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    バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

    • 2016.10.31 Monday
    • 21:49

    「日本周辺の島々をよく見れば、断崖絶壁の大東諸島ばかりでなく、同様に人を

    寄せ付けない鳥島、尖状で岩だらけの尖閣諸島、逆にあまりに低平で高潮に

    襲われれば、逃げ場のない南鳥島など、人間の居住が不可能と思われる島々が

    多いことに気づく。……どうして早くから日本人は進出したのか、今やっと

    『そうだったのか』という答えが得られた」。

     

     アホウドリがもたらす富を求めて乗り出した「日本の大航海時代」、明治の時代とて

    まだこんな物語を隠していたのか、とひたすら感嘆させられる。

     その存在すらも定かならぬ未知の島々に賭ける本書の主役は、いかにもいかがわしい

    山師たち。開拓や漁業に名を借りて事業の許可を得るも、そんなものはどこへやら、

    いたいけな生贄たちを撲殺しては羽毛をむしり焼け太る。

    「南洋の豊土」とのことばに躍らされて降り立った労働者に待ち受けるは劣悪な環境、

    さらにはその島を噴火が襲う。当然、逃げ場などどこにもない。「全員が行方不明のまま

    死亡とされた……世間では、この災害は『アホウドリのたたり』という噂も流れた」。

    それでも屈しないのが企業家というもの、わずか3か月後には役所に届を提出し、

    翌年には労働者を投入し乱獲を再開する。

     アホウドリをめぐる幻のミッドウェイ、ウェーク海戦。鳥を求めてその地に留まる日本人を

    めぐり、すわ占領か、と危機感を募らせる米海軍。先占を訴えることはないとの理解から

    一度は緊張が収まるも、無残な死骸を前にして、「残酷な日本人への非難が展開」、

    こうした動きが後に「今日の世界最大の海洋自然保護地域である北西ハワイ諸島の

    世界遺産『パパハナウモクアケア』(2010年)となる」。

     

     未踏の地をめぐる胸躍る帝国主義的英雄伝とて、真相を問うてみればいつも惨め。

     後にグアノが含む豊富なリンを求めて、海軍が国策として進出を主導することになるが、

    大航海に先鞭をつけたのは富を夢見る商人の果てなき欲望、「バード・ラッシュ」との

    見事な命名よろしく、その姿は例えばアメリカ開拓史を想起させずにはいない。

     ダイナミックなのか、みすぼらしいのか。

     いずれにしても、裏日本史を見事に露わにしてみせた白眉の一冊。

    「禁じられた遊び」

    • 2016.10.29 Saturday
    • 19:54

    「この本は、意見や推量をもとに書いたものではなく、音楽の音がどのように作り出される

    のか、その音と音が組み合わさって曲ができると何が起こるのかという事実にもとづいて

    書いたものだ。多くの人が、音楽は芸術だけから成り立つと思っているが、それは正しくない。

    論理学の規則や、工学、物理学が基盤になり、音楽の創造性を支えている。過去数千年に

    おける音楽と楽器の発展は、芸術と科学が相互に影響を及ぼし合って成し得たものなのだ」。

     

     そもそもオクターブって何、和音って何、といった素朴な基礎知識を分かりやすく

    論じる、ということにおいてはとてもよくできたテキストとは思う。

     音量の認知においては単純な1+1=2は成り立たず、「楽器10台の音量は1台の音量の

    2倍しかなく、100台の音量は1台の音量のわずか4倍になる」仕組みなんてことを

    知覚の生理の観点から説く手腕なども見事。

     

     ただし、こうした邦題の通りの「科学」要素がそこまで押し出されているわけでもない点が

    総じてみればいささか物足りない、との感を与えることは否めない。実践知としての音楽の

    セオリーを、一風変わった実験を通じて、認知心理学や人間工学等の見地から反証する、という

    テイストを期待していた私にとっては肩すかし。

     稀にもそれらしいことをしてくれている、ホ長調は「明るく楽しく活発」といった、調と気分の

    関連性をめぐる議論にしても、実験の手法が粗雑に過ぎて、残念ながら検証と言うには程遠い。

    そもそもの対照群としての「単純で陽気な曲」と「ドラマティックな曲」をどう選定したのか、

    それ自体の定義を問うことこそが実験の意義のはず、と首を傾げてしまう。

     

     そして、隙あらば挟み込まれるイングリッシュ・ジョークはもれなくだだ滑り。「どんなに

    小さな声でも、どんなに音痴でも構わない。どのみちわたしには聞こえないのだから」とか、

    「アドバイスを実践してリッチになったら、年収の5パーセントを『ジョン・パウエル』宛ての

    小切手にして送ってほしい。クレジットカードでもOK」といった具合に。つまらなすぎて

    そのハートの強さが面白い、という境地へと達するほどに突き抜けているわけでもない。

     

     オールド・スクールの俗説を覆す、というニュアンスを私が表題から誤読してしまった

    だけの話で、ネガティヴな評が長くはなったが、入門書としてはとてもよくできている。

     逆に言えば、それは経験知としての音楽が極めてよく磨き抜かれている、ということの

    裏返しなのかもしれない。

    Hillary's husband

    • 2016.10.29 Saturday
    • 19:48

    「スキャンダルにまみれた恥辱の大統領という姿は、クリントンという政治家の一面に

    過ぎない。ビル・クリントンという政治家には、ほかにもいくつもの顔が存在するからである。

     たとえば、クリントンは南部アーカンソー州のホープという小さな町の決して裕福では

    ない家庭から身を起こして政治家を志し、州知事となり、ついには大統領にのし上がった。

    クリントンにはアメリカン・ドリームを実現させた人物という顔がある。

     レーガン以降の共和党の一大攻勢の前に守勢に回る一方であった民主党内の新勢力、

    ニュー・デモクラットの指導者となり、民主党の軸足を定め直した救世主という顔も

    忘れてはならない。

     そして何よりも、内政・外交両面で冷戦後に停滞していたアメリカの立て直しに辣腕を

    ふるった優れた指導者という顔がある」。

     

     先の大統領候補によるテレビ討論会でも、妻の急所として夫の「適切でない関係」が

    執拗に蒸し返された点に象徴されるように、現在進行形の世界情勢とリンクさせずして

    ビル・クリントンを語るということはどうやら難しいことらしい。記述の端々に、今日へと

    紐づけられた問題意識の形跡があからさまに見て取れる。

     ただし、本作がどうにも物足りないのは、後の世における政策検証、フィード・バックが

    さして反映されているようには感じられないことにある。在任中にオン・タイムでビルの

    出来事を記述してみても、同様のテキストは作成可能だったのではなかろうか、

    どうにもそう思えてならない。

     

     そしていかにも気に食わないのは、「彼の政治家としての成功は、偏に彼の人格的

    優越によるところが大きい」などという荒唐無稽を総括に持ってくる点にある。

     すべて成功は合理性に由来し、失敗は人間性に由来する。

     人間とかいう計算可能コンテンツの最適化としての政治において、その入れ替え可能な

    粗悪品の操作というコマンド、スクリプト入力の一体どこに「人格」(笑)という寝言の余地が

    あるというのか、まったくもって理解不能。

     トランプ対ヒラリーというクズのインフレ・コンペティションが示すように、嘲笑と侮蔑を

    引き起こす機能という以外もはやいかなる実効性をも持ち得ない、こんな稚拙を極めた

    ショービズ・カルトが政治分析へと持ち込まれ流通してしまうということ自体が、まことに

    憂慮すべき事態、と言う他ない。

    「また来てくれる?」

    • 2016.10.27 Thursday
    • 21:47

     本作のヒロイン・フィオーナは、プライヴェートでは熟年離婚の危機に立たされる

    裁判所の判事、そこに一件の急を要する案件が持ち込まれる。

     対象となるのは成人を数か月後に控えた少年A、白血病を発症、直ちに輸血を

    施せば難を逃れる、ただし当人と両親は信仰上の理由から輸血を断固として拒否。

    未成年ゆえに、医療の選択権に制限のつくことに目をつけた病院側は、彼の命を

    救うべく、司法による許可を求めた。

     限られる時間の中、当人の判断主体たる適格、通称ギリック能力の有無を試すべく、

    フィオーナは直接病院を訪れ、少年と対話を交わす。

    「ごく普通の人間的なこと」、絶対的に肯定されるべきものとしての命の尊厳か、

    信教の自由、インフォームド・チョイスの権利か。

     

     例えばクラシック音楽、例えば古典文学、時を超え、場を超え、あたかも普遍的な

    価値の実在を諭すかのように、古き良き教養がそこかしこに差し挟まれる。

     教養は唯一、強要を通じて成り立つ。

    「ごく普通の人間的なこと」の非自明性が打ち砕かれた世界の中で、分かち合いの

    拒絶の象徴的な事例としてのBrexitの当地を舞台に、空転し続けるそのメッセージの

    いちいちがあまりにしんどい。

     

     価値判断についての是非はさておき。

     手法として、単純に本作のつくりはうまくない。

     エピソードや追憶が至るところに挿入される。比較対照のサンプルとして、寓意として、

    背景の肉づけとして、そうした描写に託そうとした意味合いはだいたい分かるのだが、

    不自然で冗長で説明的にすぎる結果、それらのことごとくがフィオーナの意識の流れを、

    ひいては物語本編の筋書きを分断していく。

    『甘美なる作戦』といい、イアン・マキューアン、どんどん下手になっている。

     

    「福祉、福利は社会的なものである。どんなこどもも離れ小島ではない」。

     こんなことばでさえも、承認を満足に取りつけられない。そしてそれゆえ、主題化して

    小説にしたためたところで、空洞化した「社会」には応答主体たる能力などもはやない。

     だからこそ、彼も彼女も、誰かの中に最後のよすがを求めずにはいられない。

     痛すぎる。

    Ngram Viewer

    • 2016.10.25 Tuesday
    • 20:33
    評価:
    エレツ エイデン,ジャン=バティースト ミシェル
    草思社
    ¥ 2,376
    (2016-02-18)

    「本書のテーマは、われわれの研究グループが歴史上の変化を定量的に示すことを

    目指して挑んだ7年間の取り組みである。この取り組みから生まれたのが、新種の

    『観測装置』と言語、文化、歴史の新たな研究手法で、いっぷう変わっているが、

    病みつきになるほど魅力的なこの手法は、『カルチャロミクス』の名で呼ばれている。

     以下の章では、カルチャロミクスを利用して知りえた事実をすべて提示する。

    紹介するのは、使用したnグラムデータ(ngram data)から明らかになった結果であり、

    具体的には、英語の文法の変化、辞書に誤りが掲載される経緯、名声を獲得していく

    過程、政府による思想抑圧の手法、社会全体としての学習と忘却の過程を取り上げ、

    人間の文化は一見すると明確な変化の仕方をし、人びとが集団として共有する未来の

    様相を予測できるように見える場合があることにも若干触れる」。

     

    「世界の情報を組織化する」。

     かくなるミッションの下、立ち上げられたgoogle社。当然に書籍もそのターゲット。

    なるほど、それらをデジタルデータ化する技術は既に確立された。

     しかしそこにはひとつの問題が横たわる。

    「とてもいい計画だと思うが、どうすれば著作権を侵害せずにやれると言うのかね?」

     そのトラブルを回避する手段、例えばひとつには「グーグル・ブックス中での

    単語の出現頻度提示だけをしたらどうだろう? もっと正確に言えば、われわれが

    思いついたのは、グーグル・ブックスをもとに、英語の本に登場するすべての語や

    句の記録一式を作り出すことだった」。

     連なりをほどいて、「nグラム」として分解する。

     個々のテキストの論旨も何も分からない? なるほど一理ある。

     しかし、「nグラム」の束だからこそ、はじめて見えるものもある。

     

     例えば不規則動詞、「thriveには繁栄するという意味があるのに、過去形のthrove

    廃れてしまったのはどうしてなのか? drive offには走り去るという意味があるのに、

    driveの過去形のdroveがそのまま残っている理由はどこにあるのだろう?」

     あれやこれやと考えてみるのも悪くはない。けれども、過去の実践からその盛衰を

    探ってみるのはいかにも効果的。かつてならば、図書館の蔵書をひたすらに当たるしか

    方法はなかっただろう、そしてそれはあまりに無謀な試み、でも、今ならばngram

    かけてみればいい。

     

     そして、この使用頻度の分析は時に思わぬものをも浮上させる。

     例えばナチス・ドイツにおける、“Marc Chagall”、例えばマッカーシズム下における

    Dalton Trumbo”、あるいは中国における「天安門」――「このような語彙の欠落は、

    出現頻度の統計的データに顕著に現われる場合が多いので、何が抑圧の対象に

    なっているのかを解明する一助として、ビッグデータの『数の力』を利用することができる」。

     

     別に、各々の著者がテキストを綴ることは定量化の具を提供するためではない。

     しかし、定性的なレンズだけでは見えてこないものが、定量化という手段を通じて

    はじめて把握されることだってある。

     数字へと変換されることは、必ずしも無味乾燥を意味しない。

     論より証拠、books.google.com/ngramsにアクセスしてみればいい。これほどに胸の高鳴る

    経験なんてそうはない。

    「ときには図式で考えたいこともある。じっくりといい本を読みたいこともある」。

     少なくとも現状、人間にはこのいずれかを選ぶ自由くらいは与えられているようだ。

    そしてもうひとつ、このふたつを貼り合わせる自由も。

     定量化はビッグデータ、コンピュータに振り回される未来のみを志向しない。