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    アンチャーテッド

    • 2016.11.25 Friday
    • 21:27

     本書は、マレーシア「サバ大学の教員として過ごした3年間を軸として『熱帯地域の

    絶滅危惧動物』に着目する。

     現在、哺乳類5429種の26%、さらに熱帯雨林に生息する哺乳類では42%が絶滅の

    危機に瀕しているといわれている。彼らの生態や行動、遺伝に関する情報を明らかにし、

    生息地の現状を正しく理解することは、彼らとその生息地の保全を進めるうえで

    必要不可欠である。

     そこで本書では、熱帯地域に生息する絶滅危惧動物の現状と保全アプローチについて、

    5回の集中講義で紹介するというイメージで書くことにした」。

     

     数組のつがいを確保できれば、ひとまず絶滅の危機は回避できる、わけではない。

    「集団サイズが極端に小さくなると、血縁の近い個体どうしの……『近親交配imbreeding』

    起こり、劣性致死遺伝子の発現率が上昇し……繁殖率や繁殖年齢までの生存率といった

    適応度(fitness:繁殖成功度ともいう)の低い個体割合が増加する。……また一般に、

    個体数が減少すると、雌雄の出会う確率も減少する。このような状況に陥ることで、その

    集団のサイズはさらに小さくなる」。

     

     こんな気の滅入るような、「絶滅の渦」ばかりが本書の話題となるものではない。

     例えば、生体の維持に不可欠なミネラル補充を図る「塩場」の観察記録。そこを訪れる

    意外な訪問者、オランウータン、しかも頻繁に、わざわざ木から降りて。さらに仔細に

    眺めてみれば、単に塩を求めるだけでなく、出会いの場であることさえも見えてくる。

     

     トラッキング・システムやカメラなど、調査にはもちろん、現代的な技術も持ち込まれる。

    そして例えばDNAをめぐるテクニックなども。

     野生のウシ、ボルネオバンテンの場合。材料となる糞を求めて野に入る。そして解析。

    限られた情報とはいえ、判明する意外な事実、旧来の系統樹が書き換えられる。

     

     どうしようもなく失われゆく世界の記録としてみれば暗鬱。

     ただし、そうした世界に分け入る冒険の記録としてみれば胸躍る。

    「自然」に委ねれば絶滅の一途を辿るだけ。一縷の望みはしばしば人為下での飼育繁殖。

    そんな現代における「自然」と人間のあり方にも目は向かう。

     とはいえ本書の焦点は、罪深くもやはり楽しいフィールド・ワーク。

     ひとまずは、そうした興味を駆り立ててくれる前向きなテキスト。

    「だが何より重要なのは、僕たちが正直で有名だったことだ」

    • 2016.11.25 Friday
    • 21:19
    評価:
    ウィリアム サローヤン
    新潮社
    ¥ 562
    (2016-03-27)

     筆者自身によるまえがきが述べるに、「作者はこれら快い記憶を、1915年から25年に

    かけての(すなわち彼が7歳であり一人の個別の人間として世界に棲みはじめた

    時期から、17歳になり生まれ育った谷間を捨て外の世界へ向かった時期までの)

    カリフォルニア州フレズノの世界に返し、その年月その地に生きた家族の面々に返そうと

    思う。すなわち、滑稽なる大きな世界を包含した醜い小さな町に返し、全人類を包含した

    誇り高き怒れるサローヤン家に返すのである。本書のいかなる人物も、生者死者を問わず

    現実の人間をそのままに描いたものではないが、さりとて本書のどの人物も虚構の産物

    ではない。……これが私たち一族にとって真であるならおそらくほかのすべての人に

    とっても真であるはずであり、それでいいのだと作者は考える」。

     

