一蓮托生

  • 2019.01.25 Friday
  • 23:24

19144月、すべてがうまくいっていたわけではなかった。モネの最も親しい

友人によれば、彼は『心を引き裂き、精神を荒廃させる大きな悲しみ』に苦しんで

いたのだ。……なかでも最悪だったのは、1911年のリューマチによる[妻]アリスの

死だった。……彼女の死の一年後、継娘のジェルメーヌにはこう書いている。

『画家は死に、残ったのは慰めようのない夫だ』……1912年の夏に、彼は突如

視力が衰え始め、仕事はさらに難しくなってきた。……何という運命の悪戯か、

驚嘆すべき視力は、今や濁って鈍くぼんやりとしている。……そしてさらに悲しみが

襲った。19142月、彼の息子ジャンが46歳で他界したのだ」。

 失意の淵に沈むモネを、50年来の友人にして大政治家、G.クレマンソーが

訪れる。「ジヴェルニー訪問の目的は、単にモネの食卓や彼の庭園の眺めを

楽しむためにパリや絶え間ない選挙の話から逃れたのではなかった。彼は

いつものように、慰めと勇気づけのためにきたのだ」。そして言った。「『モネ、

君はダイニングルームを飾る睡蓮の絵を注文してくれる大金持ちのユダヤ人を

探し出すべきだ』

 クレマンソーは、モネの反応が良かったことに驚いたが、とても喜んだに違いない。

確かに彼はある意味、クレマンソーが予期しない形で応答した。なぜなら、これら

年月を経たカンヴァスに手を加えるのではなく、全く新しく、さらに野心的な池の

絵の連作をつくり上げると決めたからだ」。

 

 こうしてモネが2メートル×4.3メートルの巨大カンヴァスの連作、「大装飾画」

構想に取りかかった同じ年、彼の祖国はドイツからの宣戦布告を受ける。

 巨大絵画で戦争を主題化したと耳にすれば、誰しもがピカソの『ゲルニカ』に

思い至ることだろう。およそ対照的に、モネと聞いて一般的に連想されるのは、

鮮烈な色彩と疾駆するタッチに基づく「平和的な瞑想の天国」。

 しかし戦争は密やかに彼の画境に影を落とした。「ジヴェルニーのしだれ柳は、

そのねじれた枝や暗い色調から、拷問と苦痛を示唆している。……モネは描く

ことによって彼自身大戦から気を逸らそうとしていたのかもしれないが、戦争は

これらのカンヴァスの隅々にまで満ちていたのだ。それらは、モネを単に『偉大な

抗鬱薬』とみなしていた人々への確固とした反撃だった」。

 

 ベートーヴェンから聴覚を奪ったメフィストフェレスの不条理が再来する、

かつて「光の深淵」を捉えた瞳はいつしか、白内障に蝕まれていた。

 ある者は、「モネは二度埋葬されたと言った。最初は1926年の死後、そして

二度目は1927年のオランジュリーの公開によってだ」。このとき歴史の審判は、

印象派の終焉を告げていたかに見えた。「秩序へ戻れ」ムーヴメントに従い、

「堅固さや太くはっきりとした線、はっきりとした輪郭、単純な形の再確認」へ

転向した画家とは袂を分かち、モネはただひとり「彼の庭の池に集中した」。

 そうして最晩年の『睡蓮』は生み落とされた。

 睡蓮のフランス名といえばnymphea、ニンフに紐づけられる。水の精が汚れを

逃れて花へと変じる、筆者のイメージも専らそこから派生していく。

 しかし、日本人ゆえに見える連想ゲームにあえてモネを束の間巻き込む、

此岸を離れ涅槃に至る、泥より出でて天へと至る、そう、蓮華座へと。

「肉体が壊れていく時、永遠の光が差してくるのだ。……彼の目が薄い膜で

覆われ、視力がゆっくりとかすんできた時に『飛んでいる太陽を捕まえ、

歌ってきた』モネは、彼が常に追いかけ、大事にしてきた移ろいゆく光線に

ますます熱心に焦点を合わせたことは否定できない」。

 画壇の流行を離れて、輪郭と色彩を溶かしたあの絵の世界は、単に視力の

衰えゆえか、それとも――

 ジャポニスムに傾倒したモネを、ついぞ足を踏み入れることのなかった

かの地の蓮華と絡めて見るのは、果たしてただの空想か。

 かつて彼はインタビューに応えて言った。

「もしあなたが私を誰かと結びつけたいのなら、それは古い日本人だ」。

スポンサーサイト

  • 2019.08.18 Sunday
  • 23:24
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック