くれないの豚

  • 2019.02.13 Wednesday
  • 22:49

「話は数カ月ほど遡る。

 俺は『国境なき医師団』の広報から取材を受けた。ツイッター上で知り合った

傘屋さん(実際にはまだ会ったことがない)と一緒に『男日傘』というのを作って

売り出し、そのパテントをもらうつもりはないので『国境なき医師団』に寄付

していた俺に、団が興味を持ってくれたのだ。

 で、向こうから取材を受け始めて10分も経っていなかったような印象が

あるのだが、俺は団の活動が多岐にわたっていることを知り、そのことが

あまりに外部に伝わっていないと思うやいなや、“現場を見せてもらって、

原稿を書いて広めたい”と逆取材の申し込みをしていたのだった」。

 

「私たちは好んで危険な場所に行くわけではないんです。きちんと安全を

確保できると判断しなければ人員を送りません」。

 とは語るが、実際に「国境なき医師団」(以下MSF)の出向く現場といえば

しばしば、日本の外務省に「渡航禁止勧告」を受ける地域だったりもする。

 そこまでのリスクを負わねばならないのはなぜ、具体的な活動内容への関心も

さることながら、それが私の本書を手に取るにあたっての最大の疑問だった。

 そして、幾度となくパラフレーズを続けるその答えは「尊厳」だった。

「それは憐れみから来る態度ではなかった。むしろ上から見下ろすときには

生じない、あたかも何かを崇めるような感じさえあった。

 スタッフたちは難民となった人々の苦難の中に、何か自分たちを動かすもの、

あるいは自分たちを超えたものを見いだしているのではないかと思った」。

 翻して言えばそれは、MSFの前線でもなければ彼らが他者への「敬意」を

もはや容易には抱きようがない、という証なのかもしれない。

 例えばウガンダのキャンプで給水を担うフランス人スタッフは言う。

「『水は金儲けのためにあるんじゃなく、人の生活の質を上げるためにこそある。

僕はそう思うんです』

 それこそがまっとうな考えというものだった。もはや日本では、これが

『ナイーブ』だと言われてしまう。『絵空事』だと言われてしまう」。

 そして「絵空事」と嗤うその同じ口が、平然と「公共事業」を謳い上げる。

 MSFを見る経験、本書を見る経験はすなわち、祖国を見る経験に他ならない。

 

 南スーダンを追われた難民女性に尋ねる。

「体が治ったら何をしようとお思いですか?」

「畑を耕したい。食べ物を作ります」

 即答だった。

 経世済民の金属疲労した国と、経世済民を志す成立途上の共同体。

 どちらに「生き甲斐」があるだろう。

 

 ここ数日、世間を騒がせるニュースのひとつに「バイトテロ」なる事象がある。

 当たり前だ、もっとやれ、と私は思う、思ってしまう。ファストフードや

コンビニの利用客に対して払うべき「敬意」なんてはじめからないのだから。

 自分がされたら嫌でしょ? という「共感」戦略の何と滑稽極まることか。

消費者に「尊厳」などない、ゆえに我が身を置き換えるべき余地もない。

それはサラリーの問題にすらならない。醜い、卑しい、浅ましい、消費者が

消費者であるがゆえに受けるべき当然の報いを受けているに過ぎないのだから。

 

 果てなき欲望で豚と化した両親を離れ、女児が身を投じた先は、世界最古の

労働としての売春、遊廓。国民的ヒット作、『千と千尋の神隠し』のお話。

 消費社会の果てに原点への回帰を志向する、優れた舞台設定を構想しながら、

豚が豚として無残に殺されゆく当然の有様を描くことのできなかった、もしくは

描かせてもらえなかった宮崎駿が破綻を迎えるのは必定だった。

 豚は人には戻れない。

スポンサーサイト

  • 2019.08.18 Sunday
  • 22:49
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック