憂きながら あればすぎゆく 世の中を

  • 2017.12.22 Friday
  • 22:19

「文学作品は読者のものであり、作者の意図は必ずしも重要ではなく、まして生涯・境遇

などは顧慮しなくてよいとする立場もある。しかし時代を超える普遍的価値があっても、

作品は一義的にはやはりその時代の所産である。一次史料や時代状況に照らせば

容易に確定する疑問をそのままにして、読者の手に委ねてよいとは思えない。しかも

伝記はもちろん、各章段の解釈の前提となる知識もしばしば根拠を欠くもので、訂正

されないまま作品論や伝記研究にはねかえり、さらに作者像を歪めるという悪循環に

陥っている。どう考えても不合理である。まずは作者がどのように考えて執筆し、当時の

人々はどのように解釈していたかを定めるべきで、そのためにも作品の外部に眼をやり

伝記を探求する努力を放棄すべきではない。

 本書では、同時代史料からできるかぎり多くの情報を抽き出すことで、生涯の軌跡を

明らかにし、とくに公・武・僧の庇護者との関係や活動の場を正確に再現した。大きく

6章に分け、最後に徒然草の成立について言及した。徒然草の引用は確実な事績として

利用できるところに限定した。中世文学の珠玉の作品に対していかにも冷淡であるかも

知れないが、まずは長年の偏りから来た歪みを少しでも修正したいと願うからである」。

 

「同時代史料からできるかぎり多くの情報を抽き出す」。

 このテキストは、当時の文献のささいな記述を手がかりに、とにかくひたすら掘りまくる。

 渉猟の途中、筆者は金沢文庫へと話を向ける。「紙が貴重品であった時代、書状が

使用目的を達して廃棄されると、典籍の書写に使われた」。現代ならばさながら、文書の

試し刷りのために、読み終えたペーパーの印字されていない裏面を再利用するようなものか、

聖教の書写にさえリサイクル品は用いられ、このことが望外のご利益を後世にもたらす。

時は流れて表に記された御大層な仏典よりもむしろ、「紙背文書」こそが今に「中世人の

肉声をよく伝え」るお宝へと変わる。

 そんな数奇な文書の一枚に、「うらへのかねよし」なる名前が立ち現れる。亡き父の七回忌を

めぐる、家族間でのやり取りと思しき手紙。かくなる私文書を糸口に、数百年の時をまたぎ、

彼の素性が露になる。

 

 このアーカイヴ作業は例えば「吉田兼好」なる名前の出所にまで及ぶ。

 有名人の宿命として、有象無象の親族を騙るものが次から次へと顔を出す。

 嘘から出た実。帳尻の合わないハッタリがいつしか新たな歴史を開き、既成事実として

定着し、フェイクはやがて『徒然草』をも侵食する。

 

 私は兼好法師の研究に何ら通じてはおらず、ゆえに、クリティックを繰り出す素養を何ら

持ち合わせるものではない。

 それでも、本書において提示される推理の妙は楽しめる。文書を残す重要性、翻って、

残ってしまう恐ろしさ、そんな史学研究の醍醐味に満ちた一冊。

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  • 2019.08.18 Sunday
  • 22:19
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