スポンサーサイト
- 2020.05.10 Sunday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
|
「日本の建築の長い流れの中に短い安土桃山時代を置くと、まず信長により
国籍不明の天守閣が突発的に出現したこと、次に秀吉の聚楽第で書院造が
ピークに達したこと、そして利休の茶室が生まれたこと、この三つをもたらした
時代といっていいだろう。頭の中に三つを同時に思い描くなら、あまりのちがいに
困惑し、統一性に欠けるメチャクチャな時代と評するしかあるまい。
もちろん困惑の理由は利休の茶室で、どうして、和漢洋混在の天衝く建物と
豪華絢爛の大建物と並んで、広さ畳二枚の小屋のような建物が登場するのか。
利休は、社会的には信長と秀吉の茶頭として和漢洋混在と豪華絢爛の中心に
いながら、なぜあのような美学を生み出したのか」。
禁欲とはすなわち、欲を知り尽くしそれに一度溺れたもののみに許される業、
ものより持たざる者においてはそれを禁ずる必要すらない。
「材料にはじまり構造、技術、平面に至るまで、書院造の到達点を一つずつ
数えるようにして取り去り、汚し、切り捨てた。そして、代わりに、極端に狭い
平面の上に、ありあわせの材と構造を素人じみた技術で組み立て、仕上げた」。
かくして天下人を招く茶室、広さ二畳の待庵は利休の手により完成する。
本書では、「豪華絢爛」なる時代の徒花として、極小空間は説明されない。
わび茶の系譜の中で、待庵の成立要件は、いみじくも「豪華絢爛」にこそある。
「反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉という
物と力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は
成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茶室という茅屋の内に
封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる」。
「待庵には、水、火、シェルターの三つがあり、三つしかない」。この「極小が
極大を揺るがし、極大は変質して新しいスタイル[数寄屋造]が生まれた。
この日本はむろん世界の建築史上でも極めて珍し」い。
本書を読むにつれて、逆説的に疑問が芽生える。建築史としての興味深い
議論が展開されるほどに、そもそもの「茶室」の定義を見失う。待庵からして
住まいとの差別化、茶に固有の特徴を見出しがたい。ある面でそれを何より
如実に示すように、「茶道の世界では、作法や茶道具や床の飾りに比べ、
それらを容れる器としての茶室への関心は薄い。……千家が茶室で使う
道具を作るため……『千家十職』の制が整っているが、その中に大工職はない」。
利休の流れを引いているはずの総本山からしてこの始末。極論に走れば、
公園のベンチに腰かけペットボトルの茶を流し込む、それはもはや緑茶である
必要すらもなく、ただし、そこに「茶室」の成立を見ていかなる妨げがあろうか。
巻末、磯崎新との対談の中で語る。
「茶室の本質はやはり仮設。ブリコラージュなんですよ。……そのブリコラージュの
対極としてあるのが、ヨーロッパでいえば教会、日本で言えば社寺」。
そもそもの『野生の思考』の議論はある面、藤森の語りを裏切るように
展開していく。つまり、「教会」や「社寺」の堅牢にも見える論理体系とて、
その皮をめくってみれば、原住民と同様の、その場その場の帳尻合わせ、
まさしくブリコラージュなのだ、と。すべて形を持つとは、ブリコラージュの軛に
服すること、所与の拙い切り貼りでしかあれぬことを「反転」して祝福する。
「人は一人、天地の間にあり、表現はそこからはじまりそこに帰る」。
なんたることか、正反合をなぞるように、利休、C.レヴィ=ストロース、藤森は
奇妙な仕方で「茶室」を超えて、ブリコラージュの「悟り」に交わる。
「中国や西洋から見て、現代人から見て『変わっている』日本美術。何故こんな風に
描いたのか、どうやればこんな風に描けたのか『ふしぎ』な日本美術。『ヘンな
日本美術・史』とみた場合はそういう事です。『ヘンな・日本美術史』とみた場合は、
古い順に並べただけで『美術史』気取りとは、変わっているなあ、と云った所です。
肝心の内容はと云えば、私が得手勝手に先達の絵を見立てているのを、余談も
含めて記しただけです。まあ、でも私の気分としては、『やあ、色んな絵が在って
面白いぞ、先達は凄いなぁ、ようし自分も頑張ろう』と云った所でありますので、
