フリー・スマイル

  • 2019.04.04 Thursday
  • 22:50

「私たちは核の力について延々と議論を繰り返している。原子力は科学の力で

コントロールできると思っている人たちは、どんな不合理な考えも受け入れて

しまう。だが、反対の立場の人にしても同じことだ。反対派は耳に心地よいことは

聞こうとしない。推進派は悪いことは聞こうとしない。……本書のためにリサーチを

するなかで私は、はたして人間は原子力に対して正しい見解を持つことができるの

だろうか、人間と核技術との関係はいよいよ行きづまってしまったのだろうか、と

いう疑問を抱きはじめた。原子力とともに70年以上も生きてきたのだから、人間は

核についてもっと合理的な考えを持ってしかるべきだ。だが、そうでないことは

明らかだ。私たちの頭のなかのフォールアウトは、容易には去らないようだ」。

 

 広島、福島、スリーマイル――核被災地をめぐる筆者の旅を説明するのに一見、

この上もなくふさわしいことばを現代は用意した。

 ダークツーリズム。

 しかし、その語をもって本書の要約と代えることは幾重もの誤謬を孕む。

 チェルノブイリに筆者は「自発的帰郷者」を訪ねる。避難生活への不満から彼らは

「放射能に汚染された畑で野菜を育てた。汚染された動物を狩り、汚染された森の

ハーブを採集し、汚染された井戸から水を汲む」。生の糧を得るために、「放射能を

帯びた廃金属類を集めては、汚染されていない外の世界の肉や芋などと交換する

者もいる」。そして彼らは「遠く離れた街で落胆しながら不幸せに――放射能からは

解放されても不安や恐れにさいなまれ、ジャンクフードに蝕まれて――暮らす多くの

避難民たちよりも、長生きして健やかに生きている」。

 注意しなければならないのは、この観察をもって、筆者が放射能物質の無害性を

訴えている、という読み解きをすべきではないという点にある。「自発的帰郷者」が

示唆するのは、安心と安全をめぐる奇妙なねじれ関係。つまり、安全の担保を失った

「立入禁止区域」ことマイホーム・マイタウンで安心を選んだ人々と、一応の安全を

守られつつも疎開地に安心を見出せぬまま人生に傷を負った人々をめぐる対比。

 筆者が指摘する核の罪深さは、安心のためのプラットフォームを破壊してしまうことに

ある。それは単に生活拠点を失うことに留まらない。安全神話が神話でしかなかった

ことを知らされたその瞬間に、専門家の言葉、他者の言葉は一切の信頼を喪失する。

彼らに言わせれば、データに基づかぬリスクなどあらぬ亡霊に打ち震える「放射線

恐怖症」に過ぎない。しかしそもそも、その論拠を信じるための回路が断たれた状況を

生み出した傲岸不遜な原子力産業にそれを糾弾するいかなる資格が与えられようか。

「核の時代について考えてきたこの旅の終わりに、私は相反するふたつの結論を得た。

ひとつは、……民生利用の核のほとんどは安全――あるいは、思っているよりもはるかに

安全であるということだ。……だがもうひとつの結論は、核の専門家が国民の信頼を

得ることができないならば、国民はいつでも核技術に対して背を向ける権利があると

いうことだ」。

 

 とりわけ印象的なエピソードが紹介される。

 放射線医学の専門医が、3.11から間もなく福島に入り講演を行なった。「笑って」と

彼は言った。「誰も彼もストレスに押しつぶされそうでした。私はみんなに、深刻に

なりすぎないようにと言いました。……リラックスすれば免疫系の働きは活性化します」。

 この発言は間もなく、御用学者の戯言として拡散された。信頼がなければ、笑うことも

できない、安心することもできない、できるのはただヒステリックに炎上させることだけ。

 それは奇しくも、ヴィクトール・フランクルがナチスの収容所で見たものと似ている。

一度ポジティヴなマインドを失ってしまえば、自壊するより道はない。

 原爆を炸裂させずとも、ガス室を作らずとも、人は殺せる。

 安直な楽観主義でも思考停止でもなく、抗うためにとりあえず笑ってみる。

スポンサーサイト

  • 2019.08.18 Sunday
  • 22:50
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック