矛盾の性行をかく

  • 2019.03.16 Saturday
  • 21:26

「南満鉄道会社って一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し

呆れた顔をして、お前も余っ程馬鹿だなあと云った。是公から馬鹿と云われたって

怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、なんだ今度一所に

連れてって遣ろうかと云い出した。是公の連れて行って遣ろうかとは久いもので、

二十四、五年前、神田の小川亭の前にあった怪しげな天麩羅へ連れて行って呉れた

以来時々連れてって遣ろうかを余に向かって繰返す癖がある。その癖未だ大した所へ

連れて行って呉れた試がない」。

 見ての通り、「満韓ところどころ」、冒頭から早々にどこか不機嫌。いざ旅路に立てど

漱石一流の筆致で広大な大地を描き出してくれるのかと思いきや、持病の胃カタルに

苛まれるせいもあり、むしろ鬱屈は募るばかり。

 続く「倫敦消息」においても、やはり気分は似たようなもの。時の英国へと読者を誘う

風情というには程遠く、下宿の引っ越しがどうこうと愚痴が止まらない。

 今日ならばさしずめFacebookに中毒を来したように不平不満を並べては炎上を重ねる、

パブリック・イメージ通りとも言える半面、これが紙幣を飾るとは誰も夢には思うまい。

 

 としたところで「自転車日記」、本書の評価を見事に反転させる。

 湿っぽい気分が自虐へと転じ、軽妙なスラップスティックの趣さえも秘める。

 何を措いても改めてその文体の見事さに感嘆せずにはいられない。漢文読み下しを

織り交ぜたような文語調でありながら、とにかく筆が走りに走る。

「……すると出し抜に後ろからSir!と呼んだものがある、はてな滅多な異人に近付は

ない筈だがと振り返ると、一寸人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーット立って

居る、こちらはこんな人に近付ではないが先方ではこのポット出のチンチクリンの

田舎者に近付かざる可らざる理由があって正に近付いたものと見える、その理由に曰く

茲は馬を乗る所で自転車に乗る所ではないから自転車を稽古するなら往来へ出て

遣らっしゃい、オーライ謹んで命を領すと混淆式の答に博学の程度を見せて直様之を

監督官に申出る、と監督官は降参人の今日の凹み加減充分とや思いけん、もう帰ろう

じゃないかと云う、則ち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと婆さんの間に

敗余の意気をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴って秋気来るヘン」。

 後の『猫』や『草枕』に通じるリズム感や遊び心に皮肉、と作家性のことごとくが

わずか14ページに凝縮されている。片鱗という域を超えて、既に完成されている。

 

 書くことの幸福と、生きることの退屈。

 はたと痛みに気づく。

 この弾けんばかりのスピード感はもしや沈鬱な日常から束の間、己が精神を解き放つ、

自傷にも似た産物なのではないか、と。

 のたうつようなフラストレーションを綴れば「倫敦消息」、それを叙述のエネルギーに

変換すると「自転車日記」。少なくとも書き手の主観の軌跡において、いずれが真実、

いずれが嘘ということもない。黒か、白か、というよりも深層はきっともう少し複雑で、

文章を編む刹那、どの心象を引き伸ばしたか、乱反射の集積がやがて国民作家を表す。

 本作に紀行文としての旅情は欠片も見えず、ただし、漱石の漱石たる所以となれば

溢れんほどにほどばしる。

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