弁明の書

  • 2019.01.21 Monday
  • 22:41
評価:
ドナルド R キルシュ,オギ オーガス
早川書房
¥ 2,160
(2018-06-05)

「なぜ新薬の探索は、たとえば有人月面着陸や原子爆弾の設計よりもはるかに

『難易度』が高いのだろう? アポロ計画やマンハッタン計画では、すでに

確立した科学方程式や工学原理や数式が利用された。……それとは対照的に、

新薬設計の核心的な試練――膨大な数の候補化合物の試行錯誤による

スクリーニング――は、既知の方程式や公式による手引きがないなかで取り組む

仕事だ。……ハンターには、お目当ての薬がどのように作用するかについて、

人間の臨床試験参加者が実際にそれを摂取するまでよくわからない。……

本書の執筆に取りかかってみると、人間の健康や科学の限界、勇気や創造性や

直感的なリスクテイクの大切さに関して、ぜひお伝えしたいと思えるより深い

教訓がいろいろあることに気づいた。以下の章では、新薬を求めて私たち人間が

乗り出した大胆な旅を石器時代の祖先たちから今日の巨大製薬企業までたどり、

ほぼ広大無辺な科学ライブラリーのどこかに隠されたわかりにくい手がかりを

人類が追い求めてきた旅路を年代順に見ていこう」。

 

 2015年のノーベル生理学・医学賞は、日本人科学者・大村智に与えられた。

受賞に際して大々的に報じられたのは例えば、ゴルフのプレイ中に採取した

サンプルから発見された微生物が画期的な抗菌剤をもたらした、という逸話。

 しかし本書に従えば、輝ける「土壌時代」はとうに黄昏の時を迎えている、

ニーズは変わらず続いているし、探索が一通り終結したわけでもないのに。

というのも、「抗菌薬からは、製薬企業にとって特に儲かるビジネスモデルが

生み出されないからだ。大手製薬企業は、高血圧や高コレステロール血症の

薬のように、何度も繰り返して服用される薬を開発したがる。そのような慢性病の

治療薬は、患者が一生のあいだ毎日飲み続けなくてはならないので、莫大な

売り上げをもたらす可能性がある。一方、抗菌薬の服用期間はせいぜい一週間

くらいしかない。それで患者は回復し、その薬はもう必要とされないのだ。

これでは利益が大幅に制限される」。

 だが、この斜陽を強欲の果てとのみ結論するのはあまりに早計だ。

「新しい抗菌薬が登場してもいずれ病原菌が耐性を生じることを医師たちが認識し

始め、新しい抗菌薬が発売されると、それをいざというときのためにしまいこむ

ようになったのだ。医師たちはそれらの新しい薬を、抗菌薬耐性菌によってひどい

感染が起きた患者のみに使うようになった」。

 

 しかし、そんな経済性の横紙を突き破る異端児と本書は時に巡り合う。

 その中でも屈指の人物が、経口避妊薬の立役者、ラッセル・マーカーである。

 時々で自らの興味を引くテーマに集中的に打ち込んでは偉大な業績を残し、

ただし間もなく飽きては他を探す、そんな物語的人物が引きつけられたのが

妊娠を司るステロイドホルモン、プロゲステロンの合成だった。「当時における

化学上の困難な未解決問題」にとらわれたマーカーは、「逆転の発想」により

鮮やかに制圧を果たす、つまり「プロゲステロンの合成を足し算のゲームとして

見るのではなく、引き算のゲームとして見」ることによって。原材料を求めて

メキシコに辿り着いた彼にはただし、製薬会社を説得する雄弁術が欠けていた。

ならば自分で作ればいい、と製陶所の納屋を間借りして実証、さらに現地企業と

提携して、ついに彼は「合成化学における賢者の石、すなわちヤムイモを金に

変える手段を発見」する。ところがある日突然、持ち株も知的財産権も手放し、

そればかりか、化学の世界から完全に彼は足を洗う。

「医学関連の発明で、ピルほど社会の基本的な構造を迅速かつ劇的に変えた

ものは歴史上ほとんどない」。

 この革命物語の魅力は、マーカーですら埋没しかねないくらい、ことごとくが

アウトサイダーに牽引されたことに起因する。

「ピルは、大手製薬企業の科学研究所や販売チームの会議から生まれたのでは

なかった。まず、ウシの妊娠を急がせたがったスイスの酪農家たちが、ちょっと

変わった解剖学上の発見をした。次に、ある獣医学教授がこの知見を発表した

ことがきっかけとなり、排卵抑制薬としてのプロゲステロンが特定された。偏屈な

一匹狼の化学者が、単におもしろいパズルだからという理由でプロゲステロンの

合成法を見出した。二人の70代の女性解放活動家が、経口避妊薬をつくり出すと

いう自分たちの夢を叶えるため、信用を失った生物学者に白羽の矢を立てた。

敬虔なカトリック教徒で根っからの理想主義の婦人科医が、経口避妊薬の世界初と

なる臨床試験の実施に賛同した。その生物学者と婦人科医は協力し、プエルトリコで

臨床試験をおこなって連邦法や州法、さらには医療倫理も巧妙に逃れ、有害な

副作用の明らかな兆候にも目をつぶった。彼らが、カトリック教徒のボイコットを

恐れる製薬企業をようやく説得でき、その薬の製造が始まったのは、女性たちが、

その企業が販売していた薬の一つを、避妊という適応外の目的で勝手に使っていた

ことに運よく気づいたあとのことだった。

 このようなわけで、一言でいえば新薬の開発は恐ろしく困難なのだ」。

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  • 2019.08.18 Sunday
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