とりあえず 殺してみよう ほととぎす

  • 2017.02.22 Wednesday
  • 22:56

 ハピネスのサイエンスとしての宗教について考える。

 

  「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

  しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの

  右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書5:38-9

 

 誰しもが一度ならず耳にしたことのあるだろう、あまりに有名なフレーズ、しかし、

同じテキストの中で、時にこうも訴える。

 

  「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和では

  なく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイによる福音書10:34

 

 さて、どう折り合いをつけたらよいものだろうか。

 

「キリスト教は、それ自体が『救い』であるというよりも、『救い』を必要とするのに

救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。

キリスト教があらためて気づかせてくれるのは、人間には人間の魂を救えないし、

人間には人間の矛盾を解決できない、という冷厳な現実に他ならない。……

本書の究極的な狙いは、愛と平和を祈りながら戦いがなされるという現実を通して、

宗教や戦争という問題のみならず、そもそもの人間理解を問い直していくことである」。

 

 軍隊の士気を維持、向上させる装置としてのキリスト教。

 北米大陸における歴史を辿れば、従軍チャプレン制度の発足は1775年、独立戦争の

開始とほぼ時を同じくするが、実は、17世紀初頭から既に「聖職者が民兵たちによる

戦闘や訓練に付き添うという文化があった。……『他者』の殺戮を正当化し、また

戦死者の名誉を称えるのも、教会と牧師の仕事だった」。米陸軍の兵科のひとつ、

「チャプレン科」は「歩兵科」に次いで設けられた、「世界で最も古く、最も大規模な

チャプレン組織である」。

 

 例えばディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいた。ナチスの狂気に

転覆を企てた廉で死刑に処されたことでその名を知られる。彼のことば。

 暴走する車が人々をはねて回っているのならば、その血迷える運転手を座席から

引きずりおろして凶行を止めるのは当然の所作だ。

 

 十字軍や現代のイラク、アフガンの傍らで、少なくともローマ国教化する以前の

初期キリスト教は平和主義を貫徹せんとしていたのでは、そんな素朴な思いにも

現実はしばしば否定的な回答をつきつける。「戦争や迫害に反対する声をあげてきた

キリスト教徒もいたが、それ以上に多くの者が、戦争や迫害に加担してきた。明確な

悪とまではいかなくとも、何らかの形で暴力を正当化してきた。人間も所詮、動物で

ある以上、生き残るためには、『警察的機能』であれ『正当防衛』であれ、残念ながら

何らかの理由をつけた暴力を必要とするのが宿命である」。

 

「人間も所詮、動物」。

 害獣の狂気に抗うに、死の他にいかなる報いがありえようか。

 1人の死は悲劇、1万人のそれもたぶん同様。しかし、1束の屠殺は祝祭に変わる。

 殺人は常に最善の倫理。

 世界はこの他にいかなる教義も持ち得ない。

「形成均衡の場」

  • 2017.02.11 Saturday
  • 22:29

 あいにく−生憎−会いにく−愛肉。

 いや、ただの落書き。

 

「本書では、まず村や町に現われる鳥獣との闘いや対応など、多様な実態を、中国山地や

北海道などの現場に迫った。/私自身、農業経済の研究をつづけたのち、退職し、田畑を

耕やしはじめた。すると、そこで鳥獣害に直面することとなった。……いま私たちが直面

している事実や背景、そしてそれが意味するものは何か。日本ではこれまで鳥獣たちを

どうとらえてきたのか。西洋ではどうだったのか。こうしたことを明らかにしながら、

鳥獣害にどう対応し、動物たちと、どう向きあっていくのかについて考えてみたいと思う」。

 

 本書は一方では「憎らしい鳥獣たち」の実態を綴る。筆者自身もそんな被害者の代表、

例えばシカによって植えたばかりの苗を食いちぎられ、池の魚はサギやアライグマの

まさしく餌食となった。サルの被害で農業を諦めた、そんな例も紹介される。農水省の

統計によれば、その被害金額は年間約200億円にも及ぶ。

 とはいえ、そうした現状リポートから駆除の必要を謳うばかりではなく、共存の可能性を

模索する。例えば北海道ではエゾシカをめぐり、絶滅への危惧と人的被害との衡量の中で

頭数管理が実践される。

 さらに視線は各種施策を超えて、動物観の思索に踏み入る。そこでは、アリストテレスや

聖書から「動物の権利」へと至る西洋の変遷や、日本古来の仏教的死生観を手がかりに、

ダーウィンや今西錦司なども絡めながら、「形成均衡の場」が探られる。

 

