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  • 2020.05.10 Sunday

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    密林の語り部

    • 2019.05.10 Friday
    • 23:12

    「歴史のなかの語ること、聞くこと、書くことに関心をもち、戦前から戦後の日本の

    歴史を訪ねてみた。すると、そこには、文字を中心にした今までの歴史では見えて

    いなかった大変に興味深い世界がひろがっていた。語り手や聞き手の声が聞こえる

    世界であり、沈黙や表情を含め、生身の人間同士が向き合った歴史の場面であって、

    人びとの生きられた歴史を垣間見ることができる。聞き手は自らの登場の有無を含め、

    さまざまな工夫をして書きとめていた」。

     

     能の世界にシテ−ワキなる概念がある、という。異界から降臨せし神や霊に

    扮するいわば主役がシテ、そのかたりを受ける現世の聞き手がワキ。

     本書の議論にふとそんなことを想起する。あるいは夢幻にすぎぬかもしれない

    過ぎ去りしもの(過−去)を表出させる仲立ちを「聞く」という装置が担うことで、

    時に束の間、今ここにある何か(現−在)よりも生々しい場が現に与えられる。

    そんな〈現場〉を成り立たしめる要件は、語り手(シテ)の記憶のみでは足りない、

    聞き手(ワキ)とのコミュニケーションをもって瞬間うごめき、そして消える。

     オーラル・ヒストリーにおいて、史料研究の垂直性はひとまず括弧に入れられる。

    ここにおける稼働原理は、〈現場〉の共有という水平性。主か従か、記録か記憶か、

    正か誤か、という二択ではなく、そもそも違う。

     語り手にとってはしばしば「時間にそって経験があるのではなく、経験のなかで

    時間がつながり合」う。過去という記憶のフォルダーは必ずしも時間的な近接性に

    従って配列されない。たとえ主観による経験の因果律が時間軸を裏切ろうとも、

    不可逆の時間の堆積を辿るばかりが歴史ではない。

     もちろん、このアプローチにポスト・トゥルースにも通じる危うさがある点は

    議論の余地はない。とはいえ、自らの体験を聞いてくれる、聞かせてくれる誰かの

    いる社会と、壁や液晶に向かって妄想をこじらせるより他にない不安型社会の

    どちらによりまともさを見出すことができるだろうか。真偽の前にまず生き方に

    ついて、それこそが逆説的にパラノイアを遠ざける。

     鶴見俊輔は指摘する。「きくということは、書いている本人が、自分以外の

    人びととのかかわりにおいて生きるという姿勢を自覚してるからこそ、なりたつ。

    人との関係において生きるということが、考えをのべる前提になっている」。

     主題は過去ではなく現在、ここにおいて歴史学は換骨奪胎された。

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