     古き、ただし良きか悪しきかは知れない、そんな追憶のエッセイタッチ。

     例えば「僕のおじさんのメリクは、史上ほぼ最低の農場主」、あたかもアメリカ開拓史、

    けれども、既にトラクターも汲み取りポンプもある時代の出来事、不毛の砂漠を買い上げて

    ザクロの栽培に一獲千金の夢を賭する。植えつけから4年、ようやく花が咲き、そこから

    さらに2年、何とか収穫にこぎつける。「どれも相当に情けない見かけのザクロ」を箱詰めし

    いざ出荷、一箱1ドルでも買い手がつかない。業者に不満の電話を入れる。その経費17ドル。

    かくして11箱は手つかずのままメリクのもとに戻り、「次の年、おじさんはもう土地の代金を

    払えなかった。おじさんは土地を買った男に権利書を返した」。

     

     いかにも市井の社会風刺。

    「偉大さの秘訣とは、ヨガによればすべての人間の中にある神秘的な活力を自分の内に

    解き放つことなのだ」とのおじのことばを信じ、瞑想に没入するアラムに運動会が訪れる。

    「そして僕は走り出した――運動競技の歴史上かつてなかったと僕にはわかる

    すさまじい速度で。……自分の中で50ヤード走を50回走ってから、僕はようやく、ほかの

    走者たちをどれくらい引き離したかを見てみようと目を開けた。……三人の男の子が僕の

    4ヤード前を走っていて、ますます遠ざかりつつあった」。

     あるいは教会の聖歌隊にスカウトされたアラムと女性信者との「取り引き」、かくして

    「私がいままでに聴いた誰よりもクリスチャンらしい声」は一回1ドルで買われる。

     

     技術的に見れば、案外うまい。

     章ごとにそれなりの落としどころを持って、首尾よくきれいにまとまる。

     それは裏返してみれば、描写が全き「虚構の産物」であることの証なのかもしれない。

     

     本書を貫く信念、「私たち一族にとって真であるならおそらくほかのすべての人に

    とっても真であるはず」の何か。

     

      じゃあ言葉なんて何になるの?

      たいていは大して役に立たないのよ。たいていはほんとに言いたいことを隠すか、

     知らせたくないことを隠すかくらいしかできないのよ。

     

     反知性主義に少なからず似通った、愚昧ゆえにこその純粋性への幸福な思い込み、

    うんざりするような。

     そんなアメリカン・マインドをのっぺりと描き出した一冊。

    love the world

    • 2016.11.20 Sunday
    • 15:03
    評価:
    舞城 王太郎
    新潮社
    ¥ 1,620
    (2015-05-29)

    「私のジャッジは不必要だし、私という存在はどうでもいいので、声を沈める。あなたに

    寄り添う。あなたを見つめる」。

     その主語が、「私」‐「あなた」、「俺」‐「君」、「私」‐「あんた」のいずれを取るにせよ、

    このストーカーじみた観察形式を通じて、中島さおり、堀江果歩、中村悟堂をめぐる

    語りが本書において展開される。

    「綺麗な子だ。……胸がうーってなるほど可愛いのだ」。

    「綺麗」や「可愛い」をシェアするための第三者的客観性などもはやない、だから、

    「私のジャッジは不必要」との言明とは裏腹に、「私」の主観を通じてしか、ここで

    語りは成り立たない。

    「顔40点、身体90点」。

     具体なんてもはやただの牢獄、生身の視線はあまりに不快、だから正体不明の「私」は

    終始姿をくらます他ない。

     そしてそんな世界では例えば、ちびっこかわいい、なんてことすら共通了解を得られず、

    「私は光の道を歩まねばならない」との使命とて、ぶさまに空転するしかない。

     

    「多分、悟堂って……抽象的な概念とか、シンプルな原則に囚われる人なんだと思う」。

     例えば殺す、例えば呪う、例えば食らう。

     所詮、この世界における一切の振る舞いなど、既定の述語スクリプト(「抽象的な概念」)に、

    「誰が」「何を」「どうやって」……と適宜記号的に割り振っていく作業でしかない。

    「穴」に投げ出されるとは、生を享けるとは、本来、つまりはそういうこと。

     ところが、この小説ではしばしばその空欄が中途半端に埋まったかたちで投げ出される。

     結果、陳腐なオカルトに堕することを余儀なくされる。

    「穴」がもたらす真の怖さは、怪談的な世界の渦で身を危険にさらすことではない、

    万人が「抽象的な概念とか、シンプルな原則に囚われる人」でしかない、という点に存する。

     

    「だってどんな愛情だって、伝えられないこと以上の不幸ってないでしょう?」

     伝えるべき「私」も「あなた」もそこにはいない。

     

     あなたがもういなくて そこには何もなくて

     太陽 眩しかった

    「ハッピートレーニング!」

    • 2016.11.13 Sunday
    • 21:53

    「生物的資質とハードトレーニングが、相互にどのようにして運動能力に影響を

    与えるかというテーマが、生物学者、生理学者、スポーツ科学者の協力をもとに

    研究されることとなった。そして、ようやく私たちは、スポーツ界における大きな

    争点である『遺伝か環境か』(nature-versus-nurture)という議論の入口にたどり着いた。

    この議論をさらに推し進めると、性別、人種というようなデリケートな領域に踏み込む

    ことになるが、科学と同様、本書においてもその点を避けては通れない」。

     

     ポリティカリー・コレクトネスの過剰は時にスポーツにも影を差す。

     このテキストの問題提起は、本書発表後に受けた批判への反論としての「あとがき」に

    ある面では凝縮される。「遺伝的資質という概念を含む社会的メッセージは、人々の

    努力を制限し、潜在的能力を発揮することを妨げ」てしまう、との懸念に対して、

    筆者はこう答える。「とても気になるのは、彼らにとって望ましい社会的メッセージに

    そぐわない科学的事実は拒否すべきだと主張しているように見えるところだ。……

    私たちは、個々人の特異性についてもっと多くのデータを集めようと努力すべきであり、

    そこから無理に目をそらさせようとするメンタリティを受け入れてはならない」。

     そうは言っても当然、筆者の結論は遺伝がすべて、と訴えるものではない。むしろ逆、と

    述べてしまうことさえ飛躍ではない。何せ、スポーツ遺伝子について分かっていることすら

    ほんのわずかなのだから。

    100%の『遺伝』(nature)100パーセントの『環境』(nurture)」。

     何はともあれ、やらないことにははじまらない。

     さらに言えば、あたかも「一万時間の法則」に抗うかのように、事実がしばしば告げるには、

    特定競技への選択と集中よりも、とりあえずいろいろやった方がいい、らしい。

     

     ウィトルウィウス的アスリート。

     20世紀初頭のスポーツ科学を支えたパラダイムが言うには、「最も優れたアスリートは

    均整のとれた平均的な体格の持ち主である。……1925年には、世界的レベルの走り

    高跳び選手と砲丸投げ選手とがそうであったように、平均的なバレーボールのエリート

    選手と円盤投げ選手の身体の大きさは同じくらいだった」。

     翻って現代、「ある種目で成功するために必要な身体は他の種目に適した体型からは

    離れて、それぞれの種目に高度に特化した独自の場所へと突進していく」。

     

     スポーツ観戦にも、実践にも、今日の遺伝研究にも、あるいは教育にも。

     本書が引きつける関心の射程はことのほか広い。

     そしてその社会的メッセージは、ほとんどすべての人間に該当するものと言っていい。

    「始めてみることは、最先端の科学でさえなしえない自己発見の旅へ出かけること」。

     遺伝の障壁を論じることと、広く門戸を開くことは何ら矛盾しない。

     あるいは、今日のスポーツ科学がある競技において短所と判定する遺伝的資質を

    長所へと変換するような運動理論の余地が存在したとして、特に驚くべき点はない。

     いずれにせよ、各人の試行錯誤なくして、いかなる道も開かれ得ない。

     こうしたことは何もスポーツに限らない。そして、こうした議論にきちんと向き合うことが

    ポリティカリー・コレクトネスに反するものとは、少なくとも私には見えない。

    「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を

    遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」。

    欲望という名の電車

    • 2016.11.10 Thursday
    • 21:28
    評価:
    デイヴィッド エドモンズ
    太田出版
    ¥ 1,944
    (2015-08-28)

