道徳感情論

  • 2018.03.22 Thursday
  • 23:36

「もちろん共感には利点がある。美術、小説、スポーツを観賞する際には、共感は大いなる

悦楽の源泉になる。親密な人間関係においても重要な役割を果たし得る。また、ときには

善き行ないをするよう私たちを導くこともある。しかし概して言えば、共感は道徳的指針と

しては不適切である。愚かな判断を招き、無関心や残虐な行為を動機づけることも多い。

非合理で不公正な政策を招いたり、医師と患者の関係などの重要な人間関係を蝕んだり、

友人、親、夫、妻として正しく振舞えなくしたりすることもある。私は共感に反対する。

本書の目的の一つは、読者にも共感に反対するように説得することだ。……私は、日常生活に

おいて意識的で合理的な思考力を行使することの価値を強調したい。心より頭を使うよう

努力すべきだと言いたいのだ。もちろん現在でも、私たちはたいがい頭を使ってものごとを

考えているわけだが、もっと努力が必要である」。

 

 哲学史を彩る議論の一つに、主意主義か、主知主義か、なるテーマがある。

 そして本書は残念ながら、深くなじんだその枠組みをただ無闇にかき乱すばかりで、

かといって新しい何かを付与するものでもない。

 Against Empathy: The Case for Rational Compassionなる原題が典型的にその混乱を示す。

ここでの用語法に従えば「共感empathy」と「思いやりcompassion」は決定的に違う。

筆者が引用する他の研究者の定義によれば、「共感とは対照的に、思いやりは他者の

苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する温かさ、配慮、気遣い、

そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは

他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」。

 そもそもこの区分に従って「共感」なる語を用いている人間がどれほどいるのだろう。

 救急医療の現場において、患者の苦しみに過剰な同調を示すあまり取り乱してしまう、

言い換えれば「共感」に富んだ医師と、痛みや症状を把握した上で、それを除去すべく

冷静な判断を下す「思いやり」の医師とでは、さてどちらに身を委ねたいと思うだろう。

 こう問われれば、間違いなく大多数は後者を選ぶ、ただし社会的な意思決定においては

驚くほど多くのケースにおいて前者が称揚される。そして同時に、幸か不幸か、大多数は

「共感」と「思いやり」に明確な使い分けを求めず、さらには、自らが実践においていずれを

選択しているのかさえ把握できない、それはまさしく理性の欠如によって。

 一時の感情に振り回されることなく理性的に振る舞え、との指摘に私は全面的に同意する。

さりとて、筆者が本書においてきちんと理性的な議論を提示できているようには思えない。

結果、本書がやっていることといえば、恣意的に設定した言葉遊びの土俵の上で一人相撲を

取っているだけ。

 

 語の曖昧ゆえの不毛な混乱は、公共政策論において極まる。

 世界中いずこでもおなじみの「保守」、「リベラル」なる無秩序なタームを持ち出して、

その対立軸に理性と共感を組み込もうと荒唐無稽な徒手空拳を繰り出した挙げ句の結論が、

「ここまで保守主義者がリベラルと同程度に共感に依拠していることを見てきた。のみならず、

リベラルの哲学に結びついた視点には、共感とはまったく無縁なものもある」。

 そもそも筆者がこの判断にあたって人口に膾炙したものとする「リベラルは保守主義者よりも

共感力が高い」なる言明とて、ここにおける「共感」なる語の定義が筆者と同様であるのかさえ

定かではないし、この前提を是とすべき論拠が提示されることもない。

 筆者はこの一連の記述において、いつ自らが奉じる理性の行使を実践したというのだろう。

 

「共感」か、「思いやり」か、いみじくも18世紀のスコットランドにこうした区別を適切に

論じた偉大なるテキストがあった。

 アダム・スミス『道徳感情論』。

 本書において概ねひどく歪曲された仕方で引用されるこの巨人が、「不偏の観察者

impartial spectator」なる視点から「同感sympathy」を説いたことをなぜか筆者は黙殺する、

それこそがまさしく近代的理性の果実としての「思いやり」に他ならないというのに。

 

