近くの扉

  • 2018.05.20 Sunday
  • 23:33

「私は要するに、科学に自分を捧げてきた人間なのである。現代医学という手段に

よって人々への治療にあたり、脳と人体の仕組みを探究することを自分の天命と

考えてきた。……ところが2008年の1110日、54歳という年齢で、その運が尽きたと

思われた。稀有な病気にかかり、7日間にわたる昏睡状態に陥ってしまったのだ。

その間は新皮質――人間としての活動を担う機能が備わる、大脳の表面を占める

部分――の全体が活動を停止している。大脳皮質が機能を停止するということは、

それが存在しないということだった。……脳が機能を停止すれば、意識を持つことが

できない。……自分の脳が故障するまでの私であれば、そんなふうに話していたこと

だろう。……この体験に示唆されるものは、言葉ではとうてい表現しきれないほど、

とてつもない内容である。脳や肉体が死んでしまっても意識は消滅せず、人間は

死を超えて経験を継続していくことを、私の臨死体験は教えてくれた。またそのような

意識には、個々人とこの宇宙にあるもの全体に目を配り、行方を見守り続ける神の

眼差しが注がれているという、さらに大切なことを教えられた」。

 

 とても巧みな構成にまずは感心せざるを得ない。

 医師としての知識に基づいた症例記録の臨場感、緊張感にひたすら息を飲まされる。

己の出自、家族を語る率直さにも胸を打たれる。

 しかしこれらの真実味をもって、筆者の主張を無批判的に受け入れるわけにはいかない。

ましてや本書の論述が「医学的観点による分析と、脳科学と意識分野の最新の研究に

かかわる知識にもとづ」くなどという自負を首肯するわけにはいかない。

「意識が肉体を超越している」のが事実だとして、書くということ、読むということが

すぐれて脳と肉体の営為である以上、本書を綴るという作業もまた、脳と肉体の限界を

徹底的に突き詰めたものであらねばならない。だが筆者の叙述を見るに、臨死体験が

論理を「超越している」以上、それを物語る仕方もまた同様に論理を「超越して」も

構わないとでも思っているらしい。

 率直にも、と認めるべきか、臨死体験をまとめた文献を渉猟したことを明かす。

ただし、人間の記憶というのが可塑的だという数多の生理学的意識研究の成果を

知らぬはずもないのにそうした点には触れもせずに、安直に自身の記憶と重ねて、

訴えの信憑性に動員してしまう。

「そうした文献を読んで私が繰り返し感じさせられたのは、時代の別を問わず、語り手が

言葉の制限を受けて表現に苦労していることだった」。

 表現の困難は不存在の証明とはならない、ただしそれをもって表現の正当化として

受け入れることはもっとできない。ましてや量子力学をでたらめな仕方で引いた上での

「もうひとつの世界は物理的に遠い場所ではなく、周波数が異なるところに存在」する

なんて言い草を受け入れることはできないし、「新皮質の電気活動を環境の全体に同調

させることができたおかげで、……脳の物理的な働きが抑制され、肉体を超えた意識を

束縛から解き放つ」ことができるなんていうオカルトに乗ることもできない。

 

「科学的世界観は、“万物の理論”に到達する最短距離であるという考え方に、

われわれは慣らされてきた。そこには霊や魂、天国、神といった領域を受け入れる

余地は、ほとんど残されていない。だが低次の物質世界を離れ、創造主が宿る広大な

世界に旅をした昏睡中の体験は、人間の知識と荘厳な神の世界との間には深遠な

溝があることを、私にはっきりと気づかせてくれたのだ」。

 神の話をする前にその神を名指す紙の話をする、その限界点にようやく神が見える。

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  • 2018.10.19 Friday
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