セラピスト

  • 2019.03.16 Saturday
  • 21:19

「今から五億年あまり前に、進化の過程でタコにつながる系統と人間につながる系統とが

分かれた。私は思った。その進化の分水嶺の向こう側にある、もうひとつの心に触れる

ことはできるのだろうか、と。……私はタコに会いたいと思った。もうひとつの現実に

触れてみたかった。私たちの意識とは別の種類の意識が実際に存在するのだとしたら、

それを探ってみたかった。タコというのはどんなふうに感じているのだろう。人間の場合と

似たところはあるのだろうか。そもそも、それを知ることなんてできるのだろうか。

 だから、水族館のロビーで出迎えの広報担当者から、アテナというタコを紹介しようと

言われたときは、別世界に招かれた特別な客になった気分だった。けれども、その日を

境に私が発見することになるのは、実は私自身にとっての愛おしい青い惑星――息を

のむほど異質で驚異的なすばらしい世界だった。この地球に生まれて半世紀、その

大部分をナチュラリストとして過ごした末にようやく見つけた、自分の居場所だと心から

感じられる世界だった」。

 

 肉体は魂の牢獄、そう公言してはばからなかったソクラテス(プラトン)にとって、

知を愛でる作業とはすなわち、魂をいかにして解放するか、その成就に他ならない。

 ゆえに彼は『パイドン』において結論する。肉体からの魂の自由、その一点において、

死と哲学は限りなく等しい。ここから高名なテーゼ、「哲学は死の練習」は導かれる。

 

 書き出しにこんな挿話を挟んでおいて、勘違いするな、という方が無理というものだが、

『愛しのオクトパス』自体は、とても幸福感に満ちたテキストである。

「タコはとても個性が強い。だから飼育係はたいてい、それぞれのタコの特徴をとらえた

名前をつける」。人懐っこいタコもいれば、エミリー・ディキンソンよろしく人目を避ける

タコもいる。無脊椎動物なのに、視覚、触覚、味覚などを駆使して、相手を識別している

としか思えないような態度の使い分けを示す。漏斗で水を噴射するのは気に食わない

ものを追い払うためだけではなく、遊びに用いることもある、そう請け負う人もいる。

 本書は、タコとの交流の記録であるとともに、取り巻く人々をめぐる観察記録でもある。

 あるアスペルガーの少女が「本当に満たされた思いを味わったのは、水族館で

ボランティアを始めてからだった」。そして突然、彼女は友人を亡くす。自殺だった。

癒したのはタコだった。彼女は言う、「泣いていても泣くのをやめる。だってタコが私に

触れてくれるんだもの。……人生最悪の夏。でも水族館での日々は人生最良の日々」。

 あるスタッフの場合、妻の肉体が奇病に蝕まれていた。ホスピスに入るその日の朝、

ただし彼は水槽の前にいた。ボランティアの誕生日を祝うためだった。彼は「悲しい

出来事が迫っているというのに、……きょうのこの日をいい一日にすることができている

――いわば奇跡だ。そんな奇跡をつかさどるのに、別世界の力の使い手であるタコ

以上にふさわしい者がいるだろうか」。

 

 メスダコが卵を産み落とす。ビーズ細工のように卵を房状に束ねて巣に吊るす。

人間との接触などもはや二の次、甲斐甲斐しく世話を焼く、ただし受精はしていない。

タコにとって産卵は死へと向かうスイッチでもある。余命半年、孵らぬ卵に心を砕く。

痛々しくも、崇高に。

「人間はタコのことをわかってませんよ」。

 各々が好き勝手にタコに見たいものを投影しているだけなのかもしれない。

 でも筆者は観客にタコは「あなたたちのことがわかっているんですか」と問われて

こう断言する。「もちろんです、……ひょっとしたら私たちが彼女をわかっているのと

同じくらい、あるいはそれ以上かもしれない」。

 スフィンクスの身体性の壁を超えて、共感があると信じなければ生きていけない。

 

 以下に余録の私事を連ねる。

 月一、二度のヤギ詣でをはじめて4カ月、先日ついに一匹が柵から身を乗り出して

顔を近づけてくれた。私が廻り込んだわけではない、餌で釣ったわけでもない、他の人に

同様のサービスを振りまくでもない、至近距離の私の背後に何があるとも思えない。

そのままじっとしばし見つめ合う。

 分かってくれた。

 Hello, World!

Let's Groove

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:23

 ジャジャジャジャーン。

 そう聞けば、もしくは、読めば、少なからぬ人々がひとつの連想へと誘われよう、

すなわち、「運命が扉を叩く」という『交響曲第5番』作曲家自身の解題へと。

 このエピソードの初出は『ベートーヴェン伝』、筆者は晩年の「楽聖」に仕えた

アントン・フェリックス・シンドラー。聴覚を失った主人の意志疎通を手助けした

現存138冊のノートを預かっていた人物としても知られる。

 ところが、この男が「音楽史上最悪のペテン師」だったとしたら――

 

「シンドラーにとって、嘘とは、ベートーヴェンに関するあらゆる『現実』を『理想』に

変えるための魔法だった。……彼はベートーヴェンの本性を衆目から隠そうとした。

見るに耐えないものを見るのは自分ただひとりでいい。そう思っていたのかも

しれない。傲慢な考えではある。ベートーヴェンが遺したものを捨てたり加工したり

する権利がおまえにあるものか、と責めたくもなるだろう。しかし、シンドラーは

現代的な意味での音楽研究者、あるいは歴史研究者ではなかった。……

シンドラーがベートーヴェンに対して抱いていた使命感は、『正確に実像を伝える』と

いう学問的なポリシーとは根本的に別のものだった。

 もしシンドラーが覆い隠した真のベートーヴェンを知りたいと望むなら、私たちが

すべきなのは彼の存在を葬り去ることではない。シンドラーに限りなく接近し、彼の

まなざしに憑依して、ロング・コートの裏側の『現実』に視線を遣ってみることだ」。

 

「別れた恋人の消息をSNSで見かけたときのような気まずさと好奇心で、

ついつい耳をそばだててしまう」。

 1795年生誕、1864年死没の人物に「憑依」した末、紡ぎ出された表現である。

幾重にもねじれたツッコミどころを探すことさえ忘れて、とりあえず笑う。

 

「黒歴史リベンジ・マッチ」、「虫けらはフロイデを歌えるか」、「イケメンリア充、

現る」、「嘘から出たマジ切れ」――以上、チャプターに割り振られたリード・

コピーの一例。

 

 デジタル世代の評伝を書くとしても相当に挑戦的なスラングまみれのスタイルを

よりにもよってベートーヴェン周辺の描写に用いて試みるというのだから、事態は

いよいよ混沌を極める。

 このヘッド・バンギングな文体を是とするか、非とするか、主役たるシンドラーを

差し置いて、もはやこの問題こそが本書の帰趨を決する。

 品の有無を言う前に、一定数の人々の頭にはそもそも入っていかないだろうし、

刺激の強さは裏返しとしてのインフレ破綻を前提せずにはいない以上、未来の

長文ライティングにおいてこれがスタンダードになるとも思えない。

 と、ネガティヴを羅列すればキリはないけど、「神の火花でみんなフロイデ!」

いいじゃない、だって笑えるから。

 ベートーヴェンがシンドラーにつけたあだ名が「パパゲーノ」、由来はもちろん

モーツァルト『魔笛』、「てめえは無駄口を叩くな」の隠語、ただし当の本人は

ついぞその意を理解しなかったらしい。そしてこの歴史的バカ歌は果てなき

神話化を経ていつしか聴衆の笑いを失った。

 これ以上の悲運が果たしてどこにあるだろう。

 本書の仕方は文体のための文体ではない、クラシックと敬して遠ざけられた世界に

同時代性の息を吹き込むその試みなのだ。成否を云々する前に、何よりもまずは

その敢闘精神に称賛を送らねばならない。

 少しだけ真面目な話をすれば、捏造、改竄を主題とする作品において

ヴェールの剥ぎ取られゆく過程が明かされないというのでは、そもそもの

片手落ち感が否めない。

 でも、何それおいしいの、それでいい。

 少なくとも、教養のための教養と化するよりはずっと。

一人酒盛

  • 2019.02.20 Wednesday
  • 21:56

 過日、iTunesのシャッフルモードで唐突に枝雀の「一人酒盛」に出くわす、

あの熱量に向き合う気構えなどまさかなかった。

 うまい。

 瞬時に人格が入れ替わる。「演じ手」としての巧みに手が止まる。

「人形だけが見えて人形遣いは見えない」。

 

