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    ブルージャスミン

    • 2017.03.31 Friday
    • 21:24
    評価:
    カーソン マッカラーズ
    新潮社
    ¥ 637
    (2016-03-27)

      さよなら かわいい夢

     

    「その夏、フランキーは自分がフランキーであることに心底うんざりしていた。

    そして自分のことがどうしても好きになれなかった。夏の台所でうろうろしている、

    図体ばかり大きい、役立たずの怠け者になったように感じていた。汚らしく、

    貪欲で、意地悪く、そして惨めだ」。

     12歳、成長期の背丈は既に5.5フィートを超えた。とはいえ、持て余すのは

    肉体よりも何よりもまずは自意識――そんな思春期をこじらせる女子の肖像。

     

    「それがあんたの困ったところだよ……あんたは自分についてちょっとでも

    褒められると、それを好き放題に膨らませていくんだ。あるいはそれが悪い

    指摘であっても、やはり似たようなことをする。ものごとを頭の中で、自分の

    都合のいいように片端から作り替えていく。それはあんたの問題点だよ」。

     そんな風に言われても、彼女がバブルを拡張するのはもっぱら悪い方向で。

     時は第二次大戦中、赤十字に献血を申し入れ、世界に貢献する夢を見るも

    拒まれる、単に年齢規定によって。手続き上の決まりごと、とはいえ、彼女には

    「あらゆるところから自分が締め出されたように感じ」られてしまう。

     ある夜、いつものように父のベッドに入ると言われた。「このラッパ銃みたいな

    図体の、足の長い大きな娘は、まだ父さんと一緒に寝るつもりなのかい?」

    多少デリカシーに欠けるところもありこそすれ、むしろ遅すぎるほどの子離れ、

    なのに「彼女は父親に恨みを抱」かずにはいられない。

     兄がフィアンセを連れて家に顔を出す。めでたいことのはずなのに、「『二人の

    ことを考えるとね』と彼女は言った。『こんな具合に胸がしくしく痛むのよ』」。

     そして彼女は決意する。結婚式が終わったら、もうこの街には戻らない。

     

     訳も分からないまま、自意識を明後日に向けてこじらせて暴走する12歳。

     街を歩く彼女の目線から展開される、過剰なほどの風景描写。通り過ぎる人々は

    顔を持たない、少なくともフランキーにとって。「彼女をメンバーと認めるものは

    この世界にひとつとしてなかった」のだから、通わせるべき感情などそこにはない。

    目に映る何もかもが彼女を突き放し、「そして最後には、夏は緑色の病んだ夢となり、

    ガラスに閉じ込められたクレイジーな無音のジャングルとなった」。

     傍から見ればそこらによくいる面倒くさい小娘、かまってくれる人もいる。

     でも彼女に届くことばなんてなくて。

     

      白い服で遠くから

      行列に並べずに少し歌ってた

     

     気づいたら世界から疎外されていた、もしくは自らを世界から締め出してしまっていた

    少女の数日間の記録。

     果てしなく裂けた世界、そしてひとつも裂けてなどいない世界。

     いちいちズレたヒロイズム、そして地球はただ回る。

     すべてが痛い。そしてかわいい。

    絶望の国の幸福なリーマンたち

    • 2017.03.31 Friday
    • 21:19

    「この本のテーマは『戦前日本の“ふつうの人”の生活感覚』である。具体的には、

    大企業サラリーマンや軍人、女性店員などの平均的給料がいくらで、それで

    どの程度の生活ができたのか、東京の家賃はどの程度の水準で、娘を嫁にやれば

    どの程度の費用がかかったのか、といったミクロ情報に徹した」。

     

    「戦前社会を現在とまったく継続性のない『別世界』扱いにしてしまうのはやはり

    大きな間違いだろう」。

     事実、敗戦後の日本が目指した復興モデルはアメリカよりも何よりも、まずは

    「昭和八年に帰ろう」。つまり、本書は単に当時の世相を知るよりも、戦前と戦後の

    「継続性」を橋渡しするためのものとして読まれるべきなのかもしれない。

     例えば当時の受験事情、「戦前社会では全体の3割から4割しかいない中学

    進学者の、そのまた1割しか旧制高校や大学予科に行かなかった」。このデータが

    訴えるのは、単に進学の余裕もなく働かざるを得ない層の存在ばかりではなく、

    その狭き門をめぐる過熱競争。そこには当然、学習塾のニーズもあれば、裏口や

    賄賂などもはびこる。とはいえ、大学へとたどり着いた学生たちがみな勤勉な意欲に

    燃え盛るわけでもなく、太陽族に先駆けて「猿の如く」街を跋扈し、「人のノートで

    試験をパスする」輩のためのモラトリアム批判は既にしばしば語られていた。

     

