君が代は 千代に八千代に

  • 2019.01.14 Monday
  • 21:40
評価:
夏目 漱石
新潮社
¥ 367
(1948-10-27)

 偶然に汽車で隣席し、同じ部屋で一晩を過ごす羽目になった女に言われる。

「あなたは余っ程度胸のない方ですね」。

 乗り込んだ列車で、やはり隣り合わせた男に言われる。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……日本より頭の中の方が

広いでしょう」。

『三四郎』を今さらながら読み返して驚く、第一章で提示されたこの対立軸から

一歩も前に進まない。トリックスターの与次郎や、ファム・ファタールの美禰子を

交えても、三四郎の何が変わることもない。通過儀礼の典型としてのセックスに

はじまり、あからさまに成長物語のフォーマットを踏襲しているはずなのに、

肝心のその成長が果たされることは決してない。

 明治の東京を舞台に展開されるスクラップ・アンド・ビルドに圧倒されて独白する。

「この激烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、自分が今日までの

生活は現実世界に毫も接触していない事になる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。

それでは今日限り昼寝をやめて、活動の割前が払えるかと云うと、それは困難である。

自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起る

活動を見なければならない地位に起き易えられたと云うまでで、学生としての生活は

以前と変る訳はない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。

けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に

並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、

自分を置き去りにして行ってしまう。甚だ不安である」。

 開始まもなく26ページのこの記述をもって、あるいはそれ以前に、事実上、

彼個人の物語は既に終わっている。社会に出るか、それとも象牙の塔に留まるか、

三四郎が立つモラトリアムは見事なまでにその先の予感を持たない。

 

 しかし今改めて向かい合い、妙な気分に襲われる。ビルドゥングスロマンなど

所詮は文学の内部構造においてのみ存在の余地を持ち得るいわば様式美に過ぎず、

成長の不可能性を謳う『三四郎』こそが、むしろ自然主義なのではなかろうか。

 その表題とは裏腹に、彼はあくまで「動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は

出来ない」傍観者以外の何者でもない。変わらない、変われない、そのことはもはや

三四郎の問題ではあり得ない。今や本書の主題は明らかだ。

「目的だけは親切な所も少しあるんだが、何しろ、頭の出来が甚だ不親切なもの

だから、碌な事は仕出かさない。一寸見ると、要領を得ている。寧ろ得過ぎている。

けれども終局へ行くと、何の為めに要領を得てきたのだか、まるで滅茶苦茶に

なってしまう。いくら云っても直さないから放って置く。あれは悪戯をしに世の中へ

生れて来た男だね」。

 与次郎を評してこう言った広田は、「済んだ事は、もう已めよう」と切り上げて、

昼寝の最中見た夢の話をはじめる。「昔の通りの顔をしている。昔の通りの服装を

している。髪も昔の髪である。黒子も無論あった。つまり二十年前見た時と少しも

変らない十二三の女」に再会したという。変わらないことを問われ彼女は夢に言う。

「この顔の年、この服装の月、この髪の日が一番好きだから、こうしている」。

 その年とは――「憲法発布は明治二十二年だったね」。

 

「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」。

 明治が描いた国家の成長神話すら失効した現代ゆえにこそ、漱石の刻んだものが

かえって見える。

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  • 2019.05.31 Friday
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