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評価:
セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ 光文社 ¥ 1,944 (2018-02-15) |
「人々が情報を求める検索は、それ自体が情報なのである。人々が何かの事実、
発言、ジョーク、場所、人物、物事、あるいはヘルプについて検索するとき、
それは彼らの本当の考え、望み、あるいは恐れについて、どんな推測よりも
正確に明かすものとなる。人々が時に何かを調べるというよりむしろ告白する
かのようにグーグルを利用するのは――『上司が嫌いだ』、『私はアルコール
依存症だ』、『父に虐待された』など――まさにその好例だ。……本書の目的の
一つは、ビッグデータを使って何ができるのかを立証し、ますます膨れ上がる
干し草の山から情報を見つけ出す方法を示すことだ。本書を通じて、ビッグデータが
人間の心理と行動についての新たな洞察をもたらす実例にふんだんに接し、
本当に革命的なことが進行中なのだと察してもらえればうれしい」。
筆者が自負するに、「本書は実際、強化版『ヤバい経済学』だ」。
とはいえ、2.0、3.0といえるほどのアップデートが果たされているわけではない。
S.レーヴィットの衝撃から10余年、グーグル・トレンドをはじめ、多少のツールこそ
組み込まれど、基本的なアプローチについては何らの更新も見られないのだから。
「人の言葉を信じるな、行動を信じろ」。
なるほど確かにこの現代の懺悔室は何もかもお見通しのようだ。
それは例えば2016年の合衆国大統領選、世論調査に基づくメディア予想は軒並み
ビルの妻の優勢を報じていた。ところが、激戦区における検索結果が伝えるに、
「トランプ クリントン」との入力は「クリントン トランプ」を大幅に上回る
ものだった、人の常として、比較検討の際には自らの推したい側を頭に持ってくる。
さらに検索はこの行動の背景すらも反映してみせる。州単位で相関性の高い
ファクターを検討すると、経済政策でも、プロチョイスでも、銃規制でもなく、
否応なしにひとつの争点が浮上した。
「トランプ支持が最も強かった地域は、『ニガー』という語を最もよく検索していた
地域だったのだ」。
共和党への逆風の中でさえ苦戦を重ねたオバマへの投票行動もまた同じ、
誰よりも雄弁に説明できたのは唯一、「デジタル自白薬」だけだった。
「人々はしばしば嘘をつく。他人に対しても、そして自分自身に対しても」。
「データは、怒れる人々に説教をすると彼らの怒りはかえって燃え盛ることを
示唆している」。
オバマが例の口調でムスリームへの寛容を解くほどに反発はむしろ広がる。
グーグル様はご存知だ、人々が演説を受けて「イスラム教徒」に続けて検索を
かけたのは、「テロリスト」、「原理主義者」といったヘイトの用語であることを。
そこで筆者は提示する。「人々の好奇心を微妙に刺激してやり、新たな情報を
提示し、怒りの種だった人々についての新たなイメージを与えてやると、
彼らの怒りと思考をもっと建設的な方向へと変えられるかもしれない」。
そして事実、教条主義を一時停止して、米国におけるムスリーム・アスリートに
ついて言及した大統領の演説の直後、検索が告げるに「イスラム教徒」への
フォビアは低落した。
ただしそれはかりそめの姿。グーグルがM.アリやK.アブドゥル=ジャバーを
束の間思い出させたところで、しばらくすれば、怒れる自己は復旧される。
だから私は提示する。これからの世界が目指すべきは彼らをウェルメイドに、
セクシーに仕向けることではない。データセットは既に取れた。ゆりかごから
墓場まで、すべての挙動は造作もなく再生できる。スマホを持ったサルの用は
既に済んだ。単調な消費プロトコルに動員されることしか能のない害獣を
アナログからデジタルへと移行するときは既に来た。
計算可能、つまり、計算不要、存在不要。
