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    存在と時間

    • 2020.05.05 Tuesday
    • 22:43

    「本書は、実のところ、喫茶店の本ではない。まず、これは喫茶店案内ではないし、

    経営の指南書でもない。それならば、喫茶店文化史ではないのか、と問われれば、

    結果的にそういう性格になったことを否定するつもりはないが、文化史を編むことが

    目的ではなかった。そもそも、著者自身、ほとんど喫茶店というものに入らないし、

    本書のためにとりたてて喫茶店を訪問調査するということもしなかった。要するに、

    現実の喫茶店という存在あるいは現象には関わっていないのである。

     本書はひとつのコレクションである。子どもたちが牛乳瓶の蓋やきれいな小石を

    集めるのとまったく異ならない。喫茶店という文字を見つけると嬉しくなって

    メモしていく。喫茶店の写真や絵もできるだけ手許にためこんでいく。そういった

    遊びの延長にできあがったのがこの本なのである」。

     

     良くも悪くも、この前書きにはいかなる嘘偽りもない。

     原著は2002年、今ならばアーカイヴスのスキャンとシークではかどりそうだが、

    当時のITにそこまでの水準はたぶん期待できないだろう。つまり、注に付された

    引用元を本書のための参考文献とも思わずひたすらに読んではメモしていき、

    かくして完成に至ったというのは本当なのだろう。他人からお題として喫茶店と

    振られて、やみくもに渉猟するとなれば苦行、ただし筆者にとっては「遊び」。

     まさに「遊びの延長」、そしてそれこそが喫茶店の機能に他ならないことを

    知らされる。喫茶店に集うことで作家たりえた者たちが、その場所そのものを

    作品へと変えていく。文壇などという高尚さはそこにない。テキストという仕方で

    後世に何かを残す資格を得た者たちが、結果として、集いそのものを自己目的化

    するように語り継ぐ。「遊び」でしかないようなものごとが、何かの偶然で、

    それこそ筆者の「遊び」を通じて掘り出されてしまう。

     なぜかしばしば、眼差しは現在をすり抜けて過去を目指す。

     時間なるものがそうさせる。

     

    「カフェーの女給」と永井荷風先生あたりが仰ればうっかり風流の香気も漂うが、

    つまるところ今で言うキャバ嬢かコスプレメイド。そこで何をしていたと言って

    山田耕筰は「金もないのに特別室へ這入」り、菊池寛は「たまに来て女給を張る」。

    現代ならば炎上用の燃料を別として誰も見向きもしない。

     所詮、この程度の連中だ。彼らの底が浅いのではない、人間の底が浅いのだ。

    でも、時間という魔力がそこにあたかも何かがあるかのように錯覚させてしまう。

     喫茶店はつまり、時間を商っていた。

     アンディ・ウォーホルに言わせれば、誰しもが15分だけなら有名人になれる。

    そして現実に訪れた賞味期限は3分間がいいところだった。

     かくして喫茶店、いやトポス、いや「遊び」の使命は終わった。

     

     消費者にできるのは消費だけ、「遊び」を決して知り得ない。

     喫茶店を襲うだろうコロナ禍はおそらく加速主義の具現に過ぎない。

    「あのとき こんな店があった」。

     はるか昔に、売るべき時間をなくしたときに、既に過去形で語られるべき存在で

    ある運命は約束されていた。

     言い換える。時間なる概念そのものが既に追憶の昔へと消えた。

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