「公平で道徳的かつ最終的に有益な政策は共感に訴えずに実施するのが最善であ」り、

「私たちは、犠牲者の痛みに共感することを通してではなく、何をすべきかをめぐる合理的

かつ公正な分析に基づいて懲罰を決定すべきである。……善き目標を達成するためには、

焦点を置くべき側面と、置くべきでない側面があると言いたいだけである」。

 この結論それ自体に異議を唱える余地はない。しかし、導出に至るしばしば論理を欠いた

展開に称賛を与えることはできない。理性の重要を説く者が理性を欠く、この自己矛盾の

愚劣はひいては「思いやり」をも汚す。

人間悟性論

  • 2018.03.19 Monday
  • 23:43

「本書は、この観点から、人間社会を形づくるうえで重要な基盤となるような特性群、

『人の社会を支える人間本性』について、実験社会科学を導きの糸に検討しようと

します。……本書では、まず、ヒトの社会行動や心の働きが、ほかの動物たちと比較

したときに、どう位置づけられるのかを概観します。ここまでは生物種であるヒトに

関わる議論です。/その上で、このような生物学的基礎をもつ『ヒトの心』が、人文

社会科学が対象とするような『人の社会』の成り立ちとどう関わるのかを論考します。

/人のもつ価値や倫理といった、人文社会科学が数千年にわたって積み重ねてきた

人間本性に関わるさまざまな知恵(wisdom)は、自然科学の知識(knowledge)、つまり、

脳科学や進化生物学、霊長類学、行動科学などが明らかにしてきた経験的な事実と

どう関わるのでしょうか。具体的には、利他性、共感性、正義やモラルといったテーマを

中心に、本書では、人文知と自然知が隔絶した互いに無縁のものではなく、豊かな

関わり合いをもち得る可能性を、思考実験を適宜交えながら、探ろうとします」。

 

 本書が投げかけるのは、例えばこんな思考実験。題して、最後通告ゲーム。

「互いに未知のAさん、Bさんがペアにされ、2人の間で1万円を分ける経済実験に

参加します……最初にAさんが実験者から1万円を渡され、『分け手』として1万円の

分配方法について、Bさんに提案するように言われます。次にBが『受け手』として、A

提案を受け入れるか拒否するかを決定します。もしBAの分配提案を受け入れるなら

双方の取り分はそのまま確定しますが、納得せずに拒否した場合には、双方の取り分とも

0円になってしまいます」。

 一般に想定されるホモ・エコノミクスならば、ABの分け前は99991で落ち着く、

Bにとっても0で終わるよりはマシなのだから。ところが人間はかくなる結論を見せない。

「日本、アメリカ、ヨーロッパなどでこの実験を行うと、Bに金額の40~50%を渡す、ほぼ

平等な分配がもっとも頻繁に提案され、受け手もその提案をほぼ確実に受け入れます」。

 話が面白くなるのはここからだ。同じ実験を世界各地の少数部族を対象に行うと、

この比率に大きなばらつきが見られる。「『どこで実験しても人間はみな同じ』では全く

ないのです」。差異の説明関数は「その社会がどのくらい市場経済に統合されているか、

日常場面でどのくらい協力が行われているかといった、『社会全体のマクロな特徴』」。

 政治の基礎は分配にある。文化人類学的な視座を組み込まずして、どうして構成員を

納得させる分配制度を構築できようか。

 

 とはいえ、本書はこうした食い違いの実証をもって、安直な価値相対主義を称揚する

ものではない。交換や共有に馴染まない背景においてすら一定の分配は志向される、

少なくともホモ・エコノミクスよりもはるかに。筆者はここで再び「ヒト」の特性へと立ち返る。

「興味深いことに、人を対象とする脳イメージング実験から、自分と相手の間の不平等が

改善される(格差が減る)と、……『報酬系』と呼ばれる脳部位が賦活する(『快』と感じられる)

ことが分かっています。しかも、その不平等が自分にとって不利だった場合だけでなく、

有利だった場合でも働くことが明らかになっています。/こうした事実は、……相手との

不平等は不快に感じられる一方、格差が低減することは『快』(報酬)として経験されること、

そして報酬系が『公正』を支える神経基盤の一つとして働くことを示しています」。

 

 実験は実験、実践は実践。世界史を見渡せば、この「ヒト」としての機能に望みを託す

不可能性を知らされる。そして間もなく、「ヒト」を呑み込んだ「人」とて、AIの計算によって

駆逐される。「人はどこまでサルであるのか」、モラルをめぐるこの問いは、「ヒト」ですらなく、

「サル」ですらない計算能力の前に脆くも敗れ去ることを約束されている。

緊急検証!

