You cannot be serious!

  • 2016.12.22 Thursday
  • 22:16
評価:
エリザベス・ウィルソン
白水社
¥ 4,104
(2016-10-29)

「ローンテニスは……そもそもはガーデンパーティーの娯楽として始まった。その洗練された

社交性のせいで、一般的なスポーツのイメージとは少しずれがあった。……試合は決闘や

喧嘩になぞらえられることもあるが、その半面、堅苦しいマナーやリズム感、エチケットや

約束事などからダンスに似ているともいわれる。……ところが、とくに第二次世界大戦後、

テニスに関わる人びとはテニスをほかのスポーツのあり方に近づけようと努力しはじめた。

……肉体面での過酷さを前面に押し出し、優雅さや美しさよりもボクシングに通じる苛烈さを

強調するようになった。……今日の伝統的なスポーツ観は、それ自体が一種の視野狭窄に

陥っている。より広い文化的視野に立って初めて、この『愛のゲーム』をより深く理解できる」。

 

 本書が伝える歴史とは、同時代の世相をどうにも反映せずにはいないプレイヤーの肖像。

 例えば女性解放の風、1919年のウィンブルドン決勝、コートに現れたS.ランランが

「一大センセーションを巻き起こしたのも当然である。……観客をぎょっとさせるほど裾の

短いウェアを着ていたのだ。……飾り気のないゆったりした半袖のシャツにスカートだったが、

その裾はふくらはぎあたりまでしかなく、白いストッキングをはいた脚が見えていた。頭には

幅広の縁のある帽子をかぶっていた」。

 時は60‐70年代、世界的に社会の破綻が惨めに露呈する中、例えば「パンクスタイルが

語ったのは疎外と若者の反乱だった」。そんな時流を体現するように、J.マッケンローは

既存のテニスマナーを挑発し、レスラー顔負けのヒールを担う。

 産業社会の風潮はことごとくテニスへと持ち込まれる。「近代スポーツの特徴は、ほとんど

避けがたい傾向として、あらゆる運動競技における偉業を定量化し、計量可能なものに

変えようとする点にある」。かくして「テニスもまたマクドナルド化されることとなった」。

そんな工業的アスリート像の頂にあるのがR.ナダル、彼は「体力を削ぐクレーコートの

テニスを新たな持久戦の場に変えた。……ナダルは同じことを何度でもくりかえす。

……単調さのあまり、見ていると睡眠状態に陥りそうだ」。

 かくして筆者はこき下ろす。「ナダルの偉業は、まさにテニスを醜くしたことだった」。

 

 一般に表題から想定されるだろう、テニス誕生の経緯やレギュレーションの変遷といった

「歴史」についてはさして筆者の関心の対象ではないようだ。執筆にあたって、関係者への

取材やヒアリングを敢行した様子もない。

 そして代わって差し挟まれることといえば、テニスにかこつけた社会批評、隙あらば

オールド・スクールなフェミニストの顔を臆することなく覗かせる。

 

 愛せないテニス、愛せない世界。

 ほとんど現実逃避といっていい、ノスタルジーのテニス論。

 身体を駆使するというそもそもの前提を改めない限り、他の球技と同じく、テニスにおいても

ハイ・エンドの均質化としてのマッチョ化は決してとどまることはないし――そしてそのことは、

筆者の願いに反して、男女の個体差をどうにも拡大、強調する方向へと向かうだろう――、

選手の個性とやらも広告代理店の売り文句の中にしか横たわり得ない。

「試合の美しさは、次第にパワーや忍耐や激しさにとってかわられる」。

「遊び」からショービズへ、この変質を進化とみるか、退化とみるか。「美しさ」という抽象的な

尺度など、スコアの示す勝敗や興行上の成功を前に吹き飛ばされる。

 No time for losers.

 数こそ正義、何もテニスに限らないこの問題、この「歴史」を本書はなるほど捉えてはいる。

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  • 2019.08.18 Sunday
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