Daydream Believer

  • 2019.08.06 Tuesday
  • 21:48

「強大な記憶力を研究した他の心理学者と異なって、著者は、記憶量や

その安定性を測定したり、被験者が材料の記銘と再生に用いた数々の

方法を記述することだけをしたわけではなかった。はるかに強く著者の

関心をひいたものは、別の問題だったのである。

 つまり、非常に秀でた記憶力が、人間の人格のすべての基本的な側面

――思考、想像、行動――にどのような影響を与えるのか、もし、人間の

心理生活の一つの側面である記憶力が異常に発達し、その人の心理活動の

他の側面のすべてに変化を及ぼしはじめたならば、その人間の内面的世界、

他の人々とのコミュニケーション、生活の仕方が、どのように変化しうるので

あろうか、という問題だったのである」。

 

 古くより伝わる記憶術の仕方に、「記憶の宮殿」なる方式がある。具体的な

建物や通りを脳裏に浮かべ、その暗記の対象をイメージ化して配置していく。

抽象的なことばの羅列ではなく、鮮明な画像として身体に落とし込むことで

まるで臨場したかのように記憶の定着を促すこの流儀は、印刷術の未発達な

時代の学問を支え、やがて忘れ去られた。

 本書の被験者シィーが期せずしてその伝承に辿り着いたのは、彼固有の

共感覚の導いた半ば運命だった。例えば「50ヘルツ、100デシベルの音を

与えると、シィーは、暗い背景に、赤い舌をもった褐色の条線を見る。その音の

味は、甘ずっぱいボルシチに似ており、味覚が舌全体をおおう」。数字さえも

この共感覚を作動させる。例えば2は「平べったいもので、三角の形をした、

白味ががったもので、やや灰色をしていることがよくあります。……8は、素朴な、

青みがかった乳色で、石灰に似ています」。

 音素から生じる印象と、その組み合わせによって生じる単語はしばしば彼に

耐えがたい齟齬をもたらす。共感覚に従えば「コルジイク(あげせんべい)」は、

「食物であるが、長細い形をしたカラーチ(円弧型白パン)であるはずで、

小さなすじがついていて、かならず乾いたもので」あらねばならない。語によって

もたらされる確固たるイメージは、ただししばしば現実の世界と照応しない。

 

 いみじくもスタンダールは『赤と黒』の主人公、ジュリアン・ソレルの人格に

並外れた記憶力を付与した。たまさかではない。

 脳内の像と現実のはざまを生きる、必然、シィーは「空想家」になった。

「彼の空想はあまりにも鮮明な像に変わる。そして、それらの像は彼の中に

もう一つの非常に鮮明な世界をつくり出し、彼はその世界に移り、その世界の

実在性を経験するのである。夢想家も、現実に存在するものと、『見ている』

ものとの境を失うのである……」。

 幼いシィーは急いで学校に行かねばばならない。動転したシィーはそこで

イメージの世界へと誘われる。「彼」が現れて、てきぱきと支度し学校へ向かう。

「私は家に残り、『彼』は出かけたのだ。ところが、突然父が部屋に入ってきた。

『こんなに遅いのに、おまえはまだ学校に出かけないのか!』」。

「私」と「彼」のギャップは、生涯にわたり続く。

「鮮明な像は、現実と一致しないことがしばしばで、このような像に頼ることに

慣れていたシィーは、現実の事態ではしばしば手も足も出なくなった」。

「私」が現実として経験する世界はシィーにとってはあくまで「一時的」なもの、

「彼」として「見る」世界の到来を待ち、「そして行ってしまう いつも」。

「本当の人生、それは別のものです。すべては夢の中にあって、仕事の中には

ありません。(中略)いつも、何かを待っているのです」。

 

 本書を特殊な共感覚や記憶力をめぐる物語として読むことはもはやできない。

 相対化され尽くした「私」と「彼」の断絶を生きる、近代の果てを具現する肖像を

「見る」、鏡のように、この視線は間もなく「私」を「見る」経験として跳ね返る。

ドン・キホーテよろしく、各々にできるのは各々のイメージをさまようことだけ。

「私」と「私」の果てなき乱反射をもって人はそれを「現実」と呼ぶ。

 ただし、それを見た者はまだ誰もいない。

スポンサーサイト

  • 2019.09.27 Friday
  • 21:48
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック