ハンドパワー

  • 2018.04.27 Friday
  • 22:05
評価:
泡坂 妻夫
KADOKAWA/角川学芸出版
¥ 1,166
(2016-01-23)

 泡坂妻夫。名前だけは知っていた。没後今なお、実験的な手法をもってカルト的な

人気を誇る推理作家、どうせ旧帝大のミス研出身だろう、と考えていた。そんな人が

なぜ家紋? と思いきや、家業は東京神田に代々続く上絵師だという。

「紋の研究書や一般教養書は数多く刊行されましたが、……内容は紋の分類やその紋を

使っている家の家系や由緒の説明に費やされているだけです。紋を歴史的な遺産として

とらえ、紋を作り出した職人の技術的な重要さにはあまり目が向いていない。……その

理由ははっきりしていて、毎日紋を描き続け、紋の難しさや面白さを一番よく知っている

はずの、上絵師が書いた本が一冊もこの世にない、ということです」。

 

 口を動かす前にまず手を動かす。

 そんな職人の粋が無類の説得力をもって迫る瞬間が訪れる。

 ポピュラーな紋の一つに巴がある。レパートリーの中でも、三つの巴が「時計と同じ廻り方、

つまり左巻に渦を巻いている」ものを指して「右三つ巴」、逆に渦が右廻りのものを指して

「左三つ巴」という。いかにもややこしい、結果、研究者には取り違えるものが後を絶たず、

とある出版社に至ってはその区別を統一してしまった、と嘆く。

 しかし職人ならばそんな錯誤を起こすはずがない、と筆者は断言する。というのも、

「巴の左右は、その渦の巻き方による名称ではないのです。

 このことは、巴と兄弟分の卍と巴とを並べて見れば一目瞭然。

 卍は十の形の各先端に、鉤が出た紋です。その鉤が出た方向が左なら左卍。右なら

右卍という名が付けられました。

 卍から少し遅れて弟分の巴が現れました。巴の左右は卍の名称を踏襲しているのです。

卍の丸を見ればそれが一層はっきり判るでしょう。卍の細い部分が巴の尾に対応している。

つまり、左卍と左巴は同類形なのです。

 つまり、卍の左右は渦の巻き方ではなく、作図上から作られた合理的な名称なのでした」。

 

 職人にしてみれば、ただ伝統を踏襲するに留まらない、日々の技術的進化の過程が

紋には込められている、という。そんな試行錯誤の洗練や遊び心が本書にも反映される。

例えば紋と紋をフュージョンさせて新しい紋を作り出す。桐や牡丹といった典型的な紋を

あえて「乱」れさせたり、「踊」らせてみる。丸の内部に収まっていて然るべき紋があえて

その境界を侵犯することだってある。丸のフレームを樹木の枝に見立ててデザインする。

モノトーンの白黒をあえて反転させてみたり、抜いてみたりも当たり前。

 そもそも紋とは量産可能なデフォルメに他ならず、手法はどこかマンガを連想させる。

というか、歴史の順序を辿れば当然、逆の言い方をしなければならない。

 紋がマンガに似ているのではなく、マンガが紋に似ているのだ。

〈子供〉の誕生

  • 2018.03.19 Monday
  • 23:52

「西洋美術には、……なんらかの機能をもち、あるいはなんらかの目的をもって描かれた

美少女たちがいる。本書では、こうした美少女たちを、テーマごとに見ていく。まず

1章で、現代まで続く近代的な美少女像が確立された過程を見る。……第2章では

古代と神話における少女像を、第3章ではキリスト教が推し進めた美少女イメージを

とりあげよう。続く第4章では、中世のあいだ失われていた古代的な美少女像が復活した

ルネサンスの状況を整理し、そして第5章ではバロックとロココ時代の美少女イメージを

読み解いていく。……さらに最後の第6章では、印象派やラファエル前派といった、

19世紀末から20世紀にかけての美少女像の展開を扱う」。

 

 スペインの名手、ディエゴ・ベラスケス作「ラス・メニーナス」。絵画の中央、宮廷で侍女が

仕えるのは王女マルガリータ、当時まだ5歳に過ぎない。ここで注目したいのはその衣装だ。

描かれた17世紀には「まだ、子ども服という概念そのものが存在しなかったのだ。華奢な

骨格にコルセットやパニエをふんだんにあしらったこのスタイルは、子どもという概念が

存在しなかった時分、大人のミニチュアとして扱われていたことを証明する根拠」ともなる。

 

「西洋で子どもという概念が発見されたのは17世紀も過ぎたころのことで、それまで子どもは

大人の縮小版と見なされていた。……そうした環境が一変したのは、18世紀から19世紀に

かけてのことである。……18世紀、啓蒙主義思想の発達によって子どもという概念が説かれた

ことをきっかけに、大人たちの関心は徐々に子どもへと向かっていく。そしてその関心を

後押ししたのが、産業革命による工業化社会だった」。

 それはまるでフィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』を祖述する。本書は単に絵画史上の

美少女の系譜を辿るものではない。そして残念ながら、技術史的な展望が開けるでもない。

そもそもなぜ美少女は描かれるようになったのか、それこそが本書最大のテーマとなる。

絵画を手がかりに、その裏側にある歴史コンテクストを読み解いていく。

 本書の議論は、ヨハネス・フェルメールにひとつの頂を見るだろう。

「真珠の首飾りの少女」。見る者の眼差しに呼応するように少女が見返す。独立戦争を

くぐり抜けたオランダにおける市民社会の発達が、貴族や名士の血を引くでもないだろう

「一般家庭の子女」を絵画の主題に変貌させた。それまで顧みられることのなかった少女が

描かれる対象、見られる対象として、こちらを見つめる主体へと変わる。

 見る−見られる。交錯する視線がすべてを商品化していく近代自由主義経済を予兆する。

そだねー

  • 2018.03.10 Saturday
  • 22:15

「それにしても、なぜ私はこのような本を書こうと思ったのか。現在私は大学のデザイン

学部という組織に所属し、デザインの研究や教育に携わっている。それもあって、世間を

大きく騒がせたオリンピックエンブレムと新国立競技場の問題に無関心ではいられず、

この問題について何かを考え、語らねばならないと感じたことは確かだ。半面、この騒動に

どこか既視感を覚えたことが、戦前と戦後の連続性について考えるきっかけともなった。

 他方、大阪が2025年の万博再招致に名乗りを上げたというニュースも大いに気になった。

というのも、近年私は万博にどっぷり浸かっていて、国内外の会場や跡地を訪ねて回ったり、

資料収集を進めたりしていたからだ。考えてもみれば、ともに19世紀のヨーロッパに起源を

もつ近代オリンピックと万博はかつて一体のものととらえられていたし、本書で一章を

費やした丹下健三、亀倉雄策、勝見勝、岡本太郎の四者は、いずれも東京オリンピックと

大阪万博の双方に深く関わった人物である。オリンピックと万博をデザインという共通の

フレームを通じて論じてみたいという欲求は、私にとってごく自然なものだった」。

 

 1964年には、戦後復興という主題があった。そこへ来て、日の丸に五輪をあしらった

エンブレムはこの上なく明確なシンボルとして、オリンピックを束ねるに無二の力を放った。

「人類の進歩と調和」という曖昧模糊たるテーマを掲げ、そもそもにおいて、未知の異なる

文化を持ち寄ることを旨とする大阪万博においても、結果的に岡本太郎作、太陽の塔なる

モニュメントをもって現代に語り継がれることとなった。

 ところが、来るべき2020年には「これといったテーマや物語は見当たらない。……多くの

国民を統合し、大会を統率するにふさわしい理念が存在しない以上、理念を視覚化する

エンブレムや開閉会式の会場であるスタジアムのデザインについて、幅広いコンセンサスが

成立するわけもない」。

 

 筆者は結論部において、「混乱の元凶をデザイン・ポリシーの不在」に求める。

 しかし、そもそも本書が一貫して語る論旨はむしろ逆といっていい。鶏が先か、卵が先か、

つまり、そもそも社会が分断されているが故にこそ、「ポリシー」が共通了解化し得ない、

原理的に、誰の手によっても「デザイン・ポリシー」など具現化し得ない。言い換えれば、

いかなるイヴェントももはや国家的たりえず、何らの大義をも持ち得ない。

 そしてこのことは、現代において「デザイン」なるものが置かれた狂おしさにも対応する。

「エンブレムを構成する線や図形のパターンはほぼ出尽くしていて、どの要素をどのように

組み合わせようとも、何らかの先行作品とどこか類似してしまうことは避けようもない」。

ネタバレしきったパターン組み合わせに過ぎない代物のどこに万人を束ねる「ポリシー」を

宿すことができようか。仮にあったとしてもそれは人間工学的、というか動物生理学的な

反応実験の結果データの集積物を超えない。もしくはより直接的に市場の売上伝票か。

バカがバカを煙に巻くだけのポストモダン系おままごともとうに破綻した。かつて「前衛」が

可能と思われたのも、それは単に受け止める側の、そして延いては作り手側の無知が

前提されていたからに過ぎない。

 

 終わってみればすべてにおいて、偽装と偽装と、あと偽装――これほどまでに現代の

美しい国の「ポリシー」を文字通り体現する才能が果たして他にあっただろうか。

 なんだ、現代アートもまだまだ捨てたものではない。

釣りバカ日誌

  • 2018.03.02 Friday
  • 22:58

「過去の中国絵画について語ることも、単に見知らぬ美術の一つを紹介するということで

十分なのかもしれない。過去の日本の人々にはなじみ深い世界、それゆえかえって

『近代化』のなかで痕跡が消され、そこから脱却するためにその存在さえ意図的に

忘れられてしまった世界ではあるが、そんなことは抜きにして、そこにいま光を当てて

みると意外に新鮮でおもしろい……、そのような感覚で中国絵画を知ってもらえれば

十分であるのかもしれない。確かにそれは不思議な魅力に満ちた世界なのである。

 本書は、中国絵画を代表する分野である山水画と花鳥画について、中国の人々が

そこになにを求め、なにを見、なにを託したか読み解くことを通じて、中国絵画という

なじみのない世界の魅力への道案内のつもりでまとめたものである」。

 

 聖書や神話の出来事にかこつけることで、西洋においてヌード描写が正当化された

ように、中国絵画にも種々のテーマをめぐるお約束がある。ポルノ性こそないものの、

本書はそんな決めごとやアトリビュートを簡潔にまとめた一冊。

 中国においてそうしたものを統べるための背景となったのは科挙、官僚制度。

そもそも「自画自賛」なる語は、「画などの観賞の際に題された詩文を指す言葉」で、

絵画はエリートに不可欠の教養だった。

 そんな彼らの好んだモチーフのひとつが漁師。その伝統ははるか『楚辞』に遡る。

「楚国の宰相屈原は、佞臣の讒言によって国を逐われ、江湖を彷徨い、そして

老漁父に出会う。(中略)天下国家のために憂える屈原に対し、漁父はなにをくよくよ

するのかと言い、『世の中が濁っているなら、濁っているのに合わせて生きればよい』

と歌いながら去っていく。そこには、邪なものが横行する世に容れられぬ清廉な政治家

(知識人)である屈原の苦悩、いわば儒教的な価値観に対して、なにものにも縛られず、

拘泥せずに自然に身を任せて生きる自由な精神――老荘的な思想が漁父によって

示されている。彼らの問答はすれ違いのままで、屈原は絶望のうちに汨羅に身を投じる」。

 

 と、別にかくも高尚な文学教養が試されるような主題ばかりが並ぶわけでもない。

 上品に言えば韻を踏む、直截に言えば駄洒落、古今東西人間なんてその程度、

絵画を彩る文人とてその例に漏れるものではない。

 例えば中国においては「天の象徴」、日本においても縁起ものとして担がれる蓮、

その「寓意は、主にその発音が『連』を表すことに由来する。(中略)蓮の実を意味する

『蓮子』という語は、次々に子供(男の子)が生まれるという意味の『連子』と同音である

ことから、蓮の実が子孫繁栄の象徴となった。また、(中略)『蓮』と『恋』が同音である

ことも、蓮の花を恋や結婚への連想へと導く」。

 

 しかもこれらの話が「中国の人々にとってはあまりに当然な事柄であったため、

これらに関するまとまった文献や記録もなかった。こうしたことについて初めて

まとめて出版したのは、中国人でなく昭和初期に中国に滞在した日本人の貿易商

野崎誠近氏であった」。

 時は流れて今や「当然な事柄」でもなくなった本国の者が、氏の『吉祥図案解題』を

逆輸入的にこぞって参照しているのだという。

 本書に記される諸々も、現代を生きるわれわれにとっては「当然な事柄」とも言い難い、

さりとて何気ない日常の端々にその伝統はなお息づく、そんな気づきをもたらす一冊。

オーガニック

  • 2017.10.29 Sunday
  • 21:27
評価:
井上 祐一,小野 吉彦
柏書房
¥ 3,024
(2017-06-01)

「フランク・ロイド・ライトは、『有機的建築(Organic Architecture)』の提唱者として

知られています。……生き物(植物、動物)が環境に適応し、生命を維持するために、

本来もっていた形態や機能を変化させて進化したように、『かたちと機能はひとつの

もの』……であるというのです。建築においても、もともと生命がもっている『内部に

根づいた本質』『生得的な原理』をもとに設計することで、内外が一体となる連続性を

もった空間が成立するとしています」。

「ライト式」なる語は、「ライト設計の帝国ホテルに対する呼称として生まれた」という。

そしてこの語は、「多様な表現の用語を生み出して一世を風靡し、建築界のみならず

一般社会に一種のブームを巻き起こしました。この強烈な旋風は、10年あまり続き

ましたが、やがて表舞台から姿を消しました」。

 なるほど、「ライト式」の粗製乱造は流行の気まぐれと景気悪化に伴って滅びた。

ところがどうして、ライトの弟子たちの手による建築物には今なお生き永らえるものが

存在する。そんな真正の「ライト式」をめぐる旅が本書。

 

 眼福、とはまさに本書のごときを指して言う。

 それはまるで映画のセットを思わせるような、重厚にして華麗、さりとて豪奢に

溺れるわけでもない。そしてその印象をさらに強くするのは「『有機的』という言葉、

つまり『一体化された統合性』に裏打ちされている。言い換えれば、家具や照明器具

などは建築と一体のものであるから、すべてが同じ設計者の手で同時にデザイン

されることになる」。これらを指して昭和モダンというのだろうか、ランダムにめくっても、

とにかく一枚一枚がカットとして完成されている。分業化が進んだことで、こうした調和を

コーディネイトすることはもしかしたら難しくなっているのかもしれない、だとすれば、

まさしくお金では買えない何かがそこにはあるのだろう。

 しかもそれでいて圧巻なのは、まもなく1世紀が経とうかというのに、これらのうちの

少なからぬものが今でも住居として営まれている、という点にある。当然、風雨の摩耗は

避けられない。手入れにもコストがかかるだろう。さりとてアンティーク趣味に根差した

クールとも違う。これが「有機的」のなせる業なのだろうか。

 

 不満と言えば、間取図がないことくらいだろうか。とはいえ、住人のプライヴァシーや

セキュリティを考えれば当然の措置とも思える。

「ライト式」との表現が示唆するように、F.L.ライトというよりは一番弟子・遠藤新の本である。

 ユニヴァーサル・デザインなる語が示すように、「機能」の定義は時とともに変わりゆく。

ただし、空間芸術としての壮麗は容易く朽ちるものではない。

 今に息づくその才能が再発掘された、というだけで価値ある一冊。