全知全能の神の寵愛に満ちた楽園は唯一、コンピュータの中に広がる。
映画で描かれるカジノ・シーンの定番といえば、タキシードをまとった顧客が
手練れのディーラーを相手に、美人従業員の運んでくるカクテルに舌鼓を打ちながら、
ブラック・ジャックやバカラに興じ、子どものように一喜一憂する、そんなところか。
しかし、そんな牧歌的な風景はとうにカジノの片隅へと追いやられ、花形の座は
スロット・マシンへと明け渡された。今や業界収益の8割以上をマシンが稼ぎ出す。
ミイラ取りがミイラに。ラスヴェガスの観光地化の雇用を求めて流入した人口は、
いつしかマシンの「リピート・プレイヤー」と化した。ミシュランの星をどれだけ
かき集めても、売上においてマクドナルド一社にすらかなわぬように、一時の余暇で
カード賭博に勤しむに過ぎない富裕層のレジャー客を彼らはたちまち駆逐した。
そして口を揃えて言う。
「私は勝とうとしてプレイしてるんじゃないんです……プレイしつづけるため――
ほかのいっさいがどうでもよくなるハマった状態、〈マシン・ゾーン〉にいつづけるため」、
彼らはマシンにのめり込む。彼らは決して賭け金を取り戻すことを目的とはしない。
商取引の一様式、彼らは金で〈ゾーン〉を買う、たとえ末路に破綻が待とうとも。
「本書は、〈マシン・ゾーン〉の探検に乗り出す。〈ゾーン〉が出現する場所として、
あるいは〈ゾーン〉が逃避を求める場所としての、物質的、社会的、政治経済的
環境という、より広い世界の探検に乗り出すのだ。構造的戦略、テクノロジーの能力、
感情的状態、文化的価値観、人生経験、治療技術、規制の進め方といったものが、
どんな動的回路となって、ギャンブラーが自制心を失いギャンブル産業が利益を
得ようとする中間地帯を生むような状況をつくっているのか?」。
「自然が私たちに与えた配線は、コンピューター・ゲームの装置を予測していな」い、
マシンのもたらす相互作用、依存メカニズムが本書の主題の一つである以上、
ある種の誤読とは知りつつも、以下のような断言をためらわせるものは何もない。
仮にマシンやパチンコを奪ったところで、人々が向かう先はソシャゲか、ドラッグか、
アルコールか、宗教か――いずれにせよ、〈ゾーン〉への渇望が衰えることはない。
本書がギャンブル依存症をめぐる覚え書きを超えて、忘我を求めずにはいられない
歴史の終焉をめぐる病理に関するテキストである点に疑いの余地はない。
「ラスヴェガスはアメリカの鏡なのか手本なのかという議論につきまとうのは、
ラスヴェガスを人間の創意と高度テクノロジーによって姿を変えていく驚異の
街と見るか、それとも消費者資本主義のディストピアと見るかという問題だ」。
その設計には人間工学の粋が具現化される。
「途切れることなく続く曲線状の通路以上に重要なものはない」。
「カジノの客は『直角に曲がることを嫌う』……なぜなら『歩くスピードを落として、
スロットマシンがある通路へ直角に曲がるには覚悟が必要』だからだ」。
そもそも「カーブはカジノの敷地の外から始まっていなければならない。
……あるカジノでは、エントランスに続く通路の曲がり角を直角からわずかに
曲線上にしただけで、……入ってくる歩行者の割合は、それまでの3分の1から
3分の2近くまで跳ね上がった」。
この原理はそのまま最先端のショッピングモールに適応される。
「プレイヤーには、“人間として可能な限り長く”マシンの前にいてもらう、それが
彼らを負けさせる秘訣です……重要なのは、彼らをシートに座らせ、そこに
釘付けにすることです……だから私は、お客の快適さを第一に考えています」。
だから例えば照明や仕切り、BGMなどのデザインを通じて、「プレイヤーを
外界と隔絶することで『プレイヤーは気が散ることなく、自分だけのゲーム環境に
どっぷり浸れる』」。翻って解放感を強調すれば、回転率は自ずと高まる。
この設計思想が例えばフード・マーケティングと軌を一にしないはずがない。
「『知識は力であり、それがどこよりも顕著なのは、ギャンブル業界ではないだろうか』
……数々の革新的な調査やマーケティングがまずカジノで活用され、あとになってから
ほかの領域にも取り入れられていった――空港、金融取引立会場、ショッピングモール、
保険代理店、銀行、国土安全保障のような政策などに」。
ビッグ・データの生み出す〈ゾーン〉が、さらなる〈ゾーン〉への逃避欲求を煽る。
いみじくも「リピート・プレイヤー」が〈ゾーン〉を望むのは、リピート可能な世界が
直視に堪えないからにほかならない。リアルなど、既存のデータセットを通じて
量産可能な商品に過ぎない、そんなあからさまなファクトに基づく、モノからコトへ、
体験型マーケティングの終着点、再帰性の終着点は至るべくして〈ゾーン〉に至る。
自動車の外部性がその必然として殺人を犯す。何を驚くべきことがあろう。
すべてモータリゼーション礼賛者の傾ける同情のいかに安いことか。
かくなる知的退廃の精算は唯一、死を通じて達成される。
「経済成長は今や人々が大切に思うあらゆる物事を代替する指標として崇拝の
対象と化し、私たちはそのためにどんな犠牲もいとわなくなってしまった。
成長の追求のためには、長時間労働に耐え、公共サービスを削減し、格差拡大を
受け入れ、プライバシー権を放棄し、何事もすべて『富を創造する』銀行家たちの
意のままにさせる覚悟が必要だとされている。……無限に増殖することが美徳と
見なされるのは、経済学においてのみだ。生物学では、それは癌と呼ばれている。
……本書が目指しているのは、経済成長に宣戦布告することではない。
そう誤解した人々からは、批判が寄せられるだろう。だが、狙いはむしろ、
経済成長の測定方法のどこが間違っているかを示すことで、それを崇拝の
対象から引きずり下ろすことにある」。
ある研究者に言わせれば、「クズネッツはGDPの創始者からは程遠く、逆に
その最大の論敵であった」。彼にとって、例えば「戦争の準備にかかる費用は、
個人の消費能力の削減につながり、本質的に予防的支出であるために、国民の
幸福度を減少させる役にしか立たない。つまり、もしその種の支出が必要悪で
あるなら、それはプラスではなくマイナスとして計上させるべきなのだ」。
「由緒ある大英図書館は、交付された公的資金1ポンドにつき、イギリス経済に
4.40ポンドの付加価値を生みだしていると主張することで、その活動を正当化
していたが、本来はそんな必要を感じるべきではない。……安全な市街地、
良い就職口、清浄な大気、緑地、地域社会の連帯感、安心感、幸福感などは、
それ自体が良いものであり、正当化の必要はない」。
ここに本書の抱える構造矛盾が凝縮される。「必要はない」ならば、そもそも
この本が書かれる「必要はない」のだから。会話の通じない怪物を相手にする、
それ自体がいかに現代が不毛な時代であるかを証する。サンプリングに基づく
GDPの算出がいかに杜撰なものであるかはもはや承前の通り、それでもなお、
社会は今日もその神話への惑溺をやめようとはしない。「常に懐疑的であれ」と
いくら筆者が訴えようとも、その声を解する能力をそもそも持たない。
知性の足りないサルのカーニバルに巻き込まれる、この事態をもって人間は
不幸と名指す。
今一度、サイモン・クズネッツ御大にご登場願おう。
「貪欲に支配された社会ではなく、啓蒙された社会哲学の観点から見て、益よりも
害をもたらす要素を総計から除外した国民所得の推定を得ることには大きな価値が
ある。そうした推定は、現在の国民所得の総計から軍備費、広告関連費用の大半、
金融や投機にかかわる出費の大部分を差し引くことになるはずだ」。
一世紀にわたり黙殺され続けたこの箴言に加えるべきものを本書は持たない。
「私の最大の目標は、行動経済学がどのようにして生まれたのかを伝え、その中で
私たちが何を学んだのかを説明することだ。……この本は、年代順にトピックを
取り上げる構成になっている。ここで本書の内容をざっと説明しておこう。まず、
私の大学院生時代に時計の針を巻き戻し、授業で習っていたモデルと矛盾する
おかしな行動を集めたリストをつくった原点に立ち戻る。……次に、研究者の道を
歩み始めてから15年間に私の関心の大半を占めた一連のトピック、すなわち
メンタル・アカウンティング、セルフコントロール、公正性、ファイナンスに目を
向ける。……その後、最近の研究を取り上げ、ニューヨーク市のタクシー運転手の
行動やNFLのドラフト、高額の賞金が懸かったゲーム番組の出場者の行動について
考えていく。そして最後に、ロンドンの首相官邸で帯同している刺激的なチャレンジと
チャンスを紹介する」。
「いま、政府が自国経済は深刻なリセッションに陥っていると判断し、全国民を
対象に、一人あたり1000ドルの一括減税をすることを決めるとしよう」。
いわゆる「ホモ・エコノミクス」(本書では「エコン」という)は、例えばライフ
サイクル仮説に従って、こう考える。エコンはこれからあとn年生きることを前提に
使い道を模索する。40年と見積もれば、その間1000ドルを均等に消費するだろう。
より賢明な「エコン」はさらにスパンを拡げて自分の子孫に及ぶ効用に思いを致す。
この減税の財源が国債ならば、いずれ返済しなければならない、その際に税金として
支払わされるのは相続人だろう、ゆえにその臨時所得には手をつけず、遺産に回す。
この超人エコンたちにどうして笑いを誘われずにいられるだろう。
「エコンという架空の存在を想定して、その行動を記述する抽象的なモデルを
開発するのをやめる必要はない。しかし、そうしたモデルが実際の人間の行動を
正確に記述しているという前提に立つのはやめなければならない」。
本書が読者を連れ出すのは、「実際の人間の行動」をあぶり出すための実験や
データの数々。そして、問いかけは必然的に読者の思考テストを促さずにいない。
それは例えばこんな具合。
45ドルのラジオを買いに出かけたあなたは、店員から耳寄りな情報を聞く、
車で10分の支店では同じ商品がキャンペーン中につき35ドルで売っている、という。
さて、あなたはそちらへ出向くだろうか。
そして後日、485ドルのテレビを求めて足を運んだあなたは、やはり同様に、
系列店で現在475ドルで販売されていることを知らされる。値引き幅は10ドル、
果たしてあなたは車を走らせようとするだろうか。
「エコン」にとっては同じ10ドル、でも、「ヒューマン」にとっては違う、きっと。
こんな具合に、読者の関心を誘う工夫が見事に施されている。そして、本書が
すぐれているのは、そのこと自体が筆者のテーマ設定と重なっている点にある。
パターナリズムのトップダウンで強制を加えることはしない。ただし、「人々が
自分自身の目標を達成するのを支援する」ようなアーキテクチャを組むことは
できる。つまり例えば、小用の便器に的のシールを貼りつけることで、尿の飛散を
抑制するように、あるいは、これ面白い、と最後まで読み通すことで、少なからず
行動経済学のレクチャーが果たされるように。
先の10ドル値引きに話を戻してみる。
ラジオだろうとテレビだろうと、少数ながらも「ヒューマン」は、親切な店員に
販売実績が残るように、10ドル程度ならあえて差額を払うことを惜しまない。
ところが、現代の「ヒューマン」はある面「エコン」より先を行ってしまった。
実店舗は商品に触れるショールームに過ぎず、購入はスマホで最安値を探す。
陳列コストがある以上、コスパではネットに勝ち目がない。とても、合理的だ。
そうしてアメリカではトイザらスが崩壊し、かつて小売店をなぎ倒していった
大型モールすらも死屍累々の山を築く。
巨大倉庫と各家庭を輸送手段とITがつなぐ。残るのはせいぜいコンビニか、
ファストフードか、ロードサイドには他に何もいらない。
これが「ヒューマン」の夢見た消費社会の結晶だ。
「基本的な経済学を応用して、まったく別の視点から麻薬取引を分析したら、いったい
何がわかるのだろう? 今いちど麻薬カルテルを詳しく見てみると、合法的な企業との
共通点がいっそう明らかになる。コロンビアのコカイン・メーカーはアメリカの巨大スーパー
