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    魂の労働

    • 2018.05.04 Friday
    • 22:32

    「本書は、戦後の葬祭事業者が葬儀商品を開発・販売するうえで、なぜこんなにも

    批判されたのか、そうした批判に対して、どう事業者側は自らの事業を正当化して

    きたのかを明らかにするものである。……その際、主に葬祭事業者側の資料に

    依拠しながら事業内容を分析していくが、本論をやや先取りしていえば、葬儀を

    商品化し、事業者がサービス業化していくなかで、死者や遺族が自らを消費者で

    あると自覚しにくかったことが、葬祭業批判が長く続いた要因の一つだったと考えて

    いる。つまり、葬祭事業者側は伝統や慣習という葬儀の意味と葬儀の消費――

    儀礼における葬儀商品を購入するというよりも遺族や死者の好み・意向によって

    購入する――を同一平面上に認識していたこと、またそれと同時に遺族自身もすでに

    消費者となっていたにもかかわらず、消費者として自覚しにくく、社会的にも遺族を

    消費者(顧客)、生活者、グリーフケアの対象者、(宗教の)信仰者など、複数の立場と

    して認識せざるをえなかったことがその要因になったと考えられる。消費者としての

    自覚がないということは、死の発生前後で葬儀商品を比較せずに購入するという行為と

    しても読み取れ、また悲しみにくれているなかで商品比較どころか葬儀をおこなうこと

    そのものへの不満にもなるため、葬祭事業者の不当な利益確保にしか映らないのである」。

     

     かつて彼らは「見る」主体だった。曰く、「戦後の葬儀は、家(=自宅)でおこなわれる

    ことが大半であり、祭壇を運び日常の生活空間を儀式空間に変える作業が必要だった。

    ……しかし、この装飾幕の張り方は、誰かに教えてもらうような類いではなく、遠くで

    先輩の仕事を盗み見ながら覚えることだとされていた」。

     しかし葬儀会場使用が専ら定着していく中で、そうした「職人」的な仕事は必要を失い、

    代わって彼らは「見られる身体」となった。マニュアルが述べるに、「ダラダラした様は

    お客様に不快感を与える」、「お客様の話を聞く」際には「目を見て、話に頷き『熱心に

    聞いていますよ』という態度や表情で示す必要がある」、「身だしなみで最も大切なのは

    清潔感である」、それはちょうどレストランの従業員と同じように。

     

     効率的に仕事する「職人」から「お客様」第一の「ホスピタリティ産業」への移行、

    その現象だけを観察すれば、他のサービス産業と別段変わったところはない。他方で、

    葬儀会場の空間設計論など、業界ものの系統として光るものは随所に見られる。

     その上で、本書を通じて疑問に思えてならないのは、テーマとしてあったはずの、

    「批判」そのものへのアプローチにある。部落差別の側面もかつてはより強かったに

    違いない。遺族感情という名の八つ当たりにさらされるのも、パッケージのうちなのかも

    しれない。社会問題化した互助会への糾弾も含まれるだろう。新国立葬儀場を思わせる

    丼勘定の不明朗な相場への疑念も拭え去れない。そして今ならば、ラグジュアリーを謳う

    みすぼらしさと同質の、「ホスピタリティ」なる嫌がらせをもって付加価値を請求する

    恥知らずへの死刑宣告も伴っているのではなかろうか。相撲協会よろしく、何らの論拠も

    示せない伝統とやらに則って換金を正当化するいかがわしさも端々に匂う。

     業界モデルが時代に伴って転換していくさまを追跡しているはずのテキストなのに、

    なぜか本書において「批判」は概ね「批判」としてひとまとめにされて、その変質が俎上に

    のぼる記述はほぼ見られない。

     そして個人的なフラストレーションの頂点は、「遺体への尊厳、遺族への配慮と心理的

    ケア」等を「商品的ではない死」と位置づけて、議論をまとめにかかる点にある。むしろ

    本書の論旨を追えば、かつての社会が見落としていたそれらの「商品」を「商品」として

    位置づけ直すことで、収益を図るビジネスモデルの話をしていたのではなかろうか。

     言い換えよう、「商品化された死」と「商品的ではない死」は引き裂かれてなどいない。

     

     自由主義経済とはすなわち、すべてを「商品」化する自由をいう。死でさえも「商品」の

    呪縛から人を解放しない。「商品的ではない」自由を人は決して享受できない。

     今日、大叔父の葬儀があった。祖父と同じ斎場で、祖父と同じ業者で、そんな意思を

    伝えていたという。臨席する筋合いもないが、そんな日にふと思う。

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