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    • 2017.07.02 Sunday
    • 21:29
    評価:
    藤野 可織
    新潮社
    ¥ 464
    (2015-12-23)

      私は無力で

      言葉を選べずに

     

    「私」が「私」であることの不可能性の換言としての、「無力で言葉を選べ」ないこと、

    そんな初歩的な形容矛盾をあざ笑うように。

     

      それは とても晴れた日で

      泣くことさえできなくて、あまりにも、

      大地は果てしなく

      全ては美しく

      白い服で遠くから

      行列に並べずに少し歌ってた

     

    「泣くことさえできな」かったのは誰か、「歌ってた」のは誰か、「私」という主語が省かれて

    いるわけではない、だって名指す理由がないのだから。「太陽」にひざまずく「大地」の上、

    並置される他ない入れ替え可能、入れ替え不要な存在はいかなる呼称をも持たない、

    それはちょうど、「教室で」「笑ってた」「誰か」が「誰か」でしかあれないことと等しく。

    「太陽」の光と同じ「白」に文字通り「服」すること、つまり「無力で言葉を選べ」ないこと、

    CoccoRaining』、もしくはS.フロイトよりの引用。

     

    「わたし」、「あなた」という人称が持つ、ノイジーかつクレイジーな特権性について、

    それはあたかもE.レヴィナスの一連の錯誤にも似て。

     見る−見られる。藤野可織「爪と目」の話。

     終始、神の視点から物語り続ける「わたし」(3歳)。

    「あなた」の視力は「裸眼では0.1もない」。だから向き合う相手の「顔自体は見える」

    けれども、「中身はよくわかんない。目も鼻も口もあるといえばあるけど、かたちが

    はっきりしない」。

     そんな「あなた」と「わたし」の「父」が眼科で出会う。エレベーターの中、「父」は思う、

    「あなた」は「あのときたしかに自分を見て微笑んだんだ」、と。でも真相は違った。

    「あなたは、顔の中身も見えない目で父を見て、そして微笑んだ」。

    「あなた」にとって物事というのは、そういうものだった。「あなたに手に入らないものを

    強く求めることはせず、手に入るものを淡々と、ただ、手に入るままに得ては手放した」。

    「あなた」と「父」が出会って程なく、「母」が亡くなる。「事故死」だった。そうして残された

    「父」と「わたし」は「あなた」と暮らしはじめる。「あなた」の目は「わたし」の顔を捉える

    ことを知らず、かつて「母」の亡骸の横たわったベランダは遮光カーテンに閉ざされて、

    「外の世界なんて存在しないみたいな部屋で、あなたとわたしは、お互いのことを気に

    掛けずに、ごくしぜんな沈黙を共有してそこにいることができた。なんの緊張感も

    なかった。まるでずっと一緒に生きてきた家族か、公共の場に居合わせただけの

    まったくの他人のようだった」。

     インテリアについてネットで調べているうちに、「あなた」は「母」のブログを見つける。

    タイトルは「透きとおる日々」。「あなた」は「母」の顔を知らない。「あなた」の視線から

    「母」は「透きとお」っていた。

     視線の政治学をめぐる、ひどく古典的な筋立て。

    「わたしは目がいいから、もっとずっと遠くにあるときからその輝きが見えていた。

    わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」。

    「あなた」も「わたし」も何もない、「だいたい」という語の必要すらなく、誰しも「おなじ」。

    プリンストンの銀河系

    • 2017.07.02 Sunday
    • 21:22

     1945年、ロスアラモスから帰還したジョニー・フォン・ノイマンは妻にまくしたてた。

    「われわれが今作っているのは怪物で、それは歴史を変える力を持っているんだ。

    ……科学者の立場からしても、科学的に可能だとわかっていることをやらないのは、

    倫理に反するんだ。その結果どんなに恐ろしいことになるとしてもね。そして、これは

    ほんの始まりに過ぎないんだ!」。

     ここであえて筆者は「怪物」を原爆ではなく、「機械の力」として解釈しようと試みる。

     本書はいわゆるノイマン型コンピュータをめぐる技術史。

    「デジタル・コンピュータの歴史は、ライプニッツに率いられた予言者たちが論理を

    提供した旧約聖書時代と、フォン・ノイマンに率いられた予言者たちが機械を製作した

    新約聖書時代に分けられる」。

     しばしばコンピュータの誕生史として紹介されるのは、B.ラッセル、A.ホワイトヘッドの

    分析哲学あたりを始原に、D.ヒルベルトやK.ゲーデルを経由しつつ、A.チューリングの

    暗号解読あたりを終着点とする、英独中心の理論的な「旧約聖書時代」のもの。

     しかし、本書の舞台はもっぱらアメリカ、プリンストン大学や高等研究所の歴史を

    絡めつつ、そこにフォン・ノイマンという巨人が降臨して、第二次世界大戦を背景に、

    二進法の巨大計算機が生み落とされ、あるいはそれが軍事や気象、進化論といった

    かたちでの活用を見るまでの「新約聖書時代」。

     この主題で面白くならないはずがない。なのに……。

     

     伝記的なストーリー・テリングの明快さとはおよそ対照的に、晦渋に過ぎてどうとも

    語りようがないのは、その技術的な議論に用いられる表現の数々。

     第1章早々に出てくる言い回し、「デジタル宇宙はどれも2種類のビットからなっている。

    空間における変化と、時間における変化、それぞれに対応する2種類だ。デジタル・

    コンピュータは、情報をこの2種類の形――つまり、『構造』と『シーケンス』――のあいだで

    厳密なルールに則って翻訳する。われわれは、構造として具現化したビット(空間のなかで

    変化するが、時間が流れても変化しない)をメモリとして認識し、シーケンスとして具現化した

    ビット(時間のなかで変化するが、空間を移動しても変化しない)をコードとして認識する。

    ゲートは、ある瞬間から次の瞬間へと推移する刹那にビットが、この2つの世界の両方に

    広がる交点である」。

     気象にせよ、モンテカルロ法にせよ、いちいちがこんな表現で紹介される、Wikipedia

    連なるジャーゴンを想わせるように。

     前提知識のない人間が、これを読んで何を学べというのだろうか。

     少なくとも私には、悪趣味なひけらかしとしか映らない。