善悪の彼岸

  • 2019.08.01 Thursday
  • 21:29

 その男、チャーリー・マーロウにあったのは、船乗りとしてのいくばくかの経験と

未知の大陸をめぐる好奇心、そして職を得るのに必要なコネだけだった。

かくして商社に雇われた彼は勇躍コンゴへと漕ぎ出す。

 目的地が近づいていくにつれ、出会う人々がある共通の人物を口にする。

奥地の出張所で責任者を務める傑物で、その名をクルツという。象牙の入手に

剛腕を発揮する彼は「万能の天才」にして、「慈悲と、科学と、進歩と、そのほか

いろんなものの使者」、そして今、その彼が危殆に瀕しているという。

「あの河をさかのぼるのは、世界の一番初めの時代へ戻るのに似ていた。

地上で植物が氾濫し、巨大な樹木が王者として君臨していた時代のことだ。

がらんと広い河面、大いなる沈黙、入り込めそうにない密林。大気は熱く、

ねっとりと濃く、重く、澱んでいた」。

 この船路の果てには先駆者クルツが待ち受ける。目に映るものの何もかもが

今やマーロウにおいてはクルツの追体験として把握される。やがて彼はクルツに

まみえ、そしてその後、とある決断を迫られる。

 

「クルツはあの土地の悪魔どものあいだで高い地位を占めていた――これは

文字どおりの意味でだ。君らにはわからないよ。だってわかるはずないだろう

――足の下には堅い舗道で、まわりには励ましてくれたり文句を言ってきたりする

良き隣人たちがいて、肉屋と警察官がいる街を上品に歩き、醜聞の種になったり、

絞首刑になったり、狂気に陥ったりすることをひどく恐れながら小心翼々と

暮らしている、そんな君らにはね。誰にも束縛されずに歩いていく人間が、

孤独をくぐり抜け、静寂を通り抜けて、原始の世界のどんな異様な場所へ

たどり着いてしまうことがあるか、君らにわかるはずがない。その孤独は、警察官の

いない完全な孤独――静寂は、親切な隣人が世の意見を代表して警告してくれる

声が聴こえない完全な静寂だ。警察官の保護や隣人の助けといったものが

あるかないかでは大きな違いが出てくる。そういうものがなくなれば、持って

生まれた自分の力と、自信を持つ能力に頼るほかない」。

 本書の主題はこの独白をもってほぼ遺漏なく尽くされる。そしてこの引用から

フリードリッヒ・ニーチェを想起することをためらうべきいかなる理由がありえようか。

 時にそれは人種を超えた理想主義者として、時にそれは商社の命を受けた

辣腕の功利主義者として、時にそれは暴力をもって従える植民地主義者として、

クルツはいずれの瞬間においても、状況への応答主体としての己を引き受ける。

彼は決して多面的なるスフィンクスとして表象されない。永劫回帰を知悉しつつ、

クルツはクルツ、そのことを徹底的に具現する「超人」であるに過ぎない。

 

「どんな経験であれ、生で感じたままを他人に伝えるのは不可能だ――

生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味であり――捉えがたい深い本質

なんだが。不可能なんだ。人はみな独りぽっちで生きている」。

 ただし同時にマーロウは訴える。

「クルツと話を……俺は片方の靴を河に投げたが、その時不意に、それこそが

まさに俺の求めていたことだったと自覚した――クルツと話すことがね。(中略)

クルツは豊かな才能を備えた人物だったが、そのすべての才能のうち、最も顕著で

本当に存在感を持っていたのは、語る力、その言葉――表現する能力、人を

混乱させ、啓蒙する、とびきり高尚でありながら卑しむべきもの、脈打つ光の流れ、

あるいは見通せない闇の奥から発する欺瞞の流れだったんだ」。

 その「言葉」のあり方は、どこか現代的なオーラル・ヒストリアンと一脈通じる。

歴史の審判なる糾弾へと晒すでもない。正史を綴るための具を求めるでもない。

さりとて罪に目をつぶれと唱えるでもない。「不可能」性を知りながら「生の感覚」に

寄り添うこと、「誰にも束縛されずに歩いていく人間」が状況へと立ち向かった

その事実に拍手を送ること、「声」を交わす一連の過程こそが自己目的化される。

 それは言い換えれば、物語が物語であれた時代を悼む挽歌として。

 

 ドイツの巨人は間もなく狂人としてこの世を追われた。

 来るべき歴史は、「永劫回帰」のその意味を否応なしに上書きした。世界が不可視で

あるとすれば、それは単に人間の計算能力の貧弱の結果に過ぎない。行為の一切は

スクリプトとして記述される。意志なる神話はもはや横たわるべき場所を持たない。

ゆえに「超人」もそこにない。

 正論は唯一、他人を叩くための方便として存在する、そんな卑しき黄昏の時代に

誰が『闇の奥』を読み解くことができるだろう。

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  • 2019.09.27 Friday
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