スポンサーサイト

  • 2020.05.10 Sunday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    お引越し

    • 2020.05.07 Thursday
    • 22:51

    拝啓

     突然のことで失礼いたします。

     この度以下の住所に転居いたしましたのでお知らせします。

     今後とも変わらぬお付き合いをよろしくお願い申し上げます。

                            敬具

     

     たとえばにはまだ続きがあって

      https://shutendaru.hatenablog.com/ 

    The Swerve

    • 2020.05.05 Tuesday
    • 22:47

     1600年、その一枚がすべてを変えた。

    「暗い部屋のような空間に、画面右からキリストが弟子とともに入ってきて、レビに

    呼びかけています。キリストとともに強い光が差し込んで、壁に斜めの影を作って

    います。テーブルには五人の男がいて、そのうちの三人はキリストを見つめています。

    この絵の主人公であるレビ、後のマタイはどこにいるのでしょうか。真ん中の髭の男?

    その隣のうつむく若者? どちらが正解でしょうか。この二人のどちらがマタイかと

    いう点で、見る人や研究者によっていまだに意見が分かれているのです。つまり

    この絵は、美術史の教科書に必ず載っている世紀の名画でありながら、主人公が

    はっきりしない珍しい絵なのです」。

     

     このいわゆる「マタイ問題」に筆者が言及するのは、これがはじめてではない。

    というか、私自身そうした議論の存在を知ったのが筆者の過去作を通じてだった。

    400年以上前に死没した人物について、ましてやそれが美術史の花形ともなれば、

    情報が更新される余地もそう残されてはおらず、然らば焼き直しも止むを得まい。

     と、思いきや。

    「カラヴァッジョの画面では、誰しもがマタイでありうるのです。と同時にこの絵を

    見上げる観者もいつでもマタイになりうる」。

     この回答が、カラヴァッジョ研究としての正統性をどこまで担保しているのかを

    私は知らない。たぶん逸脱、でも、美しい。絵を語ることはつまり、「観者」としての

    己を語ることに他ならない、本書を通じてそのことを痛々しいほどさらけ出す。

     professionの語意、告白の中に変じて職業的使命を読む。

     それはあるいは描かれているものそれ自体の問題から、「観者」あるいは

    「観る」という行為そのものへと振り切った暴挙でしかないのかもしれない。

    しかし、このコペルニクス的転回の引き受けと召命は限りなく似ている。

    「カラヴァッジョの画面にも、奇蹟や神は存在していないと見ることもできます。

    見ようによっては、それらは単なる埋葬や処刑や落馬の情景に過ぎないのです。

    神の存在や奇蹟に気づくか気づかぬかは、観者に委ねられているといえましょう」。

     溢れ返る死の匂いが、時に遍在の希望へと転じる。

     こうして束の間、美術史が美術私と交差する。

     死者も、生者も、誰しもが《聖マタイの召命》の中にいる。

    存在と時間

    • 2020.05.05 Tuesday
    • 22:43

    「本書は、実のところ、喫茶店の本ではない。まず、これは喫茶店案内ではないし、

    経営の指南書でもない。それならば、喫茶店文化史ではないのか、と問われれば、

    結果的にそういう性格になったことを否定するつもりはないが、文化史を編むことが

    目的ではなかった。そもそも、著者自身、ほとんど喫茶店というものに入らないし、

    本書のためにとりたてて喫茶店を訪問調査するということもしなかった。要するに、

    現実の喫茶店という存在あるいは現象には関わっていないのである。

     本書はひとつのコレクションである。子どもたちが牛乳瓶の蓋やきれいな小石を

    集めるのとまったく異ならない。喫茶店という文字を見つけると嬉しくなって

    メモしていく。喫茶店の写真や絵もできるだけ手許にためこんでいく。そういった

    遊びの延長にできあがったのがこの本なのである」。

     

