危険なメソッド

  • 2019.05.10 Friday
  • 22:59

「本書では、五人の男たちを取り上げる。矢部八重吉、丸井清泰、大槻憲二、

中村古峡、古澤平作である。いずれも草創期の日本の精神分析に関わった

人物である。彼らによって日本の精神分析は今こうして、実践され、研究されている。

……歴史はトラウマに満ちている。しかし、それを振り返り、吟味することの意義を

歴史研究は教えてきた。逆に言えば、起きた事実を隠蔽し、歴史を塗り替えて

しまうことの恐怖や愚かさを歴史は伝えてきた。それは精神分析も明らかに

してきたことである。精神分析は、個人の歴史の再構成が、心的変化に重要な

役割を持つを考えてきた。精神分析が示し続けてきたのは、歴史を知ることから、

私たちは現在の問題を理解する枠組みを学べるということであり、これから歩むべき

道をもまた知ることができるということである。日本の精神分析の歴史を知ることに

よって、私たちは今の日本の精神分析や、これからの日本の精神分析を考える

ための理解を得ることができるのではないだろうか」。

 

 との言とは裏腹に、残念ながら、本書がこの目標を到達することは叶わなかった。

というのも、全体のフレームがまるで見えてこないのだ。それが証拠に、日本の

精神医学史の素描が著されるのがようやく第四章になってからのこと、それにしても

「よく知られているように」という仕方での、行きがかり上の簡潔なメモに過ぎない。

精神医学や社会政策といった枠組みの中で、いかにして精神分析が立ち位置を

獲得していったのかも見えなければ、全体のつながりを欠いているがために、なぜに

五人が取り上げられなければならないのか、というそもそも論からして分からない。

代わって本書の展開する「歴史」といえば、「初めにフロイトがあった」史観とでも

呼ぶべき何か。各人が時代やテーマの文脈からぶつ切りに分断されている以上、

パーソナル・ヒストリーに終始せざるを得ない。そこで紹介される臨床例にしても、

私にはそのほとんどが創作物としか読めず興醒めを誘う。

 その中で長所といえば、「父殺し」を見事に引き出した第五章の結びだろうか。

終わり良ければすべて良し、物語として上手に落としたと讃えることもできようが、

その構造に耽溺しているだけと突き放してみても的外れとは言えまい。

ロスト・シティ・レディオ

  • 2019.04.30 Tuesday
  • 20:06
評価:
国分 拓
新潮社
¥ 1,728
(2018-06-22)

