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  • 2020.05.10 Sunday

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    俺らこんな村いやだ

    • 2020.03.16 Monday
    • 21:17

    「ここじゃない、どこか遠くへ行きたい。だけど、それがどこにもないこと。……

    俺も昔、それを知ってた。だけど、大丈夫なんだ。今、どれだけおかしくても、

    そのうちちゃんとうまくいく。気づいた頃には、知らないうちに望んでいた

    “遠く”を自分が手にできたことを知る、そんな時が来る」。

     多少の叙述トリックによる目先の違いこそあれ、本書の作品群のテーマは、

    「道の先」において提示されるこのテーゼを限りなく通底する。そしてこの主題に

    敷衍して、ほぼ共通の問題を露呈する点においても同工異曲の相を持つ。

    「実際の姿より、語る実態のない“東京”の方が、より“東京”っぽいんじゃないかな。

    漢字で書く“東京”じゃなくて、カタカナで“トーキョー”。軽くて、ちょっとニセモノ

    っぽい響き」。

     どの作品をめくっても、描き出される「ここ」といえばそのことごとくが「語る実態の

    ない」「ここ」、あるいは筆者に倣って「ココ」と表記すべきか。より正確には、そして

    より罪深くは、その風景を描き出す気概すら持とうとはしないために、「語る実態」を

    持ち得ない「ココ」へと堕落せしめられてしまった。

    「気持ちがギスギズしていて、見るもの、聞くもの全てが、怒りに結びついてしまう」。

     こんなあからさまな文字列を並べて横着する前になすべきは、「見るもの、聞くもの

    全て」を切り出すことで、「ギスギス」や「怒り」を読み手の側に喚起することでは

    なかろうか。それを例えば「F県」や「U市」と呼ぼうがそんなことはどうでもいい、

    ただし、仮にも『ロードムービー』なる表題を掲げておきながら、「ロード」をまるで

    記述しようとしない、その態度はもはや論外としか言えない。

    「ここ」が「ココ」でしかないがために孕んでしまう構造的な障害は、たぶん筆者が

    その風土に重ねて描き出そうとしているだろう、スクールカーストにおける内と外の

    問題をも平板化して、定型的、「カタカナ」的記号へと変えてしまう。

     不機嫌な人間が世界を不機嫌に捉えるのか、不機嫌な世界が人間を不機嫌に

    させるのか、鶏が先か、卵が先か、ではない、同一の表象だ。

     

    「ここ」が「ココ」なら、「わたし」は「ワタシ」。

     おそらく筆者の意図するところではないだろうが、ある面、真を衝いてはいる。

    「軽くて、ちょっとニセモノっぽい」。

     ちょっとどころでないにせよ、本書の要約としてこれ以上の表現があるだろうか。

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    • 2020.05.10 Sunday
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