悪しからずとって頂けたら幸いです」。
「絵がいくら現実に迫っても、ただそれだけでは限界があります。単に技術としての
透視図法的写実に特化してしまった部分があったために、西洋の画の世界は、
あれだけ真に迫った絵を描く事ができながら、写真が出てきた途端にその部分を
芸術から放り出してしまうのです」。
そしてそこに日本美術史の「ヘン」がある。明治の文明開化政策の一環としての
西洋絵画との邂逅は「あらかじめ終わりを含んだものとして」果たされる他ない。
「かつての日本人が透視図法と云う概念を知らずにいる事ができたのに対して、
現在の私たちは、既にそれを知ってしまいました」、よりにもよって技術の黄昏に。
西欧が非透視図法としてのジャポニズムを発見するこの逆流現象は必然だった、
さりとて日本人がトレンドの先駆者たることがかなったわけでもない、あたかもそれは
「自転車に乗る事よりも、一度知った乗り方を忘れる事の方が難しいように」。
では、その末裔たる筆者はどこを目指すか。手がかりは「洛中洛外図」にある。
「これはどこかから見たままを描いた絵ではあり得ません。様々な視点から見える
風景を飲み込んだ上で、それらを合成して描いた『地図』なのです。……絵描きは
基本的に嘘つきです。ただ、その嘘は観た人の心の中にこそ『本当』が焦点を
結ぶように事実を調整した結果なのです。どれくらい上手に嘘をつくか、嘘をつく事で
自分の描きたいものをどれだけ表現できるかと云う事を追求している」。
そして筆者は暁斎に「内発性」の物語を読み取る。対立概念としての「外発性」、
すなわち「天心の危機意識と同志フェノロサの理想の押し付けが生み出した」
ものとしての。ただしもちろん、透視図法以前の楽園へと戻ることはできない。
つまり、「内発性」の神話は、外部への接続回路を絶たれた各人の「嘘」への
落着を見る他ない。
至るべくして、美術史が自己再帰性へと着地する。
モナドには窓がない。
「地図」と「嘘」の非同一性のはざまで。本書は単に筆者個人のマニフェストではない、
正統な日本美術史の叙述だ。
「1914年4月、すべてがうまくいっていたわけではなかった。モネの最も親しい
友人によれば、彼は『心を引き裂き、精神を荒廃させる大きな悲しみ』に苦しんで
いたのだ。……なかでも最悪だったのは、1911年のリューマチによる[妻]アリスの
死だった。……彼女の死の一年後、継娘のジェルメーヌにはこう書いている。
『画家は死に、残ったのは慰めようのない夫だ』……1912年の夏に、彼は突如
視力が衰え始め、仕事はさらに難しくなってきた。……何という運命の悪戯か、
驚嘆すべき視力は、今や濁って鈍くぼんやりとしている。……そしてさらに悲しみが
襲った。1914年2月、彼の息子ジャンが46歳で他界したのだ」。
失意の淵に沈むモネを、50年来の友人にして大政治家、G.クレマンソーが
訪れる。「ジヴェルニー訪問の目的は、単にモネの食卓や彼の庭園の眺めを
楽しむためにパリや絶え間ない選挙の話から逃れたのではなかった。彼は
いつものように、慰めと勇気づけのためにきたのだ」。そして言った。「『モネ、
君はダイニングルームを飾る睡蓮の絵を注文してくれる大金持ちのユダヤ人を
探し出すべきだ』
クレマンソーは、モネの反応が良かったことに驚いたが、とても喜んだに違いない。
確かに彼はある意味、クレマンソーが予期しない形で応答した。なぜなら、これら
年月を経たカンヴァスに手を加えるのではなく、全く新しく、さらに野心的な池の
絵の連作をつくり上げると決めたからだ」。
こうしてモネが2メートル×4.3メートルの巨大カンヴァスの連作、「大装飾画」
構想に取りかかった同じ年、彼の祖国はドイツからの宣戦布告を受ける。
巨大絵画で戦争を主題化したと耳にすれば、誰しもがピカソの『ゲルニカ』に
思い至ることだろう。およそ対照的に、モネと聞いて一般的に連想されるのは、
鮮烈な色彩と疾駆するタッチに基づく「平和的な瞑想の天国」。
しかし戦争は密やかに彼の画境に影を落とした。「ジヴェルニーのしだれ柳は、
そのねじれた枝や暗い色調から、拷問と苦痛を示唆している。……モネは描く
ことによって彼自身大戦から気を逸らそうとしていたのかもしれないが、戦争は
これらのカンヴァスの隅々にまで満ちていたのだ。それらは、モネを単に『偉大な
抗鬱薬』とみなしていた人々への確固とした反撃だった」。
ベートーヴェンから聴覚を奪ったメフィストフェレスの不条理が再来する、
かつて「光の深淵」を捉えた瞳はいつしか、白内障に蝕まれていた。
ある者は、「モネは二度埋葬されたと言った。最初は1926年の死後、そして
二度目は1927年のオランジュリーの公開によってだ」。このとき歴史の審判は、
印象派の終焉を告げていたかに見えた。「秩序へ戻れ」ムーヴメントに従い、
「堅固さや太くはっきりとした線、はっきりとした輪郭、単純な形の再確認」へ
転向した画家とは袂を分かち、モネはただひとり「彼の庭の池に集中した」。
そうして最晩年の『睡蓮』は生み落とされた。
睡蓮のフランス名といえばnymphea、ニンフに紐づけられる。水の精が汚れを
逃れて花へと変じる、筆者のイメージも専らそこから派生していく。
しかし、日本人ゆえに見える連想ゲームにあえてモネを束の間巻き込む、
此岸を離れ涅槃に至る、泥より出でて天へと至る、そう、蓮華座へと。
「肉体が壊れていく時、永遠の光が差してくるのだ。……彼の目が薄い膜で
覆われ、視力がゆっくりとかすんできた時に『飛んでいる太陽を捕まえ、
歌ってきた』モネは、彼が常に追いかけ、大事にしてきた移ろいゆく光線に
ますます熱心に焦点を合わせたことは否定できない」。
画壇の流行を離れて、輪郭と色彩を溶かしたあの絵の世界は、単に視力の
衰えゆえか、それとも――
ジャポニスムに傾倒したモネを、ついぞ足を踏み入れることのなかった
かの地の蓮華と絡めて見るのは、果たしてただの空想か。
かつて彼はインタビューに応えて言った。
「もしあなたが私を誰かと結びつけたいのなら、それは古い日本人だ」。
「ライフワークは単なる集団肖像画に終わってはならない。彼[ベラスケス]は、
青年期のボデゴンをスタート台として肖像画、風景画、さらには聖書、神話、
歴史を題材にした物語絵や風景画など、絵画ジャンルのすべてをこれまで
応用自在に手がけてきていた。いまはそれらの総合として、肖像画と物語絵を
融合したような記念碑、絵画を超えるような絵画、言わば絵画が絵画を語る
『メタ絵画』を描かねばならない。そこに絵画芸術の全要素を、同時に彼の
人生のすべてを統合するのだ。そう決意したベラスケスは、当時はアトリエとして
使われるようになっていたこの王太子の間に巨大なカンヴァスと鏡を持ち込んで、
絵筆を執り始めた。絵画史上の名作《フェリペ4世の家族》、愛称《ラス・
メニーナス》の誕生である。それはデカルト流に言えば、『我描く、ゆえに我あり
(Pingo ergo sum)』、自らの目に対する絶対的な信頼(近代的な自我の表層)の
到達点であった」。
ベラスケスの霊性がなせる業か、伝記にしてはるかに伝記を凌駕する。
今でこそ芸術家といえば専らボヘミアンの別称を云うが、この時代は違う、
宮廷画家を拝命しつつも、同時に官吏としても仕え、遂には王室配室長
(日本流に言えば侍従長か、あるいは宮内庁長官か)の座へ上り詰める。
栄光の《ブレダ開城》をしたためたかと思いきや、スペインの斜陽を露わに
図像化してしまったことで「粘着質」と怒りを買う。聖の権化たる時の教皇の
肖像画さえも託された男が、その傍らで宮廷に住まう俗の表象たる道化や
侏儒を素材に自然主義の原野を行く。かつて「顔しか描けない」との酷評を
受けた男が、歴史の相から見れば、期せずして野外制作の先駆者となる。
彼の歩みが孕んだ対立概念の織りなす眩暈を誘うプリズムは、至るべくして
世紀の傑作《ラス・メニーナス》へと至る。鏡を介して交わるはずの視線が
果てなくすれ違う、その乱反射を捉えた絵画は、単に肖像を超えて、物語を
訴えずにはいない。この仕事をめぐり「絵ではなく真実」と評した者がある。
あるいは、このテキストもまた、「画家の画家」の導きにより、神がかりを
宿してしまったのかもしれない。
事実を超えて「真実」がある。
いみじくもそれは人が日常を止揚する物語を希求する所以でもある。
この僥倖はすべて一枚の絵に由来する。《ラス・メニーナス》史観に彩られた
ベラスケスの軌跡は、その延長に本作を生み落とした。
平面で世界は記せる。
誰しもが《ラス・メニーナス》の中にいる。
評価:
フィリップ・フック フィルムアート社 ¥ 3,240 (2018-08-25) |
「美術品の取引の歴史は、美術市場の歴史とは異なる。美術品取引にとって鍵となるのは、
そしてその最も重要な主導者たちの歴史にとって鍵となるのは、美術品を商う画商や
美術商の個性である。それこそが本書のテーマだ。美術品を売ることに対して自身の
想像力と創意工夫と、そして説得力の限りを捧げた一群の魅力的な男たち(そして女たち)
について研究することだ。……画商は、コレクターが買う作品にどれほどの影響力をもち、
その結果、その同時代の人々の趣味にどれぐらい影響を与えているのだろうか? そして
画商は、画家が実際に描くものに対して、どれほどの影響を及ぼしているのだろうか?