     良くも悪くも、この前書きにはいかなる嘘偽りもない。

     原著は2002年、今ならばアーカイヴスのスキャンとシークではかどりそうだが、

    当時のITにそこまでの水準はたぶん期待できないだろう。つまり、注に付された

    引用元を本書のための参考文献とも思わずひたすらに読んではメモしていき、

    かくして完成に至ったというのは本当なのだろう。他人からお題として喫茶店と

    振られて、やみくもに渉猟するとなれば苦行、ただし筆者にとっては「遊び」。

     まさに「遊びの延長」、そしてそれこそが喫茶店の機能に他ならないことを

    知らされる。喫茶店に集うことで作家たりえた者たちが、その場所そのものを

    作品へと変えていく。文壇などという高尚さはそこにない。テキストという仕方で

    後世に何かを残す資格を得た者たちが、結果として、集いそのものを自己目的化

    するように語り継ぐ。「遊び」でしかないようなものごとが、何かの偶然で、

    それこそ筆者の「遊び」を通じて掘り出されてしまう。

     なぜかしばしば、眼差しは現在をすり抜けて過去を目指す。

     時間なるものがそうさせる。

     

    「カフェーの女給」と永井荷風先生あたりが仰ればうっかり風流の香気も漂うが、

    つまるところ今で言うキャバ嬢かコスプレメイド。そこで何をしていたと言って

    山田耕筰は「金もないのに特別室へ這入」り、菊池寛は「たまに来て女給を張る」。

    現代ならば炎上用の燃料を別として誰も見向きもしない。

     所詮、この程度の連中だ。彼らの底が浅いのではない、人間の底が浅いのだ。

    でも、時間という魔力がそこにあたかも何かがあるかのように錯覚させてしまう。

     喫茶店はつまり、時間を商っていた。

     アンディ・ウォーホルに言わせれば、誰しもが15分だけなら有名人になれる。

    そして現実に訪れた賞味期限は3分間がいいところだった。

     かくして喫茶店、いやトポス、いや「遊び」の使命は終わった。

     

     消費者にできるのは消費だけ、「遊び」を決して知り得ない。

     喫茶店を襲うだろうコロナ禍はおそらく加速主義の具現に過ぎない。

    「あのとき こんな店があった」。

     はるか昔に、売るべき時間をなくしたときに、既に過去形で語られるべき存在で

    ある運命は約束されていた。

     言い換える。時間なる概念そのものが既に追憶の昔へと消えた。

    お前はもう死んでいる

    • 2020.04.26 Sunday
    • 19:49

    「安全のためならばと自由を差し出すことを望む者は、そのいずれをも

    得ることはないし、またそれらにも値しない」。

     ベンジャミン・フランクリンの箴言を今一度確かめる。

     ただしその自由は、気ままに出歩く放縦を意味しない、自らの理性において

    ディシプリンの順守を志向する、その選択倫理を含意する。

     

    ビッグ・ブラザーがあなたを見ている」。

     なるほど、テレスクリーンを通じて、「自分の立てる物音はすべて盗聴され、

    暗闇のなかにいるのでもない限り、一挙手一投足にいたるまで精査されていると

    想定して暮らさねばならなかった」。

     しかし幸運にも、その男ウィンストン・スミスは自らの住居に死角を見つける。

    抽斗から一冊の本をそっと取り出す。

    「格別美しい本だった。滑らかなクリーム色の紙は歳月を経て少し黄ばんでいたが、

    少なくとも過去四十年のあいだに造られた類の品ではない。それどころかもっとずっと

    古いものであることくらい、彼にも察しがついた。……彼のやろうとしていること、

    それは日記を始めることだった。違法行為ではなかったが(もはや法律が一切

    なくなっているので、何事も違法ではなかった)、しかしもしその行為が発覚すれば、

    死刑か最低二十五年の強制労働収容所送りになることはまず間違いない」。

     行為にはきっかけがある。勤務する真理省における、ラジオ体操のごとき日課、

    〈二分間憎悪〉の最中、不意に上官と目が合う。「二人の心が扉を開き、双方の

    考えが目を通して互いのなかに流れ込んでいるみたいだった。『君と一緒だ』

    オブライエンがそう語りかけているように思われた。……恩恵と言えば、

    そのおかげで、彼の心のなかで自分以外にも党の敵がいると言う信念もしくは

    希望が死なずにすむことくらい」、しかし彼に日記を決意させるには十分だった。

     

     人間は「全体として意志薄弱で臆病な生物であって、自由に耐えることも真実と

    向かい合うこともできないから、自分よりも強い他者によって支配され、組織的に

    瞞着されなければならない」。

     今日の世界情勢を寸分違わず言い当てた1949年のこの洞察、とはいえ、

    少なくとも身近から人が次々と消えていることはない。秘密警察的な何かによる

    非人道的な拷問もそう遍いているわけでもなさそうだ。日記を綴る自由とてある。

     しかしそれでもなお、現代の置かれた社会状況はある面では、G.オーウェルの

    ディストピアよりもよほど劣悪な方向へと進化の舵を切ってしまった。

     2020年は、真理省などという無用の長物を必要とはしなかった。何もかもが

    単純化されたリアル・ニュースピークの普及にあたって、政府や官僚機構の誰が

    強要したわけでもない。140字のtwitterをその頂に、どう見ても長文を想定しない

    FacebookにせよLINEにせよ、SNSプラットフォームのいずれもが、他ならぬ

    市場によって選好された。テレスクリーンのインフラコストの壁は、スマホによって

    訳もなく乗り越えられた。各人の趣味嗜好など検索や閲覧の履歴をセグメントで

    紐づけすれば事足りる。それ以前に、電子マネーやクレジットで捕捉可能な

    消費データを超えて収集すべき個人情報などはじめから市場にありやしない。

    センセーショナルであればあるほどにアクセス数を、つまりは広告料収入を稼げる

    フェイクニュースの流布とて同じく市場の選好だ。「過去をコントロールするものは

    未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」、

    オーウェルの読みとは裏腹に、歴史修正主義はいかなる権力の介在をも要さない。

    公文書改竄などもとより徒労でしかない、なぜなら市場はそんなことに関心を

    示さないのだから。市場は常に見たいものだけを見る、見たくないものは見ない。

     誰がコントロールしているわけでもない、市場の選好に最適化したただ乗り屋が

    ファシスト的な振る舞いをもって祝福される。痛々しいほどに〈二分間憎悪〉を

    体現する抵抗勢力は、怒りや不安を煽るだけの補完勢力でしかあれない。

    市場にコントロールされる存在でしかない入替可能な顔と名前を指さすことに

    果たしていかなる意義があるだろう。

     

     そして皮肉にも、本書は終盤に至ってその極限のユートピア性を獲得する。

    ウィンストンはとある者と対峙し、延々と議論を交わす。言い換えれば、彼らには

    共通の言語がある。ただしポスト・トゥルースの断絶にそんなものはない。

     翻って、そこに辛うじての希望を見る。なぜ本書が読まれなければならないのか、

    いや、テキストなるものが読まれなければならないのか。単純化された言語は

    単純化された人間を作り出す。そのために、140字ではまとめ切れるはずもない

    複雑な言語を身につけなければならない。奇しくもウィンストンが日記を志すように、

    自らの記憶を守るために、複雑な言語を通じて記録する。誰とつながるかではなく、

    その前に、つながるに値する正気を保持するために本を読む、文字を書く。

     

     本書においても提示されるだろう、ソーニャ的、車寅次郎的、無知ゆえに無垢、

    そうした幻想はいい加減捨て去らねばならない。自らを疑うことを知らぬバカなど

    クズの同義語をいかなる仕方においても決して出ることがない。

     すべて成功は合理性に、失敗は人間性に由来する。人間性の定義は唯一、

    繰り返され続ける失敗の説明関数としてのみ規定される。

     