「いつの頃からか持ちネタを六十にしぼったのでございます。『六十』という数字には、

宗教的な意味も、ましてや哲学的な意味もございません。自分の好きなネタを集めて

みますとたまたま六十になっただけのことでございます。

 どの噺も何百とある大阪落語の中から選んだ私の仲間なのです。……どの仲間も

好きで好きでたまらないネタばかりでございます。私の愛する仲間たちのノロケ話で

ございます。ネタのはなし、楽屋裏ばなし、想い出ばなし、むかしばなしにムダばなし、

いずれも話にひっかけましての六十プラス一席。おしまいまでごゆっくりとおつきあい

お願いいたします」。

 

「いらちの愛宕詣り」から。

「突然ではございますが、『いらち』[「イライラ、せかせかして落ち着きのない

人のこと」]でなければはなし家はやっていけないと思うのでございます。

『いらつく』ということは、いわば他人さんよりも先にダレるということであります。

ダレりゃこそいらつくわけです。フツーのテンポではしんぼうできない、とりあえず

次のことをせずにはおられないんですね。こういう神経は、ことにわれわれ芸人には

大切なんやないでしょうか? 一般のお人と同じようにダレてたんでは、おもしろいと

思うていただけるようなことができるはずがありません。他人さんのダレる一歩手前に

ダレが予測できて先に何かおもしろいことをしなければいけないわけですね。

それ故、芸人はすべからく『いらち』の方が良い――とこう思うのでございます。

 別の言い方をいたしますと、はなし家は『こわがり』でなければいけないので

あります。『こわがり』というのはなにかがあった時に反応が早いんです。ことに

それがマイナスの要素であれば敏感に反応しますから、聞き手の皆さんがどう

思っておられるか常に神経をいき届かせていることになります。

 そして、もうひとつ、はなし家は性格が暗い方がよろしい。昨今で申します

『ネクラ』というやつですな。性格が根っから明るい人は、別に無理におもしろい

ことを探さんでもええわけですから、かえって『どんなことがおもしろいのか?』と

いうことがわからないのです。『常識を弁えているからこそ、非常識なギャグが

創れる』というのは本当なんです。『ネクラの常識人』であるからこそ、おもしろい

ことが言えるんでございます。

 以上を総合いたしますと、『はなし家は、いらちでこわがりでネクラでなければ

ならない』――よう考えたらロクな人間やございませんね」。

酢豆腐

  • 2019.01.14 Monday
  • 21:35

 2001101日、筆者は妻との会話で古今亭志ん朝の死を知る。

 かつてない錯乱と喪失感の中で論じる。

「これは〈一人の名人の死〉といった〈点〉の問題ではない」。

 その葬儀は、筆者に言わせれば、「江戸から伝わってきた大衆文化の一つ、

江戸弁による江戸落語、その美学の葬儀でもあった」。

 ここまで言わしめる根拠について。「なんと言おうと、江戸言葉を自在に

喋れるのが最強の武器だった。これは生れつきのもので、家の中に江戸言葉の

名残がなければ始まらない」。

 このミームの最後の正統後継者が途絶えてしまった以上、江戸落語は必然的に

死滅の時を迎えたことになる。

 

 こうして要所だけを切り出せば、一つの論として頷ける点がないことはない。

 だがここに嫌悪感を誘われずにいないのは、つまるところ、落語という素材が、

両国に生まれ、江戸弁にさらされて育った筆者のナルシシズムの反映以上に

さしたる意味を持たない点にある。志ん生、志ん朝はついぞ本書においては

主題化されぬまま終わる。どうしようもないほどに、「ぼく」「ぼく」「ぼく」

たまに「私」――よかったでちゅね、ぼくちゃん、筆者は自慰以外の所作を

何一つ知ることがない。

 生前の志ん朝との座談に際して、ネイティヴであれぬことの悲哀、外国人の

ジョークに触れても肝心のところを掴めない点を嘆くが、本書の文脈においては

このペーソスさえも皮肉を帯びてしか響かない。つまり、「家の中に江戸言葉の

名残がな」い輩には、要は自分以外の観客には、江戸落語の面白みや奥深さなど

分かりようもないのだ、と。

 