あるアーティストやある芸術運動をプロモートすることにおいて、美術史、そしてとりわけ
近現代の美術史は、画商たちによってどれぐらい左右されてきたのだろうか? 本書は、
こうした疑問に答えようとするものだ」。
例えばそれは18世紀のロンドン、その画商は自らの邸宅を販売会場として開放した。
「店に比べると押しつけがましくなく、同時によりスタイリッシュでもあった。美術品という
ものが、気持ちのいい室内空間のしつらえの魅力をいかに高めるかを、その本来のしつらえの
なかで強調する場所だったのだ」。
博物館の展示品に値札を吊り下げる、デパートのはじまりと名高いパリはボン・マルシェに
はるか先立って、こうした陳列方法は美術商の世界では既に採用されていたという。
お目が高い。
1886年のNYで印象派展覧会を企画した際のこと、「アメリカは、旧世界の偏見からは
自由」なはずで、ただしこの勝算にはひとつだけ気がかりなことがあった。「ルノワールの
裸婦像がアメリカ人の清教徒としての本能を動揺させ、税関で差し止められてしまうかも
しれない」。税官吏がカトリック教徒であることを調べ上げた画商はここで一計を企てる。
「一緒にミサに参列し、そして『募金用の盤に、これみよがしに多額の募金を注ぎ込んだ』
のだ……その結果、絵は『なんらの支障もなく』入管が許された」。
そしてこの画商、海のものとも山のものとも知れぬ印象派の黎明期にあって、経済的な
援助を彼らに対して施した。勇気づけるための助言も与えた。ただしそれは独占的な
販売権を引き換えにしていた。もちろん、ただ寄越せというのではあまりに芸がない。
流通をコントロールし、価格調整を容易にすることは必ずや画家サイドにも利益になる、
そんな甘言で垂らし込む。こうしてルノワールもモネもピサロも画商の軍門に下った。
それはあまりによくできた、ベンチャー・ビジネス、コンサルタントのモデル・ケース。
本書を読むほどに知らされるのは、美術の世界にあっても商業原理を逸脱する
例外事項などひとつとしてありやしない、というあからさまな現実。
そして本書に募る不満は、全体を通じてそうした個別事例の箇条書きにしかなっていない
点にこそある。エピソード集として見れば、なかなかに飽きの来ない逸話揃いには違いない。
しかし、それらは点でこそあれ線にはならない。よくできた史学書のように、登場人物の
相互作用のもたらす時代性や立体性がふとした瞬間に舞い降りる、そんな興奮には程遠い。
ただし現代にあっては誰もが知る、リアルにおいて物語などもはや幻想ですらないことを。
世界が志向するのはただ商取引の効率化のみ、アートの空間を例外化し得ない現代社会の
自己言及とでも本書は見なされるべきなのかもしれない。
artの語源はラテン語ars、scientiaの猛威を前にもはや実践知であることさえも
やめて久しい。「名画」の定義はただひとつ、価格の他には何もない。
モノからコトへ。そしてすべてのコトは消費循環の履歴のみを残して、各人を並列的に
通り過ぎていく、そんなモダンの果ての表象として捉えるならばむしろ、稀に見る逸品と
結論づけねばなるまい。