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- 2020.05.10 Sunday
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私は無力で
言葉を選べずに
「私」が「私」であることの不可能性の換言としての、「無力で言葉を選べ」ないこと、
そんな初歩的な形容矛盾をあざ笑うように。
それは とても晴れた日で
泣くことさえできなくて、あまりにも、
大地は果てしなく
全ては美しく
白い服で遠くから
行列に並べずに少し歌ってた
「泣くことさえできな」かったのは誰か、「歌ってた」のは誰か、「私」という主語が省かれて
いるわけではない、だって名指す理由がないのだから。「太陽」にひざまずく「大地」の上、
並置される他ない入れ替え可能、入れ替え不要な存在はいかなる呼称をも持たない、
それはちょうど、「教室で」「笑ってた」「誰か」が「誰か」でしかあれないことと等しく。
「太陽」の光と同じ「白」に文字通り「服」すること、つまり「無力で言葉を選べ」ないこと、
Cocco『Raining』、もしくはS.フロイトよりの引用。
「わたし」、「あなた」という人称が持つ、ノイジーかつクレイジーな特権性について、
それはあたかもE.レヴィナスの一連の錯誤にも似て。
見る−見られる。藤野可織「爪と目」の話。
終始、神の視点から物語り続ける「わたし」(3歳)。
「あなた」の視力は「裸眼では0.1もない」。だから向き合う相手の「顔自体は見える」
けれども、「中身はよくわかんない。目も鼻も口もあるといえばあるけど、かたちが
はっきりしない」。
そんな「あなた」と「わたし」の「父」が眼科で出会う。エレベーターの中、「父」は思う、
「あなた」は「あのときたしかに自分を見て微笑んだんだ」、と。でも真相は違った。
「あなたは、顔の中身も見えない目で父を見て、そして微笑んだ」。
「あなた」にとって物事というのは、そういうものだった。「あなたに手に入らないものを
強く求めることはせず、手に入るものを淡々と、ただ、手に入るままに得ては手放した」。
「あなた」と「父」が出会って程なく、「母」が亡くなる。「事故死」だった。そうして残された
「父」と「わたし」は「あなた」と暮らしはじめる。「あなた」の目は「わたし」の顔を捉える
ことを知らず、かつて「母」の亡骸の横たわったベランダは遮光カーテンに閉ざされて、
「外の世界なんて存在しないみたいな部屋で、あなたとわたしは、お互いのことを気に
掛けずに、ごくしぜんな沈黙を共有してそこにいることができた。なんの緊張感も
なかった。まるでずっと一緒に生きてきた家族か、公共の場に居合わせただけの
まったくの他人のようだった」。
インテリアについてネットで調べているうちに、「あなた」は「母」のブログを見つける。
タイトルは「透きとおる日々」。「あなた」は「母」の顔を知らない。「あなた」の視線から
「母」は「透きとお」っていた。
視線の政治学をめぐる、ひどく古典的な筋立て。
「わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。
わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」。
「あなた」も「わたし」も何もない、「だいたい」という語の必要すらなく、誰しも「おなじ」。
評価:
ジョージ ダイソン 早川書房 ¥ 1,145 (2017-03-09) |
1945年、ロスアラモスから帰還したジョニー・フォン・ノイマンは妻にまくしたてた。
「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ。
……科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、
倫理に反するんだ。その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これは
ほんの始まりに過ぎないんだ!」。
ここであえて筆者は「怪物」を原爆ではなく、「機械の力」として解釈しようと試みる。
本書はいわゆるノイマン型コンピュータをめぐる技術史。
「デジタル・コンピュータの歴史は、ライプニッツに率いられた予言者たちが論理を
提供した旧約聖書時代と、フォン・ノイマンに率いられた予言者たちが機械を製作した
新約聖書時代に分けられる」。
しばしばコンピュータの誕生史として紹介されるのは、B.ラッセル、A.ホワイトヘッドの
分析哲学あたりを始原に、D.ヒルベルトやK.ゲーデルを経由しつつ、A.チューリングの
暗号解読あたりを終着点とする、英独中心の理論的な「旧約聖書時代」のもの。
しかし、本書の舞台はもっぱらアメリカ、プリンストン大学や高等研究所の歴史を
絡めつつ、そこにフォン・ノイマンという巨人が降臨して、第二次世界大戦を背景に、
二進法の巨大計算機が生み落とされ、あるいはそれが軍事や気象、進化論といった
かたちでの活用を見るまでの「新約聖書時代」。
この主題で面白くならないはずがない。なのに……。
伝記的なストーリー・テリングの明快さとはおよそ対照的に、晦渋に過ぎてどうとも
語りようがないのは、その技術的な議論に用いられる表現の数々。
第1章早々に出てくる言い回し、「デジタル宇宙はどれも2種類のビットからなっている。
空間における変化と、時間における変化、それぞれに対応する2種類だ。デジタル・
コンピュータは、情報をこの2種類の形――つまり、『構造』と『シーケンス』――のあいだで
厳密なルールに則って翻訳する。われわれは、構造として具現化したビット(空間のなかで
変化するが、時間が流れても変化しない)をメモリとして認識し、シーケンスとして具現化した
ビット(時間のなかで変化するが、空間を移動しても変化しない)をコードとして認識する。
ゲートは、ある瞬間から次の瞬間へと推移する刹那にビットが、この2つの世界の両方に
広がる交点である」。
気象にせよ、モンテカルロ法にせよ、いちいちがこんな表現で紹介される、Wikipediaに
連なるジャーゴンを想わせるように。
前提知識のない人間が、これを読んで何を学べというのだろうか。
少なくとも私には、悪趣味なひけらかしとしか映らない。