家族の肖像

  • 2017.08.24 Thursday
  • 21:34

「絵画作品から歴史を読み、あるいは絵画作品を歴史上に位置づける上で、注文主や

パトロンは画家と同等に重要であり、もしかすると画家以上の存在なのであろう。すなわち、

絵画を歴史上に位置づけ、それらから歴史を読むためには、注文主やパトロンの探究

こそが『王道』の一つである、と私は考えてきた。……この本の狙いを一般化して言おう。

本書は、近世以前の画家、作品群、注文主の三者を関係づける試論であり、絵画作品群の

性格や内容について、注文主(享受者であり、パトロンである存在)からアプローチする

試みである。『又兵衛風絵巻群』が、読者の眼に『松平忠直絵巻群』……としても見えて

くるようになればと願いつつ、本論の記述へ入っていくとしよう」。

 

「絵画作品を歴史上に位置づける」。

 パブリックというシステムが当然にない時代の出来事についてこの試みを図る。

現代ならば、美術館やオークションを念頭に、同時代の文化や社会の潮流を探ろうか、

というところだろうが、いかんせん一般公開の作法がない以上、描き手同業者間の

技術的な流行り廃りといった視点はあるにせよ、パトロンに属するプライヴェートな

文脈に着目しようというのはすぐれて筋の通った見立て。

 そして奇しくも、パトロン個人をめぐる探究のはずが、その背後に横たわる「契り」という

当時の道徳観をどうにも浮上させずにはいない。

 

 なるほど、「又兵衛風絵巻群」と松平忠直のテーマ的共通性は見えた。そして、そこには

相当の説得力もあるには違いない。家康の孫にして流刑の地豊後にて生涯を閉じた忠直の

個人的な心境を解き明かす鍵として一連の作品群を機能させる、全きプライヴェートで

ありさえすればよかった17世紀当時の絵画事情に鑑みれば、それで十分なのかもしれない。

 しかし、本書がどうにも不足なのは、絵巻のモチーフとしての物語の論に終始して、

絵画自体への分析にはほとんど話が向かっていかない点に由来する。そのことは、

表紙を除けば、ただの一枚としてカラーグラフが存在しないという点に如実に表れる。

 

 パーソナル・ヒストリーに終始して、美術史としては片手落ちとしか私には思えない。

教養主義の没落

  • 2017.06.20 Tuesday
  • 22:02

 そもそも本書のきっかけは『中央公論』における連載。骨董店を訪ね回ってエッセイを

書いてほしい、とのオーダー。

「敵はもちろん、私が美術骨董についてまるきり無知であることを知っている。だから

無勝手流で書け、というのである。なまじ知っている人が焼き物について、漆器について

講釈を垂れるより。私のようなのが行けばいろいろと、子供電話相談室のようなことが

訊けて却っていいんじゃないのか、というのであろう」。

 

 基本的には店の来歴、主人の経歴、錚々たる常連客の逸話、そんなところから

筆者自身の趣味をしばしばちりばめながら、本書は展開される。

 ルーツを遡れば江戸前期、由緒正しきそんな店から、独学で趣味が高じて起業した、

そんな店まで、骨董店のはじまりとて多種多彩。事業拡大の契機とて、歴史に応じて

様々な顔を持つ。例えば戦後間もなくの「骨董屋というか道具屋」の時代、とりあえず

半信半疑で茶碗を仕入れて東京に持ち帰ると、「我先にと、殺気立って品物を掴み、

札を振り回す。一時間で完売である。……平和が来たのだ。しかしそれは、物を求めて

時に殺気立つこともある平和だった」。あるいは古民具屋の場合、とりわけ地方をめぐる

際は相手の面子を立てることが大切、と力説する。近場で捌けば出所がばれて困窮が

周囲に広まるからか、「同じ地域で処分してくれるな」と念を押される。交渉のときにも

「『売ってくれ』というのではなく、『お分けいただきたい』と言わなければならない」。

 