     そして戦争へと至る経済困窮の影は、当然に市井の人々を直撃せずにはいない。

     例えば「資本主義は行き詰まっている訴えた29歳のサラリーマンは『自分の生活の

    ためと、プチブル・インテルの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を

    最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与できない』」。

     多少は景気回復の兆しを見せた昭和8年前後、しかし企業が言うに、「来るべき

    反動期に対して、万全の策を講じておかねばならぬ。今日多少の利益は挙がっても、

    宜しく将来のために蓄積するが、堅実なる実業家の執るべき方針である」、かくして

    「空の上から手の中には何も落ちてこないのである」。

     とはいえ、就職難を免れて「『恵まれた』ホワイトカラーはますますおとなしくなって

    いったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ」。

     沈黙は追認以外のいかなる事態も意味しない、たとえ当時の「インテリ及びサラリー

    マン層が、毎日毎日どんなに憂鬱な、未来のない、明日の事を考えても仕方がない、

    考えても解らない、だから考えずに、その日その日を唯送って行くと云った気分で

    生きてい」たとしても。

     

     あえて本書への不満と言えば、より具体的な消費細目の情報だろうか。

     永井荷風などに依拠しつつ、風俗産業の価格や内容を明らかにしていく試みは

    なるほど面白いのだが、こうした細心が全編に及ばない。典型的には、電気冷蔵庫の

    普及も遠い当時において、人々はいったい何を食べていたのか、とか、家賃相場は

    ある程度見えた上で、どのような条件に人々が高い金を払ったのか、とか。

     単に金額という定量的な数字だけでなく、具体的、定性的な記述がないことには

    やはり観察として片手落ちとの感がどこかしてしまう。

     

     だがやはり、現代へと繋がる「継続性」の匂いはどうにも否定することができない。

     本書の驚きのひとつは、2006年のテキストの再版であるという点、2017年における

    問題意識としてはむしろ自然とすら見える――というか、あからさまに過ぎるものと

    受け取られるだろう――暗示の数々が、時代を先取りするように刻まれている。

     そしてここにこそ、未来へと生きる者が過去を照らすべき最大の理由がある。

     歴史は繰り返す、翻してみれば、世界は何も変わらない。

     いかに学びを得ようとも、それを生かす能力など、ヒトもどきのサルにはない。

    インソムニア

    • 2017.03.25 Saturday
    • 21:39

     イラク戦争でミッションを成功させて、一夜にして国民的英雄となった通称・ブラボー部隊、

    緊急帰米するや、アメフトの聖地テキサス・スタジアムでのキャンペーンに駆り出される。

     9.11で失われたアメリカの尊厳を取り戻す――その衝撃的な成功を受け、映画化の話が

    水面下で進む。G.クルーニー、O.ストーン、M.ウォールバーグ……景気のいい名前が並ぶ。

    そして本書の主人公、ビリーのキャスト最有力はヒラリー・スワンク。

     ブラボーは数十時間後には再び戦地に戻るだろう。

     そんな部隊のモラトリアム、「永遠の一日」を描く。

     

    「映画のようでしたわ」

     と、とある婦人が無邪気にねぎらう。

     そう、物語を消費する「彼ら」にとって、映画とFOXニュースの差異なんて何もない。

    「あの戦闘のときに何を考えていましたか?」

     マス・メディアが浴びせるそんな質問とて、いわゆるメソッド・プレイのために登場人物の

    プロフィール欄をみっちりと埋めていく作業と別段変わるところはない。

     映画化権料10万ドル、メンバーにとっては大金。しかし、VIP席で当の英雄にへりくだる

    スーパー・リッチはゲームを眺めている間にそれくらいは稼ぎ出す。ピッチ上の選手とて、

    サラリーを試合数で割れば、ほんの数時間のプレイで優に手にするだろう。

     プライスレスな名誉? 何だそれ?

    「戦地にいるときは、こんなクソみたいな生活はもうたくさんだと思ってる。でも、それから

    こう考える。オーケー、じゃあここを出たらどうなる? ましな生活が待ってるのか? 

    バーガーキングで働く? で、自分がどうしてそもそも入隊したのかを思い出すんだ」。

     それがヒーローの「リアル」だった、「彼ら」には知る由もないだろう。

     

    「“なぜ我々は戦うのか”っていうが、“我々”って誰だ?」

     見る側は画面の向こうの英雄にアメリカを、“我々”を見るだろう。

     しかし、見られる側は決して“我々”へと同化されることはない。

    「彼が本当にこうした人々を羨ましく思うのはこの点なのだ。テロを話のネタとして扱える贅沢。

    この瞬間、ビリーは自分が本当に可哀想だと思い、この場でくずおれて泣きたい気分になる」。

     この隔絶は無論、本書を読む行為にとて立ち現れる。

     共感とやらがたとえあったとして、それは現実を追認する装置という以上の機能を持たない。

    つまり、あってもなくても変わらない、何ひとつ。

     戦争に限らない。フィクションの頭にノンをつけるか否かなんて所詮、惰性に基づく便宜、

    いかなる存在もその消費される様態において非対称性の壁を越えない。

     ブッシュ・ジュニアだ、チェイニーだ、ラムズフェルドだ、なんて殺すよりほか使い途のない

    脳障害のサルどもをめぐるつまらない話ではもはやなく。

     

    「彼の現実など彼らの現実の従属物にすぎない」。

    「彼」は誰とて代入可能、この断絶は万人に横たわり、そうして世界は今日も回る。

     本書が例えば小説『アメリカン・スナイパー』や『地上より永遠に』と決定的に異なるのは

    その点だ。あえて言えば『怒りのデス・ロード』、内面とやらが「マッド」という語をもって

    処理される他ないその事態を、おそらくは作り手の意図しないだろうかたちで映し出して

    しまった、という皮肉の限りにおいて。反戦小説か、否か、なんてことは本作を論じるに

    いかなる争点ともなり得ない。

    「彼ら」においては、生死を賭した部隊すらも数ある舞台装置のひとつでしかあれない、

    そんな「リアル」を奇しくも告発してしまったことにこそ、この小説の重みはある。

    同床異夢

    • 2017.03.25 Saturday
    • 21:32

     本書の主人公、その名をラース・ビハーリー・ボースと言う。「中村屋に『インドカリー』を

    伝えたインド人で、……1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者である。

    ……彼はインドに留まることに身の危険を感じると共に、武力革命のための武器と資金を

    調達するために海外への逃亡を計画する。そして、その逃亡先として彼が目をつけたのが、

    日露戦争に勝利し、国力を高めつつあった日本であった。……1915年の末、イギリスから

    強い圧力を受けた日本外務省によって、彼に対する国外退去命令が下される。/この

    絶体絶命の窮地を救ったのが、頭山満を筆頭とする玄洋社・黒龍会のアジア主義者たちで

    あった。彼らはR.B.ボースを巧みに隠し、ある場所に匿う。その場所こそが、新宿中村屋だ」。

     

    R.B.ボースにとってのアジア主義は、単なるアジアの政治的独立を獲得するための

    プログラムなどではなく、物質主義に覆われた近代を超克し、宗教的『神性』に基づく

    真の国際平和を構築するための存在論だった」。

     あたかもF.テニエスの構図に重なる、すなわち、西洋帝国主義の体現する「物質主義」に

    基づいた「ゲゼルシャフト」を、アジア的「精神主義」に基づく「ゲマインシャフト」で打破し、

    「再び世界を幸福で包みこむ」、時計の針を戻すように。

     しかし、世界史の告げる限り、理念を共有する夢は、ヴィジョンの食い違いゆえ、必ずや

    内部崩壊へと到る。それに比して、利益分配システムの何と強靭たることか。

     ただ金のほか、信じうる価値など人間はもはや持ち得ない。

     

    「日本よ! 何処に行かんとするか?」とボースは同床異夢の苦悩を表す。「『イギリスによる

    インド支配を打倒すべき』と主張する日本のアジア主義者たちが、一方において中国に対する

    紛うことなき帝国主義者の顔を有している」ではないか、と。

     同胞の活動家とて、その未来図を必ずしも共有するものではない。例えばガンディー、

    「彼の人格によつて印度独立運動を今日の如く一般普遍化して了つた」ことを評価しつつも、

    他方で「本心に於いて英の讃仰者」とその手法に激しい批判を加えずにはいない。

     日本の掲げた「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」とて、祖国独立を希求するボースの眼差しと

