スポンサーサイト

  • 2020.05.10 Sunday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    無垢と経験の歌

    • 2017.02.27 Monday
    • 20:46
    評価:
    ミランダ・カーター
    中央公論新社
    ¥ 5,400
    (2016-12-19)

     英国に美術史というジャンルを確立した学術界の巨人にして、王室絵画監督官を務め、

    ナイトの称号も付与された。そんな名士、アントニー・ブラントにはもうひとつの顔があった。

    つまりは、ロシアのスパイとしての――

    「私は本書で、スパイ活動、美術史、自己欺瞞、その他諸々について、語ろうとした。

    なかでも力を入れたのが、英国人に固有な、あるタイプの人間としてのブラントについてだ。

    このタイプの英国人は、内面的な努力のほぼすべてが感情否定に向けられる。ブラントが

    書いた中で、みずからの精神史に最も近いのが、学術論文だ。そこには熱烈に身を捧げた

    共産主義の政治学を忘れ、幻想を排して、形式的なもの、私的なものを捉えようとする、

    精神の軌跡が辿られているのだ」。

     

     敵の敵は味方、そもそもの動機は概ねそんなところだった。

     枢軸国の脅威に対してあくまで悠長に構える母国に業を煮やしあえて情報を渡す。

    第二次世界大戦中、それはまだ西側諸国とロシアの首脳が世界の未来をめぐって、

    同じテーブルを囲んでいられた頃の。時の知的エリートが往々にしてそうあったように、

    共産主義に対する多少の共感もあった。ケンブリッジの華麗な人脈のしがらみもあった。

    狂気の嵐吹き荒れるロシアの実態など、まだ誰も知る由もなかった。どんな資料を

    受け取ろうと、生かす術を持たないことすら、誰も知りようもなかった。いずれにせよ、

    彼は秘密情報部勤務の傍ら、スパイの道へと踏み込んだ。

     

     そして脳障害のサル、マーガレット・サッチャーと大衆に、そんな時代背景を理解する

    能力など、そもそもなかった。

     19791115日の議会での告発声明は、たちまちにしてメディアを席巻した。

    その同じ日、政策金利は史上最高17パーセントにまで引き上げられ、しかしニュースは

    ブラントのスキャンダルに埋もれて消えた。それから数日後の記者会見も集中砲火の

    恰好の燃料となった。同日、労働党では全国執行委員会の総辞任があったというのに、

    世間は気にも留めなかった。老境の権威が敵国のスパイかつ同性愛者、そんな素材に

    基づくフェイク・ニュースを誰しもが夢中になって消費した。

     その陰で、「MI5、政府、王室は火の粉が降りかかるのを回避できた」。

     ――バカしかいなかった。

     

     バカしかいなかった。

    国家と革命

    • 2017.02.27 Monday
    • 20:42

     フランス革命から数年後、かのニコラ・ドゥ・コンドルセは、読み書きすらもままならない

    大衆の姿を前に、偉大なる達成の挫折を、市民の不存在を嘆き立尽くす。

     歴史は繰り返す。

     

    「運命の年、1917年には2度の革命が起こった。二月革命と十月革命である。二月

    革命で何が起こり、どのようにして十月革命に立ち至るのか。これが本書の叙述の

    内容になる。……第一次世界大戦のさなかの19172月末、ロシアで革命が起こった。

    皇帝ニコライ2世が退位に追い込まれ、300年以上続いたロマノフ朝が倒れた。この

    二月革命のなかで臨時政府が生まれて、自由主義者と呼ばれた人々が政権についた。

    ……だが、社会主義者の協力をもってしても、民衆は臨時政府の言うようには動かなかった。

    ……民衆と臨時政府のあいだのこの裂け目に食い込んでいったのが、社会主義者の

    なかの急進派、ボリシェヴィキである。その指導者レーニンが掲げたのは、ロシアで直ちに

    社会主義の実現に着手するという途方もない目標であった。……この力強い、そして、

    根本において誤っていた展望に促されて起こったのが、十月革命である」。

     

    「われわれ」と「あいつら」の狭間で。

     前近代的な家父長制の終焉としての二月革命、「自由の到来は、終わることのない

    混乱の始まりだったのである」。命令主体たる皇帝が消えれば、戦争はたちまち大義を

    失い、前線に厭戦が蔓延する。この過程で警察は解体され、素性定かならぬ民警が

    幅を利かせる。上下規律の崩壊は労働現場の雇用関係にも影響を及ぼす。

    「底が抜けた」民衆を前に、近代革命の理論的知見から「公衆」はこう語りかけた。

    「皇帝に服属する『臣民』ではなく、自立的に考える『市民』になれ……『共和制において

    生きるためには自己抑制が必要だ。法のために自らに制約を課しうること、これこそが

    共和主義者の第一の美点であり、功績である』」。

     自由と放縦の違い? 公共性? はぁ?

     上層エリートたる「あいつら」の声など、「われわれ」に解する余地などなかった。

    「われわれ」にしてみれば、「あいつら」もまた、転覆されるべき存在だった、皇帝と同じく。

     

     歴史の大きなうねりについては、なるほど細密に描き出されてはいる。

     ただし、少なくとも私には一向に見えなかったのが、そもそもの「われわれ」を「われわれ」

    たらしめる情報伝達の経路や活動を基礎づける原理について。階級という裏づけを持った上で、

    電話網すらも不完備だろう当時のロシアで、地方に到るまで「底が抜けた」状態へと誘った、

    情報や交通等の基礎をはじめとした連携のネットワークが読む限りあまり伝わってこない。

     まあもっとも、パン食わせろ、戦争なんてやめちまえ、給料もっとよこせ……これだけでも

    ロシア中に「われわれ」を形成するには十分だったのかもしれないが。

     

     本書の教訓、それは例えば反知性、反現実の暴力がもたらす悲惨な末路。

     いみじくもカール・シュミットはこの「われわれ」−「あいつら」をトレースするように、

    友敵原理を綴ることでナチスの台頭を予言してみせた。そして今日も、仮想敵を見出しては

    ヒーローを気取るファシストの饗宴はますますの活況を呈する。

     ロシア革命から100年、この狂気の終焉を現実に期待する方がどうかしている。

     死の他に、ヒトもどきのサルが秩序を知る日など、決して訪れやしない。

    とりあえず 殺してみよう ほととぎす

    • 2017.02.22 Wednesday
    • 22:56

     ハピネスのサイエンスとしての宗教について考える。

     

      「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

      しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの

      右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイによる福音書5:38-9

     

     誰しもが一度ならず耳にしたことのあるだろう、あまりに有名なフレーズ、しかし、

    同じテキストの中で、時にこうも訴える。

     

      「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和では

      なく、剣をもたらすために来たのだ」(マタイによる福音書10:34

     

     さて、どう折り合いをつけたらよいものだろうか。

     

    「キリスト教は、それ自体が『救い』であるというよりも、『救い』を必要とするのに

    救われない人間の哀れな現実を、これでもかと見せつける世俗文化である。

    キリスト教があらためて気づかせてくれるのは、人間には人間の魂を救えないし、

    人間には人間の矛盾を解決できない、という冷厳な現実に他ならない。……

    本書の究極的な狙いは、愛と平和を祈りながら戦いがなされるという現実を通して、

    宗教や戦争という問題のみならず、そもそもの人間理解を問い直していくことである」。

     

     軍隊の士気を維持、向上させる装置としてのキリスト教。

     北米大陸における歴史を辿れば、従軍チャプレン制度の発足は1775年、独立戦争の

    開始とほぼ時を同じくするが、実は、17世紀初頭から既に「聖職者が民兵たちによる

    戦闘や訓練に付き添うという文化があった。……『他者』の殺戮を正当化し、また

    戦死者の名誉を称えるのも、教会と牧師の仕事だった」。米陸軍の兵科のひとつ、

    「チャプレン科」は「歩兵科」に次いで設けられた、「世界で最も古く、最も大規模な

    チャプレン組織である」。

     