  • 2018.01.24 Wednesday
  • 22:04

 自身の過去作、『理性の限界』へのセルフ・オマージュだろう、今回も例によって

対話篇の形式で進められる。

 本書は、「人類が『論理的・科学的・倫理的』に築いてきた成果を『学=反オカルト』と

すれば、その対極に位置する『非論理・反科学・無責任』な妄信を『欺瞞=オカルト』と

みなすというスタンスに拠っている。……本書の目的は、一般に『学』を志す読者、

とくに大学生諸君を対象として、上記の8つの『オカルト傾向』[騙される、妄信する、

不正を行う、自己欺瞞に陥る、嘘をつく、因習に拘る、運に任せる、迷信に縛られる]に

対してどのように対処すべきか、判断するためのヒントを提示することにある」。

 

 そもそも本書は『週刊新潮』連載コラムを土台にしている。

 そうした時事性を意識してなのか、「オカルト」サンプルのうちの少なからぬ部分は

STAP騒動の顛末に当てられている。

 ないものをあるとまくし立て、ただしその主張者による証明は置き去りにされたまま、

ないものをめぐり大のおとなが翻弄される、なるほど現象を見れば、「オカルト」の定義を

満たしてはいそうだ。

 

 科学、教育政策に関わる話題なだけに、論じるに値するものがないとは思わない。

ただしこのテーマ、少なくとも私には絶望的なまでにつまらない。「欺瞞」を「欺瞞」として

あえて乗っかる、ポジション・トーク・バラエティとしての「オカルト」に爆笑したい私には、

この事件のいちいちが退屈で、そしてしばしば不快に過ぎる。

 この差異の理由について考えて辿り着く。「学」の対義語としての「オカルト」ではなく、

むしろ同義語としての「オカルト」こそを私は求めているのだ、と。

 自然科学が実験や数学を素材に仮説を立てていくように、法学が六法や判例を素材に

法理を説いていくように、例えばキリスト教神学は聖書を素材に神の存在証明を図る。

最低限の道具立てから論理を組む、その限りにおいて、「学」としてみな等しい。

スピリチュアリズムにしても、信奉者は反駁者と同様、論理をもって他者の説得にあたる、

たとえ怪奇とされる現象を語るための諸前提が完全に壊れてしまっているとしても。

自称・霊媒師とて論より証拠の具体性をもって他者へと挑む、たとえその手口の内実が

しょうもないマジックやマインド・リーディングの類に過ぎないものだとしても。

「ありまぁす」を唱え続ければ無理が通る、そんな態度とは対照的な「学」がそこにある。

 小保方晴子のどこに、庇護者の瀬戸内寂聴のどこに、果たしてそんな「学」があるだろう。

「交通整理」

  • 2018.01.05 Friday
  • 21:29

「丸山[真男]の福沢諭吉研究は、その後の明治・大正・昭和の政治思想史の

ナラティブを強く規定した。すなわち、日本におけるある種の『未完の近代』の

具現者として福沢諭吉を扱い、その『精神』継承の系譜としてその後の思想史を

描いたり(その最終地点は、往々、丸山に置かれる)、福沢諭吉という頂点との

偏差によって同時代やその後の思想家の位置を測り、その高度な達成からの

劣化ないし堕落としてその後の思想史を描いたりという態度は、通史的見取り図の

下に近代日本の政治思想を記述しようとする論者には、無論濃淡に差こそあれ、

かなりの程度共有されていたといってよいだろう。

 本書はこうしたいわば『福沢諭吉中心史観』(『丸山諭吉』史観?)を採用しない。

福沢諭吉の思想の価値を認めないというのではない。福沢を面白く有意義に読む

ために設定された視角によっては見逃されてしまうことになりがちな他の思想家

――福沢に負けず劣らず傑出した知性であった――の個性を浮き彫りにしたいと

いうことである」。

 

 例えば福沢には、加藤弘之というライバルがあった。「敗戦をへて輝ける戦後民主

主義の啓蒙精神として具現化することになる福沢の路線が、大日本帝国の現実を

象徴する加藤の保守路線によって圧殺されていく。明治の政治思想史はそのように

描かれることがほとんどであったといっても言い過ぎではないだろう」。

 本書では今一度、同時代性の相の下、双方のテキストを俎上に並べ検討することで、

「光の福沢、闇の加藤」という構図の換骨奪胎を図る。

 

 ただし、この論文集を総じてみるときに、「概念を扱うのか、人を扱うのか」において

専ら後者に焦点を当てるとの言が、しばしば隔靴掻痒の感をもたらす点は否めない。

 例えば後藤新平とボーイスカウトについての論というのは、公共性や社会をめぐる

すぐれて「近代」の根幹にかかわる話で、「概念」の方面へとさして話が広がらないことに、

たとえテキストの趣旨がそういうものなのだとしても、もどかしさを覚えずにはいない。

 権藤成卿の話題とて、権力の正統性をいかに確保するか、というテーマとしても、

あるいは歴史修正主義的な視点としても、やはり既存のルート上にある。

「決断の主体たる権力核の不在ないし欠如の結果として、なし崩し的に戦争へなだれ

込んでいった」とする丸山の論が、M,ヴェーバーの一連の話法を前提としていることなど、

当人や同時代人にしてみれば、自明の話。

 神島一郎の「スキンシップ」とて、ナショナリズムとパトリをめぐる問いへと置き換えられる。

 

