ホモ・ルーデンス

  • 2016.12.30 Friday
  • 20:22

「バイエル・ピアノ教則本は世界中で愛用されてきたのに、バイエルと彼の教則本に

ついて確実なことが何もない。肝心なことは何も分かっていない。信頼できる情報が

何もない。なぜ日本人はこんなにも長くバイエル・ピアノ教則本を弾いてきたのだろうか。

誰も答えることができない。私が知りたいのはその答えである。日本の大切な文化の

一つについて知りたいと思っている」。

 

 初版本を求めて、公的な記録を求めて、世界を飛び回る。そして往々にして空振る。

 輪郭さえも掴めないその旅程でも、確かな発見はある。訪れたドイツの出版社で

カタログを閲覧する。「1900年発行のショット社の出版目録でバイエルの作品は最大の

27ページを占め、ベートーヴェンの2倍以上、モーツァルトの5倍以上、シューマンと

ショパンの約7倍である」。編曲であることを差し引いても、大御所と呼ぶに恥じぬ実績、

それなのに伝記のひとつも書かれていない。ゆえに不在説や偽名説も飛び交う。

 探求を立ち上げて既に4年目、冬のマインツ、文書館で名前を検索にかける。

新資料発見か、しかしまもなく落胆に変わる。「興奮して飛びついたカタログは

99パーセント同姓同名の建築家バイエルのものだった」。ところがそんな失意の中、

漠然と犯したとある言い間違いが思わぬ真相へと筆者を誘うこととなる。

 

 ある大胆な仮説を立てる。曰く、「バイエルは教則本である、という前提を破棄して、

バイエルはお楽しみ曲集である、としてしまえば、番外曲は盲腸のようなもので、

前時代の教則本の遺物のようなものでしかない」。

 音楽的素養に欠ける私には、その真偽は知れないが、少なくとも思ってしまう。

 意匠すらも受け取り手に伝わらずに今日まで来てしまったテキストって、どうなんだろう。

 

 ある面、本書のハイライトはエピローグにこそある。

「脱稿で解放されたような気分になった私は、何の気なしにグーグル・ブックスの検索

ボックスに『Ferdinand Bayer』と入れてみた。すると気になる記事が出てきた。以前には

なかったものだ」。

 かくして筆者の作業はただの答え合わせへと変わってしまったかに見える。

「たった数回クリックするだけです。それだけです。それだけのことで私の6年間が

無意味になったのです」。

 なるほどこの旅路は、スマホ世代にしてみれば、ググレカスで終わってしまうような

話でしかないのかもしれない。一連の費用を印税で回収できるのかさえ怪しい。

 しかし、筆者が遭遇したセレンディピティの興奮をネットはどこまで与えてくれるだろう。

 他人が拾ってきたデジタル情報を映し出すディスプレイを見て、果たして誰が「この日、

この瞬間のために私は生きてきたのだ、と言いたいくらい」の情念を抱けるだろう。

 

「知る」だけならば、いずれ情報の組織化は世界を覆ってしまう。

 しかし、「探す」ことの面白さを検索窓がもたらしてくれるかは、はなはだ怪しい。

それが欲しければ、あえてPCやスマホを切ることくらい、未来にもおいて許されるだろう。

 役に立つ、金になる、それ以外には何もない小うるさいだけのサルどもに背を向けて、

束の間、好きな音楽に耳を澄まし、好きな本を調べてみる自由くらい、人間にはある。

 無駄? だから何?

 かくして本書の主題は、フェルディナント・バイヤーから筆者へと変わる。

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  • 2019.08.18 Sunday
  • 20:22
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