酢豆腐

  • 2019.01.14 Monday
  • 21:35

 2001101日、筆者は妻との会話で古今亭志ん朝の死を知る。

 かつてない錯乱と喪失感の中で論じる。

「これは〈一人の名人の死〉といった〈点〉の問題ではない」。

 その葬儀は、筆者に言わせれば、「江戸から伝わってきた大衆文化の一つ、

江戸弁による江戸落語、その美学の葬儀でもあった」。

 ここまで言わしめる根拠について。「なんと言おうと、江戸言葉を自在に

喋れるのが最強の武器だった。これは生れつきのもので、家の中に江戸言葉の

名残がなければ始まらない」。

 このミームの最後の正統後継者が途絶えてしまった以上、江戸落語は必然的に

死滅の時を迎えたことになる。

 

 こうして要所だけを切り出せば、一つの論として頷ける点がないことはない。

 だがここに嫌悪感を誘われずにいないのは、つまるところ、落語という素材が、

両国に生まれ、江戸弁にさらされて育った筆者のナルシシズムの反映以上に

さしたる意味を持たない点にある。志ん生、志ん朝はついぞ本書においては

主題化されぬまま終わる。どうしようもないほどに、「ぼく」「ぼく」「ぼく」

たまに「私」――よかったでちゅね、ぼくちゃん、筆者は自慰以外の所作を

何一つ知ることがない。

 生前の志ん朝との座談に際して、ネイティヴであれぬことの悲哀、外国人の

ジョークに触れても肝心のところを掴めない点を嘆くが、本書の文脈においては

このペーソスさえも皮肉を帯びてしか響かない。つまり、「家の中に江戸言葉の

名残がな」い輩には、要は自分以外の観客には、江戸落語の面白みや奥深さなど

分かりようもないのだ、と。

 

 志ん朝の目指した「粋」の意を知りたければ本書を読めばいい、その対義的な

態度のことごとくが盛り込まれているのだから。

 卑しい、醜い、頭が悪い……あらん限りの罵倒を超えて、ただ痛々しい。

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  • 2019.03.16 Saturday
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