オーガニック

  • 2017.10.29 Sunday
  • 21:27
評価:
井上 祐一,小野 吉彦
柏書房
¥ 3,024
(2017-06-01)

「フランク・ロイド・ライトは、『有機的建築(Organic Architecture)』の提唱者として

知られています。……生き物(植物、動物)が環境に適応し、生命を維持するために、

本来もっていた形態や機能を変化させて進化したように、『かたちと機能はひとつの

もの』……であるというのです。建築においても、もともと生命がもっている『内部に

根づいた本質』『生得的な原理』をもとに設計することで、内外が一体となる連続性を

もった空間が成立するとしています」。

「ライト式」なる語は、「ライト設計の帝国ホテルに対する呼称として生まれた」という。

そしてこの語は、「多様な表現の用語を生み出して一世を風靡し、建築界のみならず

一般社会に一種のブームを巻き起こしました。この強烈な旋風は、10年あまり続き

ましたが、やがて表舞台から姿を消しました」。

 なるほど、「ライト式」の粗製乱造は流行の気まぐれと景気悪化に伴って滅びた。

ところがどうして、ライトの弟子たちの手による建築物には今なお生き永らえるものが

存在する。そんな真正の「ライト式」をめぐる旅が本書。

 

 眼福、とはまさに本書のごときを指して言う。

 それはまるで映画のセットを思わせるような、重厚にして華麗、さりとて豪奢に

溺れるわけでもない。そしてその印象をさらに強くするのは「『有機的』という言葉、

つまり『一体化された統合性』に裏打ちされている。言い換えれば、家具や照明器具

などは建築と一体のものであるから、すべてが同じ設計者の手で同時にデザイン

されることになる」。これらを指して昭和モダンというのだろうか、ランダムにめくっても、

とにかく一枚一枚がカットとして完成されている。分業化が進んだことで、こうした調和を

コーディネイトすることはもしかしたら難しくなっているのかもしれない、だとすれば、

まさしくお金では買えない何かがそこにはあるのだろう。

 しかもそれでいて圧巻なのは、まもなく1世紀が経とうかというのに、これらのうちの

少なからぬものが今でも住居として営まれている、という点にある。当然、風雨の摩耗は

避けられない。手入れにもコストがかかるだろう。さりとてアンティーク趣味に根差した

クールとも違う。これが「有機的」のなせる業なのだろうか。

 

 不満と言えば、間取図がないことくらいだろうか。とはいえ、住人のプライヴァシーや

セキュリティを考えれば当然の措置とも思える。

「ライト式」との表現が示唆するように、F.L.ライトというよりは一番弟子・遠藤新の本である。

 ユニヴァーサル・デザインなる語が示すように、「機能」の定義は時とともに変わりゆく。

ただし、空間芸術としての壮麗は容易く朽ちるものではない。

 今に息づくその才能が再発掘された、というだけで価値ある一冊。

似て非なるもの

  • 2017.10.17 Tuesday
  • 23:42

87点の水彩画は、ロイヤル・コレクション所蔵の自然史にまつわるスケッチや水彩画の

ひときわ優れた5つのグループに分類されている。年代としては、15世紀後半から

18世紀初めにかけての250年にわたる大航海時代。アフリカやアジア、アメリカへの

航海によってヨーロッパに人々の世界に関する知識が変貌した時期のものである。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452‐1519年)はその初期に活躍し、イタリアの動植物を、

ルネサンス特有の科学的探究心を持って記録したことで知られている。100年以上

のちにはカッシアーノ・ダル・ポッツォ(1588‐1657年)がローマで、アレクサンダー・

マーシャル(およそ1625‐1682年)がロンドンで、探検家や貿易商たちがヨーロッパに

持ち込んだ多くの新種を目録にした。芸術家のマリア・シビラ・メーリアン(1647‐1717年)と

マーク・ケイツビー(1679‐1749年)は自ら新世界へと旅し、そこに自生している新種や、

それまで知られていなかった種を記録した。

 本書のページをざっとめくっていくと、これらの芸術家たちが実にさまざまな手法で

自然を記録したことがわかるだろう。……共通の土台となっているのは、芸術家たちの

自然界に対する並外れた関心であり、それは開拓者のようにアメリカ大陸へ冒険に

出かけた者にも、自らの庭で対象を見つけた者にも同じように見られる。どの芸術家も、

丹念に観察し、描くことによって、自然界の豊かさを把握したいと願っていた」。

 