 歴史に埋もれた「人」を探り当てることの意義は十全に伝わる。「交通整理」を通じて、

「正史」を問い直すのも価値ある仕事とは思う。そして奇しくも、明治の揺籃期にあって

「交通整理」に努めた阪谷素に一章が割かれていることも非常に意味深い。

 しかしこのことは翻って、「概念」の優位性を明るみにさらす作業ともなる。抽象化が

有効なのは、つまり固有名詞や事象をあれこれ追いかけるよりはるかに効率的だから。

「人」を掘り返すことで「概念」の温故知新が生じるでもなく――申し訳ないが、私には

本書のことごとくが「交通整理」済みのものと見えてしまう――、結局のところ、ありふれた

主題をめぐる遠回りに終始しているようにしばしば映ってしまう。

忠誠と反逆

  • 2017.10.20 Friday
  • 23:17

「この本で考えたいのは、ひとことで言うと、戦後日本のことである。

 戦後や民主主義というのは、いまの私たちにとって、まるで空気のようなものだ。私たちが

生きる世の中の前提である一方、普段はまったくその存在を感じないもの。したがって、

節目の際にはジャーナリズムや出版界が『戦後何十年』と騒ぎたて、ことあるごとにデモや

キャンペーンで、“民主主義”が声高に叫ばれるものの、世間の多くの人々は無関心で

興味がない。

 だからといって、私はここで、われわれは戦後日本が抱える問題にもっと関心を持つ

べきだとか、もっと真剣に考えようなどと言いたいのではない。

 むしろ逆で、私たちは『戦後』という問題について真剣になればなるほど、的をはずして

しまうということを、この本の最後では述べるつもりである」。

 と、こんな出だしで本書は幕を開ける。『丸山眞男の敗北』と銘打ちつつも、その名が

なかなか現れない。今にして思えば、このことが後のすべてを予告していたのだろう。

 

 丸山のラフスケッチとして、本書ではいわば二度の「転向」が言及される。

 一度目は戦中における「転向」、西洋型合理主義型「近代」に抗って、徂徠学に依拠しつつ

「近代の超克」を謳った丸山が、いつしか日本における「近代」の不徹底を指摘する。

「超克」どころか、入口にすら立っていなかった、というわけだ。

 そして二度目のそれは――本書がその動きを指して「転向」と呼ぶことはないが――

「政治学者」から「日本思想史家」への「転向」。今なお果たされぬ「近代」という問題の根本を

探れば、「政治」ではなく、日本の精神史を取り上げなければならない。

「八月革命」から「逆コース」への「転向」、「鬼畜米英」から「ギブミーチョコレート」への

「転向」、しかし彼らは誰ひとり自らの「転向」を知らない。

 彼らを変えることなどできない、ただし彼らは勝手に変わる。

 そんな群像を比類なく正確に描いてみせたのが大江健三郎『万延元年のフットボール』、

すなわち日本の大衆をめぐる「空虚な中心」性の試論としての。

 あるいは遠藤周作『沈黙』にも通じるようなこの現象を指して、「敗北」と呼ぶのだろう、と

勝手に先読みしていたのだが、話ははるか明後日の方向を目指す。

「風のない時代には、どう対峙すればいいのか。『相対の哲学』では、無風の状態において

どのような行動を取れば、時代と正面から向き合うことになるのだろうか。

 丸山には想像がつかなかっただろうが、その答えは決して難しくない。それはひとことで

言えば、無風にどっぷりとつかって、力を抜くことである。逆風の状態では、政治や社会の

動向に対して緊張して身構え、対決姿勢を取ることが時代に向き合うことだったが、無風の

状態では、命を懸けて戦う状況ではないことを受け入れ、豊かさと安心でふやけた体で、

興奮せず内省的に考えることが必要となる。それこそが、無風から顔をそむけず、

逃げ出さない、唯一の方法だろう」。

 誰もが呆れを誘われずにはいないだろう、こんな自論を引き出すために、いったいどこに

丸山を経由する必然があったというのだろうか。

 なにせ丸山の論理に一向に沈潜しようとしないまま書き進めていくのだから、予兆は

もちろんそこかしこにあった。とはいえ、ここまでひどい結末を見ることになろうとは。

 我田引水の醜悪さは例えばE.レヴィナスの扱いについても然り。応答主体として

「あなた」に向けて現象する「わたし」というそもそもの実存論を知らないものだから、

内田樹なんぞに依拠しつつ語る「死者」論がまるでちぐはぐ。参考文献や引用に

一切登場しないところを見ても、原テキストをめくってすらいないのだろう。

 

 Facebookにでも書いてれば、という以上に何の感想もない。