グッバイ・クリストファー・ロビン

  • 2019.09.12 Thursday
  • 22:16
評価:
石井 桃子
河出書房新社
¥ 799
(2018-05-08)

 過日、高畑勲『アニメーション、折りにふれて』を読む。ひときわ印象に残ったのが

石井桃子という名前だった。『ピーターラビット』、『くまのプーさん』、『ノンちゃん

雲に乗る』……まさか一点として触れることなく幼少期を通り過ぎたはずはない。

さりとてこれらをめぐる具体的なエピソード記憶が頭をかすめることもない。

 いずれにせよ、いしいももこを読んでいた時代がきっとあって、遡り得ぬ時間を思い、

そんな本に囲まれた過去があっただろうことに感慨を誘われる。

「描かれているものや、読んでもらうことが、ちんぷんかんぷんであっても、

幼児のまわりには、現実に、ちんぷんかんぷんのことがあって、そういうものに

ぶつかっていくあいだに、子どもは知ったり、発見したりして喜ぶのにちがいない。

……そして、その子は、現実に見たものを、頭の中でもう一ど、そらで組みたてる

作業――どんなほかの動物もできない作業――を、どんどん頭のなかで

つみ重ねていって、やがて、現実の形や絵、いまのはやりのことばでいえば、

イメージの力をかりないでも、イメージを思いうかべることもできれば、そこから進んで

抽象観念にまで到達することができる。

 そして、その作業は、けっして学校へいって、勉強といわれるものがはじまってから、

はじまるのではなくて、生まれるとまもなく、その第一歩の活動がはじまっているのだと

いうことは、子どもたちを見ていると、いやでも教えられないわけにはいかない。

 そうとすると、絵本は、おとなが子どものために創りだした、最もいいもの、だいじな

ものの一つということができないだろうか」。

 

 自宅の一室を子ども向けの図書室として開放する。

「話し手にとって、たいへん勉強になることは、子どもの感じるおもしろさの質が、

子どもの反応にあらわれることです。げらげら笑う時も、おもしろいのですし、

くすくす笑って、となりの子をふりかえる時も、おもしろいのですし、しーんとなって

しまう時もおもしろいのです。

 これをくり返しているうちに、どういうことが子どもにおもしろく、どういうことが、

おもしろくないか、話し手に大体わかってきます」。

 こうした経験のひとつひとつが、作品にも必ずや反映される。現代的に言えば、

クライアントからのフィード・バック、けれどもそう換言することで失われてしまう何か。

「一つの本がある時代の子どもに読まれて、また二十年、三十年たってからの

子どもに愛読されるということは、どういうことだろうか。それは、その本が、一つの

時代の子どもの求めるものでなく、いつの時代の子どもにも訴えかけるものを

もっているということである。つまり、そうした本は、子ども自身が、自分では答えて

くれない秘密、子どもの求めるものは、こういうものですよという答案を、私たちに

示してくれていることになる」。

 本書が回顧調をもって読まれざるを得ない理由がここにある。かくも悠長な

タイムスパンへと選定を委ねることももはやできなければ、そもそも子どもを

ここまで信用することさえもできない。絵本の力を信じることのできた時代とは

つまりその受け手たる子どもを信じることのできた時代。翻してみれば、本が

捨てられる時代とは、子どもが捨てられる時代なのかもしれない。

 

「子どもは、そこに本があり、自分がいくと、歓迎してくれる人のいるところが

あれば、本を読みにゆくのです」。

 このことばを説得的に聞かせられるおとなが現代にどれほどいるだろう。

人間の條件

  • 2019.09.05 Thursday
  • 21:34

「羽をもがれるようにして、光と音を失って育つ。3歳で目に異常がみつかり、

4歳で右眼を摘出。9歳で左の視力も失う。……14歳でこんどは右耳が

聞こえなくなり、18歳ですべての音も奪われる。

 無音漆黒の世界にたった一人。地球からひきはがされ、果てしない宇宙に

放り出されたような、孤独と不安にうちのめされる。

 盲ろうになって、一番の苦痛は『見えない、聞こえない』ことそのものでは

なく、『人とコミュニケーションができないこと』だった」。

 

 映像を取り込んでデジタル化して、ビット数に基づいて情報量を比較する。

福島自身の研究によれば、「音声情報は文字情報の2000倍、動画情報は

5万倍……それは、『健常者の状態から全盲の状態』への落差が5万と

2000で『25分の1』なのに対して、『全盲の状態から盲ろう者の状態』への

落差は『2000分の1』なので、この落差は、前者の80倍も大きいことになる」。

 試しに小説から視覚、聴覚の記述を消去した状態を想像してみればいい。

そこには茫漠たる白紙が広がる。

 

 彼の学生生活を支えた全盲の女性が「目が見えないとは、どういうことか」を

かつて語って聞かせたことがあった。

「兄が大学院生のとき焼身自殺をしました。石油を頭からかぶって火をつけて。

身元確認してほしい、と警察に呼ばれ、父親が広島まで出かけた。でも、私には

それができず、確認できないまま受け入れるしかなかった。見えないって、

こういうことなんです」。

 

 5万分の1の世界に孤絶する福島に訪れたターニング・ポイントは、

母が利かせたとっさの機転によるものだった。

 病院に行く時間だというのに母の支度ができていない、声を荒げる息子を

なだめるために、点字のタイプライターになぞらえてメッセージを発信する。

 

  さ と し わ か る か

 

 そして「通じた!……のちに福島、そして盲ろう者の重要な生命線のひとつに

なる『指点字』は、生ゴミのすぐそば、神戸の台所で母と子によって生まれた」。

 

「輝く者は、燃える苦しみに耐えねばならない」。

 盲ろう者のアイコンとして多忙を極めた福島はやがて心身の不調に襲われる。

Goodbye Norma Jean、下った診断は適応障害。

「盲ろうは、命は奪われていないけれど社会から黙殺されてきた。黙殺され、

殺されてきた。実際に自殺した人も何人もいます。これはどこかおかしい。

何かに怒ったということです。……盲ろう者は、内部の戦場体験をしている。

それは、たったいまもです」。

 

 5万分の1の世界の中にあってすら、本書にはほのかな希望が漂う。

その源は「わ か る」ことにある。障害者自立支援法について問われて、

福島は以下のように答えた。

「自立は、おそらく他者の存在がないとありえない概念。……ただ一人生きている

わけではなく、他者がいるから自分もいる。つまり、実は他者がいないと自立はない。

自分だけがただ一人でいるのは、存在していないのと同じなんです」。

 福島が糧とすることばがある。

「しさくは きみの ために ある」――「思索は君のためにある」。

「わ か る」の道は唯一、「しさく」を通じて開かれる。まさかこれが盲ろう者に

固有の話であるはずがない。

Daydream Believer

  • 2019.08.06 Tuesday
  • 21:48

「強大な記憶力を研究した他の心理学者と異なって、著者は、記憶量や

その安定性を測定したり、被験者が材料の記銘と再生に用いた数々の

方法を記述することだけをしたわけではなかった。はるかに強く著者の

関心をひいたものは、別の問題だったのである。

 つまり、非常に秀でた記憶力が、人間の人格のすべての基本的な側面

――思考、想像、行動――にどのような影響を与えるのか、もし、人間の

心理生活の一つの側面である記憶力が異常に発達し、その人の心理活動の

他の側面のすべてに変化を及ぼしはじめたならば、その人間の内面的世界、

他の人々とのコミュニケーション、生活の仕方が、どのように変化しうるので

あろうか、という問題だったのである」。

 

 古くより伝わる記憶術の仕方に、「記憶の宮殿」なる方式がある。具体的な

建物や通りを脳裏に浮かべ、その暗記の対象をイメージ化して配置していく。

抽象的なことばの羅列ではなく、鮮明な画像として身体に落とし込むことで

まるで臨場したかのように記憶の定着を促すこの流儀は、印刷術の未発達な

時代の学問を支え、やがて忘れ去られた。

 本書の被験者シィーが期せずしてその伝承に辿り着いたのは、彼固有の

共感覚の導いた半ば運命だった。例えば「50ヘルツ、100デシベルの音を

与えると、シィーは、暗い背景に、赤い舌をもった褐色の条線を見る。その音の

味は、甘ずっぱいボルシチに似ており、味覚が舌全体をおおう」。数字さえも

この共感覚を作動させる。例えば2は「平べったいもので、三角の形をした、

白味ががったもので、やや灰色をしていることがよくあります。……8は、素朴な、

青みがかった乳色で、石灰に似ています」。

 音素から生じる印象と、その組み合わせによって生じる単語はしばしば彼に

耐えがたい齟齬をもたらす。共感覚に従えば「コルジイク(あげせんべい)」は、

「食物であるが、長細い形をしたカラーチ(円弧型白パン)であるはずで、

小さなすじがついていて、かならず乾いたもので」あらねばならない。語によって

もたらされる確固たるイメージは、ただししばしば現実の世界と照応しない。

 

