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- 2020.05.10 Sunday
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「本書では、五人の男たちを取り上げる。矢部八重吉、丸井清泰、大槻憲二、
中村古峡、古澤平作である。いずれも草創期の日本の精神分析に関わった
人物である。彼らによって日本の精神分析は今こうして、実践され、研究されている。
……歴史はトラウマに満ちている。しかし、それを振り返り、吟味することの意義を
歴史研究は教えてきた。逆に言えば、起きた事実を隠蔽し、歴史を塗り替えて
しまうことの恐怖や愚かさを歴史は伝えてきた。それは精神分析も明らかに
してきたことである。精神分析は、個人の歴史の再構成が、心的変化に重要な
役割を持つを考えてきた。精神分析が示し続けてきたのは、歴史を知ることから、
私たちは現在の問題を理解する枠組みを学べるということであり、これから歩むべき
道をもまた知ることができるということである。日本の精神分析の歴史を知ることに
よって、私たちは今の日本の精神分析や、これからの日本の精神分析を考える
ための理解を得ることができるのではないだろうか」。
との言とは裏腹に、残念ながら、本書がこの目標を到達することは叶わなかった。
というのも、全体のフレームがまるで見えてこないのだ。それが証拠に、日本の
精神医学史の素描が著されるのがようやく第四章になってからのこと、それにしても
「よく知られているように」という仕方での、行きがかり上の簡潔なメモに過ぎない。
精神医学や社会政策といった枠組みの中で、いかにして精神分析が立ち位置を
獲得していったのかも見えなければ、全体のつながりを欠いているがために、なぜに
五人が取り上げられなければならないのか、というそもそも論からして分からない。
代わって本書の展開する「歴史」といえば、「初めにフロイトがあった」史観とでも
呼ぶべき何か。各人が時代やテーマの文脈からぶつ切りに分断されている以上、
パーソナル・ヒストリーに終始せざるを得ない。そこで紹介される臨床例にしても、
私にはそのほとんどが創作物としか読めず興醒めを誘う。
その中で長所といえば、「父殺し」を見事に引き出した第五章の結びだろうか。
終わり良ければすべて良し、物語として上手に落としたと讃えることもできようが、
その構造に耽溺しているだけと突き放してみても的外れとは言えまい。