時間と自由

  • 2018.03.22 Thursday
  • 23:40

『東京物語』の終わり際、笠智衆が原節子に妻の形見の懐中時計を渡す。何かせずには

いられない、時間を持て余す実子や孫とは対照的に、夫を戦争で亡くしたことで時代への

同期化に立ち遅れたとも見える義娘は、強迫的なまでに柔和な笑顔をもって存在すること

それ自体の幸福を湛える老夫婦の側に配置された風に映っていた。

 ところがその原節子が言う。

「私、ずるいんです」。

 老いた寡夫をひとり取り残す密やかな裏切りの瞬間。

 

「たとえば小津の映画ではキャメラが動かないと誰もが涼しい顔で口にする。低い位置に

据えられたキャメラの位置も変わらない、移動距離がほとんどない、俯瞰は例外的にしか

用いられない。こうした技法的な側面を語る言葉に含まれている動詞の否定形は、これまた

ごく自然に、描かれた世界の単調な表情を指摘する文章へとひきつがれる。小津に

あっては、愛情の激しい葛藤が描かれない。物語の展開は起伏にとぼしい。舞台が一定の

家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない。このあといくらでも列挙しうるだろう

こうした否定的な言辞が、ながらく小津的な単調さという神話をかたちづくってきた」。

 ところがこうした「小津的」なる「紋切型」が広く共有されているのは、「誰も小津

安二郎の作品など見ていないからだ。……小津安二郎の映画のどの一篇をとってみても、

それは小津的なものに決して似ていない」、そう蓮實は喝破する。

 

『晩春』から『秋刀魚の味』に至るまで、後期の小津映画に共通する構造として2階という

空間の特殊性を指摘する。そのフロアは「たえず25歳でとどまりつづける未婚の女」にのみ

立ち入りを許された、宙に浮いた「特権」空間となる。その「特権」を象徴するものが、決して

画面に入り込むことのない「不可視の壁」としての階段。ただしこの記号的共通性をもって

「小津的な」枠へと組み込むことを「小津安二郎の映画」は決して許さない。2階の存在と

階段の不在を執拗に焼きつけていたはずのフィルムが、『秋刀魚の味』の最後において

不意に階段のフルショットを映し出す。「宙に浮かぶ空間が、特権的な住人としての25歳の

娘を排除した結果、物語は終ろうとしている。そして小津的『作品』の内部には、誰も

いなくなった2階という名の『無』が確実に生産されたのだ。……娘が嫁に行ったから

2階が空になったのではない。宙に浮んだ空間が女性という通過者を排除したがゆえに、

『作品』の説話論的持続がその運動の契機を見失ってしまったのだ。……一貫して視界から

遠ざけられていた階段が、その不在の特権を剥奪され、階段としてフィルムの表層に

浮上した瞬間、それは凶暴なまでの現存ぶりによって後期の小津的『作品』の基盤を

そっくりくつがえしてしまう」。

 

 降らないはずの雨が空から落ちてくる。「あからさまに何かに脅えたり驚いたりしてみせる

人物は、まったくといってよいほど登場することがない」はずなのに、『麦秋』においては

その禁をたやすく無化してみせる。

 型があればこそ可能となる型破りをもって、小津が「自由」を表現し続けたことを晦渋な

書き口ともに表現したテキスト。「映画には文法がないのだと思う」と言った男は、皮肉にも

文法をもって讃えられ、その開かれた侵犯者としての顔に気づかれぬままに通り過ぎる。

「僕は豆腐屋だから豆腐しか作らない」と言った男は、ただし同じ「豆腐」を作り続けた

わけではない。客に言わせればいつもの味、ただし店主が織り込んだ密やかな「ずれ」を

感じ取れる瞬間があるとすれば、それは唯一口に入れている間だけ。語るとはすなわち、

記憶に対していつもの味を更新する作業に他ならない。

 異化作用の再確認か、はたまたアンリ・ベルクソンの焼き直しか。

 

 今さら、という話ではあるが、ただ勿体ぶっただけのこの文体の醜悪たるや。

「解放こそ、映画をめぐるあらゆる言説がかかえこむべき義務にほかならない」。

「小津安二郎の映画が美しいのは、何よりもまず、それが自由な映画であるからだ」。

 みすぼらしいエピゴーネンどもを別にして、いったい誰がこの蓮實的な言い回しで

「解放」や「自由」を説得されるというのか。

 原著1983年の本書に刻まれたごく初歩的な誤謬すらも修正されないまま今日に

至ってしまったというのが、まともに読まれてこなかった無二の証左だろう。

 友人宅とはいえ、『秋日和』に堂々と階段の昇降が映っていることには気づかぬふりを

決め込まねばならないのだろうか。あるいは『東京物語』、老夫婦に割り当てられるのは

息子、娘の生業から隔離された空間としての2階(もしくはそれ以上)。だからこそ、

酒の力を借りて杉村春子の美容院の椅子を侵犯する笠のシーンが際立つというのに。

「グラデュエーション」って尾崎豊か。silhouetteがどうやったら「シュリエット」になるのか。

 

「誰も小津安二郎の作品を見てなどいない」、蓮實重彦の作品もまたそうあるように。

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  • 2019.08.18 Sunday
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