 極めて教科書的なルネサンス論も紹介される。

 例えば「レオナルド・ダ・ヴィンチは、動物や植物を新しい視点で観察するようになった。

どのように成長し、動き、繁殖するのかを理解するために、その動きをスケッチしただけで

なく、分解もした。プロの芸術家として、馬を絵画や彫刻の題材にスケッチしなければ

ならないときには、筋肉がいかに骨格を動かしているかを研究した」。

 とはいえ周知の通り、ウマのギャロップにおける脚運びが把握されるようになったのは、

写真や動画技術が開発されて以降のこと。

 本書をたまらなく面白くするのは、写実主義、ただしありのままを閉じ込めることなど

あり得ない、というそのはざまにこそある。

「ダ・ヴィンチはドラゴンも描いた。その存在を本当に信じていたのだろうか? それは

ともかく、動物の動きの仕組みについて理解していたことで、ダ・ヴィンチはネコを

スケッチしていたのと同じ紙の上に、勝るとも劣らぬほど現実味のあるドラゴンを描い」た。

 例えば表紙中央下部に配された茶の毛で覆われた四足動物、モデルはタテガミナマケモノ、

航海で運び込まれた標本をもとにしたと見られる。「実際には脚には最低限の筋肉しかついて

いないため、絵のような姿勢をとるだけの力はなく、ましてや保持することはできない。

……画家たちは、ナマケモノのごわごわした毛がかぎ爪の生え際に密生していて、足裏や

肉球がむき出しになっていないことを、正確に描きとっている。しかし、絵のような姿勢を

いつも取っていた場合、毛やかぎ爪がすぐにすり減ってしまうことは一目瞭然である」。

 毛並みをも精緻に写そうと試みたM.ケイツビーは、ことサイズ感となるとおよそありえない

無頓着さを示す。「北米最大の動物である1000キロのオスのバイソンが、ハナエンジュの

小枝の間を恥ずかしそうにすり抜けている様子をなぜ描いたのか、不可解である」。

 

 それでもなお、めくっているだけでとにかく無類に面白い。

 ネットで画像検索しても私には鳥肌しか誘わないはずのナマケモノが、こと絵となると

なぜか吸い寄せられるように見入ってしまう。

「博物画」ゆえにこそつくづく気づかされる。絵画は決して写真の代用品ではない、と。

 本書の図版の多くは、まだリトグラフ技術すら開発されていない時代の作品。

 金に糸目をつけないパトロンの求めに応じたプライヴェート美術館、稀覯本の世界、

かと思いきや、本書においても植物系男子の私のハートをひときわ鷲掴んでみせた

A.マーシャルの「花譜は、科学的な発見の記録としてではなく、楽しみのために描かれた。

出版のためでもなければ、販売のためでもなく(マーシャルは対価として金貨300枚を

提示されたが、断ったとされている)、個人的に楽しんだり、友人や知人に見せたりする

ためのものであった」。

 しかも、彼が水彩画にしたためた植物の多くは、新世界から持ち込まれた種を自身の

庭園で花開かせたもの。そんなオタクの愛情が時を超えて今、手許で簡単に楽しめる。

 なんたる贅沢か。

家族の肖像

  • 2017.08.24 Thursday
  • 21:34

「絵画作品から歴史を読み、あるいは絵画作品を歴史上に位置づける上で、注文主や

パトロンは画家と同等に重要であり、もしかすると画家以上の存在なのであろう。すなわち、

絵画を歴史上に位置づけ、それらから歴史を読むためには、注文主やパトロンの探究

こそが『王道』の一つである、と私は考えてきた。……この本の狙いを一般化して言おう。

本書は、近世以前の画家、作品群、注文主の三者を関係づける試論であり、絵画作品群の

性格や内容について、注文主(享受者であり、パトロンである存在)からアプローチする

試みである。『又兵衛風絵巻群』が、読者の眼に『松平忠直絵巻群』……としても見えて

くるようになればと願いつつ、本論の記述へ入っていくとしよう」。

 

「絵画作品を歴史上に位置づける」。

 パブリックというシステムが当然にない時代の出来事についてこの試みを図る。

現代ならば、美術館やオークションを念頭に、同時代の文化や社会の潮流を探ろうか、

というところだろうが、いかんせん一般公開の作法がない以上、描き手同業者間の

技術的な流行り廃りといった視点はあるにせよ、パトロンに属するプライヴェートな

文脈に着目しようというのはすぐれて筋の通った見立て。

 そして奇しくも、パトロン個人をめぐる探究のはずが、その背後に横たわる「契り」という

当時の道徳観をどうにも浮上させずにはいない。

 

 なるほど、「又兵衛風絵巻群」と松平忠直のテーマ的共通性は見えた。そして、そこには

相当の説得力もあるには違いない。家康の孫にして流刑の地豊後にて生涯を閉じた忠直の

個人的な心境を解き明かす鍵として一連の作品群を機能させる、全きプライヴェートで

ありさえすればよかった17世紀当時の絵画事情に鑑みれば、それで十分なのかもしれない。

 しかし、本書がどうにも不足なのは、絵巻のモチーフとしての物語の論に終始して、

絵画自体への分析にはほとんど話が向かっていかない点に由来する。そのことは、

表紙を除けば、ただの一枚としてカラーグラフが存在しないという点に如実に表れる。

 

 パーソナル・ヒストリーに終始して、美術史としては片手落ちとしか私には思えない。

教養主義の没落

  • 2017.06.20 Tuesday
  • 22:02

 そもそも本書のきっかけは『中央公論』における連載。骨董店を訪ね回ってエッセイを

書いてほしい、とのオーダー。

「敵はもちろん、私が美術骨董についてまるきり無知であることを知っている。だから

無勝手流で書け、というのである。なまじ知っている人が焼き物について、漆器について

講釈を垂れるより。私のようなのが行けばいろいろと、子供電話相談室のようなことが

訊けて却っていいんじゃないのか、というのであろう」。

 

 基本的には店の来歴、主人の経歴、錚々たる常連客の逸話、そんなところから

筆者自身の趣味をしばしばちりばめながら、本書は展開される。

 ルーツを遡れば江戸前期、由緒正しきそんな店から、独学で趣味が高じて起業した、

そんな店まで、骨董店のはじまりとて多種多彩。事業拡大の契機とて、歴史に応じて

様々な顔を持つ。例えば戦後間もなくの「骨董屋というか道具屋」の時代、とりあえず

半信半疑で茶碗を仕入れて東京に持ち帰ると、「我先にと、殺気立って品物を掴み、

札を振り回す。一時間で完売である。……平和が来たのだ。しかしそれは、物を求めて

時に殺気立つこともある平和だった」。あるいは古民具屋の場合、とりわけ地方をめぐる

際は相手の面子を立てることが大切、と力説する。近場で捌けば出所がばれて困窮が

周囲に広まるからか、「同じ地域で処分してくれるな」と念を押される。交渉のときにも

「『売ってくれ』というのではなく、『お分けいただきたい』と言わなければならない」。

 

 老舗の骨董店となれば、出入りした往年の名士の素顔を時に目のあたりにする。

 川端康成の場合、「欲しいものがあると……『これ、貰います。お金はなんとかなる

でしょう』といって持って帰る。それが結局なんともならなくて、品物を返す、というような

こともあった」。「服部時計店の服部正次さんが来てくれて、『町内になったんだね』と

お祝いに時計をくれ、西行の白河切(平安時代の歌切れ)を50万円で買ってくれた。

今なら500万円というところ。有難かった」。他店の証言、「お金持ちほど、モノはいいけど

継ぎ接ぎだらけの服を着てたりしますよ。……服部正次さんはバーバリのコートの襟の

部分が継ぎだらけ、三井高大さんはズボンがその状態でしたよ」。財閥解体のただ中の

「岩崎邸で印象に残ったのは、がっしりしたお屋敷なのに障子が古ぼけてところどころ

破れていることであった。……沢山あっても進駐軍の許可がないと一銭も使えないのだ」。

 

 そうした証言が映し出すのは、「真善美」を信じることができていた時代への淡き郷愁。

「よきもの」を求める同人として交際を持ち人脈を確立する、そんなハブとしての骨董屋。

「よきもの」を「よきもの」とする価値規範の自明性の底抜けが露呈してしまった以上、

マネー・ロンダリングの材を供するでもなければ、美術趣味にもはや浪費すべき金など

あるはずもない。

 教養は遠きにありて思ふもの、そして哀しくうたふもの。

 そんな共同体の礎の崩壊を、骨董は涼やかに映し出しているのかもしれない。

確証バイアス

  • 2017.05.15 Monday
  • 21:10
評価:
岡澤 浩太郎
東京書籍
¥ 1,620
(2014-08-28)

「さまざまな通説や学説は過去の研究者や批評家たちによって成し遂げられた偉業で

ある。ただ、それらを疑いもせず盲信する態度は、そもそも芸術という分野に許された

自由を閉ざすことにつながりはしないだろうか。ならば、このような考えたらどうだろうか。

『傑作』や『代表作』といった『肩書』を取り払う時、その作品から一体何が見えてくるのか」。

 

 ダ・ヴィンチには「名声の割には実力が伴っていない」?

 歴史を描いた名画と目される「民衆を導く自由の女神」は「作家の意図にかかわらず

周りがどんどん付加価値をつけていって、挙句の果てには最高傑作になってしま」った?

 ピカソの「ゲルニカ」は「ただ突貫工事でつくった感じ」?

 別にtwitterから拾ってきたわけではない。本書で取り上げられる15の著名作品は

それぞれに研究者や論者からコメントを集めることで成立しており、上記はその一部、

抜き出せば刺激的と映るだろう言及でも、それぞれに一定の論拠は示されている。

 

 アプローチ自体はつまらないことはない。

 ただし、本書の方法はあまりに簡潔。支配的な定説が紹介されるでもなければ、

ヒアリングを取ったのはひと作品につき23人程度で、良くも悪くも、こんなことを

言っている人もいます、という域を何ら出るものではなく、美術観賞、批評における

多様な可能性を開示する、なんてレベルには到底達するものではない。

 おそらくは単に弱視から生まれたモネの技法が抽象画への道を開いた、なんて

そんなに新しい論だろうか? しばしば触れられる史的位置づけの再検討にしても、

むしろ使い古された構図を繰り返しているだけのようで、逆に何をしたいのか、

当惑を覚えずにはいられない。

 

 単にオピニオン集としてしまった点に、本書のそもそもの「失敗」はある。

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