マーケット・チェーン『ウォルマート』と同様、サプライ・チェーンを厳格に管理することで
利益を守ってきた。メキシコの麻薬カルテルはマクドナルドが成功させたフランチャイズ
方式で規模を拡大してきた。エルサルバドルでは、かつて不倶戴天の敵と誓い合ってきた
全身タトゥーのギャングたちが、競争するより協力した方が互いの利益になると気づき
はじめている。カリブ海諸国の犯罪者たちは悪臭ただよう刑務所を求人センターとして
利用し、人材確保の問題を解決している。麻薬カルテルは、一般の大企業と同じく
オフショアリングを試験的に取り入れることで、規制の緩い別の国々に問題の解決策を
見いだしはじめているし、一定規模まで成長した大半の企業と同じく経営の多角化も
試みている。そして、路面の小売店と同じくオンライン購入の波に押しつぶされつつある」。
コカインの供給を止めたければ、原材料のコカの葉の栽培を解体してしまえばいい。
そうすれば必然的に末端価格も高騰し、消費の抑制につながるだろう。
なるほど、一見理に適った推論だ。そうしてペルーやコロンビアでは軍を動員してまで
畑を焼き払い、除草剤で木を枯らした。
しかし、コカイン市場では微塵の価格変動も起きなかった。何せコカの葉はカルテルの
独占状態、不作だろうが皺寄せは農家にすべて被せてしまえばいい、それはちょうど
アメリカの小売市場でウォルマートが供給業者を買い叩くのとまったく同じように。
「コカの栽培条件が悪化しても、貧しい農家がいっそう貧しくなるだけで、カルテルの利益が
減ることも、コカインの販売価格が上がることもない」。
人々はやがて「根絶」というムチに代わり、「補助金」というアメの有効性に気づく。
「コカよりも別の合法的な作物を栽培する方が儲かるなら、農家は栽培する作物を変える」。
ところが、この戦略も思わぬ壁にぶち当たる。
「コカイン生産者は、従来よりも60パーセントも効率的にコカからコカインを生産する方法を
開発したのだ」。
市場の圧力にプレイヤーが合理的な反応で答える。これをイノヴェーションという。
規制を逃れるイノヴェーションといえば、脱法ドラッグもその典型。
従来の法を免れる新種の合成麻薬を業者が開発しては、政府からの横やりが入り、
そして業者はまた別の抜け穴を探す。消費者のドラッグ・ニーズが衰える兆候はない。
このいたちごっこの最大の不毛は、安全性、有害性が二の次にされてしまうこと。
「ドラッグ・メーカーの研究開発チームは、より高品質または安全な製品ではなく、販売が
可能な新しい製品を開発することだけに専念している」。
優先順位が危険性や依存性に設定されないことから来る、極めて合理的な帰結。
本書の概要は、麻薬カルテルを素材に用いた入門経済学、マネジメントの実践編。
自由市場のプレイヤーの努力という点において、彼らとてその例外であろうはずがない。
堅苦しい教科書ならば誰にだって書ける。しかし、楽しく学べるというインセンティヴを
付与するとなれば、その難易度は格段に上がる。
そして本書は見事にその条件をクリアする。なにせ刺激に事欠かない。
メキシコでは「試験官の腐敗が進み、賄賂なしでは運転試験に合格するのが難しく
なったため、数年前に試験が廃止された」。エルサルバドルを取材訪問したときのこと、
「街のど真ん中だというのに、どういうわけか携帯電話の電波がまったく入らない。……
囚人の電話をブロックするための妨害電波のせいだ」。
面白い、ということはさらなる副産物を伴う、つまり、そのメッセージが説教臭さを排して
より読者にとって受け入れやすいものになる。伝えようとしていることそれ自体は同じ、
ただし伝え方次第でまるで届き方は違う、そんなPRの実践例を示すかのように。
本書のすばらしさは、テキスト構成そのものが経済学の有効性を体現していることにある。
禁止からコントロールへ。ストイシズムの効力が限定的という点において、薬物依存症も
テキスト読者もひとつとして変わるところはない。