 こと後半部の価値判断については、抽象性が高すぎて、何ともコメントのしようがない。

そもそもの「害」の定義や社会的保護のプライオリティをめぐる政策上の判断においても

前提としての生命観などが欠かせないことは分かる半面、「感動と畏敬、祈り、感謝」と

説かれても、残念ながら、そうですか、としか私には言えない。実践においてその意味の

共通了解が図れるとも思えない。

 とはいえ筆者も示唆する通り、こうした競争と共存のあいだ、「均衡」をめぐる問題は、

何も人間−動物に限らず、人間−人間にも及ぶ。「『自然の管理』は、じつは『人間の自己

管理』、『人間の欲望管理』へと帰結していく問題なのである」。

 

 beefは知っていてもbullcowは知らない、porkは知っていてもpigは知らない。

 そんな屍の上を歩む現代人にも、否応なしに鳥獣害は迫る。

「農業・農学の分野では、獣害に関する現実と、動物の排除・捕獲のための具体的な

技術などについての著作は多いが、鳥獣害問題の本質と意味、対策をめぐる考え方、

人間と動物のあり方などについての考察は少ない」。

 そうした類をお求めの方のための一冊。

欲望という名の電車

  • 2016.11.10 Thursday
  • 21:28
評価:
デイヴィッド エドモンズ
太田出版
¥ 1,944
(2015-08-28)

「本書は散乱した死体と血痕を残しながら進んでいく。頭を悩ませるのは一人だけだが、

多くの人間が命を落とす。彼らの大半は奇怪な状況に囚われた罪のない犠牲者だ。

一人のずんぐりとした男が跨線橋から転落することもあれば、しないこともある。

 幸い、こうした不慮の死のほとんどは架空の話だ。とはいえ、これらの思考実験の

目的は、われわれの道徳的直観をテストし、道徳原理の確立を手助けし、それによって

世界――そこでは現実の選択をせざるをえないし、現実の人間が傷ついている――に

実益をもたらすことにある」。

 

 本書のテーマ、「トロリー問題」の典型はこうだ。

「あなたは線路を見下ろす跨線橋に立っている。路面電車が線路を疾走しており、

その先で5人の人たちが線路に縛りつけられているのが見える。……跨線橋に

ものすごく太った男がいて、手すりから身を乗り出して路面電車を眺めている。この男を

突き飛ばせば、彼は跨線橋から転落して眼下の線路に叩きつけられるだろう。恐ろしく

太っているため、その巨体に衝突した路面電車は激しく揺れながら停止するはずだ。

悲しいかな、この過程で太った男は命を落とす。だが、五人の命は救われる。

 あなたは太った男を殺すだろうか? 殺すべきだろうか?」

 回答やそこに至るためのアプローチも多種多様だが、そもそもの問い立ての細部に

手入れすることでも、立場はどうにも揺さぶられざるを得ない。

 5人を助けるために1人を犠牲にする、という点においては同じでも、例えばこんな

シチュエーションはどうだろう。

5人の重症患者がいて、全員が緊急の臓器移植を必要としている……運のいいことに、

健康で血液型も適合している罪のない若い男が、年1回の定期検診のためにやってくる。

外科医は彼を殺し、その臓器を危機に瀕している5人に分配すべきだろうか?」

 

 現代における半ば必然、「思考実験」の前提となる「思考」という仕方それ自体に横たわる

危うさもまた、本書の射程となる。

 例えば脳科学、生理学的な観点からの批判。「前頭前野腹内側部に損傷を負った

人々の研究が進められてきた。こうした患者は太った男の運命にまったく無関心だ」。

「思考」云々という自律性神話はもはや決壊し、今や倫理は脳という器質の機能へと

還元される、とはさすがに言い過ぎか。とはいえ、例えば「メアリーの万引きは、彼女の

脳内の化学組成とシナプスによって説明できる」との弁明の説得力をいかにして

退けることができようか。

 体内のホルモンをコントロールするだけでも、「トロリー問題」への返答は変わる。

「ある研究では体内のセロトニンの量が調整された。その結果、セロトニンが増えると

被験者は功利主義的な傾向を弱め、太った男を突き落とす気が削がれる」。

 例えば今日の法廷を司るものが、ほんの数ミリグラムの化学物質だったとして、

もはや何を驚くことがあるだろうか。

 

 本書に直接的な言及のない「思考実験」について。

 天才トマス・ホッブズは、もし仮に現行の法や制度がなかったら、世界はどうなって

しまうのだろうか、との「思考実験」へと読者を誘い、そして「万人の万人に対する戦争」の

命題を引き出す。あたかも「われ思う、ゆえにわれあり」に似通った仕方で、社会制度の

問題を内面の倫理(功利計算)へと還元するこのアプローチを通じて、彼は近代を切り拓き、

そして、そもそもの両者の還元不可能性を逆説的に暴き出す。

「人を殺してはならない」との命令が横たわる社会は、今日まで何はともあれ続いている、

しばしば人を殺しながら。

 脆くもはかない「思考」の箱庭はともかく、この世界に「なぜ人を殺してはならないのか」に

答えなどある必要もなく、そして毎日は続いている、明日のことは知らないけれど。

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