風立ちぬ

  • 2018.08.26 Sunday
  • 19:41

「あなたは死によつてのみ生きていた類ひまれな作家でした」。

 埴谷雄高は、弔辞に寄せて原民喜をこう評した。

「原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そうした考えに

至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには持って生まれた敏感すぎる魂、

幼い頃の家族の死、災厄の予感におののいた若い日々、そして妻との出会いと死別が

深くかかわっている。

 死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮かび上がることが

ある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった」。

 

 その前半生は、世界との不和から彼を庇護する亡父の淡い記憶にすがる典型的な

ピーターパンとして過ぎ去った。

 大学こそ出たが、文学で食えるわけでもない、職に就くでもない、仕送りで暮らす彼に

縁談が舞い込み、そして結ばれる。「きつといいものが書けます」と夫を後押しする妻は、

ただし間もなく結核に斃れる。

 194586日、「死によつてのみ生きていた類ひまれな作家」なる表現はもうひとつの

意味を獲得する。原はその瞬間を生家の厠で迎えた。

「突然、私の頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わず

うわあと喚き、頭に手をやって立ち上がった。嵐のようなものの墜落する音のほかは

真っ暗でなにもわからない」。

 街を逃げ惑ううち、「天ノ命」を悟る。「コハ今後生キノビテ/コノ有様ヲツタエヨ」と。

「僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には

一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある」。

 否、この日を境に、「僕」にはもはや「嘆き」しかなくなった。

 彼の代表作「夏の花」は、いかにも異様な構成を取る。物語の終わりは不意に現れる

N」なる人物に寄り添って閉じる。生死を知る術もないまま、「N」は妻を探して収容所を

さまよい歩く。「どの顔も悲惨のきわみではあったが、彼の妻の顔ではなかった」。

 その前々日に「私」が妻の墓参に出向く書き出しからして、「私」は「N」ではない。

しかし、「嘆き」は「私」をたとえば「N」に変えた。原爆は「私」をたとえば「N」に変えた。

「天ノ命」に導かれて「夏の花」をしたためた原には、もはや「嘆き」すらなくなっていた。

「透明」な存在は「ヒバリになっていつか空に行」く、それもまた「天ノ命」なのか。

 To be, or not to be, that's the problem.

 この問いに挑むことを余儀なくされた者のみが、「作家」たる資格を持つ。

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  • 2018.11.08 Thursday
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