respectable

  • 2019.04.06 Saturday
  • 22:14

「子どもを産めば自然に授乳できるものと考えていた。ところが出産直後、

高年初産の身体から乳はなかなか出ない。授乳できないことで落ち込み、

さらに出なくなる。出産した産院は粉ミルクを使わなかった。我が子は同じ時期に

出産した若い母親の乳をもらうことになった。驚いた。不安も感じた。しかし子供は

満足していた。……授乳不全の敗北感のなか、小説の端役として登場した乳母と

いう存在にひっかかった。母親が自分で授乳できないわけではなくても乳母を

雇ったことがあったらしい。なぜそんなことができたのだろう、ゆるされたのだろう。

他人に任せることに躊躇はなかったのだろうか。乳母に自分の子をとられたような

気がしなかったのだろうか。病気感染の心配もしたはずだ。初めは母親の方に

注意が向いていた。しかし、考えてみれば、乳母は自分の子をどうしたのだろう。

どんな気持ちで他人の子にお乳をあげていたのだろう。疑問はどんどんふくらんで

いった。乳母と、乳母を雇う母親の両方を、理解しかがたく受け入れがたい思いを、

どうにかしておさめなだめようとする作業が始まった」。

 

 本書のテーマは乳母、とはいってもnannysitter、つまり子守の言い換えとしての

乳母ではなく、wetnurse、つまりは実母に代わって母乳を授ける労働者としての乳母。

 19世紀といえば、粉ミルクはまだ開発の端緒に立っただけの段階。当時の医師が

代用に薦めていたウシやヤギの乳にしても、市販品は水増しや混ぜ物が当然で、

乳児には到底与えられない。自宅で飼育、搾乳、殺菌できる環境を整えられる

家庭などおのずと限られざるを得ない。

 ということで、消去法的に浮上するのが、乳母の雇用という選択肢。しかしそこで、

大きな問題が生じる。「深刻な影響は、乳母の側、より正確にいえば乳母の子に

及んだ。乳母の子どもたちにとって、実母が乳母として働きに出ることは、文字通り

命をかけた問題になったのである」。

 この雇用形態においては、子どもが乳母のもとに託されるでも、逆に実子の同伴が

許されるでもなかった。ゆえに母が勤めに出ている間、子どもは栄養にありつくことが

できない、なにせ人工哺育不全の時代だ。

 その結果など、想像を巡らせるまでもない。

 

 乳母の求人に際してしばしば用いられた表現にrespectable(品行方正)なる語が

あったという。母乳の性質が子どもの発育と相関性を持つとの説に依拠したもので

あるらしいのだが、雇用−被雇用のミスマッチングがこれほどまでに顕在化する例は

お目にかかれない。実際に立候補する者といえば専ら「悪い男にだまされて妊娠し、

未婚で出産した『かわいそうな娘』」。

 雇用の推進派は高らかに言った。「未婚の母は娼婦予備軍とみなされているが、

乳母として雇われるという道があれば娼婦に落ちなくて済む」。

 ここで現代の読者は、乳母雇用の持つ隠れテーマに否応なしに気づかされる。

乳母として働きに出ることは実子の命を引き換えにすること、つまり、この労働は

娼婦への事後的な堕胎機能に他ならないのではないか、と。

 

 結果的に本書はイギリス階級社会の再生産システムを明かす。母乳哺育を促す

言説などアッパー、ミドルの価値規範に過ぎない、というかそもそも言説を担うべき

資格すらロウアーには認められない。家事労働すら控えて、母体の安静に努めろ、と

医師は言うが、裕福な彼らの想像力には労働の穴埋めを買う財力がないことなど

思いも及ばない。よしんば子どもが育ったとしても、待ち受けるのは労働者階級の

苦難を反復するだけの人生。やり逃げるだけの男に罪悪感を持てと言うのがいかに

無理難題であるかはセックス市場の歴史が証明する。

 終章にアメリカのセレブリティにおける乳母復活の兆候が紹介される。人命は

所詮、商取引の材料に過ぎない、ゆえに乳母は赤裸々に階級格差を顕現する。

 本書を見事にまとめてみせる19世紀の英国女性労働者の嘆きから。

「子どもたちを養育するお金がたっぷりあるなら、母親であることをすばらしさを

享受できるでしょう。しかし、現実にどんな母親が子どもを産もうとするでしょうか。

家計逼迫のため、子どもは一刻も早くとせかされて、世俗の骨折り仕事に

押しやられるようになるというのに」。

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