 志ん朝の目指した「粋」の意を知りたければ本書を読めばいい、その対義的な

態度のことごとくが盛り込まれているのだから。

 卑しい、醜い、頭が悪い……あらん限りの罵倒を超えて、ただ痛々しい。

おもひでぽろぽろ

  • 2018.12.31 Monday
  • 18:51

「今回の旅は、表向きはひとつの曲[ショスタコーヴィチ作『交響曲第7番』、

通称『レニングラード』]の誕生から初演までの軌跡を追う取材旅行だ。

しかし同時に、それは私が長年抱いてきた疑問への答えを探す旅でもあった。

 巨大なソビエト連邦が、なぜ音を立てるように崩壊したのか。ソビエト連邦とは

なんだったのか。私は25年間、そのことを考え続けてきた。

 長い低迷期を経て奇跡の復活を果たし、再び大きな転換期を迎えたロシア。

 現在のロシアは経済的にも安定し、一見自由主義を謳歌しているように思われる。

しかし、私はそのなかに、確かにソ連の幻影を見ることができた。

 崩壊直前のソ連を見た10歳の私、学生運動の夢破れた両親、戦後捕虜となった

祖父――。ソ連と私の家族の世代を超えた繋がりは、私の内面にも深く関わっている。

 この本は、そんな私の中のゴースト、『ソビエト連邦』への旅の、全記録である」。

 

 ひとつの都市を滅ぼすのに、銃弾も歩兵もいらない。すべての経路を断ち切って、

兵糧攻めにさえしてしまえばいい。

 電気も、水道も、食糧も途絶えた極寒のレニングラード、ナチスの奸智は見事に

はまったかに見えた。陸の孤島に取り残された住人はカラスも食べた、ネコも食べた、

そしてついにはヒトも食べた。

「大砲が鳴るとき、ミューズは沈黙する」、はずだった。

 ところが、人間性の極北、レニングラードにおいてさえ、市民は希望を求めた。

劇場を、音楽を、欲さずにはいられなかった。

 作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチには、その声に応える責務があった。

「私の生活と仕事は、レニングラードと完全に結びついている。レニングラードは、

私の祖国です」。

 街の記憶の足跡に、筆者の歩みが交差する。1991年、崩壊前夜の夏のソ連を

テレビ番組公募企画の子ども特派員として訪ねた10歳の「私」。そして両親は、

全共闘のただ中で恋に落ちた。

 

「人に歴史あり。誰にでも、自分だけの物語がある」。

 他で既に読んだことのあるような、何の目新しさもない、ごくごくありふれた表現、

しかしこのフレーズが配された文脈を参照すれば、本書の主題そのものを傷つける

おぞましいほどの醜悪さに気づかざるを得ない。

 いかなることばを受けて、この無神経を極めた記述が繰り出されるのか。その直前、

訪問した博物館の館長は言う。

「それ以降、自分の人生は自分のものではなく、誰かの命を背負っているのだと

父は考えるようになったそうです」。

 もはや「自分だけの物語」への揺蕩いを許されぬことに目覚めた人物を評して、

筆者はそれを「自分だけの物語」と語っているのだ。たとえ言わんとするところに

知られざる秘話という以上の意味がなくとも、これを鈍感と咎めずにいられようか。

 そして本書を読んだ者ならば誰しもが、この「父」の覚醒にショスタコーヴィチを

オーバーラップさせることになる。「自分の人生は自分のものではなく、誰かの命を

背負っている」、そうして彼は『レニングラード』を書き上げたのだから。

 あるいはそれを受け止めたソ連の聴衆にだって、同じことはあてはまるだろう。

 彼らの軌跡を「自分だけの物語」と筆者は片づけてしまったことになる。

 

 とはいえ、こうした読み替えさえも現代的な文脈を告発する、すぐれて見事な

巧まざる技巧と称賛せねばならないのかもしれない。

 筆者がこの取材に旅立ったのは2016119日(日本時間)、空港ロビーの

テレビが伝えるニュースはアメリカ大統領選挙、ドナルド・トランプ優勢の報。

国民がもはや国民であれなくなった時代の画期に、「ソ連人」の幻影を追う。

 もはや誰しもが「自分だけの物語」を唱えるしかない、それは筆者が典型的に

そうしたように。

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