    軌を一にするものではあり得ない。

     そして、彼のアジア主義もいつしか揺らぐ。「1930年代後半以降のR.B.ボースは、インド

    独立の実現を最優先するプラグマティストとして日本の帝国主義的動きを追認し、日本による

    『アジア解放』戦争を推し進めるための言説を繰り返した。さらに、イタリア・ドイツの

    ファシズム体制を容認し、その両国と日本の連帯によるインド解放を目指した」。

     

    「恋と革命の味」、サンパール作戦の裏側をえぐる秘史。

    水を得た人

    • 2017.03.25 Saturday
    • 21:27

    20151月、ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは、『潜在的な影響が最も大きい

    と懸念されるグローバルリスクは水危機である』と発表した。……本書では、水について

    何が問題で国際社会はどのように解決しようとしているのか、貧困撲滅や持続可能性の

    構築とどう関係するのか、そして日本に住む私たちや日本の経済活動・外交にとって

    グローバルリスクへの取り組みがなぜどのように大事なのかを解き明かそうとした。水から

    社会と経済と環境の持続可能な未来を考えるため、2014年に国際標準が発行された、

    ウォーターフットプリントや、仮想水貿易といった新しい概念も紹介している。気候変動の

    人間社会への影響はほとんど水を通じてであるので、二酸化炭素の排出削減以外の気候

    変動対策として浮上してきた適応策でも水関連リスクの管理が主要な位置を占めている」。

     

    「水危機」と聞けばとっさに浮かぶのはたぶん、洪水や旱魃。

     ただし本書が取り上げるのは、そうした自然災害の枠を超えた「グローバルリスク」の諸相。

    「水は文化のバロメータ」、水道へのアクセスは社会インフラ整備、公衆衛生の普及の無二の

    指標、「世界各国を比較すると、各人が大量の生活用水を利用しているような国では乳児

    死亡率が低い」。また「死なないためには123リットルの飲み水でぎりぎり足りるとしても、

    少なくともその10倍、日本の場合には約100倍もの水を、健康で文化的な人間らしい生活の

    ためにわれわれは使っているのである」。

     風呂や飲用といった目に見える水だけが水消費のすべてではない。工業とて、農業とて、

    末端の製品やサービスにはどこかしら水が使われずにはいない。そんな水利用の可視化を

    促す評価指標が「ウォーターフットプリント」、すなわち「水の量的な利用や質の劣化によって

    利用可能な水資源量が減ってしまう、あるいはその影響が人間の健康や生態系に及ぶと

    いった潜在的な環境影響を定量化した」もの。

     

     本書が伝えるのは、水をめぐる現在情勢に限定されるものではない。

     例えば倫理の教材として。

     環境保護と言えばしばしば想像されるのは反消費活動、しかし現状の世界的な趨勢は、

    「生態系の価値がそれ自体にあるというよりは、生態系サービスという便益をもたらすからこそ

    生態系は重要である」として、人間のクオリティ・オブ・ライフの維持、向上に軸足が置かれる。

     気候変動の各ファクターの算定が不確実性を孕んでいるからといって、それを「理由に

    決断を先送りするのは、卑怯なのか無責任なのか、あるいは単にやる気がない」のだろうか。

     環境規制は時にメーカーがボトムアップで先導する。だって、絶えざる金の借り換えが

    企業活動の要である以上、世界にも自社にも未来がなくては困るのだから。

     あるいは仮想水貿易赤字国家における「安全保障は必ずしも一国で閉じた自給自足を

    意味しない」のか。「いざとなれば孤立してもなんとかやっていける国家を目指すよりは、

    国際協調を目指し、どんな状況でも交易が維持される良好な関係を世界の多くの国々と

    築けるように努力し続けるのが現実的」と水は知らせてくれているのかもしれない。

     そんな手がかりが、次から次へと繰り出される。

     

     かつて、U.ベックは『危険社会』において、チェルノブイリを契機に、島宇宙化した世界を

    横断して、グローバルに共有されざるを得ない人為のブーメランとしての「危険」を説いた。

     階級を越え、国境を越え、あるいは時間軸すらも越えて、万人に通じるテーマ、ゆえに

    新たなる公共性が要求されずにはいない。

     さりとて、人間(笑)にそんな高尚なものを担う能力などあるはずもなく。

     唯一、人工知能による屠殺という仕方で、その合理的な決着は図られる。