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    The Swerve

    • 2020.05.05 Tuesday
    • 22:47

     1600年、その一枚がすべてを変えた。

    「暗い部屋のような空間に、画面右からキリストが弟子とともに入ってきて、レビに

    呼びかけています。キリストとともに強い光が差し込んで、壁に斜めの影を作って

    います。テーブルには五人の男がいて、そのうちの三人はキリストを見つめています。

    この絵の主人公であるレビ、後のマタイはどこにいるのでしょうか。真ん中の髭の男?

    その隣のうつむく若者? どちらが正解でしょうか。この二人のどちらがマタイかと

    いう点で、見る人や研究者によっていまだに意見が分かれているのです。つまり

    この絵は、美術史の教科書に必ず載っている世紀の名画でありながら、主人公が

    はっきりしない珍しい絵なのです」。

     

     このいわゆる「マタイ問題」に筆者が言及するのは、これがはじめてではない。

    というか、私自身そうした議論の存在を知ったのが筆者の過去作を通じてだった。

    400年以上前に死没した人物について、ましてやそれが美術史の花形ともなれば、

    情報が更新される余地もそう残されてはおらず、然らば焼き直しも止むを得まい。

     と、思いきや。

    「カラヴァッジョの画面では、誰しもがマタイでありうるのです。と同時にこの絵を

    見上げる観者もいつでもマタイになりうる」。

     この回答が、カラヴァッジョ研究としての正統性をどこまで担保しているのかを

    私は知らない。たぶん逸脱、でも、美しい。絵を語ることはつまり、「観者」としての

    己を語ることに他ならない、本書を通じてそのことを痛々しいほどさらけ出す。

     professionの語意、告白の中に変じて職業的使命を読む。

     それはあるいは描かれているものそれ自体の問題から、「観者」あるいは

    「観る」という行為そのものへと振り切った暴挙でしかないのかもしれない。

    しかし、このコペルニクス的転回の引き受けと召命は限りなく似ている。

    「カラヴァッジョの画面にも、奇蹟や神は存在していないと見ることもできます。

    見ようによっては、それらは単なる埋葬や処刑や落馬の情景に過ぎないのです。

    神の存在や奇蹟に気づくか気づかぬかは、観者に委ねられているといえましょう」。

     溢れ返る死の匂いが、時に遍在の希望へと転じる。

     こうして束の間、美術史が美術私と交差する。

     死者も、生者も、誰しもが《聖マタイの召命》の中にいる。

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