 ペルー・アマゾンの奥地に暮らす「先住民はみな、森と川の民族と言われている。

……自給自足の暮らしに変化が訪れたのは、百年ほど前のことだった。ドミニカ

修道会やカプチン修道会のミッション団がやって来て、『文明』を伝えたのだ。

 修道士たちは、裸で暮らしていたイネ族に衣服を与え、病気になれば薬を与えた。

聖書も渡し、その中身を理解させるためにスペイン語を教えた。

 数十年前からは、欧米の国々から資金援助を受けたNGOが来るようになった。

北欧や、旧宗主国であるスペインの王室から資金援助を受けたNGOは、イネの

人たちに『民主主義』や『人権』やペルーの『歴史』を教え込んだ。

 ロメウはそんな、一気に文明化されていった集落で育った」。

 都市部で教育を受けたロメウは、集落に戻ると間もなく若くして村長に選ばれ、

先住民の権利拡充を求めて日々奔走する。そんな彼のもとに一通の手紙が届く。

ペルー政府文化省からの出頭依頼だった。応じた彼に託されたミッションは、

「イゾラド」、つまり「文明社会と接触したことがないか、あっても偶発的なものに

限る先住民」だった。政府の立てた巨大な赤看板が注意を促す。

〈イゾラド 出現注意!〉

 ここ数年、目撃情報が急増し、凶行による死者も既に出ていた。

「イゾラドと信頼関係を築くのは並大抵のことではない。気の遠くなるような

時間がかかる。対応する者には、粘りと情熱が不可欠だ。……イゾラドと

言語が近い部族の中から優秀な人材を見つけて育てていくのが一番いい」。

 そうして白羽の矢が立ったのがロメウだった。

 詳細を告げられたロメオの脳裏を集落の口伝がかすめる。

「黒い黄金」ゴムを求めて、銃を手にアマゾンへと乗り込んだ西洋の略奪者が

かつてあった。屈従を余儀なくされたイネは反旗を翻す。奴隷主を撲殺したのだ。

そして彼らは追跡者を振り切るべくエクソダスに入り、やがて故郷へ戻る。

 もっとも「生き残った者たちが伝えたかったのは、そんな武勇伝や逃避行の

物語ではなかった。……森を逃げ切ることができたのは全員ではなかった、

森には未だ仲間が残っている、ということだった」。

 イゾラドがもし、あの日森で別れた仲間、「ノモレ」だったとしたら――

 

 筆者のテキスト『ヤノマミ』は既に読んでいた。「イゾラド」についても、

話だけは知っていた。先住民をめぐるドキュメントと決め込んで読みはじめて

しばらく、本書の異質性に気づく。

 筆者の痕跡が消されている。

 ノンフィクションの作法としてはそう珍しいことではない。ただし、対象が

文明の外側より来たる者となれば話は違う。未知なる存在を観察する主体が

対象に向き合う異邦人としてどうしても立ち現れざるを得ない。

 この消失現象を可能にした装置が二つある。一つは、文明とイゾラドを媒介する

メディアとしての悩めるロメウ。そしてもう一つはエクリチュールという作法。

「先住民の多くは、数十キロ先の音でも聞き取り、聞き分ける」。

「森と川の民族」として、その音のことごとくを彼らは知る。知らない音が聞こえて

来れば、あるいは声も立てずに近づいて来れば、それらは彼らにとって「敵」を

証する。彼らの固有性は、カメラやレコーダーという文明に捉えられる瞬間に

壊れてしまう。だから本書の伝える何か――レヴィ=ストロースを引くまでもなく、

おそらくそれは事実としては既に喪失済みの何か――は、VTRによっては

成り立たない。「ノモレ」を「ノモレ」たらしめる耳と口のみがそれを可能にする。

その身体性を伝達、再生するには話すか、さもなくば書くか。

 足りぬ余白を想像が埋めて、テキストは時に事実を超えて真実を媒介する。

 

 ロメウと彼らの最後の接触。

「ノモレ」との呼びかけを受けて姿を見せた彼らにバナナを贈り、何気ない雑談を

交わす。そんな平穏を壊したのは、彼らの知らない音だった。観光船が川を上る、

エンジンの轟音だった。先住民を見つけたツーリストは一斉にスマホやデジカメの

シャッターを切る。大きな石を両手に構えた男がロメウに問う。

 ――なぜ、お前たちは大きな音を立てるのか。

 ――なぜ、お前たちはやって来るのか。

 ロメウにできるのは、ただ沈黙することだけだった。

 だから「私」は「私」として語るべき声を本書に持てない。

 そして彼らは森深くへと姿を消した。

noble savage

  • 2019.04.15 Monday
  • 23:02

「人とは深くちぎらず――。“本田語録”のひとつであるが、言動に逆行するかの

ように、本田は接した人々を自然に引き付けてしまう人だった。

 本田は志操堅きジャーナリストだった。滑らかで艶のある文章を書く作家だった。

その心に優しき心根を宿す人だった。もとよりそれは品行方正という意味ではない。

喧嘩早く、博打事に長けた、諧謔と無頼風を好む人でもあった。(中略)ともあれ、

人・本田靖春には、波動してくる固有の調べがあって、それは作品群にも色濃く

流れている。不肖の、一後輩ライターである私が、本田作品に引き寄せられて

きたのもきっとそのせいであったのだろう。

 本田の残したノンフィクション作品や時評や対談や回想記を、伴走者として

かかわった編集者や関係者の追走を含めてたどってみたい。その作業を行なう

なかで、調べを奏でる源にいま一歩、分け入ることができればと思うのである」。

 

 本田が自身の作品集を上梓するに際して寄せた文章よりの引用。

「私は中学一年のとき、外地で敗戦を迎えた。引き揚げてきた私を待ち受けて

いたのは、民主主義教育である。(中略)人間として眼を見開きはじめた時期に、

民主主義と出合えた意義は大きい。かつての日本がいかに間違った道を歩んだか。

植民地二世として生まれ育った私には、過去の日常の中に、思い当たる節々を

たくさんもっていた。

 引き揚げたのちの暮らしは、世俗的にいうと苦労の連続であった。貧乏もしたし、

日本社会の閉鎖性や排他性をいやというほど味わいもした。だが、それらを通じて

弱者の視点を獲得した。

 ある時期から私は、『由緒正しい貧乏人』を自称するようになった。それは、

権力に阿ねらず財力にへつらわない、という決意表明であった」。

 本書『拗ね者たらん』の梗概として、これに加えるべき表現を特に持たない。

当人がとうに著していることを改めてなぞり直しただけとの評は、常識的には

手ひどい罵倒と受け取られるべき類のものなのだろう。

 

 ところが。生島治郎との対談において、本田は語る。

「他人のことばっかり書いてさ、いわばアバいて、自分が無傷でいるわけに

いかんじゃないかっていう気持ちもあるんだよな。(中略)この商売やってて

最終的に書くことは何だっていったら、やっぱり自分のことだと思う」。

 言うなれば、筆者の仕事はこのことばに嘘偽りのないことを証明するために

あてられている。通常、作家その他の表現者についてのノンフィクションとして

期待されるものといえば、むしろ本人が言わなかったこと、書かなかったことに

光を当てることにあるように思われ、そうした評価軸に照らせば、書いたことを

写し取っただけとも見える本書はいかにも物足りない一冊として把握されよう。

 そんなことはたぶん筆者とて分かっていて、その上で、甘んじて噛ませ犬を

引き受ける、この真摯な敗者の美学にこそ本書の輝きはある。

 著述家について何を書こうとも、当人のテキストに勝ることなどできない、

同業者が寄せる賛辞としてこれ以上の仕方があるだろうか。

 

 もちろん、筆者の独自性とすべきだろう、本田を今一度再確認する意義は

記述の端々から見て取れる。ネトウヨ・フェイク・ニュースが恥ずかしげもなく

「公共放送」を僭称する時代に「由緒正しい貧乏人」、別言すれば、粗にして

野だが卑ではない、その生き様を辿り直す。

 そしてその絶望も知らされる。社会部がもはや社会部たりえない、なぜなら

もはや社会がないから。そこにあるのは会社だけ。かくして本田は読売を去る。

平成以前、昭和に既に横たわったその葛藤が本田を本田たらしめた。

 

 その中に、あえての希望を探す。

 2004年の晩秋、病魔に蝕まれた本田の絶筆原稿とともに、編集者は夫人から

あるものを受け取る。「お嬢ちゃんに」と手渡された菓子箱を帰り道に開いた。

手縫いのお手玉だった。もうひとりの「由緒正しい貧乏人」が、夫の人工透析に

付き添うその傍らで仕上げたものだった。

「人の子供のことを案じている場合じゃないでしょうが。なんていう人たちだ……

 ぬぐってもぬぐっても涙がとまらない。道を行き交う人から怪訝な視線を

向けられてもどうすることもできなかった」。

 現代にもまだ、「拗ね者」たるべき理由はある。

セラピスト

  • 2019.03.16 Saturday
  • 21:19

 本書の原題は、The Soul of an Octopus

 映画『パターソン』にて、本棚に背表紙を見つける。

 

「今から五億年あまり前に、進化の過程でタコにつながる系統と人間につながる系統とが

分かれた。私は思った。その進化の分水嶺の向こう側にある、もうひとつの心に触れる

ことはできるのだろうか、と。……私はタコに会いたいと思った。もうひとつの現実に

触れてみたかった。私たちの意識とは別の種類の意識が実際に存在するのだとしたら、

それを探ってみたかった。タコというのはどんなふうに感じているのだろう。人間の場合と

似たところはあるのだろうか。そもそも、それを知ることなんてできるのだろうか。

 だから、水族館のロビーで出迎えの広報担当者から、アテナというタコを紹介しようと

言われたときは、別世界に招かれた特別な客になった気分だった。けれども、その日を

境に私が発見することになるのは、実は私自身にとっての愛おしい青い惑星――息を

のむほど異質で驚異的なすばらしい世界だった。この地球に生まれて半世紀、その

大部分をナチュラリストとして過ごした末にようやく見つけた、自分の居場所だと心から

感じられる世界だった」。

 

 肉体は魂の牢獄、そう公言してはばからなかったソクラテス(プラトン)にとって、

知を愛でる作業とはすなわち、魂をいかにして解放するか、その成就に他ならない。

 ゆえに彼は『パイドン』において結論する。肉体からの魂の自由、その一点において、

死と哲学は限りなく等しい。ここから高名なテーゼ、「哲学は死の練習」は導かれる。

 

 書き出しにこんな挿話を挟んでおいて、勘違いするな、という方が無理というものだが、

『愛しのオクトパス』自体は、とても幸福感に満ちたテキストである。

「タコはとても個性が強い。だから飼育係はたいてい、それぞれのタコの特徴をとらえた

名前をつける」。人懐っこいタコもいれば、エミリー・ディキンソンよろしく人目を避ける

タコもいる。無脊椎動物なのに、視覚、触覚、味覚などを駆使して、相手を識別している

としか思えないような態度の使い分けを示す。漏斗で水を噴射するのは気に食わない

ものを追い払うためだけではなく、遊びに用いることもある、そう請け負う人もいる。

 本書は、タコとの交流の記録であるとともに、取り巻く人々をめぐる観察記録でもある。

 あるアスペルガーの少女が「本当に満たされた思いを味わったのは、水族館で

ボランティアを始めてからだった」。そして突然、彼女は友人を亡くす。自殺だった。

癒したのはタコだった。彼女は言う、「泣いていても泣くのをやめる。だってタコが私に

触れてくれるんだもの。……人生最悪の夏。でも水族館での日々は人生最良の日々」。

 あるスタッフの場合、妻の肉体が奇病に蝕まれていた。ホスピスに入るその日の朝、

ただし彼は水槽の前にいた。ボランティアの誕生日を祝うためだった。彼は「悲しい

出来事が迫っているというのに、……きょうのこの日をいい一日にすることができている

――いわば奇跡だ。そんな奇跡をつかさどるのに、別世界の力の使い手であるタコ

以上にふさわしい者がいるだろうか」。

 

 メスダコが卵を産み落とす。ビーズ細工のように卵を房状に束ねて巣に吊るす。

人間との接触などもはや二の次、甲斐甲斐しく世話を焼く、ただし受精はしていない。

タコにとって産卵は死へと向かうスイッチでもある。余命半年、孵らぬ卵に心を砕く。

痛々しくも、崇高に。

「人間はタコのことをわかってませんよ」。

 各々が好き勝手にタコに見たいものを投影しているだけなのかもしれない。

 でも筆者は観客にタコは「あなたたちのことがわかっているんですか」と問われて

こう断言する。「もちろんです、……ひょっとしたら私たちが彼女をわかっているのと

同じくらい、あるいはそれ以上かもしれない」。

 スフィンクスの身体性の壁を超えて、共感があると信じなければ生きていけない。

 

 以下に余録の私事を連ねる。

 月一、二度のヤギ詣でをはじめて4カ月、先日ついに一匹が柵から身を乗り出して

顔を近づけてくれた。私が廻り込んだわけではない、餌で釣ったわけでもない、他の人に

同様のサービスを振りまくでもない、至近距離の私の背後に何があるとも思えない。

そのままじっとしばし見つめ合う。

 分かってくれた。

 Hello, World!

