にぎやかな世界

  • 2017.09.01 Friday
  • 22:56

 本書は2008年の連続講演「ジョン・ケージ『433秒』を/から考える」のテキスト化。

 

  この連続講義ではもちろん、ケージの言ったことや書いたこと、さまざまな作品に

  言及はしていきますが、ジョン・ケージの全体像、彼がどういうことをなしえた人

  なのかをトータルに論じることが目的ではありません。……僕がやってみたいのは、

  ジョン・ケージが作曲した『433秒』という作品「を/から」考えるということです。

  この作品はいったい何を意味しているのか、いったいこの作品は何なのか、もう一度

  考えられる限り考えてみる、つまり「『433秒』を考える」ということが一つ。もう一つは、

  『433秒』という作品を足掛かりにして、どこまで思考を拡げていくことが出来るか、

  どこまで色んな多くのことを考えることが出来るか、つまり「『433秒』から考える」と

  いうこともやってみたい。

 

 ケージの作曲の契機としての「無響室の体験」というものをここに重引する。

 

  空っぽの部屋や空っぽの時間などというものはない。見るべき何ものか、聴くべき

  何ものかがいつもある。実際、沈黙をつくろうとしても、つくることなどできないのだ。

  ある工学的な目的のためには、できるだけ静かな状況が必要とされる。こうした部屋は

  無響室と呼ばれており、六つの壁面が特別の素材でできた、反響のない部屋である。

  私は数年前、ハーヴァード大学の無響室に入って、一つは高く、もう一つは低い、

  二つの音を聴いた。そのことを担当のエンジニアに言うと、高い方は私の神経系統が

  働いている音で、低い方は血液が循環している音だ、と教えてくれた。私が死ぬまで

  音は鳴っている。そして死んでからも音は鳴り続けるだろう。音楽の未来について

  恐れる必要はない。

 

 良くも悪くも、講演はこの体験の堂々巡りに終始する。

「音は鳴っている」、たとえ433秒にわたって「休止Tacet」していたとしても。

「聞こえているのに聴いていなかった『音』を『聴く』ように仕向ける。あるいは、あなたは

自分でも気づいていないまま、そうしているつもりもないままで、実はすでに『聴いて』いる」。

 筆者が幾度も繰り返すように、「聴くlisten」の「聞くhear」に対する、「音楽」の「音」に

対する優位性を論じているわけではない。

 ただし、このロジックの延長は、ひとつの重要な宣言を孕むこととなる。

「音楽家なんかいらない、窓を開ければいい」。

 

 窓を開ける。

 もう9月というのに朝方に喚き散らしていた蝉の声は消えた。

 夜、入れ替わるように、子どもの泣きじゃくる声が遠く聴こえる。ロールスクリーンが風に

なびいて壁を打つ。うるさい。

 窓を閉める。

 PCの排気音がして、結局うるさい。

 

 いちいち有料で購入するまでもなく世界に溢れた、溢れる、溢れるだろう『433秒』

――「枠」をどうするのかは大問題だけれど――を作品たらしめるものといえば今や、

そのほぼすべてが作曲家自身を含めた語りや解釈に他ならない。

 聴覚から視覚媒体への脱構築的変換作業としての『433秒』は、別の仕方で自ずから

「音楽」の終わりを知らせる。それはあたかも視覚的、技術的探求のほぼ一切を放棄して、

小学生レベルのなぞなぞ大会に日々励む現代美術とやらに似て。

 それも仕方がないのかもしれない。知覚や認識をめぐるまともな探求作業は、とうの昔に

人間工学やITにその座を譲り渡してしまったのだから。理論知scienceとしての立場はおろか、

実践知artであることすらやめてしまった芸術は、さてどこに次なる居場所を持つのだろうか。

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  • 2019.08.18 Sunday
  • 22:56
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