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- 2020.05.10 Sunday
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1600年、その一枚がすべてを変えた。
「暗い部屋のような空間に、画面右からキリストが弟子とともに入ってきて、レビに
呼びかけています。キリストとともに強い光が差し込んで、壁に斜めの影を作って
います。テーブルには五人の男がいて、そのうちの三人はキリストを見つめています。
この絵の主人公であるレビ、後のマタイはどこにいるのでしょうか。真ん中の髭の男?
その隣のうつむく若者? どちらが正解でしょうか。この二人のどちらがマタイかと
いう点で、見る人や研究者によっていまだに意見が分かれているのです。つまり
この絵は、美術史の教科書に必ず載っている世紀の名画でありながら、主人公が
はっきりしない珍しい絵なのです」。
このいわゆる「マタイ問題」に筆者が言及するのは、これがはじめてではない。
というか、私自身そうした議論の存在を知ったのが筆者の過去作を通じてだった。
400年以上前に死没した人物について、ましてやそれが美術史の花形ともなれば、
情報が更新される余地もそう残されてはおらず、然らば焼き直しも止むを得まい。
と、思いきや。
「カラヴァッジョの画面では、誰しもがマタイでありうるのです。と同時にこの絵を
見上げる観者もいつでもマタイになりうる」。
この回答が、カラヴァッジョ研究としての正統性をどこまで担保しているのかを
私は知らない。たぶん逸脱、でも、美しい。絵を語ることはつまり、「観者」としての
己を語ることに他ならない、本書を通じてそのことを痛々しいほどさらけ出す。
professionの語意、告白の中に変じて職業的使命を読む。
それはあるいは描かれているものそれ自体の問題から、「観者」あるいは
「観る」という行為そのものへと振り切った暴挙でしかないのかもしれない。
しかし、このコペルニクス的転回の引き受けと召命は限りなく似ている。
「カラヴァッジョの画面にも、奇蹟や神は存在していないと見ることもできます。
見ようによっては、それらは単なる埋葬や処刑や落馬の情景に過ぎないのです。
神の存在や奇蹟に気づくか気づかぬかは、観者に委ねられているといえましょう」。
溢れ返る死の匂いが、時に遍在の希望へと転じる。
こうして束の間、美術史が美術私と交差する。
死者も、生者も、誰しもが《聖マタイの召命》の中にいる。
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「本書は、実のところ、喫茶店の本ではない。まず、これは喫茶店案内ではないし、
経営の指南書でもない。それならば、喫茶店文化史ではないのか、と問われれば、
結果的にそういう性格になったことを否定するつもりはないが、文化史を編むことが
目的ではなかった。そもそも、著者自身、ほとんど喫茶店というものに入らないし、
本書のためにとりたてて喫茶店を訪問調査するということもしなかった。要するに、
現実の喫茶店という存在あるいは現象には関わっていないのである。
本書はひとつのコレクションである。子どもたちが牛乳瓶の蓋やきれいな小石を
集めるのとまったく異ならない。喫茶店という文字を見つけると嬉しくなって
メモしていく。喫茶店の写真や絵もできるだけ手許にためこんでいく。そういった
遊びの延長にできあがったのがこの本なのである」。
良くも悪くも、この前書きにはいかなる嘘偽りもない。
原著は2002年、今ならばアーカイヴスのスキャンとシークではかどりそうだが、
当時のITにそこまでの水準はたぶん期待できないだろう。つまり、注に付された
引用元を本書のための参考文献とも思わずひたすらに読んではメモしていき、
かくして完成に至ったというのは本当なのだろう。他人からお題として喫茶店と
振られて、やみくもに渉猟するとなれば苦行、ただし筆者にとっては「遊び」。
まさに「遊びの延長」、そしてそれこそが喫茶店の機能に他ならないことを
知らされる。喫茶店に集うことで作家たりえた者たちが、その場所そのものを
作品へと変えていく。文壇などという高尚さはそこにない。テキストという仕方で
後世に何かを残す資格を得た者たちが、結果として、集いそのものを自己目的化
するように語り継ぐ。「遊び」でしかないようなものごとが、何かの偶然で、
それこそ筆者の「遊び」を通じて掘り出されてしまう。
なぜかしばしば、眼差しは現在をすり抜けて過去を目指す。
時間なるものがそうさせる。
「カフェーの女給」と永井荷風先生あたりが仰ればうっかり風流の香気も漂うが、
つまるところ今で言うキャバ嬢かコスプレメイド。そこで何をしていたと言って
山田耕筰は「金もないのに特別室へ這入」り、菊池寛は「たまに来て女給を張る」。
現代ならば炎上用の燃料を別として誰も見向きもしない。
所詮、この程度の連中だ。彼らの底が浅いのではない、人間の底が浅いのだ。
でも、時間という魔力がそこにあたかも何かがあるかのように錯覚させてしまう。
喫茶店はつまり、時間を商っていた。
アンディ・ウォーホルに言わせれば、誰しもが15分だけなら有名人になれる。
そして現実に訪れた賞味期限は3分間がいいところだった。
かくして喫茶店、いやトポス、いや「遊び」の使命は終わった。
消費者にできるのは消費だけ、「遊び」を決して知り得ない。
喫茶店を襲うだろうコロナ禍はおそらく加速主義の具現に過ぎない。
「あのとき こんな店があった」。
はるか昔に、売るべき時間をなくしたときに、既に過去形で語られるべき存在で
ある運命は約束されていた。
言い換える。時間なる概念そのものが既に追憶の昔へと消えた。
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「私は、裁判をするに当たって、小手先や要領だけで簡単にすまそうとした
ことはない。裁判結果と自分の処遇とを結びつけて考えたこともない。当然の
ことではあるが、決断するまでには、『本当にこの結論でよいのか』ととことん
真剣に考え悩み苦しんできた。その点だけは自信を持って言える。私が
30件以上の無罪判決をしてそのすべてを確定することができたのは、
裁判に対するそのような『愚直』『鈍重』で『馬鹿正直』ともいえる姿勢・
手法の結果ではないかと考えている。当然のことながら、そのような決断を
するには、周囲との摩擦や軋轢も経験してきた。
私のような平凡な一人の人間が、刑事裁判という重要かつ困難な仕事の
上でなにがしかの実績を残すことができたのは、そのような愚直・鈍重な
やり方故ではなかったかと思う。そして、そうであれば、私が裁判をする上で
経験した悩みや苦しみ、さらにはその思考の過程を文字に残しておくことは、
後に続く後輩諸君のために意味のないことではないのかもしれない。また、
それは、今後裁判員として刑事司法に関与する可能性のある多くの国民に
とっても参考になるかもしれない。このように考えると、山田さん[本書の聞き手・
編修の山田隆司]のお申し出は、一つのチャンスであるように思わないではない。
しかし、私がこの申し出をお受けするまでには、まだ、乗り越えなければならない
大きな壁があった。なぜなら、そのような考えによってこの申し出をお受けした場合、
当然、自分のしてきた裁判内容について語ることを求められるだろう。そして、
そうなると、勢いの赴くところ、裁判官にとってタブーとされる『合議(評議)の
秘密』に触れることになりはしないか、という危惧があったからである」。
筆者は、判事退官とともに自らの立場を転向したような、そのような類型の
人物には当たらない。そうした側面を証するには、最高裁調査官として携わった
『月刊ペン』事件をめぐる、以下の証言を引けば足りるだろう。
「池田大作さんの女性問題が『公共の利害』の関心外だと言われたら、みんな
びっくりしますよ。それはもう、常識的に考えておかしい、と私は思うんです」。
ちなみにこの聞き手、いずれも創価大の教員である。
本書が描き出すのは例えば、判決文に表れることのない刑事裁判の裏側。
「判決宣告期日の直前になって、検察官が判事室に来ました。そして、『うちの
検事正が4月10日付で高松高検の検事長に内定している』『今の検事正に、
黒星をつけたくない』『だから宣告期日を延ばしてもらいたい』というのです。
これには驚きました。私たちは、この請求ももちろん認めずに、粛々と予定通り
判決を言い渡しました」。
「検事に対し『警察に留置人出入簿を出させるように』と指示したのですが、
そうしたら、『なぜ、そんなものを出す必要があるのですか』と警察が飛んで
きます。裁判官室に面会を求めてくるのです。……それは表面的には、
裁判官に対する強談ではありませんよ。一応、表面的には丁寧な態度です
けれどね。しかし、魂胆は見え見えです」。
こうした軋轢の果てにか、筆者は裁判官にも三つの類型がある、と説く。
「一つは『迷信型』です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソを
つく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です」。
「二つめはその対極で『熟慮断行型』です。被告人のためによくよく考えて、
そして最後は『疑わしきは』の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です」。
「その中間の六割強は『優柔不断・右顧左眄型』です。……『こんな事件でこういう
判決をしたら物笑いになるのではないか』『警察・検察官から、ひどいことを
言われるのではないか』『上級審の評判が悪くなるのではないか』などと気にして、
右顧左眄しているうちに、優柔不断だから決断できなくなって検事のいう通りに
してしまう」。
しかし、本書は少し別の仕方で「絶望の裁判所」の実相をもあぶり出す。
やはり最高裁の調査官として「四畳半襖の下張」事件に携わる。検討も
交わさぬうちに、小法廷のドンから「棄却以外ない」とねじ込まれ、憲法判断の
場である大法廷へと持ち込むこともできず、結果、「あんなもの、誰が考えても、
わいせつとして処罰しなければならない事件ではない、と思うのですけど、
色んなことでがんじがらめになっていて、どうにもなりませんでした」。
名古屋高裁での事件を回顧しての言。
「違法は違法だけれども証拠能力はある」。
読んだ瞬間、凍りつく。そして未だその意味を解せずにいる。
この度の散歩を立ち上げるにあたって、始点はまずこの一枚から。
見ての通り工事中のため立ち入れず、表紙の画角に寄せることあたわず。
早くも出端は挫かれた。
上流へしばらく遡ると、小さな分岐に出くわす。
「市川の町に来てから折々の散歩に、わたくしは図らず江戸川の水が国府台の
麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流の
いずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。
これは子供の時から覚え始めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いて
不図小流れに会えば、何のわけとも知らずその源委がたずねて見たくなるのだ。
来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去れず、事に会えば忽ち再発するらしい。
雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである」。
「真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に
卑湿となるにつれて田と畠とがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は
諏訪田とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は
菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨、
秋には蘆の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠を
かついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭いを冠った女達がその時々の
野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播かれるころには
殊に多く白鷺が群れをなして、耕された田の中を歩いている」。
「真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづく
稍広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では
珍しいほど堅固に見える石づくりの堰に遮られて、雨の降って来るような水音を
立てている」。
「猶いくことしばらくにして川の流れは京成電車の線路を横切るに際して、
橋と松林と小商いする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている」。
「わたくしは突然セメントで築き上げた、しかも欄干さえついているものに
行き会ったので、驚いて見れば『やなぎばし』としてあった。真直に中山の町の
方から来る道路があって、轍の跡が深く掘り込まれている。子供の手を引いて
歩いてくる女連の着物の色と、子供の持っている赤い風船の色とが、冬枯れした
荒涼たる水田の中に著しく目立って綺麗に見える。小春の日和をよろこび
法華経寺にお参りした人達が柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと
帰って行くのであろう」
「わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした」。
確かにそこには水田も松林もない。遠くを望む視線は訳もなく低層住宅によって
遮られる。川沿いのベッドタウンでさえあれば、同様の写真はいくらでも集まろう。
かくして昭和二十二年の荷風を訪ねた令和二年うるう日の旅はめでたく不首尾に
終わった、かに見える。
違う。まさにこの現象こそが、散歩者と荷風を束の間同期化させる。
「市川の町を歩いている時、わたくしは折々四五十年前、電車も自動車も走って
いなかったころの東京の町を思出すことがある」。
「葛飾土産」において荷風がひもとく場面は、そのすべてが彼の愛した東京の
田園の残滓に他ならない。過日の記憶にしばし揺蕩う。彼がここに記したものは
決して眼下の情景でも声でもない。不意に時間が現前する。
だからこそ、この随筆は読むに足る。本書巻末に付された石川淳の追悼文、
まるでいしかわじゅんの手によるような酷評にあって、「葛飾土産」のみを
「風雅なお亡びず、高興もっともよろこぶべし」と戦後ただ一点の例外的な
称賛へと導いたものは、まさにこのマドレーヌ性、朽ち果てた老境にあって
失われた時が不意に見出されたからに他ならない。それは決して陳腐な比喩、
燃えさしのロウソクには似ない。
Camera don't lie、ダニエル・パウターの言うことには
カメラが空振るほどに、歩みは荷風へ近づいていく。
過日、高畑勲『アニメーション、折りにふれて』を読む。ひときわ印象に残ったのが
石井桃子という名前だった。『ピーターラビット』、『くまのプーさん』、『ノンちゃん
雲に乗る』……まさか一点として触れることなく幼少期を通り過ぎたはずはない。
さりとてこれらをめぐる具体的なエピソード記憶が頭をかすめることもない。
いずれにせよ、いしいももこを読んでいた時代がきっとあって、遡り得ぬ時間を思い、
そんな本に囲まれた過去があっただろうことに感慨を誘われる。
「描かれているものや、読んでもらうことが、ちんぷんかんぷんであっても、
幼児のまわりには、現実に、ちんぷんかんぷんのことがあって、そういうものに
ぶつかっていくあいだに、子どもは知ったり、発見したりして喜ぶのにちがいない。
……そして、その子は、現実に見たものを、頭の中でもう一ど、そらで組みたてる
作業――どんなほかの動物もできない作業――を、どんどん頭のなかで
つみ重ねていって、やがて、現実の形や絵、いまのはやりのことばでいえば、
イメージの力をかりないでも、イメージを思いうかべることもできれば、そこから進んで
抽象観念にまで到達することができる。
そして、その作業は、けっして学校へいって、勉強といわれるものがはじまってから、
はじまるのではなくて、生まれるとまもなく、その第一歩の活動がはじまっているのだと
いうことは、子どもたちを見ていると、いやでも教えられないわけにはいかない。
そうとすると、絵本は、おとなが子どものために創りだした、最もいいもの、だいじな
ものの一つということができないだろうか」。
自宅の一室を子ども向けの図書室として開放する。
「話し手にとって、たいへん勉強になることは、子どもの感じるおもしろさの質が、
子どもの反応にあらわれることです。げらげら笑う時も、おもしろいのですし、
くすくす笑って、となりの子をふりかえる時も、おもしろいのですし、しーんとなって
しまう時もおもしろいのです。
これをくり返しているうちに、どういうことが子どもにおもしろく、どういうことが、
おもしろくないか、話し手に大体わかってきます」。
こうした経験のひとつひとつが、作品にも必ずや反映される。現代的に言えば、
クライアントからのフィード・バック、けれどもそう換言することで失われてしまう何か。
「一つの本がある時代の子どもに読まれて、また二十年、三十年たってからの
子どもに愛読されるということは、どういうことだろうか。それは、その本が、一つの
時代の子どもの求めるものでなく、いつの時代の子どもにも訴えかけるものを
もっているということである。つまり、そうした本は、子ども自身が、自分では答えて
くれない秘密、子どもの求めるものは、こういうものですよという答案を、私たちに
示してくれていることになる」。
本書が回顧調をもって読まれざるを得ない理由がここにある。かくも悠長な
タイムスパンへと選定を委ねることももはやできなければ、そもそも子どもを
ここまで信用することさえもできない。絵本の力を信じることのできた時代とは
つまりその受け手たる子どもを信じることのできた時代。翻してみれば、本が
捨てられる時代とは、子どもが捨てられる時代なのかもしれない。
「子どもは、そこに本があり、自分がいくと、歓迎してくれる人のいるところが
あれば、本を読みにゆくのです」。
このことばを説得的に聞かせられるおとなが現代にどれほどいるだろう。