Let's Groove

  • 2019.03.14 Thursday
  • 22:23

 ジャジャジャジャーン。

 そう聞けば、もしくは、読めば、少なからぬ人々がひとつの連想へと誘われよう、

すなわち、「運命が扉を叩く」という『交響曲第5番』作曲家自身の解題へと。

 このエピソードの初出は『ベートーヴェン伝』、筆者は晩年の「楽聖」に仕えた

アントン・フェリックス・シンドラー。聴覚を失った主人の意志疎通を手助けした

現存138冊のノートを預かっていた人物としても知られる。

 ところが、この男が「音楽史上最悪のペテン師」だったとしたら――

 

「シンドラーにとって、嘘とは、ベートーヴェンに関するあらゆる『現実』を『理想』に

変えるための魔法だった。……彼はベートーヴェンの本性を衆目から隠そうとした。

見るに耐えないものを見るのは自分ただひとりでいい。そう思っていたのかも

しれない。傲慢な考えではある。ベートーヴェンが遺したものを捨てたり加工したり

する権利がおまえにあるものか、と責めたくもなるだろう。しかし、シンドラーは

現代的な意味での音楽研究者、あるいは歴史研究者ではなかった。……

シンドラーがベートーヴェンに対して抱いていた使命感は、『正確に実像を伝える』と

いう学問的なポリシーとは根本的に別のものだった。

 もしシンドラーが覆い隠した真のベートーヴェンを知りたいと望むなら、私たちが

すべきなのは彼の存在を葬り去ることではない。シンドラーに限りなく接近し、彼の

まなざしに憑依して、ロング・コートの裏側の『現実』に視線を遣ってみることだ」。

 

「別れた恋人の消息をSNSで見かけたときのような気まずさと好奇心で、

ついつい耳をそばだててしまう」。

 1795年生誕、1864年死没の人物に「憑依」した末、紡ぎ出された表現である。

幾重にもねじれたツッコミどころを探すことさえ忘れて、とりあえず笑う。

 

「黒歴史リベンジ・マッチ」、「虫けらはフロイデを歌えるか」、「イケメンリア充、

現る」、「嘘から出たマジ切れ」――以上、チャプターに割り振られたリード・

コピーの一例。

 

 デジタル世代の評伝を書くとしても相当に挑戦的なスラングまみれのスタイルを

よりにもよってベートーヴェン周辺の描写に用いて試みるというのだから、事態は

いよいよ混沌を極める。

 このヘッド・バンギングな文体を是とするか、非とするか、主役たるシンドラーを

差し置いて、もはやこの問題こそが本書の帰趨を決する。

 品の有無を言う前に、一定数の人々の頭にはそもそも入っていかないだろうし、

刺激の強さは裏返しとしてのインフレ破綻を前提せずにはいない以上、未来の

長文ライティングにおいてこれがスタンダードになるとも思えない。

 と、ネガティヴを羅列すればキリはないけど、「神の火花でみんなフロイデ!」

いいじゃない、だって笑えるから。

 ベートーヴェンがシンドラーにつけたあだ名が「パパゲーノ」、由来はもちろん

モーツァルト『魔笛』、「てめえは無駄口を叩くな」の隠語、ただし当の本人は

ついぞその意を理解しなかったらしい。そしてこの歴史的バカ歌は果てなき

神話化を経ていつしか聴衆の笑いを失った。

 これ以上の悲運が果たしてどこにあるだろう。

 本書の仕方は文体のための文体ではない、クラシックと敬して遠ざけられた世界に

同時代性の息を吹き込むその試みなのだ。成否を云々する前に、何よりもまずは

その敢闘精神に称賛を送らねばならない。

 少しだけ真面目な話をすれば、捏造、改竄を主題とする作品において

ヴェールの剥ぎ取られゆく過程が明かされないというのでは、そもそもの

片手落ち感が否めない。

 でも、何それおいしいの、それでいい。

 少なくとも、教養のための教養と化するよりはずっと。