夢のなか

  • 2019.02.23 Saturday
  • 19:51
評価:
ジョイス・キャロル・オーツ
河出書房新社
¥ 2,484
(2018-09-22)

「私」ことアンドリュー・J・ラッシュは売れっ子作家、人呼んで「紳士のための

スティーヴン・キング」。この二つ名の意味するところは、「少しだけ残酷で……

ただし適度に、不快でも不穏でもない程度の残酷さだ。卑猥な描写も、女性差別的な

ところもない、どうしてもノワールにならざるを得ない場合を除き、私のミステリー

小説の女性たちは丁寧に扱われ、死ぬのはたいてい白人の成人男性」、つまりは、

世の善男善女に向けられた毒にも薬にもならないジャンル・ノヴェル。私生活では

相応の収入に恵まれつつも、不倫のひとつも犯さないよき家庭人、逮捕歴は当然なし、

図書館への寄付などのチャリティも欠かさず地域の名士として尊敬を集める。

 ただし「私」には知られざる顔がある。それが「ジャック・オブ・スペード」、

「いつもの私とは違って残酷で野蛮で、はっきりいって身の毛がよだつ作家」。

作風ゆえ一部にカルト的な人気を博し、五冊もの作品を上梓するに至る。ネットの

過激な推測のひとつに従えば、「犯罪の常習犯で、おそらくは連続殺人鬼であり、

逮捕はおろか正体を知られることもなく、子供時代から数えきれない罪を犯し、

本名も所在も常に不明であり続けている」。

 そんなある日、「私」のもとに裁判所から出廷命令が届く。スペルさえもでたらめだが、

窃盗の廉で告発を受けているらしい。原告の名も罪状も、何ひとつ心当たりはなかった。

「招かれもしないのにジャック・オブ・スペードがやってきて私の人生の一角にしゃがみ

込み、光をすべて身のうちに集めて、吸収する。まるでブラックホールのように」。

 

『ジキルとハイド』との表現が人口に膾炙するほどにおなじみの、ドッペルゲンガー。

ドストエフスキー『分身』や『ドリアン・グレイ』等の小説に限らず、『サイコ』を嚆矢に、

『ブラック・スワン』、『ファイト・クラブ』と映画にも枚挙に暇がない。さらに遡れば

陰陽相克の系譜、シンデレラをはじめ類例あまた、もはや初出など知りようがない。

 アポロンを食い潰すディオニュソスのモチーフを用いて、むしろスリリングにならない

方がどうかしている。自他の区別から果ては虚実の被膜までが溶解し「私」が「私」で

あることの自明性を喪失していく、余程のことがない限り、舞台設定の段階で既に

一定の面白さは担保されている。

 さらにレヴューのためにざっと読み返すことで、さりげない表現のいちいちが周到に

張り巡らされていることに改めて気づかされる。物語を推進するフレームワークとしての

「もうひとりの自分」の多義的構造にもひたすら感嘆させられるばかり。

 

 となれば絶賛一辺倒に傾いてもよいところだが、どうしても引っかかりを覚えずには

いられない。というのも、たぶん筆者にしてみれば、それが侵食された「私」を

表しているということだろうが、物語の進展につれて顕著になる書かれざる空白が

多過ぎるから。「私」の与り知らぬところで何が起きようが、それは他人事を超えない。

理に落ちないことと理を曖昧にすますことは、まったく別の話。

 私が思うに、このジャンル至高のスリルは、書かれているもの、目に映るものの

どこまでを信じていいのか、その境界さえもが揺さぶられること。一見、この上もなく

明晰にすべてが描き込まれ、ただし虚と実を隔てる手がかりさえも主観は持たない。

判明たるものなど何もなく、猜疑に次ぐ猜疑でついには自らを滅ぼす。必要なのは

結末の巧拙よりも、生々しい過程の、ただし底が抜けているやもしれない恐怖。

幻聴が聞こえる、幻視が見える、そんな狂気表現よりも、確かなはずの何もかもが

ことごとく幻聴、幻視だったとしたら――デカルト的懐疑のその方がはるかに怖い、

少なくとも私には。

「ない」はずのものが「ある」、それより怖いのは、「ある」はずのものが「ない」。

何でもありの世界よりも、何にもない世界にこそ、戦慄は誘われる。

 筆舌に尽くせぬ畏怖は、筆舌を尽くした先に訪れる。

スポンサーサイト

  • 2019.07.19 Friday
  • 19:51
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック