って

いるし、そのことで新しい世代に影響を及ぼせるんじゃないかとも思っている。そうして

影響を受けた人たちの中から、わたしがやれなかったことをやってくれる人が出るかも

しれない。そう思えば慰めにもなるし、これで良かったと思えるんだ」。

 エンタメはエンタメ、それ以上の何かである必要なんてない、基本的にはそう思う。

ただし、作り手のこの志の高さとそれを具現する能力に異を唱える気にはとてもなれない。

 

「ナードには親切にしよう。きみたちは将来、ナードに雇ってもらうことになる可能性が

高いのだから」とは、本書で引かれるさる教育者のことばだという。

 ホモ・サピエンス、何よりもまず知に従ってヒトは定義される。

 経済的なインセンティヴだけが人間の意欲を引き出すわけではない。どころか時代を

切り拓く者はたいていにして、差し出された既存の価値観を後追いすることしかできない

ジョック的なものの向こう岸から突然にして現れる。

 奇しくも私の師は言った、勉強は仕事かもしれないが、学問は遊びだ、と。

 教育の投資効率ばかりを謳い、楽しいとか面白いという動機づけを蔑ろにする社会に

いかなる未来が広がっているというのだろうか。

 つくづく思う、好きこそものの上手なれ。