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    菊とギロチン

    • 2019.07.03 Wednesday
    • 22:07
    評価:
    ジグムント バウマン
    筑摩書房
    ¥ 1,188
    (2017-12-07)

    「わたしたちはコミュニティがないと、安心して暮らすことができない。安心は、

    幸福な生活を送るのになくてはならないものである。しかし、わたしたちが

    現に住んでいる世界では、ますます提供が難しく、保証をためらうものとなっている。

    コミュニティは、杳として行方が知れず、わたしたちの手からするりと逃げていって

    しまうか、ばらばらに壊れたままである。というのも、今日の世界では、不安のない

    生活という夢の実現のために努力するようわたしたちを駆り立てるが、そういう

    やり方では目標の実現に近づくことはできないからである。努力すればするほど、

    不安は和らげられるどころか高まるばかりで、その結果わたしたちは、夢見ては、

    トライし、しくじり続けるのである」。

     

    「『コミュニティがまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる』。……すなわち

    それは、『生まれながらの故郷』と〔人々の間で〕伝えられるものの代用品であり、

    外の風はいかに冷たかろうとも温かさを保つサークルの代用品なのである。これらは

    二つとも、急速に民営化され、個別化されるとともに、急激にグローバル化する

    世界のなかで、手に入らないものである。手に入らないからこそ安心して、実用に

    耐えるかどうかを気にするまでもなく、安全で信頼できる、居心地のよい避難所として

    想像されるし、またそれゆえ熱望されるのである」。

     

    「剥奪に関する不満は、かつては、さまざまなカテゴリーの人々が自分たちのことを

    不平等な状態にあると思っているという理由だけではほとんど生じなかった

    (それにしても、人類史の大半において反乱が相対的に少ないということは、一つの

    ミステリーである)。外部の観察者の目にはいかに不幸で悲惨で不快に映る低い

    生活水準であっても、それが長い間そのまま続き、被害者にとって『自然な』状態と

    なった場合には、原則として従順に受け入れられ、いかなる反抗も呼び起こさなかった。

    貧困者や無産者は、自身の生活のひどさに対してというよりも『締めつけが強くなる

    こと』に対して反抗した。……要するに、不快な状態にではなく、慣れて耐えられる

    までになった状態が急激に変化することに対して、反抗したのである」。

     

     災害であっても、「共同の行為の価値の低下を阻止したり、その失われた

    価値をいくらかでも回復したりすることにいささかも寄与しない。というのも、

    どう想像力をめぐらしても、協力の決意を固めることでこのような災害から

    逃れられると思い描くことはできないからである」。

     

    「貧しい者同士が戦うことほど、豊かな者にとって喜ぶべきことはない。受難者たちが

    協定を結んで、自分たちの苦境を生みだしている原因と向き合う可能性がずっと

    遠のくためばかりではない。……今日、豊かな者が喜ぶのには、特別な理由がある。

    その理由は、グローバルな権力ヒエラルキーのもつ新たな特性に固有のものである。

    すでに指摘したように、この新しいヒエラルキーは、撤退の戦略によって維持されて

    いるが、この撤退の戦略はと言えば、新しいグローバルな実力者が容易かつ迅速に

    移動できるかどうかにかかっている。その際グローバルな実力者は、意のままに、

    気づかいなく地域への関与を断つとともに、瓦礫の撤去というイヤな仕事を、

    『地域住民』をはじめるとする取り残された人々に押しつけて去るのである。エリートが

    自由に移動できるのは、おおかた、地域住民が団結して行動できないことや、

    進んでそうしないことのおかげである。地域住民の団結が粉々に砕かれ、かれらが

    分かれて属する集団がもろく細かくなればなるほど、憤りは同じく無力な隣人たちとの

    戦いに費やされ、団結して行動できる可能性は小さくなる」。

     

     現代日本の定点観測として、そのいちいちが精緻に刺さる。

     そして驚くべきことに、原著の出版が2001年、バウマンの他界は2017年。

     この預言の書に刻まれた微かな希望を拾い集める。

    「安心は、異文化間で対話が行われるのに必要な条件である。それなしで、

    コミュニティが互いに心を開くことも、対話に乗り出すことも、まずない。対話は、

    一つ一つのコミュニティを豊かにするとともに、コミュニティの枠を越えて人間性の

    共有をうながす。かくして安心があれば、人類の前途は明るいものとなる」。

     コミュニティが途絶した世界のなかで、「わたしたちは、システムの矛盾に対して、

    〔自分の人生経験のなかから〕伝記的な解決策を探しだすよう求められている。

    わたしたちは、他者と困難を共有しながらも、自分一人の救済策を探すことになる」。

    ただしバウマンは直後に釘を刺す。「この方策は、わたしたちが求めているものを

    もたらしそうもない。というのもそれは、不安の根源には手をつけずにおくからである。

    さらに言えば、この個人的な機知や技量への後退こそがまさに、わたしたちが

    逃れたいと願う不安を世界に注入しているのである」。

     統計偽装をいかに言い立てようとも、「わたし」の給与明細や預金残高の

    何が変わることもない。「わたし」の問題はことごとく自己責任として能動的に

    引き受けられる。「わたしたち」がもはや失われたからこそ、「個人的な機知や

    技量」のほかにもはや道を求めることができない。その「わたし」の連鎖の先に

    まだ見ぬ「わたしたち」を作る。MeTooよろしく「わたし」の問題を伝えるべき

    「わたしたち」がもはやない、もしくははじめからない、のだから、「わたし」は

    話の通じる別の「わたし」を見つけるしかない。至ってロジカルに説明可能で、

    そして行き着く先は破綻を極める全体主義の狂気に抗うに、この隘路の他に

    希望の種がどこに転がっているだろう。

    我を忘れる

    • 2019.04.04 Thursday
    • 22:59

    「コミュニティや自然に対する現代人の望みとは、大きな全体の中で意識と自己を

    失いたくないという望みである。それはしばしば子宮やエデンへの回帰の欲望と

    呼ばれている。分節化は、人間の創造的な努力の初めの段階ではうまくいって

    いたが、あまりに行き過ぎてしまったのだ。……意識と、それに伴って強まった

    自意識はあまりに孤立し苦痛になった。ときにわれわれは知識の木から果実を

    食べなければよかったと思い、エデンに帰りたいと望み、世界中のものに名付ける

    ほどの意識はもちたいが、自分自身を名付けるほどの意識はもちたくないと思うのだ。

    しかし、ときにまたわれわれは自分の個性や、揺るぎない意識や、自分たちが

    逃れられない主観性の虜であることを誇らしく思うのである」。

     

    「分節化」をめぐるトゥアンの例証は、あまりに意外なところから大胆に切り込む、

    つまりは食卓から。

    「近代以前の芸術では、差異ではなく豊穣が鍵となる概念なのだ」。

     ある詩人が伝える宴会料理は、「6羽の鶏、3羽の兎、6羽の鳩が同じ皿の上に

    出された巨大なミックスグリル」、好まれた調理法といえばごった煮。質より量という

    発想すらもない、「量や費用が料理の良し悪しのたった一つの規準であった」。

     だがやがて文明なる知恵の実の味が知られる。「テーブルマナーと食器の

    発達は、いわゆる文明というものに対する感受性が次第に強まってきたことを

    示している。文明人とは、食べ物の種類にしろ人の種類にしろ、とにかく動物性や

    自然の機能や暴力やきたなさや乱雑な混ざり合いといったものを感じさせる

    すべてのものと自分との間に、意識的に距離を置こうとする人間」を指して言う。

     彼らはフォークを知る、テーブルナイフを知る、次いで共同で使われていたそれら

    食器を各自で用いることを知る。過ぎたる「分節化」はヴィクトリア朝に観察される。

    「最初の料理がテーブルの上に置かれる前でさえ、すでにそれは積みすぎのように

    見えた。テーブルは食欲を満たすための食べ物の重さのためにではなく、高度に

    発達した切断用の道具と容器でつぶれそうだったのである」。

     

     理性の発展形態としての「分節化」、ヘーゲル史観ならば、直進的な運動の到達点に

    一応の決着を見るだろう。ところが、筆者の議論はそれを混ぜ返すように展開する。

     再開発という仕方でウェルメイドな「分節化」を志向することがむしろ都市を破壊する、

    その批判の急先鋒ジェイン・ジェイコブズを援軍に、筆者は自意識と共同体をめぐる

    例の「ディレンマ」において、後者への回帰を訴える。彼に言わせれば所詮、「個人は、

    共同体の集団的で非内省的な性質が崩壊し始めないうちは出現できない」、それは

    奇しくも漱石が、祖国を離れ遠くロンドンの自室で「知識人の孤独」に覚醒せざるを

    得なかったように。

     

     ポスト3.11の絆語りは空文と消えた。なぜならば誰ももはやトポスを持たないから。

     1982年の本書の予言の先鋭性と敗北を「平成」に見る。

     ウォークマンが持ち込んだ街並みの個室化は、スマホの到来をもってますますの

    完成を見た。はじめて訪れた土地で食事の場所を探すのに、現代人はもはや自分の

    目や鼻を頼ることをやめた。食べログのレートを見るか、ファストフードで済ます。

    そもそも旅先を決める指標すらもスマホ、典型的にはどれだけインスタ映えるか。

    すれ違う人々は背景ですらあれない、歩きスマホの危険を訴えようにも、フィルター

    バブルの内側の彼らにそのことばを届けるためのチャンネルを社会は持たない。

    ゆえに一度スマホの電源が落ちれば、液晶が鏡映しにする己が姿に「分節化」の

    極北を突きつけられる羽目に遭う。いや事実はそんな葛藤すら持たない。google

    Wikipediaなどに記憶の外付けを完了した彼らに思うべき何かなどないのだから。

     空前のバブル景気の中で買い叩かれた共同体への回帰は唯一、「宗教的な霊感に

    よって作られ」る。「習慣や伝統的価値は永遠」とすることができない時代において

    「客観的あるいは超越的な価値や規則を提供」できるものがあるならば、それは神。

    「神からもたらされたものであるためにすべての人が同意しなければならない」、

    にもかかわらず、その同意が引き出されなければ、ジュリアン・ソレルが言うように

    暴力に訴えるほか道を持たない。

     オウム真理教が「ハルマゲドン」に至るのは必然だった。

     平成の事件は平成のうちに。そうしてこのケースは強制的にシャットダウンされた、

    あたかもそれは「天皇中心の神の国」の不可能性を証明するように。

    道徳感情論

    • 2018.03.22 Thursday
    • 23:36

    「もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを観賞する際には、共感は大いなる

    悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには

    善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針と

    しては不適切である。愚かな判断を招き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。

    非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、

    友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。

    本書の目的の一つは、読者にも共感に反対するように説得することだ。……私は、日常生活に

    おいて意識的で合理的な思考力を行使することの価値を強調したい。心より頭を使うよう

    努力すべきだと言いたいのだ。もちろん現在でも、私たちはたいがい頭を使ってものごとを

    考えているわけだが、もっと努力が必要である」。

     

     哲学史を彩る議論の一つに、主意主義か、主知主義か、なるテーマがある。

     そして本書は残念ながら、深くなじんだその枠組みをただ無闇にかき乱すばかりで、

    かといって新しい何かを付与するものでもない。

     Against Empathy: The Case for Rational Compassionなる原題が典型的にその混乱を示す。

    ここでの用語法に従えば「共感empathy」と「思いやりcompassion」は決定的に違う。

    筆者が引用する他の研究者の定義によれば、「共感とは対照的に、思いやりは他者の

    苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気遣い、

    そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは

    他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」。

     そもそもこの区分に従って「共感」なる語を用いている人間がどれほどいるのだろう。

     救急医療の現場において、患者の苦しみに過剰な同調を示すあまり取り乱してしまう、

    言い換えれば「共感」に富んだ医師と、痛みや症状を把握した上で、それを除去すべく

    冷静な判断を下す「思いやり」の医師とでは、さてどちらに身を委ねたいと思うだろう。

     こう問われれば、間違いなく大多数は後者を選ぶ、ただし社会的な意思決定においては

    驚くほど多くのケースにおいて前者が称揚される。そして同時に、幸か不幸か、大多数は

    「共感」と「思いやり」に明確な使い分けを求めず、さらには、自らが実践においていずれを

    選択しているのかさえ把握できない、それはまさしく理性の欠如によって。

     一時の感情に振り回されることなく理性的に振る舞え、との指摘に私は全面的に同意する。

    さりとて、筆者が本書においてきちんと理性的な議論を提示できているようには思えない。

    結果、本書がやっていることといえば、恣意的に設定した言葉遊びの土俵の上で一人相撲を

    取っているだけ。

     

     語の曖昧ゆえの不毛な混乱は、公共政策論において極まる。

     世界中いずこでもおなじみの「保守」、「リベラル」なる無秩序なタームを持ち出して、

    その対立軸に理性と共感を組み込もうと荒唐無稽な徒手空拳を繰り出した挙げ句の結論が、

    「ここまで保守主義者がリベラルと同程度に共感に依拠していることを見てきた。のみならず、

    リベラルの哲学に結びついた視点には、共感とはまったく無縁なものもある」。

     そもそも筆者がこの判断にあたって人口に膾炙したものとする「リベラルは保守主義者よりも

    共感力が高い」なる言明とて、ここにおける「共感」なる語の定義が筆者と同様であるのかさえ

    定かではないし、この前提を是とすべき論拠が提示されることもない。

     筆者はこの一連の記述において、いつ自らが奉じる理性の行使を実践したというのだろう。

     

    「共感」か、「思いやり」か、いみじくも18世紀のスコットランドにこうした区別を適切に

    論じた偉大なるテキストがあった。

     アダム・スミス『道徳感情論』。

     本書において概ねひどく歪曲された仕方で引用されるこの巨人が、「不偏の観察者

    impartial spectator」なる視点から「同感sympathy」を説いたことをなぜか筆者は黙殺する、

    それこそがまさしく近代的理性の果実としての「思いやり」に他ならないというのに。

     

    「公平で道徳的かつ最終的に有益な政策は共感に訴えずに実施するのが最善であ」り、

    「私たちは、犠牲者の痛みに共感することを通してではなく、何をすべきかをめぐる合理的

    かつ公正な分析に基づいて懲罰を決定すべきである。……善き目標を達成するためには、

    焦点を置くべき側面と、置くべきでない側面があると言いたいだけである」。

     この結論それ自体に異議を唱える余地はない。しかし、導出に至るしばしば論理を欠いた

    展開に称賛を与えることはできない。理性の重要を説く者が理性を欠く、この自己矛盾の

    愚劣はひいては「思いやり」をも汚す。

    人間悟性論

    • 2018.03.19 Monday
    • 23:43

    「本書は、この観点から、人間社会を形づくるうえで重要な基盤となるような特性群、

    『人の社会を支える人間本性』について、実験社会科学を導きの糸に検討しようと

    します。……本書では、まず、ヒトの社会行動や心の働きが、ほかの動物たちと比較

    したときに、どう位置づけられるのかを概観します。ここまでは生物種であるヒトに

    関わる議論です。/その上で、このような生物学的基礎をもつ『ヒトの心』が、人文

    社会科学が対象とするような『人の社会』の成り立ちとどう関わるのかを論考します。

    /人のもつ価値や倫理といった、人文社会科学が数千年にわたって積み重ねてきた

    人間本性に関わるさまざまな知恵(wisdom)は、自然科学の知識(knowledge)、つまり、

    脳科学や進化生物学、霊長類学、行動科学などが明らかにしてきた経験的な事実と

    どう関わるのでしょうか。具体的には、利他性、共感性、正義やモラルといったテーマを

    中心に、本書では、人文知と自然知が隔絶した互いに無縁のものではなく、豊かな

    関わり合いをもち得る可能性を、思考実験を適宜交えながら、探ろうとします」。

     

     本書が投げかけるのは、例えばこんな思考実験。題して、最後通告ゲーム。

    「互いに未知のAさん、Bさんがペアにされ、2人の間で1万円を分ける経済実験に

    参加します……最初にAさんが実験者から1万円を渡され、『分け手』として1万円の

    分配方法について、Bさんに提案するように言われます。次にBが『受け手』として、A

    提案を受け入れるか拒否するかを決定します。もしBAの分配提案を受け入れるなら

    双方の取り分はそのまま確定しますが、納得せずに拒否した場合には、双方の取り分とも

    0円になってしまいます」。

     一般に想定されるホモ・エコノミクスならば、ABの分け前は99991で落ち着く、

    Bにとっても0で終わるよりはマシなのだから。ところが人間はかくなる結論を見せない。

    「日本、アメリカ、ヨーロッパなどでこの実験を行うと、Bに金額の40~50%を渡す、ほぼ

    平等な分配がもっとも頻繁に提案され、受け手もその提案をほぼ確実に受け入れます」。

     話が面白くなるのはここからだ。同じ実験を世界各地の少数部族を対象に行うと、

    この比率に大きなばらつきが見られる。「『どこで実験しても人間はみな同じ』では全く

    ないのです」。差異の説明関数は「その社会がどのくらい市場経済に統合されているか、

    日常場面でどのくらい協力が行われているかといった、『社会全体のマクロな特徴』」。

     政治の基礎は分配にある。文化人類学的な視座を組み込まずして、どうして構成員を

    納得させる分配制度を構築できようか。

     

