お気に召すまま

  • 2017.12.22 Friday
  • 22:09

 例えば「200996日、ブルガリアの国営ロトは当選番号としてランダムに41523

243542を選んだ。これらの数に特に驚くようなところはない。……驚くべきことはその

4日後に起こった。2009910日、ブルガリア国営ロトは当選番号としてランダムに4

1523243542を選んだ――前回とまったく同じだったのである」。

 1987年のブラック・マンデーを振り返ってある者はその発生確率を10^-160と見積もった。

そして1998年のヘッジファンドの倒産劇には「テンシグマ事象」との説明が与えられた。

ちなみにその確率は、1.3*10^-23だという。20078月の暴落に際して付された形容詞は

10万年に1度の出来事だった。起きないはずのインシデントが本当に金融を襲ったのか、

さもなくば、単にモデルが間違えていたか。

 

 本書の原題は、The Improbability Principle: Why Coincidences, Miracles, and Rare Events

Happen Every Day

「本書のテーマは、到底起こりそうにない出来事である。考えれば考えるほど起こりそうに

ない物事がなぜ起こるのかについて語っていく。だがそれだけではない。なぜ次々起こる

ものなのかも解き明かす。……起こりそうもない出来事にも法則があるのだ。『ありえなさの

原理』とは偶然に関する法則一式に私が付けた呼び名で、それらは総体として、思わぬ

出来事は起こるものであること、そしてそれはなぜなのかを教えてくれる」。

 例えば上記のロトの説明は、「超大数の法則」によって与えられる。つまり、試行回数を

果てしなく増やせば稀な出来事だって混ざり込む。同じく金融の悲喜劇も、「確率てこの

法則」に従う。つまり、正規分布の曲線によれば想定外の出来事とて、その前提となる

分布の条件をいじれば、よく起きる事象へと変貌する。

 だとしたらこんな事例はどうだろう。

 あるIT企業においてCEOに対して「合計6回あったストックオプション付与はすべて、

株価が上昇する直前に往々にして急落時に底値でなされていた」。この「偶然」を報じた

記事に従えば、発生確率は3000億分の1だという。

 

 手計算や目算の及ばない複雑な数式が出てくることはない。宝くじあり、サイコロあり、

具体例もごくごく身近、それゆえしばしば生々しい。目の前の事柄にとかく因果を探って

みたくなるのが人間の性、だから時には落とし穴にもはまる、そんな哀愁も時に滲む。

 総計5つの法則から「偶然」について再考する、統計リテラシーの入門書。

 

 年の瀬の恒例行事、有馬記念のトリビア。

 松田優作が夭逝したその年、単勝万馬券の大穴が内ラチから強襲する。その馬の名は

ダイユウサク。2着には俳優つながりで、メジロマックイーン。

 あるいは、NYのワールド・トレード・センターにテロリスト操る旅客機が飛び込んだその年、

制したのはマンハッタンカフェ、続いたのはアメリカンボス。

 山本モナが不倫で世間を賑わせれば、その年末にアドマイヤモナークが大外からなだれ込み、

長嶋茂雄が来場すれば、同じ誕生日のジェンティルドンナが有終の美を飾る。

 偶然だろうか?

 この本を読んだ後ならば――いや、読まなくても――はっきり言える。気のせいです。

パラダイス・ロスト

  • 2017.11.10 Friday
  • 23:28
評価:
ジェームス・K・ガルブレイス
明石書店
¥ 3,024
(2017-09-30)

「これらの2つは、痛しかゆしである。公衆の側においては、それに見合うような強力な

誘因が存在する単純な政治的な物語をつくり出した。経済学者の関心は、多くの競合する

理論、仮説、主張を育んだ。かつて散らかっていなかった領域は、今では錯綜している。

……私の目標は、論争とは一定の距離を保ちつつ、最も重要な問題を巡るツアーを

提供することである。経済的不平等を扱った本で厳密に政治とは無関係であった本は

ないが、それでも本書は政治的な本ではないのである。

 一貫して、私は2つの信念を保持し続ける。第一に、経済思想史は原理・原則の導きに

なるということである。問題は新しいものではなく、それらの問題と取り組んだ原典、ルソーの

『人間不平等起源論』やアダム・スミスの『国富論』などは今でも読むに値する。第二に、

事実を選り分けようとする誠実な努力は、定義や測定に対する最も注意深い配慮を必要と

するということである。これらの理由のために、読者はいくつかの章が思想史、賃金や所得の

概念、データの出所、特定の尺度の性質に割かれていることを見つけるだろう」。

 

 本書が訴えるのは、「不平等」をめぐる時に意外な側面。

 例えば「教育を増強させれば、所得階層の最上位にある人たちが享受している賃金と

所得の優位性が低下する」という通説が、「2つの困難に直面している」と論じる。第一に、

現状のアメリカにおける所得の不平等は、賃金よりも株価によって説明される、という点。

「錬金術により、ある企業の株式をたまたま所有していた人たちは、スキルと才能の典型例で

あるという主張……と、この主張を現実の問題としてまじめに考えることとは別問題である」。

そして「第二の困難は、供給過剰に反応する賃金調整の需要と供給の話が最も先進的な

経済部門すなわち最も支払いの多い経済部門で雇われている人の報酬の動きを説明

できないことである。……先進のスキルが要求される領域への教育投資は、……宝くじを

買うようなものであり、一か八かに賭けた人のほんの一部の人のみが利益を得るのである」。

 あるいは例えばこんな神話、「多くの経済学者は、長年、『効率』と『公平』は競合する

要求であるという考えを受け入れてきた。つまり、もしより平等主義的社会において、

政治的な価値として公平を追求するならば、総所得や生活水準において犠牲を被らざるを

えない。もしそうであるならば、平等主義的な社会は完全に貧しい人で埋め尽くされると

いうこともありうる」。国家を豊かにしたければ、格差からのトリクル・ダウンに期待するより

道はなく、平等は全体の先細りを誘発するだけ、というわけだ。ところが現実のデータを

参照すると、「驚くべき事実は、そのような社会が世界には存在しないということである。

平等主義的な国家はほとんど豊かである。貧しい国はすべて非常に不平等である」。

あるいは、死亡率や平均余命などの統計を参照しても、「平等主義的な社会はこれらの点に

おいてよりうまくいっている。……地位の低い人々がトップに上る人々より大きな健康上の

問題を抱えている……低い地位にとどまり続けることのストレスがそうした状況を生み出した

主要な力であることは明らかだろう」。

 

 そして筆者は、戦争における「民主主義の勝利」なる仮説に対してこんな対案を掲げる。

「平等な社会のほうが不平等な社会よりも戦争の際にうまく機能するかという問題である」。

さて、過去の統計はいかなる示唆を与えるだろうか。

 1962年以降の戦争において、この説の例外となるのは、インド‐パキスタン間の場合のみ、

ただし、当時のパキスタンがバングラデシュを含んでいた点を加味すれば、不平等の秤が

逆転する公算がかなり高い、という。アメリカはベトナムで膠着を味わい、コソボにおいても

苦汁を飲んだ。かつてゴリアテに挑むダビデに自らをなぞらえたイスラエルは、不平等を

拡張させる中で、経済においても軍事においてもはるかに劣るレバノンもパレスチナもついぞ

蹴散らすことのできないまま、今日に至る。

 考究はさらに遡って進められる。建国期のアメリカとフランスは、「部分的に傭兵を用いる

帝国側との戦争に突入し」、そして勝利を収めた。アメリカは1812年により平等主義的な

カナダに敗北を喫するも、ただし1815年の大英帝国との戦争で名誉を挽回した。他方で、

ナポレオン帝政に戻ったフランスは、1803年にハイチで解放奴隷に屈した。南北戦争に

負けたのも、黒人奴隷を抱える南部であった。第二次世界大戦の勝者もやはり、より平等な

連合国だった。「これらすべての事例において、工業システムがずっと弱くても、また一人

当たりの所得が低くても、より平等主義的な側が勝利しているように見える。……要するに、

これらすべてにおいて際立っていることは、平均所得水準や工業の発展、民主主義の状況が

不利な状況にあったとしても、より平等的な国のほうが通常紛争に勝つという理論について

論ずるのが容易だということではない。際立っていることは、明白にそれと反対の事例を

見つけるのが難しいということである」。

 国力の礎としての平等を諭すに、これほど説得的な仕方が果たしてあるだろうか。

水を得た人

  • 2017.03.25 Saturday
  • 21:27

20151月、ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは、『潜在的な影響が最も大きい

と懸念されるグローバルリスクは水危機である』と発表した。……本書では、水について

何が問題で国際社会はどのように解決しようとしているのか、貧困撲滅や持続可能性の

構築とどう関係するのか、そして日本に住む私たちや日本の経済活動・外交にとって

グローバルリスクへの取り組みがなぜどのように大事なのかを解き明かそうとした。水から

社会と経済と環境の持続可能な未来を考えるため、2014年に国際標準が発行された、

ウォーターフットプリントや、仮想水貿易といった新しい概念も紹介している。気候変動の

人間社会への影響はほとんど水を通じてであるので、二酸化炭素の排出削減以外の気候

変動対策として浮上してきた適応策でも水関連リスクの管理が主要な位置を占めている」。

 

「水危機」と聞けばとっさに浮かぶのはたぶん、洪水や旱魃。

 ただし本書が取り上げるのは、そうした自然災害の枠を超えた「グローバルリスク」の諸相。

「水は文化のバロメータ」、水道へのアクセスは社会インフラ整備、公衆衛生の普及の無二の

指標、「世界各国を比較すると、各人が大量の生活用水を利用しているような国では乳児

死亡率が低い」。また「死なないためには123リットルの飲み水でぎりぎり足りるとしても、

少なくともその10倍、日本の場合には約100倍もの水を、健康で文化的な人間らしい生活の

ためにわれわれは使っているのである」。

 風呂や飲用といった目に見える水だけが水消費のすべてではない。工業とて、農業とて、

末端の製品やサービスにはどこかしら水が使われずにはいない。そんな水利用の可視化を

促す評価指標が「ウォーターフットプリント」、すなわち「水の量的な利用や質の劣化によって

利用可能な水資源量が減ってしまう、あるいはその影響が人間の健康や生態系に及ぶと

いった潜在的な環境影響を定量化した」もの。

 

 本書が伝えるのは、水をめぐる現在情勢に限定されるものではない。

 例えば倫理の教材として。

 環境保護と言えばしばしば想像されるのは反消費活動、しかし現状の世界的な趨勢は、

「生態系の価値がそれ自体にあるというよりは、生態系サービスという便益をもたらすからこそ

生態系は重要である」として、人間のクオリティ・オブ・ライフの維持、向上に軸足が置かれる。

 気候変動の各ファクターの算定が不確実性を孕んでいるからといって、それを「理由に

決断を先送りするのは、卑怯なのか無責任なのか、あるいは単にやる気がない」のだろうか。

 環境規制は時にメーカーがボトムアップで先導する。だって、絶えざる金の借り換えが

企業活動の要である以上、世界にも自社にも未来がなくては困るのだから。

 あるいは仮想水貿易赤字国家における「安全保障は必ずしも一国で閉じた自給自足を

意味しない」のか。「いざとなれば孤立してもなんとかやっていける国家を目指すよりは、

国際協調を目指し、どんな状況でも交易が維持される良好な関係を世界の多くの国々と

築けるように努力し続けるのが現実的」と水は知らせてくれているのかもしれない。

 そんな手がかりが、次から次へと繰り出される。

 

 かつて、U.ベックは『危険社会』において、チェルノブイリを契機に、島宇宙化した世界を

横断して、グローバルに共有されざるを得ない人為のブーメランとしての「危険」を説いた。

 階級を越え、国境を越え、あるいは時間軸すらも越えて、万人に通じるテーマ、ゆえに

新たなる公共性が要求されずにはいない。

 さりとて、人間(笑)にそんな高尚なものを担う能力などあるはずもなく。

 唯一、人工知能による屠殺という仕方で、その合理的な決着は図られる。

ビューティー・コロシアム

  • 2017.03.03 Friday
  • 21:30
評価:
ダニエル・S. ハマーメッシュ
東洋経済新報社
¥ 1,944
(2015-02-27)

「経済学は希少性の学問であり、希少性が呼び起こすインセンティヴを研究するのが

経済学だ。経済学の問題として美貌を扱うには、美貌がめずらしい希少なものでないと

いけない。美貌が希少であるためには、モノの買い手や労働者の時間を使用する人に

とって、美貌が楽しめるものでなければならない。タダで手に入る美貌が十分になく、

だからお金を出してでももっと美貌を手に入れたいと人びとが思うなら、美貌は希少だと

いうことになる。……たぶんどの労働市場でも、見てくれのいい人たちは報酬が割り増し

され、見てくれの悪い人たちは報酬が割り引かれている。いろいろな仕事や、さまざまな

人口統計上のグループに属する人たちで、報酬の割り増しや割り引きがどんな大きさに

なっているかを計測するのは、経済学者がよくやる手口の1つである。美しさについても

彼らの手口がそのまま使える」。

 

2010年、働き手の収入は平均で1時間あたり約20ドルだった。男性と女性の平均で

見ると、40年にわたって年に2000時間働けば生涯の収入は160万ドルになる。ところが、

容姿が並みに満たない働き手の生涯収入は146万ドルにしかならず、一方、並みより

いい容姿の働き手だと生涯収入は169万ドルへと高まる」。

 容姿が稼ぎを変えるのだから、当然に人々は金で美貌を買う。

 服飾や美容関係だけで、アメリカでは年間ざっと4000億ドルが動き、それは個人支出の

5パーセントにもあたる。加えて美容整形に120億ドル。とはいえ、期待とは裏腹に、

払った以上の見返りが戻ることはどうもない。例えば「中国での調査によると、容姿をよくする

ために1ドル使って得られるお金は平均でたったの4セント」、効用は宝くじにすら劣る。

 副題通りの「生まれつき不平等」はどうにも埋まりそうもない。

 

 この本の清々しさは、そして同時に胸糞悪さは、 美醜のインセンティヴ、ペナルティを

時に明確に「差別」と指し示している点にある。

「大枚はたいて人工的になんとかしない限り一生変えようがない特徴がある。そんな特徴の

せいで、彼らは他の人たちに比べて、仕事に就いてお金を稼げる可能性が低い。仕事に

ついても、このグループの人たちは他の働き手に比べて収入は低い。受ける教育の質や量、

その他収入を左右する要因を調整したうえで、なお収入が低い。結婚しても、相方の教育

水準や、ということはお金を稼ぐ力は、他の人たちの相方に比べて、やっぱり低い。会社が

このグループに属する人たちを雇うと、他の会社に比べて売り上げが低くなる」。

 ブサイクが直面するだろうこの問題、実はアフリカン・アメリカンが全く同じ仕方で被る。

 そして筆者はそれゆえ、アファーマティヴ・アクションをもっても埋めようのない根本的な

問題の所在を指摘する。「一見すると差別しているのは雇い主のように思えるのだが、

それは単に雇い主自身がアフリカ系アメリカ人に関わるのを嫌がっているからなんだろうか。

……差別の大部分は、お金でも貰わない限りアフリカ系アメリカ人になんかかかわりたくない

というお客たちの態度も原因である」。

 さらに根深いことに、こうした弱者の保護はしばしば当事者同士での利益相反を起こす。

ブサイクを守れば、他のマイノリティにしわ寄せが行く、ただそれだけの話。

 

「美しい人には働いて収入を得ようというインセンティヴが与えられ、醜い人には労働市場を

避けて家にひきこもるマイナスのインセンティヴが与えられる。……ブスは家に引きこもって

主婦をする。外で働いても美しい女性みたいに稼げないからだ」。

 この問題を、容姿が社会参加を阻む不幸と見るのか、はたまた、そんな社会にはそもそも

参加に値するものなど何もないという証と見るのか。

Hello, World!

  • 2017.01.07 Saturday
  • 20:36

 グーグル先生によれば、ここ数日の私は、フランク・ミュラーの時計を欲し、福島の

結婚式場に何やら用事があるらしい。

 こんなパーソナライゼーションを笑っていられるうちが華……

 

 本書の表題、「フィルターバブル」のひとまずの定義、「フィルターをインターネットに

しかけ、あなたが好んでいるらしいもの――あなたが実際にしたことやあなたのような

人が好きなこと――を観察し、それをもとに推測する。これがいわゆる予測エンジンで

……このようなエンジンに囲まれると、我々はひとりずつ、自分だけの情報宇宙に包まれる

ことになる」。

 もちろん好ましい点もある。例えば同姓同名の中から、私とマッチングしそうな情報を

抽出し、その際にノイズとなる別人については排除してくれたり、と。

 しかし、筆者はひとまず三つの問題点を指摘する。

「まず、ひとりずつ孤立しているという問題がある。……情報の共有が体験の共有を生む

時代において、フィルターバブルは我々を引き裂く遠心力となる。

 次に、フィルターバブルは見えないという問題がある。……情報のフィルタリングが

されているサイトを選んでいないのだから、フィルターバブルを通して届く情報は偏向の

ない客観的真実だと考えるのが普通だろう。……内側から見たのでは、その情報がどれほど

偏向しているのかまずわからないというのが現実である。

 最後に、フィルターバブルは、そこにはいることを我々が選んだわけではないという

問題がある」。

 

 本書の主題は、ITをめぐる見る−見られる問題。

 

 見たいものしか見ない。

「インターネットのパーソナライズドフィルターも、……狭い範囲に注意力を絞りこんでしまう。

ヨガが好きならヨガ関連の情報やニュースばかりが増え、たとえばバードウォッチングや

野球とかの情報やニュースははいらなくなってしまう」。

 狂気のプロパガンダを目にせずにいられる、限られた時間を有効に使える、といった

利点の傍ら、例えば「科学が大きく進歩するためには無作為な発見が必要条件となる」、

「作為」は時に「セレンディピティ」を奪い去る。

 

 ネット黎明期、顔も名前もないままにアーカイヴできたのも遠い昔。

 見られている私、ただし誰が見ているのかも、何が見られているのかも分からない。

 そんな非対称性がもたらす寒気。

 友人知人や接客業のように、「隅から隅までお互いに知っているのならそれはそれだ。

しかし、我々が互いに知っているよりはるかに多くをどこかの組織が知っている、それこそ

自分について知っている以上にどこかの組織が知っているとなると、話はまったく違う。

知が力なのであれば、知が非対称なら力も非対称となるからだ」。

 

 さる起業家が記した「未来が我々を必要としない理由」曰く、「社会も社会が直面する

問題もどんどん複雑になり、また、マシンがどんどんインテリジェントになると、人々は、

決定をマシンにゆだねることが増えるだろう。マシンに頼ったほうが、人が判断するよりも

よい結果が得られるようになるからだ」。

 たぶんそうなのだろう、しかし確言できない。だって、いかなるプロセスに従うのかが

現状ではまるで見えてこないのだから。可視化を促そうにも、私企業という壁が横たわり、

ただし、パーソナライゼーションは行動規範すら示さないままひたすら進む。そして導かれる

先はさてユートピアか、ディストピアか。

 グーグルが掲げるモットーのひとつ、「邪悪になるな」、しかし各ユーザーには、自分に

とって何が「邪悪」かを選択する方法すら限られている。そもそも彼らが何をしているのか、

それに対して何ができるのか、という情報すらも見えやしない。そうした力の非対称こそが

まさに「邪悪」なのだ、ということには耳を傾けようともしない。

 かつてならば、嫌なら見るな、で済んだだろう。しかし現代、ITの海をさまよいながら、

嫌だから見るな、ということばを誰に向けて投げるべきかすら分からない。

「フィルターバブル」は外からの働きかけを遮断するだけではなく、外への働きかけをも

遮断する。ただし、その姿を見つめる視線を遮断することはできない。

 

 知ったところでどうにもならない、確かにそうなのかもしれない。

 ただし、知らないでは済まされない、そんな一冊。