     歴史を参照すれば、コミュニケーションの具としての言語などとうに用を終えた。

    すべてのコミュニケーションはボットで書ける。ソーシャルであることの一切に

    コンピュータの計算可能性を超えるものなどもはやないのだから。

     ニュースピークな人間にならない、「自由とは二足す二が四であると言える自由」、

    その自由を己に向けて語りかけるために言語はある。

     そしてその先にはもしかしたら続きがある、オーウェルの言うことには。

    「もし万人が等しく余暇と安定を享受できるなら、普通であれば貧困のせいで

    麻痺状態に置かれている人口の大多数を占める大衆が、読み書きを習得し、自分で

    考えることを学ぶようになるだろう。そうなってしまえば、彼らは遅かれ早かれ、

    少数の特権階級が何の機能も果たしていないことを悟り、そうした階級を速やかに

    廃止してしまうだろう。結局のところ、階級社会は、貧困と無知を基盤にしない限り、

    成立しえないのだ」。

    白と黒

    • 2020.04.26 Sunday
    • 19:44

    「私は、裁判をするに当たって、小手先や要領だけで簡単にすまそうとした

    ことはない。裁判結果と自分の処遇とを結びつけて考えたこともない。当然の

    ことではあるが、決断するまでには、『本当にこの結論でよいのか』ととことん

    真剣に考え悩み苦しんできた。その点だけは自信を持って言える。私が

    30件以上の無罪判決をしてそのすべてを確定することができたのは、

    裁判に対するそのような『愚直』『鈍重』で『馬鹿正直』ともいえる姿勢・

    手法の結果ではないかと考えている。当然のことながら、そのような決断を

    するには、周囲との摩擦や軋轢も経験してきた。

     私のような平凡な一人の人間が、刑事裁判という重要かつ困難な仕事の

    上でなにがしかの実績を残すことができたのは、そのような愚直・鈍重な

    やり方故ではなかったかと思う。そして、そうであれば、私が裁判をする上で

    経験した悩みや苦しみ、さらにはその思考の過程を文字に残しておくことは、

    後に続く後輩諸君のために意味のないことではないのかもしれない。また、

    それは、今後裁判員として刑事司法に関与する可能性のある多くの国民に

    とっても参考になるかもしれない。このように考えると、山田さん[本書の聞き手・

    編修の山田隆司]のお申し出は、一つのチャンスであるように思わないではない。

     しかし、私がこの申し出をお受けするまでには、まだ、乗り越えなければならない

    大きな壁があった。なぜなら、そのような考えによってこの申し出をお受けした場合、

    当然、自分のしてきた裁判内容について語ることを求められるだろう。そして、

    そうなると、勢いの赴くところ、裁判官にとってタブーとされる『合議(評議)の

    秘密』に触れることになりはしないか、という危惧があったからである」。

     

     筆者は、判事退官とともに自らの立場を転向したような、そのような類型の

    人物には当たらない。そうした側面を証するには、最高裁調査官として携わった

    『月刊ペン』事件をめぐる、以下の証言を引けば足りるだろう。

    「池田大作さんの女性問題が『公共の利害』の関心外だと言われたら、みんな

    びっくりしますよ。それはもう、常識的に考えておかしい、と私は思うんです」。

     ちなみにこの聞き手、いずれも創価大の教員である。

     

     本書が描き出すのは例えば、判決文に表れることのない刑事裁判の裏側。

    「判決宣告期日の直前になって、検察官が判事室に来ました。そして、『うちの

    検事正が410日付で高松高検の検事長に内定している』『今の検事正に、

    黒星をつけたくない』『だから宣告期日を延ばしてもらいたい』というのです。

    これには驚きました。私たちは、この請求ももちろん認めずに、粛々と予定通り

    判決を言い渡しました」。

    「検事に対し『警察に留置人出入簿を出させるように』と指示したのですが、

    そうしたら、『なぜ、そんなものを出す必要があるのですか』と警察が飛んで

    きます。裁判官室に面会を求めてくるのです。……それは表面的には、

    裁判官に対する強談ではありませんよ。一応、表面的には丁寧な態度です

    けれどね。しかし、魂胆は見え見えです」。

     こうした軋轢の果てにか、筆者は裁判官にも三つの類型がある、と説く。

    「一つは『迷信型』です。つまり、捜査官はウソをつかない、被告人はウソを

    つく、と。頭からそういう考えに凝り固まっていて、そう思いこんでいる人です」。

    「二つめはその対極で『熟慮断行型』です。被告人のためによくよく考えて、

    そして最後は『疑わしきは』の原則に忠実に自分の考えでやる、という人です」。

    「その中間の六割強は『優柔不断・右顧左眄型』です。……『こんな事件でこういう

    判決をしたら物笑いになるのではないか』『警察・検察官から、ひどいことを

    言われるのではないか』『上級審の評判が悪くなるのではないか』などと気にして、

    右顧左眄しているうちに、優柔不断だから決断できなくなって検事のいう通りに

    してしまう」。

     

     しかし、本書は少し別の仕方で「絶望の裁判所」の実相をもあぶり出す。

     やはり最高裁の調査官として「四畳半襖の下張」事件に携わる。検討も

    交わさぬうちに、小法廷のドンから「棄却以外ない」とねじ込まれ、憲法判断の

    場である大法廷へと持ち込むこともできず、結果、「あんなもの、誰が考えても、

    わいせつとして処罰しなければならない事件ではない、と思うのですけど、

    色んなことでがんじがらめになっていて、どうにもなりませんでした」。

     名古屋高裁での事件を回顧しての言。

    「違法は違法だけれども証拠能力はある」。

     読んだ瞬間、凍りつく。そして未だその意味を解せずにいる。