生成文法

  • 2020.02.16 Sunday
  • 20:23
評価:
インゲボルク・バッハマン
岩波書店
¥ 946
(2016-01-16)

「人生で三十番目の年を迎えても、人々は彼を若者と見なし続けるだろう。

しかし彼自身は、何か自分に変化を見いだすわけではないにせよ、確信が

持てなくなってくる。自分には、もう若いと主張する資格はないような気が

するのだ。(中略)それまでの彼は、日々単純に生きていた。毎日何かしら

違うことを試み、悪意を持たずにいた。自分にたくさんの可能性を見いだし、

たとえば、自分は何にでもなれると思っていた。(中略)いまのように、

三十歳を前にして幕が上がる瞬間が来ることを、彼はこれまで一瞬たりとも

恐れなかった。『アクション』の声がかかり、自分がほんとうに何を考え、

何ができるのかを示さなければならないこと。そして、自分にとってほんとうに

大切なものは何か、告白しなければならないこと。千と一つあった可能性のうち、

ひょっとしたら千の可能性をすでに浪費してしまったこと、あるいは、

自分に残るのはどっちみち一つだけなので、千の可能性を無駄にせざるを

得なかったことなど、彼はこれまで考えもしなかった。

 彼は考えもしなかった……」。

 

 果たしてこの作品群を詩と呼ぶべきか、小説と呼ぶべきか、当惑を抱かずには

いられない散文体。あえて挑発的な物言いをすれば、書き散らかされた何か、

とりわけ表題作「三十歳」については。時間経過らしきものは刻まれてはいる、

放浪の地も転々と移りはする、けれども実のところ、何が変わっているでもない。

 たとえば、「彼」の若き日々を振り返ってのパートタイマーが羅列される。

「食事と引き替えに生徒たちに補習授業をし、新聞を売り、一時間五シリングで

雪かきをし、合間にソクラテス以前の哲学を勉強した。(中略)新聞社では

歯科用のドリルについて、双子の研究について、シュテファン大聖堂の

修復作業についてルポを書かされた」。

 あるいは原著でならば、韻律なりの文法的な必然があるのかもしれない、

だがあったとしてその程度、「彼」の人生にそれ以上の何があるでもない。

全編を通じて展開されるものといえば「可能性」のサンプルに過ぎない。

果たしてランダムピックのどこに物語を認めることができるだろう。

 ただし、奇しくもその点が、「三十歳」にただひとつの物語を宿す。

「新しい言葉がなければ、新しい世界もない」。

 本作はただこの宣言を引き出すべく綴られる。既存の「言葉」の規定する

「千と一つあった可能性」、つまりは既存の「世界」、彼があてどなくさまよう

「世界」ではなく、「新しい言葉」、「新しい世界」を欲する。

 

 そしてその期待は裏切られる。

「自分は何にでもなれる」、つまり、「何か」にしかなれないのだから。

 ある意味で、本作は「彼」と「ぼく」を、そしてあるいは友人モルの存在さえ、

不規則な仕方で入れ替えることで、その点を鮮やかに証明してみせる。

「ぼく」だろうか、「彼」だろうが、つまり「何か」でしかないのだから。

何をどこに代入しようとも、それは文法のはしためを決して超えない。

 人間の性質が否応なく「言葉」を規定する、今改めてN.チョムスキーの

「生成文法」論を引き出いに出してみる。E.カントのカテゴリー論とも

プラトンのイデア論とも異なって、彼の学術的な急進性の一つは、

「言葉」を通じて規定される人間の側ではなくむしろ、「言葉」の側にこそ

自律性を認めたことにある。

 三十歳の「彼」の呻吟は、「可能性」をいかなる仕方においても変えない。

ただひとつ、「言葉」が変われば「世界」も変わる。

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