 いみじくもスタンダールは『赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルの人格に

並外れた記憶力を付与した。たまさかではない。

 脳内の像と現実のはざまを生きる、必然、シィーは「空想家」になった。

「彼の空想はあまりにも鮮明な像に変わる。そして、それらの像は彼の中に

もう一つの非常に鮮明な世界をつくり出し、彼はその世界に移り、その世界の

実在性を経験するのである。夢想家も、現実に存在するものと、『見ている』

ものとの境を失うのである……」。

 幼いシィーは急いで学校に行かねばばならない。動転したシィーはそこで

イメージの世界へと誘われる。「彼」が現れて、てきぱきと支度し学校へ向かう。

「私は家に残り、『彼』は出かけたのだ。ところが、突然父が部屋に入ってきた。

『こんなに遅いのに、おまえはまだ学校に出かけないのか!』」。

「私」と「彼」のギャップは、生涯にわたり続く。

「鮮明な像は、現実と一致しないことがしばしばで、このような像に頼ることに

慣れていたシィーは、現実の事態ではしばしば手も足も出なくなった」。

「私」が現実として経験する世界はシィーにとってはあくまで「一時的」なもの、

「彼」として「見る」世界の到来を待ち、「そして行ってしまう いつも」。

「本当の人生、それは別のものです。すべては夢の中にあって、仕事の中には

ありません。(中略)いつも、何かを待っているのです」。

 

 本書を特殊な共感覚や記憶力をめぐる物語として読むことはもはやできない。

 相対化され尽くした「私」と「彼」の断絶を生きる、近代の果てを具現する肖像を

「見る」、鏡のように、この視線は間もなく「私」を「見る」経験として跳ね返る。

ドン・キホーテよろしく、各々にできるのは各々のイメージをさまようことだけ。

「私」と「私」の果てなき乱反射をもって人はそれを「現実」と呼ぶ。

 ただし、それを見た者はまだ誰もいない。

危険なメソッド

  • 2019.05.10 Friday
  • 22:59

「本書では、五人の男たちを取り上げる。矢部八重吉、丸井清泰、大槻憲二、

中村古峡、古澤平作である。いずれも草創期の日本の精神分析に関わった

人物である。彼らによって日本の精神分析は今こうして、実践され、研究されている。

……歴史はトラウマに満ちている。しかし、それを振り返り、吟味することの意義を

歴史研究は教えてきた。逆に言えば、起きた事実を隠蔽し、歴史を塗り替えて

しまうことの恐怖や愚かさを歴史は伝えてきた。それは精神分析も明らかに

してきたことである。精神分析は、個人の歴史の再構成が、心的変化に重要な

役割を持つを考えてきた。精神分析が示し続けてきたのは、歴史を知ることから、

私たちは現在の問題を理解する枠組みを学べるということであり、これから歩むべき

道をもまた知ることができるということである。日本の精神分析の歴史を知ることに

よって、私たちは今の日本の精神分析や、これからの日本の精神分析を考える

ための理解を得ることができるのではないだろうか」。

 

 との言とは裏腹に、残念ながら、本書がこの目標を到達することは叶わなかった。

というのも、全体のフレームがまるで見えてこないのだ。それが証拠に、日本の

精神医学史の素描が著されるのがようやく第四章になってからのこと、それにしても

「よく知られているように」という仕方での、行きがかり上の簡潔なメモに過ぎない。

精神医学や社会政策といった枠組みの中で、いかにして精神分析が立ち位置を

獲得していったのかも見えなければ、全体のつながりを欠いているがために、なぜに

五人が取り上げられなければならないのか、というそもそも論からして分からない。

代わって本書の展開する「歴史」といえば、「初めにフロイトがあった」史観とでも

呼ぶべき何か。各人が時代やテーマの文脈からぶつ切りに分断されている以上、

パーソナル・ヒストリーに終始せざるを得ない。そこで紹介される臨床例にしても、

私にはそのほとんどが創作物としか読めず興醒めを誘う。

 その中で長所といえば、「父殺し」を見事に引き出した第五章の結びだろうか。

終わり良ければすべて良し、物語として上手に落としたと讃えることもできようが、

その構造に耽溺しているだけと突き放してみても的外れとは言えまい。

ロスト・シティ・レディオ

  • 2019.04.30 Tuesday
  • 20:06
評価:
国分 拓
新潮社
¥ 1,728
(2018-06-22)

