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    「がらんどう」

    • 2020.04.21 Tuesday
    • 20:56

     駆け落ちた姉が身ごもって十余年、その赤子が大きな腹を抱えて郷里に戻る。

    「秋幸には、そっくりそのままかつてあったことを芝居のように演じなおしている

    気がした。いや、自分が、かつて十六年前の兄と同じ役を振り当てられている

    気がした」。

     幻聴とアルコールに苦しむその兄は「おれたちを棄てた、殺してやる」と

    包丁を手に母と秋幸を脅し、そして間もなく、桃の節句に首を吊った。

     

     秋幸は五人兄弟の末子にして、ただひとりの種違い。

    「人が様々な噂をしていたのだった。その噂のひとつひとつに自分がかかずらって

    いるのが不思議だった。おれはここ在る、今、在る、秋幸はそう思った。だが、

    人夫たち、近隣の人間ども、いや母や義父、姉たちの関係の、あの、人の疎まれ

    憎まれ、そして別の者には畏れられうやまわれた男がつくった二十六歳になる

    子供である気がしたのだった。『あの男はどこぞの王様みたいにふんぞりかえっとる

    わだ』いつぞや、姉の美恵はそう言ってからかった。『蠅の糞みたいな王様かい』

    秋幸は言った。その蠅の王たる男にことごとくは原因したのだった」。

     

    「片眼片脚」、父殺し、近親相姦……『オイディプス』に通うのは、単にプロット面に

    留まらない。それは預言か、はたまた虚言か、女の持ち込む噂がさらなる噂を生む、

    リフレインが叫んでる、そんな増幅装置としての路地、すなわちコロス。

     実際、『枯木灘』にも『オイディプス』にも英雄などいない。そこにあるのはただ

    噂に、コロスに、翻弄される「がらんどう」の姿。これは断じて秋幸の物語ではない、

    すべて物語はコロスの中にしかないのだから。

     話すは離す。血に基づく親和の出来事は時に痴を交え噂として話されることで

    原形を離れ、地に憑依する神話へと変わる。騙りを語り、語りを騙りと書き換える。

    火によって路地は焼かれようとも、碑をもって噂はうたかたを逃れ、日の下でかくして

    性器は石碑となってその不滅を獲得する。熊野の麓、聖は性より生成する。

     

     情緒を増長させる、その方法としてのあえての冗長。

     あまりにしばしば、ぎこちない仕方で回想が挟み込まれる。それはすなわち、

    秋幸が噂の階層の中に辛うじて生を見出す、その存在のありさまを反映する。

    同じエピソードを幾度となく聞き、果たして既視感は既成事実へと変わる。

    過去の真相を求むべき深層などどこにもなくて、ただ噂のみが繰り返される。

    コロスのロゴス、コロスが殺す、路地のロジック。やがて気づくだろう。

    「竹原でもない、西村でもない、まして浜村秋幸ではない、路地の秋幸だった」。

     秋幸を築くのは血ではなく、地。もとより、土から作られたアダムは、吐息を

    吹き込まれることで生を得た。神の使者たるコロスの噂で「がらんどう」が埋まる、

    埋まるを通じて人は生まる。地で知を洗う。噂に聞こゆ昔はかくして具体を遣わす。

     

    「働き出して日がやっと自分の体を染めるのを秋幸は感じた。汗が皮膚の代わりに

    一枚膜を張り、それがかすかな風を感じるのだった。自分の影が土の上に伸び、

    その土をつるはしで掘る。シャベルですくう。呼吸の音が、ただ腕と腹の筋肉だけの

    がらんどうの体腔から、日にあぶられた土の匂いのする空気、めくれあがる土に

    共鳴した。土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の

    風景が呼吸していた。秋幸は、その働いている体の中がただ穴のようにあいた

    自分が、昔を持ち今を持ってしまうのが不思議に思えた。昔のことなど切って

    捨ててしまいたい。いや、土方をやっている秋幸には、昔のことなど何もなかった。

    今、働く。今、つるはしで土を掘る。シャベルですくう。つるはしが秋幸だった。

    シャベルが秋幸だった。めくれあがった土、地中に埋もれたために濡れたように

    黒い石、葉を風に震わせる草、その山に何年、何百年生えているのか判別つかない

    ほど空にのびて枝を張った杉の大木、それらすべてが秋幸だった。秋幸は土方を

    しながら、その風景に染め上げられるのが好きだった。セミが鳴いていた。幾つもの

    鳴き声が重なり、うねり、ある時、不意に鳴き止む。そしてまた一匹がおずおずと

    鳴きはじめ、声が重なりはじめる。汗が額からまぶたに流れ落ち真珠のように

    ぶらさがる。体が焼け焦げている気がした」。

     文体が、死すべき肉の「がらんどう」でしかあれない運命を説き伏せる。

     蠅の王、風を追う。太陽の下、すべては空しい。

     肉らしい、すなわち、憎らしい。

     

     オイディプス、エディプス・コンプレックス、ポルノを芸術と強弁すべく誤読された

    デウス・エクス・マキナとしてのS.フロイトの話ではなく。「がらんどう」、いみじくも。

     我思う、ゆえに我なし。

     ほとんど偶然的な、そしてまさしく無意識的な、暗黙裡のこの喚起をもって、

    オーストリアン・ジャンキーは近代の桎梏を、漆黒を解き放つ。

     

     すべての神は紙より出ずる。

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