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    「のけ者」

    • 2017.01.28 Saturday
    • 21:25

    「本書は、がんの歴史書であり、がんという太古からの病――かつて『陰で囁かれた』

    秘密の病――の年代記である。隠喩的、医学的、科学的、政治的な潜在力に満ちた、

    絶えず形を変える致死的疾患であるがんは、しばしば、われわれの世代を特徴づける

    疾病だと表現される。本書は、真の意味での『伝記』であり、この不死の病の思考の

    なかにはいり込んでその性質を理解し、その挙動を解明しようとする試みである。しかし、

    私の究極の目標は、伝記を越えた先に一つの疑問を投げかけることにある。いつか、

    がんが終焉を迎える日は来るのだろうか? この病をわれわれの身体と社会から永遠に

    消し去るのは可能なのだろうか?」

     

     象牙の塔から生み出される官僚機構的な知の体系、外部からはしばしば想像される

    そんな研究風景とは対照的に、大いなる前進をもたらすパラダイムシフトは往々にして

    「のけ者」の手からもたらされる。

     例えば、朝鮮戦争の兵役を逃れるべくアメリカに渡ったとある中国人研究者は、当時の

    一般的なガイドラインに従えば「完治」したはずの患者に対しても、「がんの指紋」である

    微量のホルモンが血液から採取されたことを根拠に投薬を続けた。「すでに腫瘍が消えた

    患者に対して化学療法をさらに追加し、非常に毒性の強い毒を副作用が予期できない

    ほど大量に投与するなど、患者に毒を盛っているのと同じだった」。かくして彼は解雇され、

    ところが数か月後、彼の方針の下で治療された患者から再発が見られなかった。彼は

    「腫瘍学の根底に横たわる原則を偶然発見した。がんの全身治療は、あらゆる肉眼所見が

    消えたあとも長期間にわたって続けなければならないという原則だ」。

     がんと一括りに言っても、その性質はそれぞれ寄生する宿主に依存する、そんな発見も

    主流に遠い「のけ者」が偶然にたどり着いたものだった。日々イヌと接しつつ、前立腺液の

    研究に励む分泌科医に訪れた閃きの瞬間、「テストステロンの枯渇が正常の前立腺細胞を

    縮小させるなら、同じくテストステロンの枯渇によって、がん細胞はどのような影響を

    受けるだろう」。当時の通説に従えば、がんは「常軌を逸した制御不能な変質細胞であり

    ……正常細胞を制御するシグナルやホルモンなど、もうとっくの昔に忘れ去られている」。

    しかし実験結果は臆見を裏切る。前立腺のがん細胞の「依存の程度はあまりに激しく、

    テストステロンからの急激な離脱は、考えうるもっとも強力な治療薬と同じ効果をもたらした」。

    そしてこの研究は女性ホルモンと乳がんの関係にも持ち込まれ、不妊薬としては役立たずな

    代物が一転、患者に寛解の時を与える。

     保険制度の改革とて、「のけ者」にされた患者の悲劇に端を発する。「1980年代末までは、

    実験的な薬や治療法といったものは文字どおり実験的であり、広く一般的に使われなくて

    当然だと考えられていた。だがエイズ活動家がその考え方を変えた」。臨床実験をパスして

    FDAの認可を待つ時間など患者にはない、「治験段階」なんてことばは保険金の支払いを

    拒絶するための方便にすぎない、と。結果、法廷闘争は遺族に8900万ドルの損害賠償を

    もたらし、ただし他方、この判決とそれに基づく法改正は思わぬ副作用を生んだ。有効性の

    証明のために必要な「治験」そのものが遂行の危機に立たされることとなったのだ。対照群を

    一体誰が引き受けよう、かくしてもはや「臨床実験のための患者は一人もいなかった」。

     

    「医学は物語るという行為から始まる……患者は病気を描写するために物語り、医者は

    病気を理解するために物語る。そして科学は、病気を説明するために独自の物語を語る」。

     科学史、社会史として既に優れたこの読み物にさらなる深みを加えるのが、医師である

    筆者によって差し挟まれる実体験のエピソード。それは時に、現行の手法と積み重ねてきた

    歴史との連続性を示唆するものであったり、あるいは患者や彼自身に訪れる喜怒哀楽の

    瞬間のタペストリーであったり。この記述が全体に占める比率で言えば1割にも満たない、

    しかし「物語る」という本書の仕方に、かけがいなき味わいを添える。

     

     もちろん、本書の話題は必ずしも希望に満ちたものばかりではない。

     医療にせよ、社会政策にせよ、そこには現代的な問題提起も多分に含まれる。遡ること

    200万年前の人骨にすら、がんを疑わせる痕跡が観察される、そんな人類史をも包み込む。

    あるいはより個人的なイシューとして、毒をもって毒を制す化学療法による寛解が与える

    数か月とクオリティ・オブ・ライフや家計の衡量、なんてことを考えさせられることもあるだろう。

    自然科学やイノヴェーションをめぐる教訓も当然認められるに違いない。

     上下巻計約1000ページの大著、そのヴォリュームの必要を納得させるだろう一冊。

    カレーライス

    • 2017.01.28 Saturday
    • 21:13

      夏晴れの平和島競艇場。

      俺はまぶしく光る水面を、記者室のガラス窓越しに見ながら、次のレースの

     予想をしていた。

     

     パブリック・イメージ通りの書き出し、自堕落なエッセイの空気を一本の電話が変える。

    「ママが倒れたの! パパ、今すぐ帰ってきて!」

     

     なんというか、文章構成として普通にウマい。

     危篤の妻を前に泣く。そして帰らぬ人となり、また泣く。しつこいほどに涙が強調されて

    いるはずなのに、感動ポルノ性を惹起するでもない。

     妻が病に臥した翌日、「無言のまま家に戻り、夕食のドライカレーを作った。息子と

    ふたりきりで食べたが、何の会話も出てこない」。

     スプーンと皿の摩擦音をさせながら、素っ気なく口に米粒を運んでいくこの感じ、

    絶妙なチョイスと一読して唸るが、過去の断章がたまらない深みを加える。

    「豚肉を入れたカレーライスは女房の得意料理で、……ごくごく普通のカレーなのに、

    あのカレーはホントにうまかった」。

    『ガロ』掲載が決まった日の「夕食には女房が50グラムの豚肉入りカレーを作ってくれた」。

     原稿依頼を受けてデビューが決まった日にも「夕飯をカレーライスでお祝いをした」。

     ところが実はこの奥さま、「子どもの頃から肉が嫌いで、ほとんど口にしたことがなかった」。

     

     数回目のデートのときのこと、キスを迫った筆者に後の妻が問う、「私のこと好き?」と。

    「まずいことに、俺はその質問にすぐに答えることができなかった。その時は、この女が

    好きなのかどうか、自分でもまだはっきりとわからなかったのだ」。

     そんな男が徐々に女に吸い寄せられる。

    「なによりも、自分のことを好きでいてくれる女の子がいるということが、『東京の人間は

    インテリばっかりだ』と、劣等感を抱いていた俺に、自信を持たせてくれた」。

     自己承認の重要を訴えるこの名文、現代においてはかえってド直球すぎて表現素材に

    そうそう選べない、書き手の顔をしばし忘れる。

     そして続く青姦描写に淡くも中和されていく。

     

     運悪く賭け麻雀で逮捕された翌年の正月、妻がまさかのラスベガス旅行に連れ出す。

    そして夫は堂々カジノを満喫する。

    「日本に帰る最後の前の日は、抜けるような青空の下、ラスベガスの街から少し離れた

    湖までのドライブを楽しんだ。

     そこで撮った写真の女房は、とってもいい顔をしていた。

     今までで一番いい笑顔だと思えるくらい……。

     ――そしてこの時、撮った一枚が、女房の遺影となった」。

     

     世界の中心で愛を叫んじゃってるよ、これ。

     先入観をひとまず置いて冷静に読めば、すがすがしいほどのベタをやり切ったこの一冊、

    ひるこのうしゅう、恐るべし。

    「人間はここまで残虐になれるのか?」

    • 2017.01.21 Saturday
    • 00:10

    42歳のその男は明らかに、どこまでも病んでいた。1969年には複数の少年たちに

    性的暴行を働いていた。最後に罪を犯したのは1990年で、男は共犯者とともに

    ファールン郊外のグリュックスボーで銀行強盗を働いて逮捕され、セーテル病院に

    収容された。男がユーアンの殺害を自白したのは、その病院でセラピーを受けている

    最中のことだった。《エクスプレセン》[スウェーデンの新聞]によれば、男は『もうこれ以上

    耐えられない。真実を話したい。前に進めるように、贖罪と赦しを得たい』と言ったそうだ」。

    「セーテルの男」の自白は、迷宮入りしかけていたこの一件で終わらなかった。

     そしてその後も小出しに口を開き、やがて8件の殺人について有罪の判決を受け、

    さらなる罪過を匂わせつつも、ある日を境に黙秘を選ぶ。

     

     ある「記憶の専門家」が解説するに、「『クイックは4歳から父親にレイプされ、子供時代を

    奪われてしまった。恐怖に耐えられず、その恐怖をほかの誰かに受け渡そうと試みた。

    他人の人生を壊すことによって、自分の人生を再生できるという幻想を抱いたのだ。しかし

    この効果は長続きせず、彼は殺人を繰り返さなければならなかった』」。

     このスペシャリストは、被疑者の供述が散発的にしか提示されず、二転三転を繰り返す

    理由についても語っている。「『真実に近い話をでっちあげることによって、クイックは

    内なる自己を守らなければなかったのです』……記憶することは重要なサバイバル

    メカニズムである一方、『自分がくぐり抜けてきた惨めな体験を残らず記憶したまま』

    暮らしていくことはできない」。

     父の暴力衝動が転移して彼へと引き継がれ、しかしその忌々しさゆえ「抑圧された

    記憶」として封印されるも、セラピストや捜査関係者の努力により明るみに晒された。

     それはまるで精神医学の教科書のサンプルのようだった、ひどく古臭く出来の悪い――

     

     読み進むにつれて、シリアル・キラーをめぐる一介のルポルタージュとは、かなり毛色の

    異なるものであることが理解されるだろう。

     ただし、はっきり言えば、決して面白い作品ではない。

     本書の大半に費やされるのは、調書や録音録画素材に基づく彼の「自白」と、現場や

    当時の状況などから推定される実際の出来事とのすり合わせ。非常に地味で、そして

    実直な作業が裁判へと持ち込まれた8件それぞれについて行なわれる。描写はさまざまな

    意味においてうんざりとするようなものが連ねられる。類似の構図が反復されることもあり、

    単調な印象はどうにも否めない。

     しかし、読者がこのテキストを通じて目にする情報は筆者が実際に向き合った資料の

    ほんの一部にすぎない。そしてそれゆえはじめて、センセーショナルな大見出しを覆す、

    衝撃の事実が暴かれることとなる。この仕事を可能にしたのは徹底的な取材と考証。

     従って、こと本書に関しては、つまらない、という評はむしろ賛辞のことばへと変わる。

    ジャーナリズムたるものかくあれかし、そう思わずにはいられない。

    風立ちぬ

    • 2017.01.21 Saturday
    • 00:02

    「本書は、いま日本において急進展しつつある軍(防衛省・自衛隊)と学(大学・

    研究機関)との間の共同研究(=軍学合同)の実態を描き、今後予想される展開に

    対して警告を発するために書いたものである。軍学共同と表現すれば、あたかも

    軍と学が対等な関係のように見えるが、現実に進行しているのは大学等学術機関に

    ある研究者が、軍から支給される研究費欲しさのため軍事研究に手を染めていこうと

    するものであり、結局のところ学が軍に従属し戦争のための研究に堕していくことは

    明らかである。それは当然のことで、軍とは自衛であろうとなかろうと戦争することを

    前提として作られた組織であり、軍が予算を措置するという研究は戦争を有利にする

    ための軍事開発なのだから、軍学共同によって得られた知識は軍が占有するのが

    当たり前で、学はそれを黙って提供するに過ぎない存在となるのは自明のことなのだ」。

     

     防衛省による「安全保障技術研究推進制度」の「公募要項」によれば、「研究成果

    報告書を防衛省に提出する前に成果を公開する場合には、その内容について、

    公開して差し支えないことをお互いに確認することとしています」。

     なまじ「差し支え」のある成果ができてしまえば、軍事機密なるがゆえに公開されない、

    つまりは第三者による検証も不十分ならば、フィードバックもブラッシュアップもさして

    期待できない、どうせ早晩行き詰まる。そんな閉鎖環境でどうして「技術」が前進しようか。

     

     国家財政の逼迫は至るところに影を落とさずにはいない。

     独立行政法人化を通じて、「大学では役に立つ分野・企業から資金が引き出せる分野が

    優先され、さしずめ大学は専門学校の観を呈するようになった」。

     自然科学におけるイノヴェーションの歴史を少しでも学べば、目先の「役に立つ」に基づく

    「選択と集中」がいかに閉塞を作り出してきたか、など理解されように。ノーベル賞受賞の

    度に当人たちが決まって語る基礎研究の重要性はほぼ政策に反映されることはなく、ただ

    国威発揚にのみ重用される。

     貧すれば窮す、なのか、窮すれば貧す、なのか。

     本書が明らかにする要点のひとつは、学問の自由、大学の自治、という問題。

     

     不毛なことば遊びと首を傾げるような箇所もある。

     例えば「軍事研究が科学を発展させる」との説への反論、筆者の定義では「科学とは、

    さまざまな自然現象を支配している原理や法則を明らかにするための営み」であり、

    従って「軍事研究が発展させるのは(科学ではなく)技術である」と言う。

     続いて「戦争は発明の母」との説に異を唱える。曰く、「戦争が口実となって物品への

    必要性が高まって発明を刺激する」、ゆえにあくまで「必要は発明の母」である、と。

     少なくとも私は閉口する。

     

     しかし、筆者が見出す危機感が的外れなものであるとは到底思えない。

     かつて私の師は言った、勉強は仕事、学問は遊び、と。

     役に立つため、金にするため、そうした「デュアル・ユース」も否定はできない、しかし、

    まず何よりも知識を磨くことこそが、他の動物を引き離す人間の人間たる所以のはず。

     遊びだから、面白いから、まず学問は何よりもそのためにある。

     そうした余裕のなさ、つまらなさを軍学共同は映し出す。

    「科学者は、自然が隠し持つ謎を解き明かすことに無上の喜びを感じる人間であり、

    その知的活動はきわめて個人的な好奇心に由来する」。

     一読して苦笑し、その後気づく。この「科学者」像にどこか過剰な美化を見出さざるを

    得ない事態そのものが既に相当まずい状況に置かれている証かもしれない、と。

     残念ながら、本書の問題意識が世間において真剣に受け取られることはないだろう。

     しかしこの警世の書は知の危機、ひいては人間の危機を思いのほか強力に訴える。

     この世界、ヤバすぎる。

    けもの道

    • 2017.01.19 Thursday
    • 20:43

     ミホの死後、遺品の整理をする筆者、「死の棘メモ」と記されたノートを見つける。

    「その晩私は野獣に戻った。夫の日記に書かれたたった一行の十七文字を目にした時、

    突然ウォーウォーとライオンのほう吼が喉の奥からほとばしり、体じゅうに炎に焼かれる

    ような熱気が走り、毛髪は逆立ち、四つ這いになって、私は部屋の中を駆け巡った」。

     未完の草稿、別のページにはタイトルらしきものが刻まれていた。

     

      死の棘 妻の場合。妻の側から

     

     奄美の小島で特攻の発進命令を待つ部隊長と村長の娘、内地の男と縁を結べば

    必ずや不幸になるだろう、そんな言い伝えの中、「書かれた言葉」で交わす道ならぬ恋、

    やがて女は懐に刃物を忍ばせ誓いを立てる。

    「海原の果 お天の果 ただだまつて三保もお供申上げ逝いります」。

     

     出発は遂に訪れず。

     ただし、かくなる命を賭した恋さえも、敏雄当人は「私の業の浅さ」に思い悩む。

    彼は飢えていた、はるか濃密な何か、かくして「審きは夏の日の終わりにやってきた」。

    仕事部屋の机に開かれたままの日記の「十七文字」を見たミホは「けものになり」、

    そして彼は「まるで待っていたかのように原稿用紙に向か」う。

     すべては仕組まれていた、のかもしれない。

     本書は、「アイツ」をはじめとした『死の棘』の書かれざる背景を浮上させるに留まらず、

    息を呑む精読の経験を与えるだろう。外泊を重ねる夫の不倫など既に妻の知るところ、

    発狂の契機はあくまで「十七文字」を見てしまったこと。「書かれた言葉」に従って、ミホは

    「献身する妻から狂気によって夫を支配する妻へとあざやかに変身を遂げ」、そしてのち、

    「清書しながらしばしば狂乱しつつも、島尾に『死の棘』を書き続けることをうながした……

    それはミホ自身が、あの十七文字を帳消しにする膨大な量の言葉を島尾から捧げられる

    ことを求めていたからに違いない」。

    「書く」−「書かれる」の中から「私小説の極北」は生まれた。

    「書かれた言葉」を通じてしか、「私」はなかった。

     

     夫の死から二十余年、妻も天に召された。そしてその少し前、かつて「シミタクナイ」と

    呟き、後に失語に陥った娘も病に伏せてこの世を去った。かくしてひとり残された息子は

    今なお「カテイノジジョウ」の渦中にあるのかもしれない。その独白。

    「あの人は死ぬ順番を間違えた。母より先に死ぬべきじゃなかったんです。そうしたら、

    何だって自由に書けたのに」。