     とはいえ、本書はこうした食い違いの実証をもって、安直な価値相対主義を称揚する

    ものではない。交換や共有に馴染まない背景においてすら一定の分配は志向される、

    少なくともホモ・エコノミクスよりもはるかに。筆者はここで再び「ヒト」の特性へと立ち返る。

    「興味深いことに、人を対象とする脳イメージング実験から、自分と相手の間の不平等が

    改善される(格差が減る)と、……『報酬系』と呼ばれる脳部位が賦活する(『快』と感じられる)

    ことが分かっています。しかも、その不平等が自分にとって不利だった場合だけでなく、

    有利だった場合でも働くことが明らかになっています。/こうした事実は、……相手との

    不平等は不快に感じられる一方、格差が低減することは『快』(報酬)として経験されること、

    そして報酬系が『公正』を支える神経基盤の一つとして働くことを示しています」。

     

     実験は実験、実践は実践。世界史を見渡せば、この「ヒト」としての機能に望みを託す

    不可能性を知らされる。そして間もなく、「ヒト」を呑み込んだ「人」とて、AIの計算によって

    駆逐される。「人はどこまでサルであるのか」、モラルをめぐるこの問いは、「ヒト」ですらなく、

    「サル」ですらない計算能力の前に脆くも敗れ去ることを約束されている。

    緊急検証!

    • 2018.01.24 Wednesday
    • 22:04

     自身の過去作、『理性の限界』へのセルフ・オマージュだろう、今回も例によって

    対話篇の形式で進められる。

     本書は、「人類が『論理的・科学的・倫理的』に築いてきた成果を『学=反オカルト』と

    すれば、その対極に位置する『非論理・反科学・無責任』な妄信を『欺瞞=オカルト』と

    みなすというスタンスに拠っている。……本書の目的は、一般に『学』を志す読者、

    とくに大学生諸君を対象として、上記の8つの『オカルト傾向』[騙される、妄信する、

    不正を行う、自己欺瞞に陥る、嘘をつく、因習に拘る、運に任せる、迷信に縛られる]に

    対してどのように対処すべきか、判断するためのヒントを提示することにある」。

     

     そもそも本書は『週刊新潮』連載コラムを土台にしている。

     そうした時事性を意識してなのか、「オカルト」サンプルのうちの少なからぬ部分は

    STAP騒動の顛末に当てられている。

     ないものをあるとまくし立て、ただしその主張者による証明は置き去りにされたまま、

    ないものをめぐり大のおとなが翻弄される、なるほど現象を見れば、「オカルト」の定義を

    満たしてはいそうだ。

     

     科学、教育政策に関わる話題なだけに、論じるに値するものがないとは思わない。

    ただしこのテーマ、少なくとも私には絶望的なまでにつまらない。「欺瞞」を「欺瞞」として

    あえて乗っかる、ポジション・トーク・バラエティとしての「オカルト」に爆笑したい私には、

    この事件のいちいちが退屈で、そしてしばしば不快に過ぎる。

     この差異の理由について考えて辿り着く。「学」の対義語としての「オカルト」ではなく、

    むしろ同義語としての「オカルト」こそを私は求めているのだ、と。

     自然科学が実験や数学を素材に仮説を立てていくように、法学が六法や判例を素材に

    法理を説いていくように、例えばキリスト教神学は聖書を素材に神の存在証明を図る。

    最低限の道具立てから論理を組む、その限りにおいて、「学」としてみな等しい。

    スピリチュアリズムにしても、信奉者は反駁者と同様、論理をもって他者の説得にあたる、

    たとえ怪奇とされる現象を語るための諸前提が完全に壊れてしまっているとしても。

    自称・霊媒師とて論より証拠の具体性をもって他者へと挑む、たとえその手口の内実が

    しょうもないマジックやマインド・リーディングの類に過ぎないものだとしても。

    「ありまぁす」を唱え続ければ無理が通る、そんな態度とは対照的な「学」がそこにある。

     小保方晴子のどこに、庇護者の瀬戸内寂聴のどこに、果たしてそんな「学」があるだろう。