予言の自己成就

  • 2018.12.09 Sunday
  • 20:43
評価:
ケネス・スラウェンスキー
晶文社
¥ 4,968
(2013-08-01)

 虚構と現実の違いは、意味の有無にある。

 

「サリンジャーのサイトをはじめていらい、私はずっとこの本を書きつづけていて、

いつの日か公平で感傷的でない真実の伝記を、それも作品の正しい評価を

織り込んだものにして世に問いたいと思いっていた。……7年ものあいだ、

私はサリンジャーとその著作、彼の思想、人生の細かな事実に浸りきっていた。

サリンジャーはいつも私の傍らにいた。その彼がいなくなってしまったのだ。

……サリンジャー自身は死を信じていなかったし、私もそのことを知っていた。

私がささげるべきは敬礼であり、悲しみではなく感謝を要請することだった。

サリンジャーにふさわしいのは肯定であり、みんなも私と同じ気持ちになって

ほしいと思ったのだ」。

 

「発表することはプライヴァシーの恐ろしい侵害だ」。

 隠遁したサリンジャーは、海賊版の上梓に対して、以上のコメントを寄せた。

 読者は通常、書き手と作品の間に同一性を措定しない。私小説を名乗ろうとも、

生活と作家性には一定の「プライヴァシー」が横たわることを知っている。ところが

ことJ.D.サリンジャーに関してはその例外と見なすべきなのかもしれない。

 当人がつい最近まで存命しており、なおかつ600ページを超える大著、さぞや

証言が充実しているものかと思いきやさにあらず、文壇から身を引いた後の歩みも

ほぼ秘匿に伏せられたまま。それなのに伝記として不足しない。

 なぜならば、小説の引用が何よりも雄弁に彼を解き明かしてくれるのだから。

 テキストに託された「プライヴァシー」は二つに大別できる。

 ひとつは第二次世界大戦。ノルマンディー、ヒュルトゲンの森、バルジ――

そんな「地獄」の淵ですら、彼はタイプライターを叩き続けた。

「焼ける人肉のにおいは、一生かかっても鼻からはなれない」。

 そう嘆く彼はただし、辛うじてPTSDの一線を踏み止まった。

「多くの帰還兵とはちがって、サリンジャーは自分が目撃した恐怖やその影響に、

なんとか対処することができた。彼は最後には書く力を再発見した。彼は、自分では

表現する言葉を持たないすべての兵士たちについて、そしてそんなすべての

兵士たちのために、書いたのだ。著作をつうじて、自分の戦争体験がつきつけた

疑問、生と死の問題、神の問題、そして我われはおたがいにどういう存在なのかと

いう問題への解答を追及しつづけたのだ」。

 そしてもうひとつは、「人生が芸術を模倣する」、まるで自身の作品をなぞるように、

その後の生は営まれた。

「いい本を読み終わったときに、『それを書いた作家が僕の大親友で、いつでも

好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じ』と、ホールデンが断言したとき、

結局、ホールデンはサリンジャーのことを語っているようにみえたのだ。多くの読者は

この文を自分たちへの公開招待状だと解釈した。じじつは正反対だった」。

 作中でホールデンが夢見たのは、森での孤独な隠遁生活だった。

「あとはもう一生だれともしゃべらなくていいってことになっちゃうはずだ。そして、

みんなは僕のことを放っておいてくれるだろう」。

 筆者による『キャッチャ・イン・ザ・ライ』読解に、はたと唸らされる瞬間が訪れる。

そもそも原題はロバート・バーンズの詩、Comin' Thro' the Ryeの一節、

 

  Gin a body meets a body

 

をホールデンがcatchと記憶違いしたことに由来する。そこから筆者は熱弁を展開する。

「おとなの世界という危険に落ちそうな子供を『つかまえる』ことは、救う、やめさせる、

禁じるなどの行為で、介在することだ。しかし、『会う』ことは、支える、共有するなど

結びつく行為だ。……彼の旅は、『つかまえる』と『会う』のちがいを理解したとき、

はじめて終わる」。

 そんなくだりにあの小説が頭をよぎる。『罪と罰』。ラスコリニコフがソーニャを

媒介にあえて腐り果てた大地に口づけしたように、ホールデンは妹フィービーを

愛することを通じて彼女を含む「インチキphony」な世界にはじめて「会う」。

 ただし、フィクションはフィクション、「インチキ」は「インチキ」、現実には

ソーニャもフィービーもいない。ならばどうして世界と接続できるだろう。

 本書に美点があるとすれば、それはただひとつ、サリンジャーの「真実」を小説へと

収斂せしめたことにある。

『ライ麦畑』の一節から。

 

  君にはひっそりとした平和な場所をみつけることができない。だってそんなものは

  どこにありゃしないんだからさ。

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