    「本書は散乱した死体と血痕を残しながら進んでいく。頭を悩ませるのは一人だけだが、

    多くの人間が命を落とす。彼らの大半は奇怪な状況に囚われた罪のない犠牲者だ。

    一人のずんぐりとした男が跨線橋から転落することもあれば、しないこともある。

     幸い、こうした不慮の死のほとんどは架空の話だ。とはいえ、これらの思考実験の

    目的は、われわれの道徳的直観をテストし、道徳原理の確立を手助けし、それによって

    世界――そこでは現実の選択をせざるをえないし、現実の人間が傷ついている――に

    実益をもたらすことにある」。

     

     本書のテーマ、「トロリー問題」の典型はこうだ。

    「あなたは線路を見下ろす跨線橋に立っている。路面電車が線路を疾走しており、

    その先で5人の人たちが線路に縛りつけられているのが見える。……跨線橋に

    ものすごく太った男がいて、手すりから身を乗り出して路面電車を眺めている。この男を

    突き飛ばせば、彼は跨線橋から転落して眼下の線路に叩きつけられるだろう。恐ろしく

    太っているため、その巨体に衝突した路面電車は激しく揺れながら停止するはずだ。

    悲しいかな、この過程で太った男は命を落とす。だが、五人の命は救われる。

     あなたは太った男を殺すだろうか? 殺すべきだろうか?」

     回答やそこに至るためのアプローチも多種多様だが、そもそもの問い立ての細部に

    手入れすることでも、立場はどうにも揺さぶられざるを得ない。

     5人を助けるために1人を犠牲にする、という点においては同じでも、例えばこんな

    シチュエーションはどうだろう。

    5人の重症患者がいて、全員が緊急の臓器移植を必要としている……運のいいことに、

    健康で血液型も適合している罪のない若い男が、年1回の定期検診のためにやってくる。

    外科医は彼を殺し、その臓器を危機に瀕している5人に分配すべきだろうか?」

     

     現代における半ば必然、「思考実験」の前提となる「思考」という仕方それ自体に横たわる

    危うさもまた、本書の射程となる。

     例えば脳科学、生理学的な観点からの批判。「前頭前野腹内側部に損傷を負った

    人々の研究が進められてきた。こうした患者は太った男の運命にまったく無関心だ」。

    「思考」云々という自律性神話はもはや決壊し、今や倫理は脳という器質の機能へと

    還元される、とはさすがに言い過ぎか。とはいえ、例えば「メアリーの万引きは、彼女の

    脳内の化学組成とシナプスによって説明できる」との弁明の説得力をいかにして

    退けることができようか。

     体内のホルモンをコントロールするだけでも、「トロリー問題」への返答は変わる。

    「ある研究では体内のセロトニンの量が調整された。その結果、セロトニンが増えると

    被験者は功利主義的な傾向を弱め、太った男を突き落とす気が削がれる」。

     例えば今日の法廷を司るものが、ほんの数ミリグラムの化学物質だったとして、

    もはや何を驚くことがあるだろうか。

     

     本書に直接的な言及のない「思考実験」について。

     天才トマス・ホッブズは、もし仮に現行の法や制度がなかったら、世界はどうなって

    しまうのだろうか、との「思考実験」へと読者を誘い、そして「万人の万人に対する戦争」の

    命題を引き出す。あたかも「われ思う、ゆえにわれあり」に似通った仕方で、社会制度の

    問題を内面の倫理(功利計算)へと還元するこのアプローチを通じて、彼は近代を切り拓き、

    そして、そもそもの両者の還元不可能性を逆説的に暴き出す。

    「人を殺してはならない」との命令が横たわる社会は、今日まで何はともあれ続いている、

    しばしば人を殺しながら。

     脆くもはかない「思考」の箱庭はともかく、この世界に「なぜ人を殺してはならないのか」に

    答えなどある必要もなく、そして毎日は続いている、明日のことは知らないけれど。

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