 ペルー・アマゾンの奥地に暮らす「先住民はみな、森と川の民族と言われている。

……自給自足の暮らしに変化が訪れたのは、百年ほど前のことだった。ドミニカ

修道会やカプチン修道会のミッション団がやって来て、『文明』を伝えたのだ。

 修道士たちは、裸で暮らしていたイネ族に衣服を与え、病気になれば薬を与えた。

聖書も渡し、その中身を理解させるためにスペイン語を教えた。

 数十年前からは、欧米の国々から資金援助を受けたNGOが来るようになった。

北欧や、旧宗主国であるスペインの王室から資金援助を受けたNGOは、イネの

人たちに『民主主義』や『人権』やペルーの『歴史』を教え込んだ。

 ロメウはそんな、一気に文明化されていった集落で育った」。

 都市部で教育を受けたロメウは、集落に戻ると間もなく若くして村長に選ばれ、

先住民の権利拡充を求めて日々奔走する。そんな彼のもとに一通の手紙が届く。

ペルー政府文化省からの出頭依頼だった。応じた彼に託されたミッションは、

「イゾラド」、つまり「文明社会と接触したことがないか、あっても偶発的なものに

限る先住民」だった。政府の立てた巨大な赤看板が注意を促す。

〈イゾラド 出現注意!〉

 ここ数年、目撃情報が急増し、凶行による死者も既に出ていた。

「イゾラドと信頼関係を築くのは並大抵のことではない。気の遠くなるような

時間がかかる。対応する者には、粘りと情熱が不可欠だ。……イゾラドと

言語が近い部族の中から優秀な人材を見つけて育てていくのが一番いい」。

 そうして白羽の矢が立ったのがロメウだった。

 詳細を告げられたロメオの脳裏を集落の口伝がかすめる。

「黒い黄金」ゴムを求めて、銃を手にアマゾンへと乗り込んだ西洋の略奪者が

かつてあった。屈従を余儀なくされたイネは反旗を翻す。奴隷主を撲殺したのだ。

そして彼らは追跡者を振り切るべくエクソダスに入り、やがて故郷へ戻る。

 もっとも「生き残った者たちが伝えたかったのは、そんな武勇伝や逃避行の

物語ではなかった。……森を逃げ切ることができたのは全員ではなかった、

森には未だ仲間が残っている、ということだった」。

 イゾラドがもし、あの日森で別れた仲間、「ノモレ」だったとしたら――

 

 筆者のテキスト『ヤノマミ』は既に読んでいた。「イゾラド」についても、

話だけは知っていた。先住民をめぐるドキュメントと決め込んで読みはじめて

しばらく、本書の異質性に気づく。

 筆者の痕跡が消されている。

 ノンフィクションの作法としてはそう珍しいことではない。ただし、対象が

文明の外側より来たる者となれば話は違う。未知なる存在を観察する主体が

対象に向き合う異邦人としてどうしても立ち現れざるを得ない。

 この消失現象を可能にした装置が二つある。一つは、文明とイゾラドを媒介する

メディアとしての悩めるロメウ。そしてもう一つはエクリチュールという作法。

「先住民の多くは、数十キロ先の音でも聞き取り、聞き分ける」。

「森と川の民族」として、その音のことごとくを彼らは知る。知らない音が聞こえて

来れば、あるいは声も立てずに近づいて来れば、それらは彼らにとって「敵」を

証する。彼らの固有性は、カメラやレコーダーという文明に捉えられる瞬間に

壊れてしまう。だから本書の伝える何か――レヴィ=ストロースを引くまでもなく、

おそらくそれは事実としては既に喪失済みの何か――は、VTRによっては

成り立たない。「ノモレ」を「ノモレ」たらしめる耳と口のみがそれを可能にする。

その身体性を伝達、再生するには話すか、さもなくば書くか。

 足りぬ余白を想像が埋めて、テキストは時に事実を超えて真実を媒介する。

 

 ロメウと彼らの最後の接触。

「ノモレ」との呼びかけを受けて姿を見せた彼らにバナナを贈り、何気ない雑談を

交わす。そんな平穏を壊したのは、彼らの知らない音だった。観光船が川を上る、

エンジンの轟音だった。先住民を見つけたツーリストは一斉にスマホやデジカメの

シャッターを切る。大きな石を両手に構えた男がロメウに問う。

 ――なぜ、お前たちは大きな音を立てるのか。

 ――なぜ、お前たちはやって来るのか。

 ロメウにできるのは、ただ沈黙することだけだった。

 だから「私」は「私」として語るべき声を本書に持てない。

 そして彼らは森深くへと姿を消した。