     例えばディートリヒ・ボンヘッファーという神学者がいた。ナチスの狂気に

    転覆を企てた廉で死刑に処されたことでその名を知られる。彼のことば。

     暴走する車が人々をはねて回っているのならば、その血迷える運転手を座席から

    引きずりおろして凶行を止めるのは当然の所作だ。

     

     十字軍や現代のイラク、アフガンの傍らで、少なくともローマ国教化する以前の

    初期キリスト教は平和主義を貫徹せんとしていたのでは、そんな素朴な思いにも

    現実はしばしば否定的な回答をつきつける。「戦争や迫害に反対する声をあげてきた

    キリスト教徒もいたが、それ以上に多くの者が、戦争や迫害に加担してきた。明確な

    悪とまではいかなくとも、何らかの形で暴力を正当化してきた。人間も所詮、動物で

    ある以上、生き残るためには、『警察的機能』であれ『正当防衛』であれ、残念ながら

    何らかの理由をつけた暴力を必要とするのが宿命である」。

     

    「人間も所詮、動物」。

     害獣の狂気に抗うに、死の他にいかなる報いがありえようか。

     1人の死は悲劇、1万人のそれもたぶん同様。しかし、1束の屠殺は祝祭に変わる。

     殺人は常に最善の倫理。

     世界はこの他にいかなる教義も持ち得ない。

    Lazy Susan

    • 2017.02.22 Wednesday
    • 22:39
    評価:
    エドワード ワン
    柏書房
    ¥ 2,376
    (2016-05)

    「世界で毎日、15億人あまりの人ひとが食事道具として箸を使っている。しかし、

    その箸の歴史を古代から現在までたどった英文の書物は、これまで一冊もなかった。

    この本では、以下の3点を解き明かそうと思う。

     

     1. 箸はどのようにして、なぜ使われるようになったのか。しかも食習慣として、なぜ

     数世紀にもわたって、アジアを中心に定着し、さらに広がっているのか。

     2. 箸という食事道具が、料理にどのような影響を与えてきたのか。あるいは逆に、

     料理が箸に適合するように変化してきたのか。特定地域の食物の変化が、食事道具の

     選択と変遷にどのように影響を与えたのか。

     3. 箸の文化的な意味を検証し、それが箸文化圏の各国にどのような影響を与えて

     きたのか」。

     

     考古学の成果が教えるに、箸の歴史はどうやら新石器時代まで遡る。とはいえ、ただちに

    食事の主力の玉座に就いたものと見るのはどうやら早計。ここには主食の変化が関与する、

    とする説がある。曰く、熱く水気も強い粥を口に運ぶに素手よりも匙の方が好都合、

    炊いた米を食すに箸でまとめるのはなるほど実践的。

     あるいは調理法も箸が時に規定する。一般に肉食中心の社会ではナイフとフォークの

    組み合わせが多い、とはいえ中国ではその消費量が増えても、逆転の発想が依然として

    箸と匙に主力の地位を担保した。すなわち、食す直前に切り刻むのではなく、加熱段階で

    つまめるサイズにしておけばいい。

     

     ただし、本書は必ずしもそんな食生活の歴史のみに終始するものではない。

    「箸は『分かちがたい』象徴なのだから、結婚話をまとめる際にも、婚約成立のときにも、

    出番がある」。13世紀の書物が伝えるに、「男が女性を見初めて結婚を申し込むため

    両親にあいさつに赴くとき、酒びんに水を入れ、1対の箸、2個の緑色タマネギ、4匹の

    金魚とともに持参」した。あるいは少数民族に伝わるしきたり、「実家を離れる花嫁は、

    きょうだいたちと一緒に食事したあと、自分のごはん茶碗と箸をきょうだいたちに託す」。

    モンゴルでは「1つの椀の粥を新婚2人で1膳の箸で食べ終える」。その意味するところ、

    「夫婦がこれから生活をともにしていく最初の儀式に当たって、箸によって協力の重要性を

    認識し合う」。

     贅の限りを尽くす皇帝の姿は例えば箸にも表れる。ヒスイで誂えたそれは冷ややかな

    眼差しを時に受ける。

    「燃えてしまえば同じ土くれ」。

     箸文化圏のひとつ、日本の風習もまた、重要なトピックを形成する。

    「お祝い箸がたいてい塗りのない白木であるのは、神道や仏教の影響だ。……ヤナギの

    木が箸の材料として好まれるのは、……生命力の強さにあやかりたい、という感情から

    来ている。両口箸の中央部が丸いのは、来たるべき1年をつつがなく、実り豊かな年に

    なるように、という願いが込められている。……お祝い箸はその都度新たに購入され、

    使い終えたら捨てられる。なぜかと言えば、神道の考えに従えば、白木の箸はいったん

    口のなかに入れられるとその人の霊が乗り移り、洗っても落ちないからだ。使用済みの

    お祝い箸を打ち捨てれば、箸に霊が残っているのだから、神と対話する道筋が構築される」。

     ――知らなんだ。

    My Home Town

    • 2017.02.16 Thursday
    • 21:29

    「沿線住民は決して、親米反ソを信条とし、『西武天皇制』の『天皇』たらんとした

    堤康次郎と思想を同じくしていたわけではなかった。それどころか、60年代から

    70年代にかけて、日本共産党が勢力を伸ばしてゆくのは、西武沿線をはじめと

    する団地においてであった。特急電車の『レッドアロー』と星形住宅の『スター

    ハウス』に象徴される西武鉄道と日本住宅公団が、あたかも手を携え合うかの

    ように、結果としてアメリカとは異なる思想空間を、東京の西部につくりだして

    いったのである。/本書は、この思想空間で自己形成をした一人の体験者による、

    ナショナル・ヒストリーに解消されない戦後思想史の試みといえるかもしれない」。

     

     平等を掲げる「社会主義の理念が浸透すればするほど、住宅は均質なものとなり、

    郊外の風景はどこに行っても変わらなくなる」。

     本書は言うなればそうしたトップダウン・モデルの逆転型、すなわち均質な環境が

    住人を誘った、否、誘ってしまった場としての西武沿線の「空間政治学」。

     

     1960年、空前の美智子様フィーバーの中、時の皇太子夫妻の視察をもって

    ひばりが丘団地はマイホームの「理想」の象徴となる。とはいえ、住人にとっての

    現実は「理想」とは程遠い。「電話がない、保育所がない、団地と駅を結ぶ西武バスが

    不便など、問題は山積していた。……問題は、住民自身が解決するしかなかった。

    団地住民に革新的な政治意識が芽生えるゆえんである」。

     

     同一の規格に則って建設された各住居、「間取りが同じ場合、コンセントの場所が

    同じだから、冷蔵庫、テレビ、洗濯機などは、どこの家もみな同じところに置かざるを

    得なかった。……シリンダー錠やコンクリートの壁を通してプライバシーが確保され、

    『個』が確立したように見えながら、そこにあるのは恐ろしく同質的な『集団』の

    生活であった」。同質なのは家の中だけではない。「西武バスや西武鉄道に乗って

    都心に通い、西武百貨店や西武ストアー(後の西友ストアー)で買い物をし、休日は

    豊島園や西武園、西武球場(現・西武ドーム)、さらには奥武蔵ハイキングに出かける

    ライフスタイルが定着してゆく」。

     ゆりかごから墓場まで、ただしそこは安楽の棲み処としてではなく。

     私の問題ではなく、私たちの問題として。

     同質性はあまりにしばしば共感を醸成する。

     かくして政治が立ち上がる。

     

     そして半世紀、建物は朽ち、新たなる世代の流入も期待できぬまま、住人の高齢化は

    間もなく死をもって頭を打つだろう。鉄道が媒介する「集団」ではなく、自動車のもたらす

    「個」に適応したかに見える東急沿線とて、そのフラッグ・タウンたる田園調布の凋落に

    象徴されるように、たぶん先はそう長くない。

     あるいは、人間工学と経済効率の先端的な集積体として高くそびえる現代長屋、

    タワー・マンションの朝、待てど暮らせど来やしないエレベーターにふと不満の声が

    漏れるとき、万が一、そこに「集団」が立ち現れることがあるのかもしれない。