 老舗の骨董店となれば、出入りした往年の名士の素顔を時に目のあたりにする。

 川端康成の場合、「欲しいものがあると……『これ、貰います。お金はなんとかなる

でしょう』といって持って帰る。それが結局なんともならなくて、品物を返す、というような

こともあった」。「服部時計店の服部正次さんが来てくれて、『町内になったんだね』と

お祝いに時計をくれ、西行の白河切(平安時代の歌切れ)を50万円で買ってくれた。

今なら500万円というところ。有難かった」。他店の証言、「お金持ちほど、モノはいいけど

継ぎ接ぎだらけの服を着てたりしますよ。……服部正次さんはバーバリのコートの襟の

部分が継ぎだらけ、三井高大さんはズボンがその状態でしたよ」。財閥解体のただ中の

「岩崎邸で印象に残ったのは、がっしりしたお屋敷なのに障子が古ぼけてところどころ

破れていることであった。……沢山あっても進駐軍の許可がないと一銭も使えないのだ」。

 

 そうした証言が映し出すのは、「真善美」を信じることができていた時代への淡き郷愁。

「よきもの」を求める同人として交際を持ち人脈を確立する、そんなハブとしての骨董屋。

「よきもの」を「よきもの」とする価値規範の自明性の底抜けが露呈してしまった以上、

マネー・ロンダリングの材を供するでもなければ、美術趣味にもはや浪費すべき金など

あるはずもない。

 教養は遠きにありて思ふもの、そして哀しくうたふもの。

 そんな共同体の礎の崩壊を、骨董は涼やかに映し出しているのかもしれない。

確証バイアス

  • 2017.05.15 Monday
  • 21:10
評価:
岡澤 浩太郎
東京書籍
¥ 1,620
(2014-08-28)

「さまざまな通説や学説は過去の研究者や批評家たちによって成し遂げられた偉業で

ある。ただ、それらを疑いもせず盲信する態度は、そもそも芸術という分野に許された

自由を閉ざすことにつながりはしないだろうか。ならば、このような考えたらどうだろうか。

『傑作』や『代表作』といった『肩書』を取り払う時、その作品から一体何が見えてくるのか」。

 

 ダ・ヴィンチには「名声の割には実力が伴っていない」?

 歴史を描いた名画と目される「民衆を導く自由の女神」は「作家の意図にかかわらず

周りがどんどん付加価値をつけていって、挙句の果てには最高傑作になってしま」った?

 ピカソの「ゲルニカ」は「ただ突貫工事でつくった感じ」?

 別にtwitterから拾ってきたわけではない。本書で取り上げられる15の著名作品は

それぞれに研究者や論者からコメントを集めることで成立しており、上記はその一部、

抜き出せば刺激的と映るだろう言及でも、それぞれに一定の論拠は示されている。

 

 アプローチ自体はつまらないことはない。

 ただし、本書の方法はあまりに簡潔。支配的な定説が紹介されるでもなければ、

ヒアリングを取ったのはひと作品につき23人程度で、良くも悪くも、こんなことを

言っている人もいます、という域を何ら出るものではなく、美術観賞、批評における

多様な可能性を開示する、なんてレベルには到底達するものではない。

 おそらくは単に弱視から生まれたモネの技法が抽象画への道を開いた、なんて

そんなに新しい論だろうか? しばしば触れられる史的位置づけの再検討にしても、

むしろ使い古された構図を繰り返しているだけのようで、逆に何をしたいのか、

当惑を覚えずにはいられない。

 

 単にオピニオン集としてしまった点に、本書のそもそもの「失敗」はある。

千と千尋の神隠し

  • 2017.03.19 Sunday
  • 20:48

「彼女たちは湯女と呼ばれた。……描かれているのは6人の女だ。さまざまな色と文様の

小袖は、彼女たちの肉体の曲線をかなり露にしている。……容貌は概して美しくはない。

凡庸というよりもむしろ野卑で醜い(でも何だか颯爽としている)。何の背景もない空間を

女たちは歩く。足袋と草履を履いて。……『湯女図』の画面では何が起こっているのか。

この画が描いたのは何だったのか。つまり『湯女図』とは何か。私たちがほんとうに知るべき

ことはまだ解き明かされていない。……ここでは彼女たちの視線の意味を考えること、

失われた〈視線のドラマ〉を復原することを手掛かりに、問い始める」。

 

「湯女図」の左から3番目、桃色をまとい、顎を突き出し胸を張り、後ろに気を留めず歩く、

ひときわ目を引くこの女、何かに酷似している。

 可翁筆「寒山図」。

 並べてみれば一目瞭然、「ともに真横を向いた姿を左から描かれており、顔を少し上げて

前方中空を見る姿勢と目付き、大きく前にたるんだ着物の前身頃と後方に反った下半身とが

作る『く』の字のフォルム、前身頃と後方に流れる両袖の組み合わせでできる上半身の

三角形などが共通する」。

 もちろん、単に写実的に重複するだけではない。両者を跨ぎ、聖俗、貴賤が交差する。

そしてそれは「見る」‐「見られる」のねじれをも誘い出すだろう。

 

 無論、コンテクストにせよ、画そのものにせよ、歴史に霧消した部分が大きすぎる以上、

どうにも「推理」の域を超えることは難しい。

 とはいえ、それは本書の議論の面白さを否定するものではない。

 例えば「湯女」と「遊女」との違い、という紙それ自体の上においては描かれざる部分を

透視して、あるいはその延長に横たわっただろう何かを束の間覗き見てしまうこの興奮、

いかに絵を前に格闘してもそうは浮き出すことのない、美術史の楽しみが詰まった一冊。

春の再来

  • 2016.12.19 Monday
  • 21:11

「西洋美術には……『美少年が描かれなければならない』シーンが頻出する。本書では、

こうした西洋美術におけるモチーフとしての美少年たちを、テーマごとに見ていく。

そのためにはまず、西洋において少年がもつ美しさが初めて認識され、規定された

古代ギリシャ時代から始めなければならない。その次に、そうして誕生した『少年の

美しさ』が、神話世界においていかにして地歩を固めていったかを見る必要があるだろう。

 しかしこの価値観が大いなる危機に直面した時代が中世……キリスト教中心の時代に、

美少年には肯定的な意味と否定的なそれとの両方が与えられた。続くルネサンスでは、

ようやく復活した古代ギリシャ、ローマ時代の文化の重要な一要素として、美少年もまた

復活する。その後の西洋世界では、ルネサンス時代に規定された美少年像を基本的に

継承しつつ、複雑化する社会状況にあわせて、さまざまなヴァリエーションが誕生していく

ことになる」。

 

 このシリーズの例に漏れず、系統づけて並べられた豊富な口絵だけで既に、一定の

用は満たされている。

 二次元ポルノ規制論者はなぜこれを問題視しない? と思わずにはいられない表紙、

ウィリアム・ブグロー先生の透き通るような筆捌きは本書でも堪能できる。世紀の名画

「世界の起源」、ギュスターヴ・クールベがこんなにイケメンだとは知らなんだ。

 神話や聖書にかこつけてしまいさえすれば、何を描いても構わない。

 印象派とそれ以降は、なぜこの自由を手放してしまったのだろうか。

 

 ガニュメデス、エンデュミオン、クピド、トビアス、ダヴィデ――なるほど、「美少年」素材と

その文脈についてはある程度分かった。

 ただし、本書において若干疑問に思えてならないのは、時代における「美」の定義の

変遷があまりに曖昧なこと。19世紀における「美少年」の定義と古代ギリシャのそれは、

たとえ同様のモチーフを扱っていたとしても、多分の食い違いを見せるだろう。さりとて、

美術史の系譜において、後の世の描き手が先行作品の影響を被らずにいることなど

あり得ようはずもない。

 そういった点についての吟味にいささかの不満を残す。

 

 全世界70億のやおいオタ、ショタコンのみなさん、出番です。

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